2019年3月31日日曜日

獅子だらけ、長唄「鏡獅子」(舞踊鑑賞室)




※人生いろいろ「鏡獅子」という踊り、の記事はこちら
※女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳、の記事はこちら
※阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳、の記事はこちら



世の中に 絶えて花香(はなか)のなかりせば 我はいづくに宿るべき
うきよを知らで草に寝て 花に遊びて あしたには

露を情けの袖まくら 羽色(はいろ)にまがふ物とては
我に由縁(ゆかり)の深見草(ふかみぐさ)
花のおだまき 花のおだまき くり返し

風に柳の結ぶや 糸の ふかぬ其の間が命じゃものを
憎やつれなや 其のあじさへも わすれ兼ねつつ
飛びこふ中をぞ つとそよいでへだつるは
科戸(しなど)の神の嫉(ねた)みかや


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」


よしや吉野の花より我は 羽風(はかぜ)にこぼす おしろいの
其の面影(おもかげ)のいとしさに いとど思ひは増鏡(ますかがみ)

うつる心や紫の 色に出(い)でたか恥づかしながら
まつに かひなき松風の

牡丹の花に たきぎを吹きそへて 雪をはこぶか朧(おぼろ)げの
我もまよふや 花の影 暫(しば)し木影(こかげ)に休らひぬ


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」



(胡蝶)
(それ) 清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)
人の渡せる橋ならず 法(のり)の功徳(くどく)に おのづから
出現なしたる橋なれば 暫(しばら)く またせ給へや

影向(ようこう)の時節も今いく程(ほど)に よも過ぎし
葉影(はかげ)にやすむ蝶の 風に翼かはして 飛びめぐる
獅子は勇んでくるくる くると

花に戯(たわむ)れ 枝に伏し転(まろ)び 実(げ)にも上なき獅子王の
(いきお)ひ ししの座にこそ なをりけれ


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」



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昭和51年、宮城県・登米市佐沼で踊った長唄「鏡獅子(春興鏡獅子)」の写真を紹介させていただきました。

紹介した歌詞ですが、実は「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」のものではなく、それに先行して発表された長唄「鏡獅子」のものです。

「獅子もの=石橋(しゃっきょう)もの」は数が多く、それぞれに影響しあって「どれがどれやら」区別しかねるほどです。長唄の代表的なものだけでも「英執着獅子(はなぶさ しゅうちゃくじし)」、「俄獅子(にわかじし)」、「枕獅子(まくらじし)」、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」があるのです。長唄以外にも獅子ものがあるため、もはや何が何やら。



わたしが踊ったのは、もちろん福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)の「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」ですが、あまり長いので今回まずは、その元となった長唄「鏡獅子」歌詞の方を紹介させていただきました。作詞者は不明で、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の陰にかくれ、演じられなくなってしまったようです。

長唄「鏡獅子」と長唄「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の後半の歌詞は、ほぼ完全一致です。(長唄「鏡獅子」作曲は、6代目 杵屋六左衛門)


本名題「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)
初演・明治26年(1893)、東京歌舞伎座 9代目 市川団十郎(1838~1903年)
作曲・3代目 杵屋正次郎(1827~1895年)
振付・9代目 市川団十郎(1838~1903年)、2代目 藤間勘右衛門(1840~1925年、勘翁)

※人生いろいろ「鏡獅子」という踊り、の記事はこちら
※女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳、の記事はこちら
※阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳、の記事はこちら/a>




発表当時、庶民の評価はメチャクチャ高かったにもかかわらず、文士連中から猛批判を受けた作品です。作った福地桜痴は「書き写しただけなのに」と、さぞや納得いかなかい思いだったことでしょう。

写真は水木歌惣のもの、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年3月30日土曜日

告知!2019年5月26日、宮城県支部「各流舞踊公演」開催のお知らせ






3月24日ごろのことですが、雪が降り続き、わが家の庭の椿は、こんなことになりました。クリスマスのモミの木みたいでしょう?

登米市は春になっても時々こうして雪が降るので、雪タイヤの交換は彼岸過ぎにするものなのですよ。



告知です。
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ようやく、今年の日本舞踊協会宮城県支部主宰「各流舞踊公演」のパンフレットが出来ました。今回は60周年記念公演になります。演目も取り取り、「高尾懺悔(たかおさんげ)」あり、「俄獅子(にわかじし)」あり、「保名(やすな)」あり。おもしろくまとまったと思うのです。

よろしければ是非、ご来場ください。





わたしは今回、またまた長唄「雨の四季」を踊ります。いろいろ事情がありまして、こんな感じになりました。長唄「雨の四季」は、本当にわたしには縁の深い演目です。そもそも日本舞踊協会で賞をいただいたのも、「外記猿」「風流舟揃い」と、「雨の四季」でした。


平成4年、国立劇場、日本舞踊協会・各流合同新春舞踊大会「雨の四季」



師匠・水木歌泰先生は今回、清元「船頭」です。

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2019/5/26(日)六十周年記念『各流舞踊公演』
主宰(公社)日本舞踊協会宮城県支部
共催 宮城県扇の会
後援 宮城県、仙台市、河北新報社、NHK仙台放送局、宮城県芸術協会
会場 仙台電力ホール(仙台市青葉区一番町3丁目7−1)
開場 午前9時30分、開園 午前10時
入場 4,000円(全席自由)
アクセス JR「仙台駅」から徒歩約10分(バスもあります)
問合 022-356-2339(チケットなど。宮城県支部)
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六十周年記念です。出演者みんな、いっそう張り切って踊ります。劇場にて、お待ちしております。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年3月27日水曜日

男の恋唄、三番叟と長唄「越後獅子」全訳





平成13年、仙台電力ホールで踊った長唄「越後獅子」の紹介の続きです。
※「越後獅子」という踊り
※  男と女「越後獅子」布晒しの謎を解く







前の記事では、長唄「越後獅子」と「近江お兼」で演じられる「布晒し」と「細布」について考察し、二つの演目が共通して取り込んだのは藤原基俊(ふじわらの もととし)」の和歌と、長唄「晒三番(さらしさんばそう)」だと、書きました。藤原基俊は「川上に晒す細布 けふだにも 胸あうばかり 契りせよ君」と歌い、「川上で女に細布を晒されたなら、どうにもならない尺のことなど忘れて、思い切って抱き合ってしまえばいい」と、自由な恋を歌いあげた人です。
鈴木春信「今様おどり八景 布晒の帰帆」




////// 謡曲「三番叟(さんばそう)」という演目

歌舞伎舞踊の「三番叟(さんばそう)もの」は謡曲「式三番(しきさんばん)」を、一演目にまとめたものです。謡曲「式三番(しきさんばん)」は現在は「翁(おきな)」という演目名で上演されるのですが、起源がわからないほど古くから存在した祭礼の祝祭舞踊です。

世阿弥作「風姿花伝」によると、「三番叟(さんばそう)」は猿楽の祖とされる秦河勝(はだの こうかつ)の子孫が村上天皇の御代(みよ)、秦氏伝来の申楽(さるがく)を六十六番舞って繁栄を祈願したのに始まり、そこから三番選んで後代に残されたもの、となっています。

選ばれた三番は「父尉(ちちのじよう)」「翁(おきな)」「三番叟(さんばそう)」で、簡単に説明してしまえば「老いた父と息子」「死にゆく老人」「死んだあと神になって豊穣を振りまく老人」です。「三番叟(さんばそう)」という言葉は、最初「ひとくくりの三翁の三番目の申楽(さるがく)=三番申楽」だったものが、だんだん省略されて「三番そう」になってしまったらしいです。


◆太夫
(1) 呪言「とうとうたらり とうたらり たらりら」を謳う

◆父尉(ちちのじよう)※演目名「翁」の場合上演されません。
(1) 息子である延命冠者(えんめいかじゃ)が舞って翁を祝福
(2) 肉色の翁面を着けた翁が喜びの言葉を述べる
(3) 翁が「天地人の舞」を舞って天下泰平、国土安穏を祈念する

◆翁(おきな)
(1) 露払いである「千歳(せんざい)」が舞って翁を祝福
(2) 白い翁面を着けた翁が喜びの言葉を述べる
(3) 翁が「天地人の舞」を舞って天下泰平、国土安穏を祈念する

◆三番叟(さんばそう)
(1) みずから露払いである「揉(もみ)の段」を舞って地を目覚めさせる
(2) 黒い翁面を着けて神がかりし、喜びの言葉を述べる
(2) 五穀豊穣である「鈴の段」を舞い、鈴を振って種まきし足拍子で地面を踏み固める

ちなみに父子を演じる「父尉(ちちのじよう)」は室町時代には演じることがなくなり、事実上「二番申楽」になっています。三番とも呼べないため、「翁(おきな)」が演目名になっているのです。「千歳(せんざい)」は流派によっては狂言方(きょうげんかた)が舞い、「三番叟(さんばそう)」は流派にかかわらず狂言方(きょうげんかた)が務める決まりです。

謡曲「二人翁(ににんおきな)」


始まりは太夫の歌う呪言「とうとうたらり、とうたらり、たらりら」です。この謎の歌詞はチベット起源説など諸説ありますが、わたしは単純に「どうどうと流れる滝の水音」だと感じています。

各地の神社に「式三番」が残っており、謡曲も流派によって違うため内容はまちまちですが、おおまかには、露払い(つゆはらい)が「鳴るは滝の水、滝の水、日は照るともお天気ですが、滝の水がとうとうと鳴っています」と舞い唄うや、延命冠者(えんめいかじゃ)は父である老人に「所千代(ところ ちよ)までおはしませどうぞ千年までも生きてください」と呼びかけます。老人は「鶴と亀との齢(よわい)にて鶴亀ほど長生きしていますが」「(さいわい)心に任(まか)せたりしあわせに感じます」と、息子の気持ちを喜びます。そうして二人が声をあわせ「そよや喜びにまた喜びを重ぬればそうして喜びに喜びを重ねてゆきましょう」などと延年を祈願したあと、老人が舞い始め(翁)天下泰平、国土安穏天下が平和で国土が安らかでありますように」「万歳楽!永遠に!」と退場します。

その後狂言方が舞台に現われ、まずは素面で激しく踊る「揉(もみ)の段」を舞い、やがて黒面をつけて神がかりし、五穀豊穣を授(さず)けるという「鈴の段」を踊ります。父尉(ちちのじよう)や翁(おきな)に比べ、謳(うたい)は非常にシンプルです。

おおさえ、おおさえ
  (さいわいよ、さいわいよ)
喜びありや、喜びありや
  (よろこばしいことがありました、よろこばしいことがありました)
(わ)がこの処(ところ)より他へはやらじとぞ思う
  (このよろこびが、外へ逃げてゆきませんように)

これだけ。要するに「この喜びを逃がさないぞ!」と、祈念するのが三番叟です。三番目の冠者(かじゃ)に憑依する黒い神は、海神・住吉大明神であると言われています。

謡曲「三番叟(さんばそう)」



////// 長唄「三番叟(さんばそう)」という演目

謡曲「式三番(翁)」は「能であって能ではない」と言われます。芝居があるのが「能」であり、祝祭のみの「式三番(翁)」は猿楽(申楽)なのです。また、三翁はどう見ても内容がつながっていますが、能の世界では「内容につながりはない」とされています。こういうめんどくさいところを嫌って出たのが、浄瑠璃や歌舞伎舞踊の「三番叟」です。

「好きに祝わせてくれよ!」という感じでしょうか。「天下泰平」「五穀豊穣」を祈念する能・狂言の「式三番」を、浄瑠璃師たちは「子孫繁栄」を祈念する、色っぽくて騒々しくて、愉(たの)しい踊りに変えました。主人公は「翁」でも「延命冠者」でもなく、神がかりする冠者(かじゃ)であり、能では登場しない女性も演目によっては登場します(最古の「晒三番叟」や「雛鶴三番叟」)

色っぽい男女の交わりを表現する長唄「三番叟」も、終幕まぎわ、踊り手が鈴を手にしたら「神がかり」をあらわし、長唄に合うようアレンジされた「能の振り」、いわゆる「能ぶり」「能がかり」の始まりです。こうして、最後だけ厳(おごそ)かに舞って終わるのです。鈴に至る途中のストーリーは、こう言っては何ですが、はちゃめちゃです(笑)。その落差こそが「三番叟」という踊りの真髄(しんずい)であり、浄瑠璃師たちが意図したところです。

祭りの喧騒(けんそう)のような浮世を生きるのが人間というもの、それを暖かく見守り、寄り添ってくれるのが「神」じゃないの? という、浄瑠璃師たちの意見表明のようなものです。

わたしは、長唄「越後獅子」は、地方風に脚色された「三番叟」だと思っています。

長唄「越後獅子」の布晒しは「三番叟」の鈴の段と同じです。
長唄「晒三番叟」と同じに、布晒しを舞って男女の心へ恋を想起させ、子孫繁栄を祈るのです。


歌舞伎舞踊の三番叟(さんばそう)




////// 謡曲「式三番」と、長唄「越後獅子」の比較

謡曲「式三番」はわたしに言わせれば、父尉(ちちのじよう)で「親子の情愛」を、翁(おきな)で「死にゆく老人の一抹の寂しさと人生讃歌」を、三番叟(さんばそう)で「次の世代の目覚め」を謳い、ことほぐものです。長唄「越後獅子」は内容的には三段に分かれており、一段目で「夫婦の情愛」を、二段目で「おけさ女郎との激しい恋」を、三段目で「越後獅子の子の、初恋」を描き、生命の息吹をことほぎます。そう、わたしには読めるのです。

月日の経過を追って人間存在を描く謡曲「式三番」に対し、長唄「越後獅子」は恋を追って人生を描きます。

ところで謡曲「式三番」が時間経過どおりに演じられるのと反対に、長唄「越後獅子」は時間をさかのぼってゆくのですが、これが曲の中に特有のうねりを引き出します。最初は穏やかに始まる唄の内容が、時間の経過とともに激しくなり、しかし最後にはまた穏やかに、女浪男浪が交差する命の根源へと還ってゆくのです。


そう思うのは、ひとつには下記のような流行歌があるからです。

****************
- 作者不明「釣舟踊(松落葉集)

沖に漕がるる女舟を見たか
おっと舵を枕に櫓櫂(ろかい)をさ
立つる立つる 立つる立つる 波立つる立つる
女波(めなみ)寄すれば 男波(おなみ)も寄する
とかく男波はやよいこ こいここ こいここ
今宵はどち枕

[現代語訳]
沖を漕いでる女舟を見たか。
おっと、舵を枕に櫓櫂(ろかい)を繰り出すかい。
立つ立つ、立つ立つ、波が立つ立つ、
女波(めなみ)が寄せれば、男波(おなみ)も寄せる。
そうして男の波ってやつは、やれ行こう、いやここだ、と性急に。
今宵はどこの枕で寝るのやら。
***

女波男波(めなみ おなみ)は、性の営みの表現なのです。

葛飾北斎・画「怒涛図(どとうず)」左上が男浪、右下が女浪




////// 長唄「越後獅子」歌詞・全訳

主人公は越後獅子の囃し方か親方のように読めます。おそらく子ども時代は自分も越後獅子として舞い踊り、曲芸を観せていたのでしょう。


二段目前半に出てくる浜唄は、ほぼ「おけさ節」です。
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- 伝承「おけさ節(新潟県の民謡)
来るか来るかと浜へ出て見れば 浜の松風 音ばかり
好いたすいせん好かれたあやめ 心石竹(こころ せきちく) 気はもみぢ
波の上でもござるならござれ 船にゃ櫓(ろ)もある櫂(かい)もある


布晒しの唄は、すべからく謡曲「天鼓(てんこ)」に似ています。民間伝承と謡曲と、どちらが先かあとかではなく、イメージを共有していたことが重要です。
****************
- 伝・世阿弥(1363~1443年)「天鼓(てんこ)(謡曲)
打つなり天の鼓(つづみ)
打ち鳴らす その声の その声の
呂水(ろすい、川の名前)の波は 滔々(とうとう)
打つなり 打つなり 汀(みぎわ)の 声の 
より引く糸竹(しちく)の 手向(たむけ)の舞楽(ぶがく)は ありがたや
おもしろや 時も実(げ)に 
おもしろや 時も(げ)に (げ)

「糸竹=しちく=紫竹」は、三味線や琴など弦楽器全体を意味します。地歌筝曲「越後獅子」では「夢占い」を出したせいで「筮竹(ぜいちく)」と意味がまざり、わからなくなっていますが、長唄「越後獅子」ではあきらかに「紫竹=糸竹」です。つまり「そこに三味線があるから、舞い踊った」と、歌詞は言っているのです。


平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

<夫婦の情愛>

◆原文
打つや太鼓の音(ね)も すみ渡り
角兵衛 角兵衛 と招かれて、
居ながら見する石橋(しゃっきょう)の、
浮世を渡る 風雅者、
歌うも舞うも囃(はや)すのも、一人旅寝の草枕
おらが女房を誉(ほめ)るぢゃないが、飯も炊いたり水仕事、
麻よるたびの楽しみを、一人笑(えみ)して来たりける
越路(こしぢ)がた お国名物は様々あれど、
田舎訛(なま)りの片言(かたごと)交じり
しらうさになる言の葉を 雁の便りに屆けてほしや
小千谷縮(おぢやちぢみ)のどこやらが、見え透く国の習いにや
縁を結べば兄(あに)やさん、兄ぢゃないもの夫(つま)じゃもの


平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

◆現代語訳
今日もまた、太鼓の音色は澄み渡っている。
角兵衛、角兵衛と招かれ辻々で獅子の舞を演じ、
からだはここにありながら、心は遠く清涼山へと飛んで、
そそりたった山の谷間の細い石橋を渡るように、
あやうい浮世を渡って歩く風流者(ふうりゅうもの)のひとりだが。
唄って囃して楽しそうに舞いながら、ひとり寂しく草を枕に旅寝の日々を送っている。
俺の女房を誉めるわけじゃないが、あれは飯を炊くのがうまく、水仕事も嫌がらない。
朝から晩まで麻をよるのを楽しみにしてくれて、
貧しいせいで娯楽がないのに、ひとりで微笑み、
俺をここまで支えてくれた。

越後の国のお国名物はさまざまにあるのだけれど、
田舎訛(なま)りの片言(かたごと)交じりが、
そのひとつのように言われて悲しい。
うさぎが白くなったという季節の知らせを、
せめて雁の便りに届けてほしいよ。
小千谷縮(おぢやちぢみ)は着ればどこやら透けて見えるような、
色っぽくて風流な布。
女房にとって俺がまさにそれなのだが、
そんな風流な布を作る風流な国の常として、
「兄(あに)やさん」だった男が、
いつのまにやら縁を結び「兄(あに)」じゃないもの、「夫(つま)」だもの、
となったのだった。

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」


<おけさ女郎との激しい恋>

◆原文
来るか来るかと浜へ出て見ればの ほいの
浜の松風 音やまさるや やっとかけのほい、まつかとな
好いた水仙すかれた柳、のほいの、
心石竹(こころせきちく)、気はや紅葉さ、やっとかけのほいまつかとな
辛苦甚句(しんく じんく)もおけさ節
何たらぐちだへ 牡丹は持たねど越後の獅子は
おのが姿を花とみて、庭に咲いたり咲かせたり、
そこのおけさに異なこと言われ、寝まり寝まらず待ち明かす、
御座れ話しませうぞ、こん木松の陰で、松の葉の様にこん細(こま)やかに
弾いて唄うや獅子の曲 向かい小山のしちく竹、
いたふし揃えて、きりを細かに

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

◆現代語訳
来るか来るかと心待ちに、やっと来たと思って浜へ出てみたところ、
舟音と聞こえたのは、大きな音を立てる、ただの松風だった。
やっとかけのほい、まつかとな(なんだよ、駆けてきたのに松なのかい!)
好きになったのはキリリとした水仙で、好かれた方は柳のように及び腰。
のほいの。
心は逸(はや)るし、気は揉(も)める。
やっとかけのほい、まつかとな(なんだよ、駆けてきたのに松なのかい!)
そんな苦しさ悲しさを並べ立てる甚句(じんく、祭礼の奉納の呪いごと)でさえも、
越後では、おけさ女郎のざれ唄にすべて呑みこまれる。

「何だら、そんなの愚痴だんべ。
越後の獅子は高価な牡丹の花なんぞ背負ってはいねぇが、
笛と太鼓で、おのが姿を花のように咲かせ、
清涼山には及びもつかない簡素な石庭(せきてい)に遊んでも、
みずから花と咲いてみたかと思えば、同輩を助け、花と咲かせてやるものだろ」
そんな風に、顔見知りのおけさ女郎に不本意なことを言われてしまい、
腹が立ったあまり寝るに寝られず、夜どおし女を待ち明かした。
会えば、こちらへ御座れ、
話そうじゃないか、
男と女が抱き合う姫小松の木陰に隠れて、と。
俺が愚痴ったわけではないことを、
松の葉のように、こと細かに説明させてくれよ、と。
そうして弾いて唄うは、獅子の曲。
向かいの小山から聞こえてくる、糸竹(しちく)の林の三味(しゃみ)の調べ。
板節を揃えて撥(ばち)を切り、
さぁ節を揃え、切りを細かに、松の木陰に舞って花と咲いてみせようじゃないか。

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

<初恋>


◆原文
十七が室(むろ)の小口(こぐち)に昼寝して、
花の盛りを夢に見て候(そうろう)
見渡せば 見渡せば 西も東も花の顔、
(いず)れ賑わう人の山 人の山
打寄る 打寄る 女波男波(めなみおなみ)の絶間なく、
逆巻水(さかまくみず)の面白や 面白や
晒す細布(ほそぬの) 手にくるくると、くるくると、
いざや帰らん おのが住家(すみか)


◆現代語訳
そら、十七の子が水屋の入り口で、
ひる日なかから眠りに落ち、花の盛りを夢に見てござそうろう。
夢の中で目覚めてふと見渡せば、見渡せば、西から東まで一面の花。
どっと賑わい、いつか集まる祭礼の、人の群れ、人の群れ。
打ち寄せる、打ち寄せる、恋の女波男波(めなみおなみ)が絶え間なく。
打ち寄せる波が逆巻(さかま)いて、風流に、風流に。
細布(ほそぬの)を水に晒したところ、
打ち寄せる波のせいで手にくるくると、くるくると、
小車(おぐるま)の縁が、水車のようにまとわりついて。
少年が言う。さぁ、帰ろう。
俺たちの、帰るべきところへ。

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

//////

同時代人である江戸の人々ですら、三段目を自由奔放の象徴「近江お兼(おうみの おかね)」と思ったようです。そのため、あと追いで出た演目が全部「近江お兼(おうみの おかね)」になってしまいました。しかし地歌筝曲「越後獅子」の、「室(むろ)の小口(こぐち)で昼寝」して夢占いのネタにされる越後獅子の子を踏襲しているため、この部分は「近江お兼(おうみの おかね)」と関係ありません。

ちなみに「室(むろ)の小口(こぐち)」は「茶室のにじり口」か、「水屋の小さな入り口」の言い換えで、控えの若輩者(じゃくはいしゃ)がうたた寝をしてしまう場面のように読み取れます(地歌筝曲「越後獅子」)。城の曲輪(くるわ、城と外との区切りの区画)の入り口や、店舗などの小さな通用口を「小口(こぐち、虎口の意味)」と言います。


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長唄「越後獅子」作詞者・初代 篠田金治こと2代目 並木五瓶は、ちょっと大風呂敷を広げすぎたのかもしれません。とはいえ、お陰で長唄「越後獅子」は、予想外の展開が続くダイナミックな歌詞になりました。「意味がわからない」と不平を言いながら、みんなこの唄が大好きです。

※「越後獅子」という踊り
※  男と女「越後獅子」布晒しの謎を解く




のちのちまで大切にしたい、演目のひとつです。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年3月25日月曜日

告知あり!仙台電力ホールの裏、美和音(びわね)さんでお食事




今日は子どもたちと一緒にピアノ演奏会を観て、その幕間(まくあい)に、和食のお店「美和音(びわね)」さんで夕食です。

仙台電力ホールの裏にある、便利で美味しい、お店ですよ。





子どもたちと一緒の写真です。






ぐる●●、たべ●●にも載ってます。
個室になっていて、くつろげますよ。仙台電力ホールにいらしたときには、お奨めです。





告知です。
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昨年2018年、日本舞踊協会の東北支部「雨の四季」でご一緒させていただいた中村芝延(なかむらしえん)さんが、今年2019年4月28日(日)に中村流「雀成会」に出演し、「二人椀久(ににんわんきゅう)を踊られます。とても美人な方ですが、今回はあえて男性・椀久を演じます。




「雀成会」は9代目 中村福助氏(当代)、8代目 中村芝翫氏(当代)の長姉・中村流8代目家元 2代目 中村梅彌(なかむらうめや)(当代)主宰の会です。そのため、日本舞踊の流派として「中村流」、歌舞伎で「成駒屋」の面々も、多数出演なさいます。

わたくしの注目はもちろん「二人椀久(ににんわんきゅう)と、そして「雪傾城(ゆき けいせい)」です。

「雪傾城(ゆき けいせい)」というのは、慶応元年(1865)、江戸・森田座で4代目 中村芝翫(1831~1899年)によって初演された、本名題(ほんなだい)「月雪花名歌姿絵(つきゆきはな めいかの すがたえ)」という、しんみり、寂しい踊りです。

ところが昨年2018年、6代目 中村勘九郎氏(当代)と2代目 中村七之助氏(当代)が「雪だるま」の新演出を発表なさいました。今回は「雪だるま」が出るのか出ないのか、興味しんしんなのでございます。

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2019/4/28(日)『雀成会』
主宰 中村流
会場 国立劇場大劇場(東京都千代田区隼町4-1)
開場 10:30、開演 11:00
入場 10,000円(全席自由)
アクセス 東京メトロ「半蔵門駅」下車徒歩6分~、JR「麹町駅」下車徒歩15分
問合 03-6265-3668(チケットなど。中村流)
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わたしと師匠・水木歌泰先生も観覧いたします。よろしければ。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年3月23日土曜日

食べたら駄目でしょ「玉兎(たまうさぎ)」(舞踊鑑賞室)






(げ)に楽天(らくてん)が 詩(からうた)に つらねし秋の名にしおう
三五 夜中(やちゅう)新月の
中に餅つく玉兎
餅じゃござらぬ望月の 月の影勝 飛び団子

やれもそうや やれやたさてな 臼と杵とは 女夫(めおと)でござる
やれもさやれもさ 夜がな夜ひと夜(よ) おおやれ


平成22年、仙台電力ホール、歌泰会「玉兎(たまうさぎ)」


ととんが上から月夜にそこだぞ
ヤレこりゃ よいこの団子ができたぞ おおやれ やれさて
あれはさて これはさて どっこいさてな
よいと よいと よいと よいと よいとなとな
これはさのよい これはさておき

むかしむかし やつがれが 手柄を夕べの添乳(そえぢ)にも
婆食(く)た 爺やが その敵(かたき)
討つやぽんぽらぽんと腹鼓(はらつづみ)



平成22年、仙台電力ホール、歌泰会「玉兎(たまうさぎ)」


狸の近所へ 柴刈りに きゃつめも背(せ)たら大束(おおたば)
えっちり えっちり えぢ かりまた シャござんなれ
こここそと あとから火打ちでかっちかち かっちかち
かっちかち かちかちのお山といううちに
あつつ あつつ そこで火傷(やけど)のお薬と
唐辛子なんぞでみしらして 今度は猪牙船(ちょきぶね) 合点だ
こころえ狸の 土の船 おも舵とり舵ぎっちらこ

浮いた波とよ山谷(さんや)の小船(おぶね) こがれ こがれて通わんせ
こいつはおもしろ俺さまと 洒落(しゃれ)る下(した)より
ぶくぶくぶく のうのう これはも泣きっ面
よい気味しゃんと かたき討ち 
それで市が栄えた


平成22年、仙台電力ホール、歌泰会「玉兎(たまうさぎ)」


手柄話にのりがきて
お月様さえ 嫁入りになさる ヤトきなさろせ
とこせい とこせい 年はおいくつ十三 七つ
ほんにサァ お若い あの子を産んで
ヤットきなさろせ とこせいとこせい 誰に抱かせましょうぞ
お万に抱かしょ 見てもうまそな品物(しなもの)め しどもなや

風に千種(ちぐさ)の花兎(はなうさぎ) 風情ありける月見かな

+++++++++++++++


文政3年(1820)、江戸・中村座初演
清元「玉兎(たまうさぎ)」は、本名代(ほんなだい)を「玉兎月影勝(たまうさぎ つきの かげかつ)」と言い、「一谷嫩軍記(いちのたに ふたば ぐんき)」の二番目大切(おおぎり)に、七変化舞踊「月雪花名残文台(つきゆきはな なごりの ぶんだい)」のひとつとして、3代目 坂東三津五郎(1775~1831年)が演じたものです。


作詞・2代目 桜田治助(1768~1829年)
作曲・清沢万吉(初代 清元斎兵衛、生没年不詳)

七変化
長唄「浪枕月浅妻(なみまくら つきの あさづま)」→現在の「浅妻船」
清元「玉兎月影勝(たまうさぎ つきの かげかつ)
長唄・清元「狂乱雪空解(きょうらん ゆきの そらどけ)
長唄「猩々雪酔覚(しょうじょう ゆきの よいざめ)
長唄「寒行雪姿見(かんぎょう ゆきの すがたみ)」→現在の「まかしょ」
富本「女扇花文箱(おんなおうぎ はなの ふみばこ)
長唄「恋奴花供待(こいのやっこ はなの ともまち)

※「玉兎(たまうさぎ)」という踊り、はこちら




「かちかち山」という昔ばなしが、ちょっと残酷な内容です。そのため歌詞の内容をしっかり追うと「げっ!」という感じ。大人としては、面白いのですけれども。

写真は水木歌惣のもの、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年3月20日水曜日

被虐のヒーロー!玉屋新兵衛と清元「玉屋」全訳





平成28年、仙台電力ホールで踊った、「玉屋」という踊りの紹介の続きです。







////// 概略

天保3年(1832)、中村芝翫(4代目 中村歌右衛門)が初演した、「おどけ俄煮珠取(おどけにわか しゃぼんの たまとり)」という、四変化舞踊のひとつです。

浮世絵「深川永代(富岡八幡宮)の祭礼の賑わい」


■四変化■
(1) 清元「しゃぼん玉売」
(2) 長唄「恵比寿」
(3) 長唄「龍王」
(4) 長唄「海士」

■作曲■
作曲:初代 清元斎兵衛(きよもとさいべえ、生没年不詳)

■作詞■
2代目 瀬川如皐(せがわじょこう、1739~1794年)

■振付■
振付:2代目 藤間勘十郎(ふじまかんじゅうろう、1823~1882年)



平成28年、仙台電力ホール、歌泰会「玉屋」




//////「玉屋」に含まれる、流行歌まとめ

以前に公開した「玉屋という踊り」の記事では、清元「玉屋」にどのような流行歌が取り込まれているかを追いました。「玉屋」は、まるで江戸の流行歌の集大成です。



(1)コチャ節(コチャエ節のひとつ、紹介したのは「坊さん忍ぶ歌」)
坊さん忍ぶにゃ闇がよい 月夜には 頭がぶうらりしゃあらりと コチャ 頭がぶうらりしゃあらりと

(2)コチャカマヤセヌ節(コチャエ節の原型、紹介したのは「坊さん忍ぶ歌」)
坊さん冷やかし闇がよい 月夜には 衣の袖がブウラシャラ こちゃ 何でもかんでも カマヤセヌ

(3)山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか、江戸中期の民謡集)
佐渡と越後は筋向ひ、橋を架きょやれ船橋を(おけさ節が元)


これらの流行歌と下記の史実をこきまぜ、「六十六部殺し」または「巡礼殺し」と呼ばれる江戸のタブーを、「石が流れて木の葉が沈む(物事が道理どおりにゆかないこと・理不尽なことをあらわす)」ことわざをもじり、「ちょぼくれ」風におどけて見せます。
※重たい笈(おい)が流れ、より軽い錫杖(しゃくじょう)が沈む、という歌詞があります。


(4)前九年の役(1951~1062年)「衣川の戦い」
年を経(ふ)し糸の乱れの苦しさに 衣のたてはほころびにけり

(5)永代橋落下事件(文化4年、1807年8月19日、死傷者のべ1000人以上)
永代(えいたい=永遠)と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼(大田南畝作、1749~1823年)


内容がそうなった原因は、巡礼殺しの歌の大流行にあるようです。
(6)ちょぼくれちょんがれ紀州焼山峠巡礼殺(きしゅうやきやまとうげ じゅんれいごろし)
六十六部が殺されるわけではなく、殺された巡礼親子を六十六部が弔う物語です。


平成28年、仙台電力ホール、歌泰会「玉屋」



ところで、自分はあることを不思議に感じています。そもそも清元「玉屋」は、どうして「玉屋」と呼ばれたのでしょう。もちろん歌詞の中で自分から「玉屋」と名乗ります。でも、どうして? この物売りの江戸期の一般的な呼び名は、「玉屋」ではなく「しゃぼん(玉)売」なのです。現在手に入るかぎりの「邦楽年表」を見ても、記載の上演タイトルは、当然全部「しゃぼん玉売」です。

この舞踊歌詞だけが「しゃぼん(玉)売」を「玉屋」と呼ぶのが、少しばかり奇妙です。そのうえどう考えても、江戸の庶民がこの舞踊を「玉屋」と呼んで親しんだのは、唄に出てくる「大きな屋敷にしのびこみ女を連れ出そうとして、けつまづいて不首尾に終わる」エピソードのせいです。

このエピソードは、江戸の庶民には馴染みの深いものでした。ただし、舞踊「玉屋」が元ではありません。実在か架空かわかりませんが、これは江戸期伝説の美男子「玉屋新兵衛(たまや しんべい)」のエピソードです。

わたしは清元「玉屋」は、流行歌で有名な美男子「玉屋新兵衛(たまや しんべい)」の唄ではないか、と疑っています。だから振付が、めちゃくちゃ色っぽいのじゃないかしらん。





//////「玉屋」の伝説

錦絵「玉屋新兵衛」

「玉屋」というのは元は「綿屋」や「廻船問屋(かいせんどんや)」出身の「両替商」を指した屋号らしく、多くの豪商伝説が残っています。伝説では財を成した玉屋が晩年になって一人息子に恵まれ、嬉しいあまり甘やかして育てたせいで傾城狂いとなり、親として苦労する物語や歌がたくさん残っています。

放蕩息子は登場しませんが、「玉屋の椿」という御伽噺(おとぎばなし)もあります。大金持ちの玉屋が、一人息子かわいさのあまり理性を失ってゆく、悲しい物語です。

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- 伝承「玉屋の椿」-

家族ですら信用できなくなった豪商・玉屋徳兵衛は、庭の椿の根元へ金銀財宝を埋めて隠します。ところが湯湯治(ゆとうじ)に行った先で、湯治客(とうじきゃく)「玉屋の椿、枝は白金(しろがね)、葉は黄金(こがね)と唄うのを聞いて驚き、あわてて帰って庭の椿を見たところ月夜に浮かぶ木は、本当に白金黄金(しろがね こがね)に染まっていました。

徳兵衛はそこで気絶し、その後は歩くことさえできなくなります。やがて臨終のとき、徳兵衛は介抱してくれた妻に詫び、椿の根元から金銀を取り出すよう言い残します。ところが妻が行っても、普通の椿しかありません。どの木の根元を掘ってみても、金銀財宝は出ませんでした。




いっぽう、北前船(きたまえぶね)行き交う九頭竜川(くずりゅうがわ)河口の「三國湊(みくにみなと、現在の福井県坂井市三国町)」には、武家の姫君が家臣の裏切りにあって女郎に落ち、出村新兵衛と玉屋新兵衛という二人の「新兵衛」の助太刀のもと、みごと仇討ちを果たす伝説があり、三國節や地元の「傾城三國ヶ浦 二人新兵衛之段(けいせいみくにがうら ににんしんべいのだん)」という演目の中に伝わっています。

この「玉屋新兵衛」が、「玉屋伝説」の一人息子かどうかはわかりません。が、いつの頃からか二つの伝説はひとつになり、浄瑠璃や流行歌に唄われ、親しまれていたようです。


絵草紙・志満山人作「玉屋新兵衛桶伏」の小女郎



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- 作者不詳「三國玉屋踊(みくにたまやおどり)」松の落葉集-
三國玉屋の新兵衛を見たか 三國いちのやさ男 まるでまるで
繻子(しゅす)の鬢付刷毛長(びんつけ はけなが)に釣(つり)びんびん
なぜに小鶴(こつる)は出て待たぬぞ さつこのしょ
聞けば たらふくつるてんてん だらふくだらふく たんたらふくつるてん
ふくつんゆふはこうしにまつのをの 新兵衛(しんべ)どの 〽さつこのしょへ返し

[現代語訳]
三國玉屋の新兵衛を見たかい、三國(みくに)いちのやさ男を。
まるでまるで繻子(しゅす)のような艶やかな鬢付まげを、
侠客のように長く結ってビンビンと。
どうして恋人の小鶴は出て待たないかと聞いてみれば、さてこそ。
聞けば、腹がふくれて、つるてんてんとさ。
腹がふくれてふくれて、たんたらふくつるてんさ。
ふっくらつんと髪を結うのは、
「格子に入れられた松尾」こと、玉屋の新兵衛(しんべ)どの。
〽さてこそ、へ戻る


元禄期に非常に流行したという、この「三國玉屋踊」をもとに多くの芝居や踊りが生まれました。中でも有名なのは江島其磧(えじま せき、1667~1736)作「傾城歌三味線(けいせい うたじゃみせん、1732年刊行)」と、初代 並木五瓶 (なみき ごへい、1747~1808年)作の歌舞伎狂言「富岡恋山開(とみがおか こいの やまびらき、1798年、江戸・桐座初演)」です。






//////「傾城歌三味線」あらすじ

越前・三國の綿屋から両替商になった豪商・玉屋新右門は久しく子がなかったが、不意に息子に恵まれ、たいせつに育てた。この子新兵衛は、大人になると大変な美男子になった。玉屋は苗字を「松尾」と名乗っていた。同じ頃、三國の出村遊郭に小女郎という、美貌と才覚に溢れた太夫がいた。二人は恋に堕ち、小女郎は新兵衛の子を生むと、子連れで花魁道中して世間を驚かせた。しかし新兵衛の父・新右門は、新兵衛が生まれる前に迎え厳しく育てた養子の手前、実子をこれ以上あまやかすことができずに新兵衛を勘当した。それでもあいかわらず小女郎を貸切にしたため、新兵衛は代金を支払えなくなり、「桶伏(おけふせ)」という遊郭の私刑を受ける羽目になる。

絵草紙・志満山人作「玉屋新兵衛桶伏」

「桶伏(おけふせ)」は大きな桶を逆さにして閉じ込め、揚屋の庭先に放置するもので、小女郎は新兵衛の借金を用立てるため、みずから島原へ身売りする。

京・島原遊郭では「越路(こしじ)」と名を変えて出た小女郎の揚屋へ、苗字「松尾」を「十八公(じゅうはっこう、「松」を分解)」ともじり、風流芸人になった玉屋新兵衛が主(あるじ)のお供で訪れる。二人は旧交を温めたいが、十八公の主(あるじ)・三木の手前、玉屋新兵衛は身を引かざるをえない。越路こと小女郎もあきらめて期限つきで三木に身請けされ、二人は再び別れ別れになる。

身請けされた越路だが、三年後ふたたび女郎に出て今度は「吾妻」の名で大阪・新町遊郭へ身を沈めている。それを知った玉屋新兵衛が小女郎を連れ出そうと忍んできて、深夜に揚屋の門を飛び越え、石にぶつかって動けなくなる。新兵衛は介抱もされず牢へ入れられると(「格子に入れられた松尾」)、大門(おおもん)へ七日晒さすと言われ夜明けを待って男たちに折檻されながら廓中(くるわじゅう)を引きずり廻される。そこへ新兵衛の父・新右門と、新兵衛の妻の父親が駆けつけ、小女郎と新兵衛を身請けして助け出した。

小女郎は出家して寺へ入り、小女郎が産んだ娘は新兵衛と妻のあいだの正式な子になった。代替わりした玉屋はますます繁盛し、めでたく物語の終わりとなる。



清元「玉屋」の歌詞に、
****************
吹けば飛ぶよな玉屋でも お屋敷さんのお窓下
犬にけつまずいて オヤ馬鹿らしい

とあります。「傾城歌三味線」では「いぬ」ではなく「いし」に足をぶつけて怪我をするのですが、状況は似ています。玉屋新兵衛と小女郎を描く作品のすべてで、玉屋新兵衛は夜陰に乗じて小女郎の客の別宅もしくは揚屋へ忍び込み、しくじったあげく捕まってしまうのです。

要するに、勘当され、桶伏(おけふせ)され、流血したうえ縄目(なわめ)にかけられ、敵や廓(くるわ)の用心棒に打(ぶ)たれて引きずりまわされる絶世の美男子・玉屋新兵衛です。被虐のヒーローとでも言うのでしょうか。時代の好みのようです。

錦絵・玉屋亀戸(新兵衛)

歌舞伎狂言「「富岡恋山開(とみがおか こいの やまびらき」は、その名のとおり「富岡八幡宮」のある深川(現在の東京都江東区)が舞台の物語です。内容的には出村新兵衛が玉屋新兵衛と一緒に登場する通称「二人新兵衛(ににん しんべい)で、小女郎が主人公の「お家再興」ものです。富岡八幡宮は清元「玉屋」の舞台でもある、宵宮俄(よいみや にわか)が行われる神社です。






////// 清元「玉屋」歌詞、原文

さあさあ 寄ったり見たり 吹いたり評判の玉や玉や
商う品は 八百八町 毎日ひにちお手遊び
子供衆寄せて辻々で お目に掛値(かけね)のない代物(しろもの)
お求めなされと たどり来る

今度仕出しぢゃないけれども お子様がたのお弄(なぐさ)
ご存知しられた玉薬 鉄砲玉とは事替わり
当たって怪我のないお土産で
曲はさまざま大玉(おおだま) 小玉(こだま) 
吹き分けは その日その日の風次第

まづ玉尽くしで言おうなら
たまたま来れば人の客 なぞと知らせは 口真似の
こだまもいつか呼子鳥(よぶこどり)
たつきも知らぬ 肝玉(きもだま)も しまる時には十露盤玉(そろばんだま)
堅い親爺に輪をかけて 若い内から数珠の玉
オットとまった性根玉(しょうねだま) しゃんと其処等(そこら)で とまらんせ
とまるついでにわざくれの 蝶々とまれをやってくりよ

蝶々とまれや 菜の葉にとまれ
菜の葉いやなら葭(よし)の先へとまれ
それ とまった葭(よし)がいやなら木にとまれ


平成28年、仙台電力ホール、歌泰会「玉屋」

つい染め易(やす)き廓(さと)の水
もし花魁(おいらん)へ 花魁(おいらん)へと 言ったばかりで跡先(あとさき)
恋の暗闇辻行燈(つじあんどん)の 陰で一夜(ひとよ)は立ち明かし
格子のもとへも幾たびか 遊ばれるのは初めから
心で承知しながらも 若(も)しやと思う こけ未練
昼のかせぎも上の空 鼻の先なる頬冠(ほうかむ)
吹けば飛ぶよな玉屋でも、お屋敷さんのお窓下
犬に蹴爪(けつま)づいて オヤ馬鹿らしい

口説きついでにおどけ節
伊豆と相模はいよ国向かい 橋を懸きょやれ船橋を
橋の上なる六十六部が落っこちた
(おい)は流るる 錫杖(しゃくじょう)は沈む
なかの仏がかめ泳ぎ
坊さん忍ぶは闇がよい 月夜には頭がふらりしゃらりと
のばさ頭がぶらりしゃらりと
こちゃかまやせぬ 衣の袖の綻びも かまやせぬ
折も賑わう祭礼の 花車(だし)の木遣(きやり)も風につれ
エンヤレヨ
いともかしこき御世(みよ)に住む、江戸の恵みぞ有難き 有難き





////// 清元「玉屋」歌詞、全現代語訳

さぁさぁ、寄ったり見たり、吹いて評判の玉屋をご覧ください。
商う品は、お江戸八百八町に知らない者のない、いつでも出来る手遊びの品。
子どもたちが町の辻々で遊んでいるもの、
掛け値なし、低価格の良い代物(しろもの)を、きっとお目にかけやしょう。
そう呼びかけ、あちこち寄りながらやって来たシャボン売の男。

平成28年、仙台電力ホール、歌泰会「玉屋」

新趣向ではありゃしませんが、
お子さまがたが喜んでくれる玩具(おもちゃ)です。
こちらは皆さまご存知の玉薬(たまぐすり)で、鉄砲玉とはこと違い、
当たって怪我のないお土産です。
出来上がりはさまざまに、
大きくなることもあれば、小さくなることもござりやす。
大小を吹き分けるのは、その日その日の風次第。

まず、玉尽(たまづ)くしを申し上げるならば、
たまに寄ってみたところ遊郭のならいで
「いちげんの客、知らない客」と冷たくあしらわれ、
なぜと聞くのへ意地悪で、答えて知らせるのを、
口真似のようなオウム返しで返されたりする。
口真似といえば、言葉を真似る木霊(こだま)は、
いつか呼ばうばかりの、カッコウになっちまうものらしい(なっちまえよ)
所帯のことなぞわかりもせず威勢よく散財した肝っ玉野郎が、
気づいて閉まる、十露盤球(そろばんだま)に。
かたぶつ親爺に輪をかけて、
その息子が若いうちから数珠玉(じゅずだま)大事。
おぉっと、とめとけ、その野蛮な性根玉(しょうねだま)
ちゃんとそこらで、とめておいてくださんせ。
とめるついでにおふざけで、蝶々とまれの手わざを見せろと、そう言うのかい。

平成28年、仙台電力ホール、歌泰会「玉屋」

蝶々とまれや、菜の葉にとまれ。
菜の葉が嫌なら、葭(よし)の先へとまれ。
それ、とまった葭(よし)がまた嫌なら、今度は木へでもとまってしまえ。

気づいたときには染まっている廓(くるわ)の水、
花魁さんよ、花魁さんよ、と声をかけるが後先(あとさき)は考えない。
しょせん恋は暗闇、
辻行燈(つじあんどん)の、陰に隠れて一晩中を立ち明かす。
格子を覗いてみるのも、もうこれで何度めか。
遊ばれているのは、最初からだ。
会えないと心は承知していても、もしかして、と思う男の未練。
昼の為事(しごと)もうわの空、
夜には頬冠(ほうかむ)りの先を鼻に結んでしのび足。
シャボンのように吹けば飛ぶような玉屋でも、
お武家さんの大きな屋敷へしのびこみ、
窓の下で犬にけつまずいて、馬鹿らしいことになるものだ。

口説き話のついでに、おどけてみようか。
ソレ、伊豆と相模の国は、向かい合っているのだから。
橋をかけるのはどうかな。恋人どうしが渡れる、船を繋げただけの簡単な橋をね。
恋人どうしは会いたいときに、会えないとね。

絵草紙「六十六部」
法華経を六十六ヵ所の寺へ奉納しようという諸国回遊の坊さんが、
その橋から落っこちて、
お経の入った道具箱は流れていってしまい。
錫杖(しゃくじょう)は川に沈み、
道具箱の中のお仏(ほとけ)さんが、
亀泳ぎ(ひらおよぎ)で、ゆうゆう去って行っちゃったりしてね。

坊さんが女のもとへこっそり出かけるなら、闇夜が良いよ。
月夜だと、月に照らされて禿頭がぶらり、しゃらりとね。
首をのばすと禿(はげ)頭がぶらり、しゃらりと、
月影に浮かんだりしてね。

コチャカマヤセヌ。お武家さんは気にするようですが、
年期を経たせいで衣の袖が少しほころんでいようが、
それが女にかまけたあげくのことだろうが、あたしらいっこうカマヤセヌ。


平成28年、仙台電力ホール、歌泰会「玉屋


そんな折に祭りが始まり、
花いっぱい飾り付けた山車(だし)がやってくると、
木遣(きやり)が風につれ、オーエンヤリョーと響きます。
まことに畏(おそ)れおおくも平和な時代に生きているものだな、あたしらは。
江戸の栄えは、ありがたいことでございますねぇ。
//////


シャボン玉売を描いた江戸の風俗舞踊と紹介されることが多い「玉屋」ですが、本当のところ、シャボン(玉)売の趣向を借りた「玉屋新兵衛」の踊り、のように思います。
※「玉屋」という踊り、の記事はこちら



「玉屋」は本当に、色っぽい踊りです。ご見物さまも演者も、両方が愉(たの)しいと感じる踊りですね。
踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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