※獅子だらけ、長唄「鏡獅子」(舞踊鑑賞室)
※女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳
※阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳
きこりの唄の旋律が風に乗って流れついたかと思えば、
羊を追う牧童の笛の音も、聞こえてきます。
何につけ、ひとの生き方はさまざまなものですね。
浮世を渡って生きるわたしのそれは、
水辺に生(お)いる川竹のようなもの。
浮名を流すのが生業(なりわい)という、
つらいことばかりの人生です。
寄せては返す浪(なみ)のように、わたしの枕には夜毎(よごと)、
ちがう男が頭を休めます。
運命は定まらず流転し続けて浮世に呑み込まれ、
それでも女のまことを尽くそうと、
恋の闇の中へ、より深く迷い込んでゆくわたしです。
忍んでやってくる男との、忍び寝の枕にさ迷い、
馴染み客と語り合う、ひぢ枕に癒され、
初めてのお客との、新枕(にいまくら)に想いのたけを込め、
ふたつ枕をとんと並べ、来ないお前のために、ひとり寝の長い夜を待ち明かす。
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9代目 市川団十郎(1838~1903年)が「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」を新作するきっかけになった、長唄「枕獅子」の歌詞の一部を現代語訳で紹介しました。
長唄「枕獅子」は本名題(ほんなだい)を「英獅子乱曲(はなぶさ ししのらんぎよく)」と言い、寛保2年(1742)江戸・市村座で初代 瀬川菊之丞(1693~1749年)により初演されました。「女方石橋(おんながたしゃっきょう)」と呼ばれる、古い獅子ものです。前段で傾城(女郎)が枕を持って踊る「枕尽くし」があり、後段でこの傾城(女郎)が扇獅子(おうぎじし)を手に、獅子の「もの狂い」になる物語です。
この踊りを家で稽古していた二人の娘を見た9代目は、「たいせつに育てた娘たちに、何が悲しくて傾城(お女郎)を練習させないといけないのか」と、ふと疑問に感じたと言われます。
いかがでしょうか。自分の娘に、踊らせたい踊りでしょうか。
9代目 市川団十郎の錦絵 |
//////「鏡獅子」概要
■本名題■
春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)
■初演■
明治26年(1893)、東京・歌舞伎座
■作曲■
3代目 杵屋正次郎(1827~1895年)
■作詞
福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)
■振付
9代目 市川団十郎(1838~1903年)
2代目 藤間勘右衛門(1840~1925年、勘翁)※胡蝶
前段を長唄「枕獅子」、後段を長唄「鏡獅子」を参考に新作した演目です。文久元年 (1861) 初演の「連獅子(勝三郎連獅子、河竹黙阿弥作詞、2代目 杵屋勝三郎作曲、初代 花柳寿輔振付)」趣向もとりいれ、後段(後ジテ)が立役(男性)になります。「連獅子」以前には獅子もの舞踊は女形の演目であり、「もの狂い」も女形のまま演じることが普通でした。
ところで9代目が娘たちの稽古用演目に悩んでいたちょうど同じ頃、歌舞伎座の福地桜痴(ふくちおうち)は「枕獅子」を改良して新作を上演しないかと9代目を説得していました。二人が意気投合して創ったのが、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」という演目です。
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
////// 作詞者・福地桜痴の演劇改良運動
福地桜痴(ふくち おうち)は本名を福地源一郎と言い、長崎の医師の息子です。医者になるため蘭学(らんがく)を学びますが、やがて英語を学んで江戸幕府通訳になり、明治政府のもとでは伊藤博文に気に入られて大蔵省へ入省、岩倉使節団の一員として洋行し退省後「東京日日新聞」主筆に迎えられます。その後小説家・劇作家として人気者になったところで演劇改良運動に目覚め、実業家・千葉勝五郎(1833~1903年)の財力を頼りに明治22年(1889)、東京市京橋区木挽町に「歌舞伎座」を創設しました。「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」を出した頃は、歌舞伎座の座付作者を務めています。
演劇改良運動というのは明治政府の意向を受けて始まった旧来舞台芸術の近代化を目指す文芸改革で、明治19年(1886)に結成された「演劇改良会(末松謙澄、渋沢栄一、外山正一などが参画)」を母体とします。発起人筆頭は井上馨、賛成人筆頭は伊藤博文です。発起人のひとりであり、演劇改良会を法人化するにあたって定款を書いたのが福地桜痴(ふくちおうち)です。
演劇改良運動は具体的には女形の廃止など演目の近代化、花道や廻り舞台の廃止など劇場の整備、芝居茶屋を通した切符流通(当時は芝居茶屋を利用しないと切符が買えなかった)の見直しなどを提唱しました。明治21年(1888)、歌舞伎座創設の目処(めど)が立った段階で一定の役目を果たし、組織としては自然消滅しています(理念は「演芸矯風会=日本演芸協会」へ引き継がれました)。
同じころ9代目市川団十郎は明治16年(1883)「求古会」を結成し、歌舞伎演目の時代考証の正常化を目指し、リアルな史劇ものの上演に取り組んでいました。歌舞伎を近代化し西洋諸国の舞台芸術に引けを取らないものにしたいという、文士・演者両方の熱意の結果として生まれたのが「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」や「鷺娘」など、9代目市川団十郎代表作の数々です。
歌舞伎座 |
「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」は「枕獅子」主人公の境遇を「傾城(女郎)」から「御殿女中(踊小姓)」へ変更して格調高く仕上げ、「鷺娘」では衣装を傾城の衣装から町娘の衣装へ変えるなどして、踊口説き(おどりくどき)もの特有の恨みがましさ(解説はこちら)を少なからず廃したのです。
現在の歌舞伎上演を見るに、演劇改良運動は成功した部分もあり、失敗した部分もあり、みち半(なか)ば、放置されている部分もあります。成功と言えるのは切符の流通をわかりやすくしたことだけ。女形や花道や廻り舞台の廃止は、それを廃すのが近代化だという論拠が弱く、そもそも論外でした。時代考証の正常化も、演目の面白みを殺してしまうことにつながります。
しかし皮肉なことに、同時期「演劇改良会」「求古会」の外から作家・坪内逍遥(1859~1935年)が提唱した、「歌舞伎を国楽劇(坪内逍遥の論)として再構築する」ことには、一定の成果をあげました。歌舞伎ではあり得なかった天皇陛下ご臨席をたまわる「天覧芝居」が、明治20年(1887)と平成19年(2007)に実現しているからです。
////// 「枕獅子」からの改良点と、発表後の反応
9代目市川団十郎が福地桜痴(ふくち おうち)と相談し、改良したのは下記です。
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(1)踊口説き(おどりくどき)の排除
主人公を傾城(女郎)から「千代田城大奥(江戸城大奥)」の御殿女中に変えました。主人公・弥生(おそらく武家の息女)の心に、浮世への恨みつらみは想起されません。
(2)詳細でリアルな時代考証の導入
馴染み客を二階から見送る遊郭の女たちの日常というか風俗描写を、千代田城大奥の「鏡餅曳(かがみもちひき)」の日の俄(にわか)奉納に変えることで、よりリアルに時代を描こうとしました。ただし実際には「鏡餅曳(かがみもちひき)」は「鏡餅を曳くお舟」を観るだけで、舞踊を奉納するなどの祭儀はありませんでした。リアル風、にしただけです。
(3)牡丹が描かれた扇子=扇獅子(おおぎじし)で獅子を表現する、暗喩の排除
傾城(女郎)が女形衣装のまま「扇獅子(おおぎじし)」で踊る獅子の「もの狂い」を、よりリアルな立役・獅子の扮装に変えました。そのせいで前段が女形、後段が立役になりました。
このほかにも胡蝶を実子・2代目 市川旭梅(いちかわ きょくばい、1893~1907年)と2代目 市川 翠扇(いちかわ すいせん、1888~1944年)に演じさせ、女性を歌舞伎舞台に上げることに成功しています。
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
発表後、おもに文士の人たちが猛批判をしたのは有名な話です。だいたいは時代考証の甘さに対する批判で、伊勢音頭を取り込んだ「はたち鬘(かつら)」という歌詞を「その年齢でお小姓(腰元内部の階級)と呼ばれるのは不自然」や、「鏡餅曳(かがみもちひき)の儀式に、俄(にわか)奉納なんて存在しない」というものでした。
しかし「はたち鬘(かつら)」はとり入れた俗謡にもとからあった歌詞です。「鏡餅曳(かがみもちひき)」行事の改変にしても、長いあいだタブーだった「大奥」を、そのまま描くことに躊躇(ちゅうちょ)があったとも考えられます。江戸時代のことですが、千代田城大奥を描(えが)いたと噂されただけで発禁になった絵草紙(「偐紫田舎源氏=にせむらさき いなかげんじ」柳亭種彦作、1829~1842年刊行)が、あったのです。
「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」初演からさかのぼること1年前、明治25年(1892)、ジャーナリストと学者が共著した千代田城大奥についての研究書「千代田城大奥(永島今四郎、太田貞雄、共著)」が出版されます。かつて腰元として大奥に勤めていた人物などに聞き取り調査したものですが、「大奥の猫は全部メスだった」などという、いい加減な噂話まで含まれたため学術的な評価は高いと言えません。それでも、そこに書いてあった内容は、もと江戸庶民をおおいに驚愕させました。
もっとも話題になったのは千代田城(「江戸城」)に井戸が足らず、朝な夕な、数千人規模での水汲み人足が隊列を組んで堀外へ水汲みへ行かされていたことです。将軍さまのお城がそんな弱点を抱えていたことを、このときまで江戸庶民はまったく知らされていなかったのです。
また正月行事の鏡餅を運ぶ船の大きさが、それまで言われていた「腰元(女性)が曳く小さな舟」ではなく、普通の漁船と同じサイズであったことも、だいぶ話題に昇ったようです。およそ2年後の明治27年(1894)、「千代田城大奥」をそのまま絵草紙に変えた「千代田の大奥(楊洲周延、1838~1912年、絵師)」が刊行されます(1894~1896年にかけて40点)。
とりあえず、もと江戸庶民を呆れさせた、問題の「鏡餅曳(かがみもちひき)」を絵にてご覧ください。※ちょっと色が薄いですが、お女中たちの向こうの鏡餅の大きさと数に注目です。
千代田の大奥「鏡餅曳」 |
飲み水すら十分に確保できないくせに、徳川さまはいったい何をやってたんだ、という、庶民の呻(うめ)きが聞こえてくるようです。こうして、もと江戸庶民の心は、徳川政権への愛着の呪縛から完全に解き放たれてゆくのです。
千代田城大奥の暴露大会が続いていたさなか、歌舞伎座で「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」が初演されました。議論に新しいネタを投入するようなもの、この演目が文化人からことさらに非難されたのは、千代田城大奥を巡る議論の真っただなかに、議論を煽(あお)るように「鏡餅曳(かがみもちひき)」を扱ったせいでもあるのです(今で言う「炎上商法」だった可能性も。。。)。
////// 9代目市川団十郎が、あまり演じなかった謎
文士に批判されたものの、大人気を博した「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」を、9代目 市川団十郎はその後2回しか演じません。それも、赤十字の慈善興業(明治29年=1896)や大阪歌舞伎座の開場記念興行(明治31年=1898)という、興行収益を期待しない興行だけです。その間、6代目 尾上菊五郎(1885~1949年)が「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」をせっせと興行にかけて人気を博していたのは、ご存知のとおりです。いまでは「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」は、6代目 尾上菊五郎の演目とさえ言われます。
9代目 市川団十郎が何故「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の上演に消極的だったか、すでに多くの議論と研究がなされていますが、結論に至っていません。ここではわたしが若いころ、東京の師匠連中がもっぱら噂していたことを、簡単に紹介しておきます。昔の師匠連中の噂話や伝承が、途切れてしまうのは残念なことです。真実ではないことも含まれているでしょうが、次の世代が演じるときの参考とするため、できるかぎり引き継いでいただきたいと思います。
扇獅子(おおぎじし) |
(1)
9代目 市川団十郎は、初演時に「小姓・弥生がかわいそうだ。このあと、どうなってしまうのだろう」と言ったそうです。
初演時は小姓仲間の大勢の若い女性が弥生を引き摺りながら舞台中央へ出て、嫌がる弥生を放置して引っ込む演出でしたが、まるで私刑か折檻のように見えるため、その後の上演では「家老」「用人」「老女」「局」が、俄(にわか)奉納の籤(くじ)に当たった弥生を引き出し、踊りながら説得する演出に変わりました。
また、絵本や映画で「鏡獅子」を扱う場合、獅子に憑依された弥生はその後意識を失い、目覚めるとまだ「鏡餅曳(かがみもちひき)」の日の朝だった、という夢落ちになることが多かったように思います。当時子どもだったわたしは、「鏡獅子パート2」を作っちゃえばいいじゃん、と思っていました。お恥ずかしい。。。
(2)
成田不動尊さんに叱られたため、「鏡獅子」の「もの狂い」を演じることができない。
初代 市川団十郎(1660~1704年)の父親が千葉県成田市幡谷の出身、初代は子宝に恵まれず、成田山に祈願することでやっと男子を授かったことは有名です。そのため屋号は「成田屋」、ある年齢以上の東京人は、今でも市川団十郎を成田不動尊さんの権現(人間として一時的に顕れる神)と信じています。
(3)
初演時、9代目 市川団十郎は舞台上でほんとうに獅子の精に憑依された。その後成田山にお籠もりして霊抜きしたが、体調を崩したため頻繁には演じることができなくなった。
東京の師匠連中が信じていたのは、だいたい(2)か(3)でした。
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
//////「鏡獅子」歌詞の註解
◆あらすじ
江戸城(正式名称・千代田城)大奥の踊小姓・弥生は、「鏡餅曳(かがみもちひき)」の奉納俄(にわか)を披露する籤(くじ)に当たって怖気(おじけ)づく。上役の人々の説得で不承不承座敷中央へ出て踊りはじめるが、やがて即興の踊りに興が乗り、祭壇に置かれた手獅子(小さな獅子頭)を持ったところ、獅子の精に憑依され、手獅子に曳かれ座敷を飛び出してゆく。まもなく全身獅子となった弥生が戻ってくるが、心は獅子の精に乗っ取られ、胡蝶とともに激しく舞い乱れるのだった。
◆鏡獅子、タイトルの由来
後段でほぼそのまま取り込んだ長唄「鏡獅子」の中に「増鏡(ますかがみ、南北朝時代に成立、作者不詳、歴史もの)」をひいた一節があります。ですので題名の「鏡」は、室町時代に成立した一連の時代記録・通称「鏡もの(大鏡=おおかがみ、今鏡=いまかがみ、水鏡=みずかがみ、増鏡=ますかがみ)」から、とられています。
◆川崎音頭
伊勢音頭の言い換えです。「川崎音頭」の直前に「伊勢海士小船(いせあまおぶね)」と唄ってしまうため、「伊勢」が重複するのを避けているように見えます。
◆半日の客(かく)たりしも
漢の明帝時代・永平五年(508)、 劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)の二人が楮(こうぞ)を取りに天台山へ登り、道に迷って神女に助けられます。半日遊んだだけで下山したのに、下界では既に七代が経過していたという浦島太郎のような物語(短編小説集「幽明録」より、「天台神女」)です。
◆飛騨(ひんだ)の踊り
中国から三味線が流入した早い時期、検校(けんぎょう)たちが和風にアレンジし独自の演奏法を作りました。「飛騨組(ひんだぐみ)」はそのひとつで、石村検校(生年不詳~1642年)の音曲です(「松の葉集」1703年刊行)。
◆獅子の座にこそ なおりけれ
獅子は文殊菩薩の台座、つまり乗り物です。ですから「獅子の座にこそなおりけれ」とは、「まさしく文殊菩薩さまの足許(あしもと)に戻った」という意味です。
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
////// 「鏡獅子」歌詞(抜粋、太字が現代語訳)
樵歌牧笛(しょうかぼくてき)の声 人間万事さまざまに
世を渡りゆく その中に 世の恋草を余所(よそ)に見て
われは下(した)萌えくむ春風に 花の東(あずま)の宮仕え
忍ぶ便りも長廊下(ながろうか) 忍ぶ便りも長廊下(ながろうか)
きこりの唄の旋律が風に乗って流れついたかと思えば、
羊を追う牧童の笛の音も、聞こえてきます。
何につけ、ひとの生き方はさまざまなものですね。
浮世を渡って生きる喧騒(けんそう)の中にあっても、
御殿勤(づと)めのわたしは人の恋路と距離をとり、
恋草が下草のように胸の中に萌えているのを感じながら、
春風にまかせ、花の東国で宮仕えをしております。
我慢しなければいけないのは、
恋しい人の便りを待ちながら寝る長い夜ではなく、
恋しい人からの便りを隠して歩く、御殿の長い廊下です。
ほんとうに、ほんとうに長い廊下なのですよ。
されば結ぶのそのかみや
天の浮橋(あまのうきはし)渡り染め 女神男神の二柱(ふたはしら)
恋の根笹(ねざさ)の伊勢海士小舟(いせあまおぶね) 川崎音頭口々に
男と女を結ぶという神、
天の浮橋(あまのうきはし、国産神話の最初の段)を最初に渡った、
伊邪那美命(いざなみ)さまと、伊邪那岐命(いざなぎ)さま。
女神男神(めがみおがみ)、
二柱(ふたはしら)の神がお創りになった恋の道です。
小舟(こぶね)に乗った伊勢の海女が唄いはじめ、
根笹(ねざさ)が土中にじわっと広がるように、
世の中に知れ渡った川崎音頭(伊勢音頭のこと)では、
こんな風に唄われています。
(つづく)
//////
※獅子だらけ、長唄「鏡獅子」(舞踊鑑賞室)
※女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳
※阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳
獅子ものは話題が尽きません。いつもながら、長い記事になってしまい本当に恐縮です。でも、まだまだ、書こうとすれば幾らでも。。。わたしも獅子に、とり憑(つ)かれているのでしょうか?
踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
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