2019年2月28日木曜日

来たる3月3日、男性舞踊集団「弧の会」(このかい)が仙台公演(2019)!



この数日、あたたかい日が続いています。




急に春めいてきた陽気に誘われ、キリンのスキー帽を被って子どもとはしゃぐ、わたしでございます。


それはさておき

来たる三月三日の日曜日、男性舞踊集団「弧の会」(このかい)さんが、日立システムズホール仙台・2Fシアターホールで公演します。「何が悲しうて、ひな祭りの日に男性舞踊集団か」、などといけずを仰らず、どうぞ奮ってご来場くださいませ。


弧の会(このかい)

スペシャルコーナーでは明日の日本舞踊界を担う、仙台の子どもたちが踊ります。日本舞踊協会宮城県支部、協力でございます。


「弧の会」は流派の垣根を越えて新しい日本舞踊表現に挑む、男性舞踊家の集まりです。いわゆる古典芸能という感じではなく、いろんな枠をとっぱらい刺激的な舞台を作っておられる人たちです。新しいことに挑戦する、その気概を応援したいものです。







わたしの師匠・水木歌泰(みずきかやす)先生社中も出演します。先生もわたしも、当日は劇場に参りますよ。




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2019/3/3(日)、弧の会公演『コノカイズム』
会場 日立システムズホール仙台(宮城県仙台市青葉区旭ヶ丘3-27-5)
※2Fシアターホール
開場 13:30、開演14:00
入場 全席指定 一般 4,000円、高校生以下 1,500円
問合 公益財団法人 仙台市市民文化事業団 事業部 事業企画課
022-301-7405(平日9時~17時)
アクセス 市営地下鉄南北線「旭ヶ丘駅」徒歩3分、市営バス「旭ヶ丘駅」徒歩2分
駐車 有料(1時間100円、その後30分毎50円)
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高校生以下1,500円です。宜しければ、ご家族で。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年2月25日月曜日

舞台ができるまで。長唄「鷺娘(さぎむすめ)」(舞踊鑑賞室)






ひとつの舞台が出来上がるまでに、たくさんの職人さんのご協力があります。

この記事では、伝統芸能を支えてくださる、そんな職人さんたちの奮闘ぶりを、舞台裏からご覧いただく趣向です。

舞台は平成4年(1992)、仙台電力ホール。演目は長唄「鷺娘(さぎむすめ)」です。

※  ああ無常「鷺娘(さぎむすめ)」(舞踊鑑賞室)
※  涙の氷柱が溶けるとき「鷺娘(さぎむすめ)」という踊り
※  妖怪になった鷺娘、長唄「鷺娘(さぎむすめ)」全訳




◆◇
お顔ができて、着物を着せてもらっています。
朝から大急がし。





◆◇
着物を着たら、こんんどは帯です。
帯は重いので、男性ふたりがかりで、うんしょ、うんしょ。






◆◇
手に白粉(おしろい)を塗ってもらいます。
わたし、カメラを気にしてますね。「なに?」って感じ(笑)






◆◇
床山(とこやま)さんで鬘(かつら)をつけてもらい、やっと完成。わたしの母が、支度部屋を覗いてますよ。「まだぁ?」と。






◆◇
衣装ができて、気持ちよく舞台で踊るわたしです。
舞台装置は、大道具さん小道具さん汗と涙の結晶です。






◆◇
舞台袖から。






◆◇
客席から。
照明さんや、音響さんが奮闘中です。






◆◇
そうして幕です。
職人さんたち、いつも本当にありがとうございます。



※  ああ無常「鷺娘(さぎむすめ)」(舞踊鑑賞室)
※  涙の氷柱が溶けるとき「鷺娘(さぎむすめ)」という踊り
※  妖怪になった鷺娘、長唄「鷺娘(さぎむすめ)」全訳





これからも、よろしく、お願いいたします。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年2月21日木曜日

地獄の数え歌「幻お七」鈴ヶ森刑場への道





平成19年、仙台電力ホールで踊った「幻お七」の紹介の、続きです。
※  ここが地獄の一丁目。「幻お七」という踊り、の記事はこちら
※  八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら



こちらの記事では、木村富子が書いた「幻お七」の歌詞の源流を辿(たど)ります。前の記事で取り上げたとおり、「幻お七」は「櫓(やぐら)お七」の簡易版でも、改悪版でもないからです。

「櫓(やぐら)お七」は名刀・天国の剣(あまくにのつるぎ)を取り巻く架空の冒険譚がもとの舞踊です。いっぽう「幻お七」は井原西鶴(1642~1943年、浮世草子・浄瑠璃作者)「好色五人女」と「(通称)八百屋お七からくり口上(からくり芝居の口上)」を参考にした(と言われている)、写実舞踊です。


ですので、あえて周知の「八百屋お七」の物語を、実際の「好色五人女」と「(通称)八百屋お七からくり口上」から紹介させていただきます。ただし「(通称)八百屋お七からくり口上」は本物を記した資料が見つからず、瓦版(かわらばん)口上に写されたものを利用します。ご了承ください。

なお「傀儡師(かいらいし)」という踊りでは、「八百屋お七と寺小姓吉三」「牛若丸と浄瑠璃姫」「平知盛(たいらの とももり)と武蔵坊弁慶」の物語が登場します。傀儡師(かいらいし)たちが人形を廻し(舞わす、の意味)ながら唄ったのは、浄瑠璃姫は当然「十二段草紙」、平知盛は「船弁慶」です。そうして「八百屋お七」は、からくり人形の口上へそのまま引き継がれたと言われています。ですからここでご紹介する「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」が、傀儡師(かいらいし)たちが人形を廻しながら唄った唄そのものです。

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」





ところで井原西鶴「好色五人女」の刊行は貞享3年(1686)、それと前後して「天和笑委集(てんな しょういしゅう、作者不明、1684~1688年成立)」という伝記本が世に出ています。井原西鶴がこれを参考にしたかどうかは、わかっていません。「天和笑委集」は「好色五人女」とは内容がだいぶ違ううえ、物語仕立てになっているものの、まったくおもしろくありません。

史実として信頼できる記録は、五代将軍綱吉の治世を記録しようとした官吏・戸田茂睡(とだもすい)「御当代記(ごとうだいき)」に、「放火の罪で処刑された、お七という娘がいた」と書いてあるのがすべてです。




////// 井原西鶴「好色五人女」お七と吉三郎の、恋の始まり

吉三郎さまなら、今まで俺と足を絡めて寝ていたさ。その証拠がこれよ、と、起きて来た小坊主の新吉がお七の前で袂(たもと)をひらひらさせる。新吉の袂(たもと)から、白菊という香の薫りが漂(ただよ)った。この小坊主をどうしたものかと、お七が悩みながら寝間に入ると、続いて入ってきた新吉が「はぁ、お七さまが良いことしようとしている」と、声をたてた。

お七は振り返り「お黙り。何でも欲しい物をあげるよ」と。新吉は「そんなら銭八十と、松葉屋の歌留多(かるた)、浅草の米饅頭(よねまんじゅう)五つが欲しい」と言う。「そんな容易(たやす)いもの、明日にでも届けてやるさ」、そう約束してやると新吉は布団に入り「夜が明けたら、三品目を必ず受け取るぞ」「必ず三品目を」と、ぶつぶつ言いながら寝入ってしまった。

絵草紙・手習いお七

これで何をしようと自由になったので、お七は吉三郎の寝姿に寄り沿い、何も言わず抱きついた。吉三郎は夢から醒めて身を震わせ、夜着(やぎ)の袂(たもと)を被って顔を隠した。それを手で払い除(の)け、「髪が乱れる」と、お七が吉三郎を叱る。吉三郎はせつなそうな声で「わたくしは、十六(数えなので実際には十五)になります」と言う。お七は「わたくしも、十六(同)になります」と返した。吉三郎はさらに「長老さま(寺の住職)が、こわいのです」と言ったので、お七も「わたくしも、長老さま(同)はこわいです」と返す。なんとも、もどかしい恋の始まりだった。




////// 井原西鶴「好色五人女」恋に生命(いのち)をかけた吉三郎

井原西鶴の、「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」本文の一部を紹介しました。ふたりはこのあと、ぎこちなく情を交わし、お七はやがて再建された実家へ帰ります。

お七は江戸・本郷駒込の八百屋の娘で、天和2 (1682) 年の江戸の大火で寺に非難した際、寺小姓の吉三郎を見初めます。きっかけは暮れかかった寺の縁側で、ひとさし指に刺さった小さな棘を抜くのに難儀している吉三郎を気の毒がり、お七の母親が「手伝ってあげなさい」と、言いつけたことでした。

絵草紙・挿花の吉三郎

お七が実家へ帰ったあと、ふたりは手紙の遣り取りで胸のうちを伝えあいます。ある日、吉三郎は田舎の物売に身をやつし、お七の実家を訪ねて来ました。ところがこの日は雪が降り止まず、物売だと思われ庭先に置いておかれた吉三郎はお七の家で凍死寸前になってしまいます。下女の知らせで見に行ったお七は物売の正体が吉三郎と気がついて驚愕、両親の目を盗み自室へ運び込んで看病します。襖一枚へだてた先に両親が寝ているため、ふたりは硯と筆とで夜どおし語りあい、明け方には別れなければいけません。

お七恋しさに吉三郎がとったこの大胆な行動が、地獄の道行きの始まりでした。吉三郎の気持ちに応えようと、お七は自分もさらに大胆になろうと奮起するのです。

井原西鶴は段の終わりにこう書きます。
****************
浮世草子「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」(雪の夜の情宿)
又もなき恋が余りて さりとては物憂き世や

[現代語訳]
唯一無二の恋が(お七の胸に)溢れてくる。そうはいっても、いろいろ難しい世の中の決まりごとがあるのだ。
****************


ところが、その後吉三郎の手紙は途絶えます。実は吉三郎は凍死寸前になったせいで、寺へ帰ったあと高熱にうなされ長患(ながわずら)いをするのです。来ない便りを待つあいだ、お七は自分を「女心の墓場」だと感じ始めます。


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

やがてある風の強い日の夕暮れ、お七はふと、みんなが寺を目指して逃げていた火事の光景を思い出しました。そして小さな火煙が上がります。人々が駆けつけると、そこにいたのはお七でした。「好色五人女」では、このあいだ何ひとつ説明がありません。




////// 「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」放火まで

◆原文
かわい吉三にあわりょうかと 娘ごころの頑是(がんぜ)なく
炬燵(こたつ)の熾(おき)を二つ三つ 小袖の小褄(こづま)にちょいと包み
隣知らずの箱梯子 ひと桁(けた)昇りて ほろと泣き
ふた桁(けた)昇りて ほろと泣き
三桁(みけた)四桁(よけた)と昇りつめ これが地獄の数え歌
ちょいと投げたる まごびさし
(たれ)も彼もが 知るまいとは思えど
天知(てんし)る地知(ぢし)るの道(どおり)にて

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

◆現代語訳
愛しい吉三郎さまに遭えるだろうかと、
何もわからない、子どもじみた娘ごころが高じて。
炬燵の熾(おき)を二つ三つ、小袖の褄(つま)に包んで持って、
隣の家の箱梯子を、知られないようこっそり掛ける。
ひと桁(けた)昇っては、ほろりと泣き、
ふた桁(けた)昇っては、ほろりと泣く。
三桁(みけた)四桁(よけた)と昇りつめたが、
これはまるで地獄の数え歌だ。
そうして熾(おき)を、隣の家の庇(ひさし)の中の庇(ひさし)へちょいと投げた。
近所の者は気づいたろうが、
そんな些細な罪を、誰も彼もが気づくわけはないと思ったのに。
しかし天は知る、地は知る、道理というものが、
この世にはあるのだ。




////// 井原西鶴「好色五人女」放火のあと

放火でかけつけた人々が問うと、お七は慌てる風もなく「自分が火をつけた」と白状します。その後、今日は神田、または四谷、または浅草、または日本橋と、お七は晒(さら)されて歩き、集まった見物の涙を誘います。

両親が手配したものか、髪は毎日結いなおされ、以前と同じ見目(みめ)麗しい姿です。一月(旧暦)の初め、最期だからと見物人が桜の枝を持たせると「世の哀れ 春吹く風に名を残し 遅れ桜の けふ散りし身は(春吹く風のせいで遅れ桜のように今日みだれ散ったこの身は、浮世の人にはさぞや哀れに見えることでしょうね)」と詠み、鈴ヶ森から旅立ちました。品川のあたり一帯、路地に火あぶりの煙の届かないところはなく、いっそう哀れに感じさせたと書かれます。


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」



////// 「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」放火のあとの、お七

◆原文
江戸橋越えて四日市 日本橋へと引き出(いだ)
是非もなく中橋(なかばし) 京橋を過ぎればもはや程(ほど)もなく
田町(たまち)九丁は夢うつつ 最期は近寄る 車橋(くるまばし)
高輪(たかなわ)十八丁の其の先が 七つ八つや 右に見て
品川おもてになりぬれば 品川おもての女郎衆(じょろしゅう)
あれが八百屋お七かえ うりざね顔で 色白で あのもみあげの美しさ
吉三が かっ惚(ぽ)れたのも無理はない
ここがおさめの泪橋(なみだばし) 鈴ヶ森にぞ着きにける
お江戸を離れた仕置き場 仕置き場
四町四方(よんちょうしほう)に矢来(やらい)をしつらいで
中に立てたる角柱(かくばしら)
かわいいお七を縛り上げ 見るも哀れな其の中へ
数多(あまた)の見物押しのけて 久兵衛夫婦はかけ来たり
これこれお七 これ娘 この世でひとめ遭いたさに 杖にすがって
あいに言い置くことがあるならば 息あるうちに言ふてくれ
これのぅお七と言う声も そらに知られぬ曇り声
わっと泣いたる ひと声が
妙法蓮華経 南無阿弥陀仏と無常の煙と立ち昇れば
ここが親子の名残 哀れやこの世の見納め

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

◆現代語訳

江戸橋を越えて四日市(日本橋と江戸橋のあいだ)へ。
日本橋へ至って、そのまま中橋(なかばし)へ行き、
京橋を過ぎればもう廻るべきところはない。
田町(たまち)九丁(田町九丁目は現在の港区江南2丁目あたり)は夢うつつに通り過ぎ、
最期までもう間がないとわかる、
車町(くるまちょう、現在の泉岳寺のあたり「芝車町」)の入り口・車橋(くるまばしが目に入る。
高輪十八丁の先を、七丁か八丁行ったところで
高輪を右に見て曲がり、品川おもてへ出たところ、
品川女郎衆が
あれが八百屋お七かえ、うりざね顔で、色白で、
あのもみあげの美しさをご覧よ、とざわめいた、
吉三郎が、かっ惚(ぽ)れたのも、そりゃあ無理はないやねぇと。
ここがこの世の終わりの泪橋(なみだばし)、鈴ヶ森に着いたのだ。
鈴ヶ森はお江戸を離れた仕置き場なのだ、仕置き場さ。
見物を離すため四町四方(よんちょうしほう)に矢来(やらい)を掛けまわし、
その中心に角柱(かくばしら)が立ててある。
与力が見守り獄卒たちが可愛いお七を縛り上げると、
見るも哀れ、その中へと引きずってゆく。
すると数多(あまた)の見物を押しのけ、お七の親の久兵衛夫婦がかけ寄った。
お七、これ我が娘よ。この世でひとめ遭いたさに、杖にすがって来たのだぞ。
わしに言い置くことがあるなら、息あるうちに言ってくれ。
これのぅお七と言う声も、役人に聞こえないよう、くもり声だ。
見物には久兵衛が、わっと泣いたそのひと声だけが耳に入ったことだろう。
妙法蓮華経。南無阿弥陀仏。お七は無常の煙になり、空高く立ち昇った。
これが親子の名残だった。
哀れなことだが、お七にとってはこの世の見納めだったのだ。


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」



////// 井原西鶴「好色五人女」放火のあとの、吉三郎

お七が投獄されたことを、吉三郎は知らず高熱にうなされていました。寺ではお七恋しさゆえの病(やまい)、恋わずらいという診断でした。お七の両親が駆けつけ、吉三郎に遭いたいと言うのですが、病室を覗くと可哀そうになり、そのまま帰ってしまいます。お七が死ぬと吉三郎のいる寺で回向(えこう)が行われますが、吉三郎は「手紙は届いていないか」「お七に遭いたい」とうわごとを言うばかりです。吉三郎が布団から起き上がれるようになった時には、すでにお七が死んで百ヵ日が過ぎていました。

寺では吉三郎にお七のことを教えませんが、吉三郎は杖をついて寺の庭を散歩し、真新しい卒塔婆を見つけてその名を読むと、脇差を抜いて死のうとします。それを同輩の僧が止め「死ぬつもりならば、まずは長老さまに暇乞(いとまごい)すべき」と諌(いさ)めます。その後お七の両親が呼ばれ、お七の遺言が伝えられます。

「吉三郎様まことの情あらば、浮世棄てさせ給い、いかなる出家にもなり給いて、かくなり行く跡を訪(と)わせ給いなば、いかばかり忘れ置くまじき。二世までの縁は朽ちまじ」と。つまり「わたくしに情があれば、浮世を棄てて出家してください。そうしてわたくしの菩提を弔ってください。そのようにしていただいたなら、わたくしもけっして吉三郎さまを忘れません。生まれ変わって、またお会いしましょうね(はあと♥)」と、いうものでした。

錦絵・櫓お七



//////「幻お七」歌詞(抜粋)

◆原文
夢の浮世にめぐり逢い おもい合(お)うたる その人の
おもかげ恋し 人恋し 逢いたや見たやと 娘気の

「おお お前は吉さま」

狂い乱れて降る雪に それかあらぬか 面影の
かしこに立てば そなたへ走り ふっと見上げる櫓(やぐら)の太鼓

「あれあれ 吉さまを連れて何処へ」
「ええ 憎い恋知らず 返しゃ 戻しゃ」

打つやうつつか幻を 慕(しと)う梯子の 踏みどさえ
一足づつに 消ゆる身の
(はて)は紅蓮(ぐれん)の氷道(こおりみち)
危うかりける次第なり

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

◆現代語訳
確かなものなどない人の世にもかかわらず、
夢のように出会いが叶い、
相愛となることができた、その人の
おもかげが恋しい、その人が恋しい、逢いたい、見たい、
その娘ごころを、わかってください。

「おお、そこにいるお前は、吉さまではないか」

さてもこうして、狂い乱れるように降る雪のなか、
あるかないか、わからないほど微(かす)かな面影が、
お七の目には見えている。
幻影がそちらへ立ったと見ると、そちらへ走り寄り、
ふっと見上げたところ、そこに火の見櫓の太鼓があった。

「あれあれ、吉さまを連れて何処へ行くのじゃ」
「ええ、憎い奴め。わたしたちの恋を知らず、邪魔をするか。吉さまを返せ、戻せ」

お七は邪魔者を打とうとするのだが、
それが現(うつつ)か幻(まぼろし)か、もう、わからない。
吉三郎を慕って昇る梯子の踏み板は、ひと足ごとの死への道行き。
その果てに紅蓮地獄(ぐれんじごく)の待ち受ける、氷の道なのだけれど。
お七が危うい道へ踏み込んだのは、こういう事情だったので、ございますよ。

//////


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」


「好色五人女」にも「(通称)八百屋お七からくり口上」にも火の見櫓(やぐら)は登場せず、お七が半鐘(はんしょう)を叩くエピソードは出てきません。ですが演出上の効果を考えれば、「火の見櫓」を出す程度のファンタジーは仕方がないと感じます。

ちょっと隣家の箱梯子を借りて登り、隣の家の庇(ひさし)の上にちょこちょこっと炬燵の熾(おき)を撒いたところ折からの雪でジュッと消える、では、舞台が成立しないです。コントであれば、やってみたいと思いますが(笑)

※  ここが地獄の一丁目。「幻お七」という踊り、の記事はこちら
※  八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら





研究書ではないので史実は気にせず、演目の作者が参考にしたと言われる物語だけを追ってみました。演じるときの、お七の心情を理解する参考になれば嬉しく存じます。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年2月19日火曜日

第62回「日本舞踊協会公演」観てきました!(16日午前の部)



2019/2/16(土)と同/2/17(日)の『第62回 日本舞踊協会公演』、おかげさまで今年も盛況のうち、無事終わりました。いろいろありまして、わたしは結局2月16日(土)の午前の部しか観ることが出来ませんでしたが、愉(たの)しく拝見させていただきました。

終わったあとですが、参考までパンフレットを掲載しておきます。









いきなり最初の大和楽「四季の花」が舞台装置も美しく、集団なのに踊りも安定していて非常に良かったです。ほのぼのとした味わいの常磐津「子宝三番叟」には、最初は本当にほのぼのと、気がつけば真剣にひきつけられていました。

長唄「蜘蛛の拍子舞」は、カッコイイので自分も隈取(くまどり)したくなりました。白拍子を演じた花柳せいら先生には、昨年(2018年)日本舞踊協会で踊った「雨の四季」の振付をしていただきました。その節は、たいへんお世話になりました。

なんにせよ、踊りは良いですね。まっこと平和の象徴です。

そんな暢気(のんき)な調子で、いつものわたしたち師弟、わたしと師匠・水木歌泰先生はまたまた旅行に行ったお友達同士のように上機嫌で写真を撮りましたよ。




そうして年がら年中バタバタと新幹線で行き来するわたしたちの旅のお供、歌泰先生お奨めの「焼めざし」と、わたしのお奨め「甘平(かんぺい)みかん」です。



「甘平(かんぺい)みかん」は最近話題の味の濃いミカンです。まだスーパーマーケットなどで手に入りづらいので、ネット通販でのお取寄せになりますが、とっても美味しいの。

ミカンは事前に買わないといけませんが、メザシは新幹線のホームで買えます。商品名が「男の珍味」。う~ん。歌泰先生、渋いね。





今年も日本舞踊協会を、よろしくお願い致します!

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年2月17日日曜日

母の和紙ちぎり絵「合掌造り」と「竹林」



ふと懐かしく感じまして、母の和紙ちぎり絵を紹介させていただきますね。
写真はわたしの七五三のときのもの。つい先日、命日だったのです。




個展に出したちぎり絵作品2点と、川柳を2首、紹介させてくださいな。
おもいっきり皮肉屋だったので、川柳はおもしろいですよ。





(年の瀬) たましいも 義理も一緒に 大掃除

佐藤君子作、和紙ちぎり絵「合掌造り」




(震災に) 春よ来い どこより早く 被災地に

佐藤君子作 和紙ちぎり絵「竹林」








お裁縫が得意で大正琴も弾くなど、口も手先も達者な母でした。無口で朴訥(ぼくとつ)だった父と、あの世ではのんびり過ごしてくれているかしら。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年2月16日土曜日

ここが地獄の一丁目。「幻お七」という踊り




平成19年、仙台電力ホールで踊った「幻お七」という踊りを紹介させてください。

※地獄の数え唄「幻お七」鈴ヶ森刑場への道、の記事はこちら
※八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら







////// 歴史と概要

この演目は義太夫「櫓(やぐらの)お七」と「(通称)八百屋お七からくり口上」から着想したと伝わり、「櫓(やぐらの)お七」に似た背景で、人形振りなしに踊るものです。昔のお師匠連中は「新舞踊と名言されてはいないが、新舞踊と呼んでもよい踊り」と、説明していました。最近はどうなのでしょうか。

ともすると「櫓お七」の準備のため若い舞踊家に演じさせる練習曲扱いをされたり、「櫓お七」の簡略版のように扱われる「幻お七」ですが、昔のお師匠連中からの申し送りもあって、自分はそのようには考えていません。

■作詞(原作)
木村富子(1890~1944年)

■作曲■
3代目 清元梅吉(1889~1966年、2代目 清元寿兵衛)
4代目 清元栄寿太夫(1895~1939年、延寿太夫襲名前に没)

■振付■
不明、初演したのは尾上菊枝(1913~1947年)

■初演■
昭和5年(1930)「東京劇場」(曲は4代目 清元栄寿太夫)



平成19年、歌泰会「幻お七


つまるところ技術の「櫓お七」、リアリティ(写実)の「幻お七」です。

たとえば最初に曲をつけた「3代目 清元梅吉(1889~1966年、2代目 清元寿兵衛)」は「新楽劇(しんがくげき)」を提唱した坪内逍遥(1859~1935年)作・新舞踊「お夏狂乱(常磐津)」を、さらに改良して名曲に変えた作曲者です。冗長で不快な印象を与える子ども達の場面を削除し、すっきりと見やすくまとめました。

初演した尾上菊枝(1913~1947年、本名「近藤冨志」) は神田佐久間町の生まれ、実業家 近藤波保の令嬢で6代目 尾上菊五郎(1885~1949年)のお弟子さんです(踊りは若柳吉三郎門下)。昭和6年、女性として初めて名題(なだい、看板役者※名題以下が大部屋役者)に昇進した舞踊家で、「鏡獅子」の弥生や「紅葉狩」の鬼女を当たり役にして活躍したあと新派に転じ、狂言師・和泉流 野村万介(のち9代目 三宅藤九郎)と結婚引退しました。

平成19年、歌泰会「幻お七

つまり新派の女優さんで、和泉元弥氏の祖母にあたる人です。新派作品も今では古典ですが、もとはリアリティ(写実)を追求した「新劇」でした。




////// 「幻お七」作者・木村富子

「幻お七」は木村富子(1890~1944年)という、女性作家の作品です。木村富子は大正時代から昭和へかけて活躍した劇作家・舞踊作家で、歌舞伎狂言作者・松竹役員だった木村錦花(きむら きんか、1877~1960年)の妻として知られます。また2代目 市川猿之助の従姉妹にあたるため、「黒塚(くろづか)」「高野物狂(こうやものぐるい)」「独楽(こま)」など、多くの木村富子作品を2代目 市川猿之助(初代 猿翁)が演じたことで知られます。

ただし市川猿之助のために書いたと言われる「黒塚(くろづか)」は、最初は6代目 尾上梅幸(1870~1934年)の依頼で書いたものです。(随筆「浅草富士」木村富子著)



平成19年、歌泰会「幻お七

松竹映画第一号「島の女」を監督し、歌舞伎座の立作者代理としてたくさんの作品を上演した木村綿花ですが、もとは初代 市川左団次一座の役者の子に生まれ、明治座の興行主任などしていた人です。木村富子は最初から作家志望でしたが父親に理解されず、結婚し子育てが一段落したあとの大正15年(1926)、やっと初作品「玉菊」を雑誌「早稲田文学」に発表します。この「玉菊」を5代目 中村歌右衛門(1866~1940年)が気に入って歌舞伎座で上演、その技量を広く認められました。このとき後ろ盾になった戯曲の師匠が「松居松葉(まついしょうよう、1870~1933年)」で、宮城県出身の劇作家・演出家であり、坪内逍遥の弟子だった人です。

松井松葉(まついしょうよう)は宮城県塩竈市の生まれ、尋常中学校卒業後に丁稚奉公へ行かされ、そこから努力して坪内逍遥の弟子にまでなりました。その後、初代 市川左団次が力を認めて松葉作「悪源太」など一連の作品を上演、ヨーロッパ留学後、「椿姫」など翻訳劇を上演しながら松竹の文芸顧問として働いていました。要するに、木村富子の活躍の背景には坪内逍遥の「新楽劇論」と、歌舞伎座の「演劇改良運動」がありました。

平成19年、歌泰会「幻お七



////// 「櫓お七」と「幻お七」の違い

木村富子の作品の特徴は、登場人物への深い理解と愛情、そして新解釈にあります。

あまり知られていないことですが、木村富子は父方の祖母が加賀藩の「お狂言師(長唄と舞踊を担当)」、母方の祖父が琴古流尺八宗家・2代目 荒木竹翁(あらきちくおう、1823~1908年)です。また、伯母に初代 市川猿之助(2代目 市川団四郎)と結婚した喜熨斗古登子(きのし ことこ、赤倉古登子)がいます。この喜熨斗古登子は初代 花柳壽輔(はなやぎ じゅすけ、1821~1903年)に芸養子に乞われたほど、舞踊家として有名な人です。木村富子の芸ごとへの理解度は、常人のものではないのです。

ところで「幻お七」の歌詞は、「独楽(こま)」や「黒塚(くろづか)」など傑作揃いの木村富子作品のなかでは、どうにも微妙な出来ばえです。三味線の思い切りの悪さのせいもありますが、これを義太夫作品と見て「櫓お七」と聴き比べれば、「幻お七」はその改悪版にすぎないと感じてしまうことでしょう。

しかし「幻お七」を松井松葉が上演したようなギリシア悲劇風表現と見て、清元節をコロス(ギリシア悲劇であらすじ語りを担当する群衆、koros、chorus)の唄と考えれば、このスカスカな歌詞の意味がわかります。舞踊家の写実的な演技が、その行間を埋めなければいけないのです。これは清元節を愉(たの)しむための踊りではなく、近代的で写実的な舞踊表現を愉(たの)しむための踊りなのです。




////// 歌詞(抜粋)

スカスカ、と書きましたが酷評しているわけではありません。マイムのための間(ま)をかせぐため、この舞踊は歌詞が少ないのです。義太夫「櫓お七」では歌詞のあいだに語りが入りますが、「幻お七」では入りません。しくじれば間延(まの)びするわけで、唄い手にとっても、踊り手にとっても、難しい演目だと思います。歌詞自体は、もちろん少しも悪くありません。


平成19年、歌泰会「幻お七


◆原文
あるか無しかのとげさえも ふるう手先に 抜きかねる
寂漠(しじま)が縁(えん)の はしわたし
のぼりて嬉し 恋の山

「おお さっても見事な嫁入りの」

花の姿や 伊達衣装
いろ土器(かわらけ)の 三つがさね
祝いさざめく その中に
うちの子飼(こが)いの太郎松(たろまつ)
ませた調子の 小唄ぶし


平成19年、歌泰会「幻お七


◆現代語訳
あるかなしかの棘を抜いてあげようと、手先を動かすにも、
吉さまのお顔が美しすぎて、手が震えたほどでした。
ふたりとも、お互いがお互いに見入ってしまい、
ずっと沈黙が続きましたね。
その沈黙が、恋の始まりでした。
恋の山に登ることができて、嬉しくて仕方がない今のわたしです。

山から里を見下ろしたところ、花嫁行列が目に留まりました。
「ああ、なんて見事な嫁入り仕度(じたく)でしょう。」

花嫁の色とりどりの伊達衣装と、美しい三つ重ねの調度品が目に入ります。
行列を取り囲み、祝いに賑わうその中には、
大人の声で小唄を歌い、花嫁を言祝(ことほ)いでいる、
うちの奉公人の太郎松(たろまつ)が、いるではありませんか。
(ああ、それならあれは、わたし自身の嫁入りなのだねぇ)

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平成19年、歌泰会「幻お七



「櫓お七」の良いところを取り入れながら、お七の狂乱してゆくさまが時間どおりゆっくりと、恐ろしいほどリアルに描かれます。歌詞でほのめかされる、お七が辿る地獄道についてはまた後日、紹介させてくださいね。

※地獄の数え唄「幻お七」鈴ヶ森刑場への道、の記事はこちら
※八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら






お七の恋と狂乱を、頑張って演じました。いかがでしょうか。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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