2018年12月29日土曜日

うつくしい海、うつくしい常磐津「松島」全訳





先日(2018年11月11日)「国民文化祭(大分)日本舞踊の祭典」で踊った、「松島」の写真が出来てきました。

こちらの記事で速報させていただきましたが、あらためて、松島という踊りについて紹介させていただきますね。

※「松島」という踊り、の記事はこちらからどうぞ
※   国民文化祭in大分、「松島」踊ります、の記事はこちらからどうぞ
※   速報!国民文化祭in大分、「松島」踊ってきました! の記事はこちらからどうぞ





////// 歴史

本名題(ほんなだい)「岸漣漪常磐松島(きしの さざなみ ときわの まつしま)」。明治17年(1884年)7月、分裂していた常磐津家元・文字太夫家と、三味線方・岸澤家の和解に際して作曲され、売れっ子だった河竹黙阿弥に作詞を依頼した、和解記念の作品だそうです。

作曲は7代目 小文字太夫(常磐津林中)と6代目 岸澤式佐の共作、さすがに何度聞いても美しい曲です。記念作品の題材に東北の名所が選ばれたのは、7代目 小文字太夫が東北の盛岡出身だったからです。




////// 歌詞(全訳)

-原文-
日の本に 三つの景色の一と云う 陸(みち)の奥なる松島へ
今日思ひ立つ旅衣 着つつ馴れにし古郷(ふるさと)
後に三春の馬路(うまやじ)
勿来(なこそ)の関は名のみにて 古(ふ)りし昔を信夫摺(しのぶずり)
文字もそぞろに名所(などころ)を 記す便(よすが)に里人へ
利府(とふ)の菅ごも七布三布
旅寝の日さへ浅香山 憂きを白石白露の 萩の宮城野杖曳いて
己が心のまにまにに 瑞巌寺(ずいがんじ)へぞ着きにける

-現代語訳-
日本三景のひとつと謳(うた)われる、
(みち)の奥の秘境、松島へ行こう。
今日になってそう思い立ち、
旅ごろもに着替え、馴染んだ故郷(ふるさと)をあとにして、
三春(福島県)を馬で行きました。
奥州の三関と讃えられる勿来(なこそ、宮城県あたり)の関も、
いまは名ばかり。
あぁ、古い昔がなつかしい。
文字を書くのももどかしい思いで、声をかけたら答えてくれた、
里人(さとびと)の言う名所旧跡をそぞろな文字でしるすのも、
十符(じゅうぶ、縦に十段)に分かれた「利府(とふ)の菅(すが)ごも」を
七と三とに分け合って寝たという、あの恋歌のような日々が、
なつかしくてつらいせいです。
旅寝の日でも眠りは浅く、
(うれ)いを知らない白石の地に、白い朝露がかかります
萩で知られる宮城野を、杖をついて歩きながら、
ただ、こころのままに歩いていると、
なんとか瑞巌寺(ずいがんじ)へ着くことができました。

平成30年、日本舞踊協会宮城県支部「松島」

-原文-
黄金(こがね)花咲く山遠く 千賀(ちが)の浦辺へ立出て
のぞむ波間に朝日島 春ならねども棚引きし 霞の浦の朝ぼらけ
桜の名にし塩竃(しほがま)も 夏の茂りに御社を
(うづ)む若葉の若濱や 涼しき風の福浦に 此処へ寄る島
(すなどり)の 海女には惜しき女子嶋(おなごじま)
共に語ろう恋の道

-現代語訳-
黄金色(こがねいろ)に紅葉する山々を、遠くに望む千賀の浦辺(塩釜付近)へ立ちいで、
なにやら良い予感を胸に波間(なみま)を進み、朝日島(松島)を訪れました。
春ではないけれど、春の朝のように雲がたなびく、
美しい霞の浦(松島)の、あさぼらけです。
桜の名前にまでなった桜の名所・塩竃(しほがま)明神の境内も、
夏の名残の木々が生い茂って御社(おやしろ)が緑にうずまり、
若葉に覆われた青い浜が広がっています。
すると涼しい浦風が吹く福浦(松島)に、
漁船に乗って、島の女が立ち寄りました。
海辺で魚をとって暮らしていると思えない、
小粋な嶋の着物の女です。
あぁ、いっとき恋の道を、ともに語ろうではありませんか。

平成30年、日本舞踊協会宮城県支部「松島」

-原文-
磯の苫屋の苫島(とまじま)に 汐馴れ衣濡れ初めて
立てしむしろの屏風島 隠せど浮名立つ秋の
夜の長濱(ながはま)も 長からで
沖の千島の痴話事に 名残雄島(なごりおしま)の霧隠れ
(まがき)が島に又の夜の 約束堅き石の濱
網引(あびき)の唄の鄙(ひな)めきて

-現代語訳-
苫嶋(とまじま、松島)の磯にたたずむ小さな苫屋(とまや)で、
抱き合って汐を浴び、衣を濡らし初(そ)め、
屏風島(松島)のように、
(むしろ)で作った屏風で囲っているのに、それでも、
隠そうとして立つ汐汲みの煙のように、浮名を流した秋でした。
夜も長かろうと思う長濱(ながはま、松島)の夜も、
その名に似合わずあっという間に更(ふ)けてしまい、
沖の千鳥が睦(むつ)みあいながら飛び去るように、
名残を惜しみつつ、雄島(おしま、松島)が霧に隠れます。
こうして籬(まがき)が島(千賀の浦にある島)に、また夜が訪れるのです。
堅い約束のような石が並んだ荘厳な浜辺に、網引(あびき)の唄が響きます。
(ひな)めいた、こころ惹かれる唄でした。

平成30年、日本舞踊協会宮城県支部「松島」

-原文-

エエ エエェ 雁金の山に便りの玉章(たまづさ)
松の黒崎冬の来て 積もる思ひに身にしみじみと
雪の白濱小松島 あさる千鳥の大濱に 波の鼓の拍子につれ 立ち舞ふ振りの面白や
げにげに亀と鶴崎(つるさき)に 松が浦島竹の浦
岸の漣漪(さざなみ)うち寄りて
昔へ還る常磐津の 松の栄えぞ目出度けれ

-現代語訳-
エエ エエェ、
そのようにゆっくり過ごしたあと、
山に便りをしたため、玉のような返事を受け取りました。
松の浜にも黒い冬がやってきて、
積もる思いが身にしみじみと迫ります。
小松島(松島)に雪が降り、
まっしろな浜になりました。
千鳥が餌をあさる大浜に、鼓の拍子のように波が連なって打ちいれると、
千鳥が、水面から飛び上がったり、また水面へ下降したり、
立ち舞うように見えるのが、趣(おもむき)があって麗しいことです。
まことにまことに、
目出度くも、亀と鶴との先にある(鹽竈神社、山形の亀鶴御前伝説などか)
美しい松が浦島(松島の古名のひとつ)
竹の浦(石巻)です。

岸澤家に戻っていただき、
常磐津の家も、昔に還(かえ)ることができました。
松の大木のように、常磐津がこれからも永く繁栄するのは、喜ばしいことです。

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平成30年、日本舞踊協会宮城県支部「松島」

こうして全文書き起こしてみると、色っぽくて赤面します。
やはり河竹黙阿弥、大人の唄です。




////// 出演、演出

(公社)日本舞踊協会宮城県支部代表として、参加させていただきました。
同じく代表としてご競演いただいたのは、
若柳梅京さん、
若柳かつ尋さん
です。

(左から)若柳梅京さん、水木歌惣、若柳佳つ尋さん


演出は、(公社)日本舞踊協会宮城県支部・水木歌泰先生によるもの、男舞三人で松島を表現する、新趣向でございました。

※「松島」という踊り、の記事はこちらからどうぞ
※   国民文化祭in大分、「松島」踊ります、の記事はこちらからどうぞ
※   速報!国民文化祭in大分、「松島」踊ってきました! の記事はこちらからどうぞ




自分の出身地をテーマに踊るのは、やはり気持ちが違います。新しい振付はチャレンジでしたが、みんなで果敢に取り組みました。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2018 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2018年12月24日月曜日

歳末助け合い2018、日本舞踊協会宮城県支部のあゆみ(収支報告ほか)




お陰さまをもちまして、今年も日本舞踊協会・宮城県支部として、歳末たすけあい運動に協力させていただき、NHK仙台放送局(社会福祉協議会、赤十字)さんへ、募金を届けることができました。

ご協力、ほんとうにありがとうございました。

日本舞踊協会宮城県支部主宰の「各流舞踊大会(2018年12月2日)」募金額は合計で14万2千256円、(公社)日本舞踊協会宮城県支部長・水木歌泰(みずき かやす)先生が、皆さまのおこころづくしをきっちりNHKへ届けてまいりました。

2018年12月3日、NHK仙台放送局にて、日本舞踊協会宮城県支部長・水木歌泰先生


募金とは別に「各流舞踊大会」の収益金の一部を、今年も宮城県と仙台市へ寄贈させていただく予定です(各20万円、今年は都合で振込みになりました)
※歳末たすけあい、日本舞踊協会宮城県支部のあゆみ







日本舞踊協会・宮城県支部として、今年もたくさんの活動がありました。東北で活動する舞踊家同士で舞台を一緒に作ったり、大分まで出張し、松島を題材にした踊りを披露させていただくなど、刺激的な経験の多い年でもありました。

いえ、まだまだ報告させていただくことが、たくさんございますよ。わたしの今年は、まだ、終わりませんっ!



このブログも宮城県自慢あり、弟子自慢あり、公演告知や報告あり、昔の舞台の紹介あり、盛りだくさんでこれからもずっと続きます。






今年もまだまだ、よろしくお願いしますね。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2018 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2018年12月21日金曜日

愛の物ぐるい「保名(やすな)」全訳





以前に紹介させていただいた
「保名(やすな)という踊り」の記事では、

歌舞伎舞踊の元となった浄瑠璃「芦屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうちかがみ)」の説明や、信太(しのだ)の森の狐伝説などを中心に、どちらかというと伝説上の保名(やすな)の息子・安倍晴明(あべのせいめい、実際の父親について記録なし)について、文化論的に説明しました。

でも、歌舞伎舞踊曲・清元「保名(やすな)」はもちろん大人気の演目で、歌詞もとても面白いので、こちらも紹介させてください。

※「保名(やすな)」という踊り(1)の記事は、こちらからどうぞ
※「保名(やすな)」という踊り(2)の記事は、こちらからどうぞ





////// 歴史

本名題(ほん なだい)を「深山桜及兼樹振 (みやまのはな とどかぬ えだぶり) 」といい、文化15年(1818)3月、江戸・都座にて3代目 尾上菊五郎が初演した「四季七変化」のうち、「春」にあたる踊りです。

作詞・初代 篠田金治(並木五瓶=なみきごへい、1768~1819年)、作曲・初代 清澤萬吉(のち初代 清元斎兵衛、生没年不詳)、振付・藤間大助(2代目 藤間勘十郎、1823~1882年)で、初演以降絶えていたのを9代目 市川団十郎(1838~1903年)が復活上演し、大正時代になってから6代目 尾上菊五郎(1885~1949年)と5代目 清元延寿太夫(きよもと えんじゅたゆう、1862~1943年)が、現在の演出にあらためました。

錦絵「芦屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうちかがみ)」




////// 見どころ、特徴

作曲者である初代 清澤萬吉が2代目 富本斎宮太夫を襲名していたため、原曲は清元の原型・富本節の流れを汲んだ古いものです。

それをあらためた新しい清元の歌詞の中には、世阿弥作「恋重荷(こいの おもに)」のひとふしと、江戸時代の奇人変人・来山翁(らいざんおう)こと、談林派の俳人・小西来山(こにし らいざん)の人形好みが取り込まれています。とりわけ小西来山の人形愛は、何のために取り込んだやら、その意図するところがどうもわかりません。


-世阿弥(生年不詳~1443年)作「恋重荷(こいの おもに)」※観世流 謡曲-
白河院の庭で菊の世話をする「山科の荘司」という者が、院の女御(にょうご)に恋心を抱いて仕事をおろそかにするため、女御は美しい装飾の重い荷物を与え「この荷を担いで百度、千度と庭を回ったら、姿を見せてあげよう」と、家臣を通じて伝えさせた。抱えられない荷物を与えることで身分違いをわからせ、諦めさせようとしたのだが、重荷を果敢に持ち上げようとして持ち上げられなかった荘司は、女御の仕打ちを恨んで、死を選ぶ。


ワキ(家臣)
山科の荘司重荷を持ちかねて、御庭にて虚しくなりて候。かような賎しきものの一念はおそろしき候。なにか苦しう候べき。そも御意(おんい)であって、かの者の姿をひと目ご覧ぜられ候へ。
-現代語訳-
お申しつけのせいで山科の荘司が死にました。身分がひくい者の一念は恐ろしいと言いますし、何かさわりがあるかも知れません。貴女さまのご意思によるものですから、遺体をひとめ、ご覧になってはいかがでしょうか。

シテツレ(女御)
恋よ恋、我が中空(なかそら)になすな恋、恋には人の死なぬものかは。無残の心やな。
-現代語訳-
恋よ、荘司の恋よ。わたしを冥途の途中まで、一緒に連れては行かないでおくれ。恋のせいでは人は死なないというけれど、そうでもないのね。なんてかわいそうな、荘司の心でしょう。

シテ(荘司、のち怨霊)
我はよしなや逢い難(がた)き、巌(いわお)の重荷持たるるものか。あら恨めしや葛の葉の 玉襷(たまだすき)畝傍(うねび)の山の山守(やまもり)も、さのみ重荷は持たればこそ、重荷というも思いなり。
-現代語訳-
お会いすることもできない貴女さまのために、岩のような重荷を持てるものでしょうか。あぁ、恨めしい(※葛の葉は「恨」の枕詞)。神聖なる畝傍山(うねびやま、奈良県、※玉襷は「畝傍」の枕詞)の神さまも「重荷というのは持てるものを言うのであって、持てもしないものは重荷ではなく悪意だ」と、仰(おっしゃ)ることでしょう。

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錦絵「保名」


「保名」の唄いだしは「恋や恋、われ中空に為すな恋」です。謡曲「恋重荷」では荘司の怨念を恐れた女御の「中空(冥途の途中)へ連れてゆかないで」なのですが、「保名」は恋人の死のせいで狂乱状態なので、同じ意味合いではないでしょう。

ちなみに「中空」や「枝の上」「花枝」は、6代目 尾上菊五郎が多用した演劇モチーフです。フレイザー(Sir James George Frazer、1854~1941年)『金枝篇』(The Golden Bough, 1890~ 1936年)に出てくる「聖森にある大木の、中空で輝く金枝(クリスマス飾りに使われる、オークの大木に寄生するヤドリギなど)は、あの世とこの世の通行手形」というラテン・ガリアのアニミズム(animism)同様の自然信仰が、わが国にも存在するのです。


いっぽう小西来山は、江戸時代の有名文化人です。談林派の俳人で晩年は大阪の今宮で暮らし、吉野太夫を模した土人形を愛したあまり「女人形記」なるものを残しました。

-小西来山(こにし らいざん、1654~1716年)「女人形記」-
弟子に話したことだが、焼き物の人形はものも言わないし笑わなくて寂しいが、その代わり焼きもちを焼くこともなく、住まいを汚すこともなく留守にしても心遣いは不要だ。酒を飲まなくてつまらない相手だが、さもしげに何かを食べることもなく、化粧はせず、一張羅を着つづけて寒がることもない。夏はさわるとヒンヤリ、夜は暖めるとよい加減に温かくなる。なんや、ほんまに? と、いうぐらい、良いものだよと。

現実の女性に失望したあげく、ガラテアと名づけた自作の彫刻を愛し、愛の女神・アプロディーテに祈って人間に変えてもらったピグマリオン(Pygmaliōn、ギリシア神話)とは、ずいぶん異なる人形愛です。小西来山は、「ほんとうの女よりずっと手間がかからない」から、人形が良いと言っているように読めます。それは理解できますが、どうして「保名(やすな)」の歌詞で言及されているやら、わかるようでわからないエピソードです(たんに、流行していたのでしょう)

****************

錦絵「母・葛の葉、父・保名、(のちの)安倍清明」




////// 歌詞(全訳)

-原文-
恋よ恋 
われ中空(なかそら)に為(な)すな恋
恋風が来ては
(たもと)にかいもつれ
思う中をば吹きわくる
花に嵐の狂いてし

心そぞろにいずくとも
道行く人に事問えど
岩せく水と我が胸と
砕けて落ちる泪(なみだ)には

かたしく袖の片思い
姿もいつか乱れ髪
たがとりあげていう事も
菜種の畑にくるう蝶
翼交わしてうらやまし
野辺のかげろう春草を
素袍袴(すおう ばかま=江戸時代の武士の礼服)に踏みしだき
くるいくるいて来たりける
平成8年、歌泰会「保名」

なんじゃ恋人がそこへいた どれ どれどれ エゝまた嘘云うか
わっけも無い事 云うは ヤーイ

アレ あれを今宮の
来山翁(らいざんおう)が筆ずさみ
土にんぎょうのいろ娘
高嶺(たかね)の花や折る事も
泣いた顔せず 腹立てず
りんきもせねばおとなしう
アラうつつなの 妹背中

(ぬし)は忘れて ござんしょう
しかも去年の桜どき
うえて初日の初会から
逢うてののちは一日も
便り聞かねば気もすまず
うつらうつらと夜を明かし
平成8年、歌泰会「保名」
昼寝ぬ程に思いつめ
たまに逢う夜の嬉しさに
ささごとやめて語る夜は
何時(いつ)よりも つい明けやすく
いのう いなさぬ 口説(くどき)さえ
月夜烏(つきよ がらす)にだまされて
いっそ流して居続けは

日の出る迄もそれなりに
寝ようとすれど 寝られねば
(ゐ)ぬを恨みの旅の空

よさの泊りはどこが泊りぞ
草を敷き寝の肘まくら 肘まくら
一人り明かすぞ悲しけれ
悲しけれ
葉越しの葉越しの幕の内
昔恋しき俤(おもかげ)や 移り香や


-現代語訳-
恋よ、恋の嵐よ、
わたしを黄泉路と現(うつつ)のはざ間へ、連れて来てくれたのだなぁ。
恋が風のようにやってきて、
たもとの中まで吹き込んで、もつれにもつれ、
思うままに吹きなぐってくれているよ。
花に、狂乱の嵐が襲い掛かっているかのようだ。

こころが落ち着かず、ここは何処ですかと、
道ゆく人に問うことは問うのだけれど、
岩を走り落ちる水のように、
わたしの胸の中を砕けて落ちる滝のような涙がとまらず、
何処にもゆくことができないのだ。

平成8年、歌泰会「保名」

衣を枕に旅寝の片思い。
衣服も髪もいつか乱れてしまい、
ことさらに興味を惹かれた誰かが、こちらに向かって何か言うほど。
菜種畑に飛び狂う蝶の、
羽を交わして睦みあうのが、ただ、うらやましい。
野辺に陽炎(かげろう)のように生い立つ春の草を、
素袍袴(すおう ばかま)で踏みしだき、
狂い狂いながら、ここまでやって来たのだが。

なに、わたしの恋人がそこにいたと。どれどれ、エエ、また嘘を言われた
根拠のないことを言うのはやめてください、あぁ、やめてください。

アレ、あれこそ今宮の、
来山翁(らいざんおう)が筆の遊びに書いたという、アレなのか。
吉野太夫徳子を模した、陶器で出来た人形とやら。
吉野太夫は高値の花だが、その花を折る必要もなく、
泣いた顔をすることもなく、腹を立てることもなく、
焼きもちも焼かねば、いつも大人しく待ってくれている。
なんやて、ほんまかいや ?
と驚くほど、良い恋の相手だという。
(そんなわけ、あるかいな。わたしゃ現実の女の方が、よっぽど良いわい)

平成8年、歌泰会「保名」

あなたは忘れていらっしゃる。
まだたった、去年の桜どきのことなのに、
初めて花が咲いた日に初めて出会い、
そのあとにはただの一日も、
お互いの便りを遣り取りしないでは気が済まず、
会うことができなければ、うつらうつらと寝ることもできずに夜を過ごし、
寝足りないにもかかわらず、
昼にも寝入ることができないほど思いつめて。
たまに遭えた夜には嬉しさのあまり、
酒も呑まずに語り合い、
何時に始めようが、すぐに朝になってしまうと感じるほど。
帰ろうかな、と言うと、
帰らせないわと、あなたが言って口げんかになる。
月夜のカラスが立てる音に騙されたふりをして、
いっそ、何もかも水に流してしまって、長居したものだ。
(それをあなたは忘れてしまったのですか)
(わたしを忘れて、いったい何処に、いらっしゃるのですか)

日の出頃にはそれなりに、
寝ようとはするけれど、寝ることができず、
眠れないじゃないか、と、いない相手に恨みごとを口にしてみる、旅の空。
平成8年、歌泰会「保名」

今夜のお泊まりはどこですか。
草を敷いて、肘枕で寝るのです。
悲しいことに、たったひとりで夜明かしです。
あぁ、悲しいことに。
あの日、重なりあった枝々と
重なりあった葉の先にしつらえた陣幕の、
その内陣に座っていた、
わたしの恋人の面影は、
何処へ行ってしまったのですか。
わたしの恋人の移り香を、
こんなにも、探しているのに。

****************


原文のままでも読みやすく十分かわいそうに感じる歌詞ですが、全歌詞を現代文に書き起こすと、衝撃的な悲しさに、胸を打たれる思いがします。

挿入した歌舞伎錦絵の、のちの安倍清明を背負い子育てにいそしんでいるパパ保名の姿に、何故かホッとしてしまう、バカバカしいわたしです(笑)

※「保名(やすな)」という踊り(1)の記事は、こちらからどうぞ
※「保名(やすな)」という踊り(2)の記事は、こちらからどうぞ




ただの架空の物語ですが、保名(やすな)はしあわせになってくれて、ほんとうに良かったです!(親戚か)

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2018 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2018年12月19日水曜日

「元禄花見踊り」という踊り





平成30年(2018)
日本と韓国の芸術文化の交流
   ~22年間の大邱国際交流を祝して~

上記の宮城県芸術協会主催の会で、宮城県の舞踊家の方々と「元禄花見踊り」を踊りました。


◇出演者(あいうえお順)

 花柳 弥菜さん、
 花柳 優和沙さん
 藤間 寿和枝さん、
 水木 歌惣(自分)
 吉村 花照さん、
 若柳 梅京さん、



外国との交流会だったため、ちょっと華やかな演出になっています。





////// 歴史

「元禄花見踊り」は、竹柴瓢助作詞、3代目 杵屋正治郎作曲、明治11年(1878)新築落成した「新富座」開場式で発表された、新しい時代の祝祭の踊りです。


平成28年、宮城県芸術協会「日本と韓国の芸術文化の交流」

つんのめりそうな前奏と、それに続くゆったりした「♪どーんちゃちゃーん ちゃちゃつちしゃん」で、有名な曲です。古い日本映画のBGMなど頻繁に登場することから、日本舞踊や長唄に興味のない向きも、一度や二度は聞いたことがある長唄です。


上野寛永寺と、元禄時代の風俗、花見で踊る女性




////// 歌詞の内容

花盛りの上野の山で、金糸銀糸に伊達(だて)染めなど、豪華な小袖を風流に桜の枝へ掛け廻し、武士や町人、お大尽たちが花見に興じる平和なさまを描きます。


*************
鹿(か)の子絞りの六尺袖で連れ歩く岡崎女郎衆、
小袖の幕の中で踊る顔を隠した武家の侍女、
深編笠(ふかあみがさ)をかぶった侍が大杯(おお さかづき)
酒をあおれば、
向こうで供奴(ともやっこ)が踊ります。
夜ともなれば、
お方さまはハチマキに短い羽織り。
武家の男も町人にまじって踊り出し、
上野はさながら群衆で出来た山のように、
いつまでも混み合い花の盛りが続くのです。
*************


祝祭歌にすぎないので、とにかくめでたいだけで歌詞に深みはありません。明治になってからの作品ですが、元禄時代を懐かしでいるかのようです。





////// 元禄時代

元禄時代(1688~1784年)と言えば「犬公方(いぬくぼう)」と揶揄(やゆ)された五代将軍「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の時代です。政権の評判は良くないものの、江戸庶民はこの時代になってやっと「わらじを脱いで寝た」と言われます。いつまた戦いがおきても良いように、元禄を迎えるまで庶民は毎晩、逃げる準備をしてから夜、横になっていたのだそうです。


平成30年、宮城県芸術協会「元禄花見踊り」


元禄時代、人々はやっと平和な時代に納得し、ゆっくりお風呂にも入るようになった結果、湯屋や女郎屋が繁盛し吉原などの遊郭文化が栄えます。江戸の繁栄は、犬公方・五代将軍綱吉の時代に始まったのです。


新しい時代(明治)、新しい芝居小屋(新富座)を迎える心意気を、元禄時代の庶民の「戦争終わった!」「これから地に足をつけ、今まで以上に頑張るぞ!」という、たましいの喜びを借りて表現したのだと思います。

※なんでエロなん。「元禄花見踊り」全訳、の記事はこちら




韓国との交流のお祝いに、良い選曲だったと感じます。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2018 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.






2018年12月15日土曜日

やさぐれ舞踊「まかしょ」全訳




告知はいろいろ出しましたが、平成30年、東京水木会舞踊公演のため、国立劇場で踊った「まかしょ」の舞台写真がやっと手元に届きましたので、あらためて演目について詳しく紹介させていただきますね。




////// 歴史

本名題(ほんなだい)を「寒行雪姿見(かんぎょう ゆきの すがたみ)」と言い、文政3年(1820)9月、江戸・中村座で3代目 坂東三津五郎が初演した七変化舞踊「月雪花名残文台(つきゆきはな なごりの ぶんだい)」の雪の部として登場しました。2代目 桜田治助(さくらだ じすけ)作詞、2代目 杵屋佐吉(きねや さきち)作曲、3代目 藤間勘兵衛(ふじま かんべえ)振付です。

絵草紙「まかしょ」

※「まかしょ」という踊り の記事は、こちらからどうぞ
※  速報!2018年第67回東京水木会舞踊公演(まかしょ)の記事は、こちらからどうぞ

ただし初演時の振付は失われ、現在では各流派それぞれに振付て踊っています。

江戸にはかつて「寒参り(かんまいり)」というものがあり、大寒・小寒の三十日間、信心や祈願のため白衣を着て、はだしで鈴を振りながら毎夜、神仏に参る行事です。

この寒参りを「代行しますよ」といって江戸市中を巡り歩く、怪しい「願人(がんにん)坊主」が「まかしょ」です。

現代でいう名刺代わりなのか、刷り絵の札を撒きながら歩いたため、子供たちが「まかしょ!(撒いておくれ)」と囃し立てたのが通称の由来のようです。






////// 歌詞(全訳)

-原文-
まかしよ まかしよ 撒(ま)いてくりよ
まつか諸方の門々に 無用の札も何んのその
構ひ馴染の御祈祷坊主 昔気質(かたぎ)は天満宮 今の浮世は色で持つ

-現代語訳-
まかしょ、まかしょ、絵札を撒(ま)いておくれよ。
そんな風に囃し立てられ、
(ま)こうとしたら、あちこちの門口に「物乞い無用」と貼ってある。
なんのかまうものか、こちとら、ご祈祷坊主さまよ。
昔かたぎの古臭い天満宮のお札じゃあるまいし、
おいらが撒(ま)くのは、浮世絵のような色のついた絵札だわい。

平成30年、東京水木会舞踊公演「まかしょ」

-原文-
野暮な地口絵(じぐちえ)餉箱(げばこ)から 引き出してくる酒の酔
妙見さんの七ツ梅 不動のお手に剣菱の ぴんと白菊花筏(しらぎく はないかだ)
差すと聞いたら思う相手に あほツ切り
煽る手許も足許も 雪を凌いで来たりける

-現代語訳-
そんな風に毒づきながら、
本当のところ野暮ったい地口絵を飯箱から引き出すや、
むっと立ちのぼる酒の匂い。
妙見(みょうけん)さまなら「七ツ梅(酒の名前)」、
お不動さんの手には「剣菱(けんびし、酒の名前)」が、
ぴんとした「白菊(酒の名前)」なら、「花筏(はな いかだ、酒の名前)」によく似合う。
お布施に盃(さかづき)を差してくれると聞きつければ、
「青ツ切り」茶碗で受けて、おもいっきり、ごくごく呑む。
酒で震える手も足も、雪を掻き分けるのに役立つぐらいなもの。

平成30年、東京水木会舞踊公演「まかしょ」

-原文-
君を思えば筑紫まで 翼なけれど飛梅(とび うめ)の 粋(すい)が身を食ふこの姿
ちよいとお門に佇みて とこまかしてよいとこなり ちよつとちよぼくる口車
春の眺めはナア 上野飛鳥の花も吉原
花の中から 花の道中柳腰
秋は俄にナア 心もうかうか
浮かれ烏(がらす)の 九郎助稲荷(くろすけ いなり)の 隅の長屋の年増が目につき
ずつと上つて門(かど)の戸ぴつしやり 締まりやつせ
あれあの声を今の身に 思い浅黄(あさぎ)の手拭に 紅の付いたが腹が立つ
そこを流しの神下ろし

-現代語訳-
菅原道真公に呼ばれ、大宰府まで飛んで行ったという梅の木のように、
おいら、酒のためなら筑紫(つくし)まででも飛んでゆこうぞ。
(すい)と酔(すい)とに蝕(むしば)まれた、おいらの姿をごろうじろ。
そう格好つけて、ちょいと門のところに佇んでから、
「とこまかしてよいとこな」と、チョボクレの口車を唄い始める。

平成30年、東京水木会舞踊公演「まかしょ」

春の眺めと言えばナァ、上野の山も飛鳥山も吉原の花も、
花の向こうからやってくる、花道中のお女郎たちの色っぽい柳腰こそ見どころよ。
秋は急に訪れて、心がふわふわするもんだ。
浮かれたあまり巣に帰ることを忘れた夜(よ)ガラスが、
(くるわ)に陣取る九郎助稲荷(くろすけ いなり)さまの、
隅の長屋の「曲見世(きょくみせ、格安の店)に出てる年増女に目を奪われ、
ずっとのぼって入ると、門をぴしゃりと閉めたのさ。
そこへ廓(くるわ)の閉まる「大引け」の声がかかり、「閉まりやすぜ」と、女が言う。
大引けのあとなら泊まりだからな。
今になって、女のあの声を聞いておけば良かったと後悔してる。
安物といえ、浅黄(あさぎ)の手ぬぐいに紅をつけられたのさえ、腹が立つ。
まぁでも、そこは流して神降(お)ろしへと進もうじゃないか。


-原文-
帰命頂来(きみょう ちょうらい)(うやま)つて申す
それ日本の神神は 伊勢に内外(ないげ)の二柱
夫婦妹背(ふうふ いもせ)の盃も 済んで初会の床浦明神
哀愍納受一呪礼拝 屏風の外に新造が 祭も知らずねの権現
櫺子(れんじ)の隙間漏る風は 遣手に忍ぶ明(あき)部屋の 小隅に誰を松尾明神
地色は坂本山王(さかもと さんのう)の 廿一二(にじゅういちに)が客取盛り
間夫(まぶ)は人目を関明神(せき みょうじん)
帰命頂来懺悔懺悔(きみょうちょうらい ざんげ ざんげ
六根罪障(ろっこん ざいしょう) 拗ねて口説(くせつ)を四国には
中も丸亀 名も高き 象頭山(ぞうずさん)
今度来るなら裏茶屋で 哀愍納受(あいみんのうじゅ)と祈りける
その御祈祷に乗せられて でれれんでれれん口法螺(くち ぼら)
吹く風寒き夕暮に 酒ある方を尋ね行く 酒ある方を尋ね行く

ー現代語訳ー
帰命頂来(きめいちょうらい、帰依します帰依します)、うやまって申しあげやしょう。
ソレ日本の神々というのは、まずは
伊勢(三重県伊勢神宮)内宮(ないぐう)にいまそかる
天照大御神(あまてらす おおみかみ)さまと、
外宮(げぐう)にいまそかる
豊受大御神(とようけ おおみかみ)さまとのふた柱(はしら)

平成30年、東京水木会舞踊公演「まかしょ」

夫婦妹背(めおと いもせ)の契りの盃(さかづき)を、
交わし終わった廓(くるわ)の初回の床入りならば、
床浦明神(とこうら みょうじん、広島県床浦神社)さまが良い。
仏教で言う「哀愍納受一呪礼拝(あいみんのうじゅ いちじゅらいはい)」というものは、
お仏さんはあたしら下々の願いを聞き届けるっつう、意味でやす。
屏風の外では見習い女郎が、騒ぎ声にも気がつかず、
ぐうぐう寝入ってやがる(子=ねの権現)
連子(れんじ)窓の隙間から洩れこむ風だけは、
人気女郎が遣手婆(やりて ばばあ)に隠れ、
空き部屋の隅にこっそり誰を待たしているのか(松尾明神=島根県佐香神社」)
その本当のところを、知っているのだろうよ。

「地色(ぢいろ)」と呼ばれる女郎の情夫は、
立ち去らなければいけないわけだ(坂本山王=滋賀県日吉大社は猿が使途獣)

女郎は二十一、二が稼ぎ盛り、
間男(まぶ)は人の目からは、
見えないようにならなければ、いけないわけだ(滋賀県関蝉丸神社)

帰命頂来(きめいちょうらい、帰依します帰依します)、ざんげ、ざんげ。
仏心をさまたげる六根罪障(ろっこんざいしょう)を去らせなさい、
あぁ、去らせなさい。
平成30年、東京水木会舞踊公演「まかしょ」

すねて口げんかをしないように(四国)
ふたりの仲が丸く良くおさまるように(丸亀、象頭山)
今度来るなら見世ではなくて裏通りの出会い茶屋でね、と冷たく言われ、
「哀愍納受(あいみんのうじゅ)、お仏さん、お願いだよ」と、祈ってみた。

その余韻でうかれたまま、でれれんでれれんと口ほら貝を吹きながら、
吹く風が寒くなった夕暮れに、おいら酒の匂いを探して歩く。
酒の匂いを、探して歩く。

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歌詞、内容がひどいです。ちょっと常人には、理解できないものがあります。踊りの華やかさ曲の明るさに比べ、暗くて破滅的な歌詞ですね。

まかしょ主人公の、こころの闇を体現するのは難しいことです。
うまく伝えられていれば、良いのですけれど。

※「まかしょ」という踊り の記事は、こちらからどうぞ
※  速報!2018年第67回東京水木会舞踊公演(まかしょ)の記事は、こちらからどうぞ

楽屋に帰ったわたしと、待っていてくれた差し入れのお花さん


いちばん下の写真は、物語をひきずったまま興奮状態で楽屋へ帰ったわたしと、お客さまが差し入れてくださったお花です。おもいっきり明るく華やかなお花に、こころが癒されました。ありがとうございました!

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2018 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2018年12月13日木曜日

登米市に雪がやってきた!2018




今年初めて、雪が降りました。
写真は12月9日昼間の写真、北方(登米市迫町)の積雪です。ずっと田んぼです。


次の雪だらけの写真は3日後の朝、登米市にある、わが家のお庭です。
だいぶ積もってまいりました。

そうしてわたしは仙台からの帰り、築館(宮城県栗原市)でお昼ごはん。
栗原市の名物は、蕎麦や蕎麦団子なのです。

わたしのおススメ、築館のお蕎麦屋さん


田んぼの中のお店なので、車でないと便が悪いかもしれません。
ぐる●●、たべ●●にも掲載されているので、地図など詳細はそちらでお願いしますね。
築館(つきだて)の、「蕎麦祥」さんです。





わたしのお気に入りは鴨せいろです。それと蕎麦湯が美味しいですよ!とろっとした重めの蕎麦湯を、濃いめの汁の残りに注いで、、、いとしあわせ。
よろしければ!

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2018 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







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