2019年1月22日火曜日

松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳



平成27年(2015)、日本舞踊協会宮城県支部・各流舞踊公演で踊った「二人椀久」の説明の続き、全訳です。
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら


「二人椀久」は本名題(ほんなだい)「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」と、いう踊りで、作詞者不詳、作曲・初代 錦屋金蔵です。安永3年(1774) 、江戸・市村座において9代目 市村羽左衛門と瀬川富三郎(3代目瀬川菊之丞)が初演しました。

「二人椀久」の歌詞は、そのもとになった浄瑠璃「椀久末の松山」の流れを知らないと理解しにくい内容です。ですので、「椀久末の松山」のあらすじと一緒に、読み進めていただきたいと思います。※長いです!

途中、謡曲「筒井筒」が出てきたり、コチャエ節(コチャ節ともいう)のひとふしが出てきたり、流行歌「按摩けんぴき(按摩の「客寄せ歌」)」や、当時ささやかれていた高尾太夫の噂が唐突に挿入されます。そのあたりはお遊びとして、昔の人と同じ軽いノリで楽しんでくだされば嬉しく存じます。






吉原風景

////// 「椀久末の松山」あらすじ(椀久道行の前まで)


ある節分の日、揚屋「井筒屋」では三人の客を迎え、茶の湯が催されていた。使う茶入は名器・飛鳥川。客は堺の豪商・椀屋久兵衛、一中節家元・都一中(みやこ いっちゅう)、豪商・又右衛門(またえもん)の三人。

そこへ客の脇差しを盗もうとする手が伸びる。椀久が気づいて打ち払い松山太夫が問い詰めると、女中の道柴(みちしば)が駕籠かきの作兵衛を引き込んで、盗みを働こうとしたのが露見する。仔細を聞けば、五十両の借金を返せず、長崎へ売られてゆくのが嫌さに、作兵衛とふたり心中するため、脇差しが欲しかったとのこと。

椀久は気の毒がり、これから撒く節分の豆代わりの一分金合計にも満たない金なら自分が出そうと言い、家に使いを送る。その後豆代わりに一分金を撒いていると、最前やった使いの男が父親・椀屋久右衛門(わんや きゅうえもん)を伴って帰ってきた。椀久は父・久右衛門から勘当され、髻(もとどり)を切られたうえに「托鉢(たくはつ)して生きろ」と突き放されてしまう。それでも久右衛門は息子の義理は果たさせると言い、自分の懐から五十両を出して松山太夫に与えた。

松山は椀久の父親の手前、嘘の縁切りをするが、久右衛門は勘当を解かない。椀久が松山の縁切りを本気にして座敷を去ろうとしたところ、松山は「あれは嘘だ」と言ってすがりつき引き止める。

この混沌とした状況のなか、家元・一中が「勘当も当座二三日のことだろう。親子だし、仲直りしてまた直ぐ会えるようになるのだから、いまは邪魔しない方が良い」と言って松山をなだめ、椀久を椀屋久右衛門に引き渡す。

その際、髻(もとどり)を切られたせいで普通の着物に合わなくなった椀久に同情し、一中は「あまりにみすぼらしくて、かわいそうだ」と自分の十徳(羽織のように着る、男性もの・法師や俳人の切る和服)を脱いで椀久に着せてやる。椀久は妻・おさんの実家に引き渡され、幽閉される。

場面はおさんの実家へ移り、座敷牢へ入れられた椀久をおさんが襖越しに世話をしている。そこへ廓を抜け出した松山太夫が大金を持ち塀を飛び越えて現われ、椀久と逃げようとする。おさんは自分は襖一枚踏み込めないのに、廓を抜け出してまで椀久に会いに来た松山の情の強さに打たれ、みずから死んで椀久たちを行かせようとする。それを見た松山はかえっておさんの気持ちに打たれ、おさんに詫び、断る予定だった身請け話を受け、自分は永久に椀久の前から消えると告げる。

死のうとした妻を介抱する間(ま)に松山太夫を帰らせてしまった椀久は悔しがり、妻を義理両親に預けると松山のあとを追う。松山を追ううち椀久は松山への情と、自分に向かって二度も縁切りした松山憎さに心を引き裂かれ、もの狂いする。

平成27年、日本舞踊協会各流舞踊大会「二人椀久」





////// 「二人椀久」歌詞・全現代語訳(1774年版)※太字が現代語訳

<椀久の視点>※松山太夫を追う椀久の心の中

たどり行く 今は心も乱れ候
末の松山 思いの種よ

松山の帰って行った道を、たどっているが、
だんだん、心が乱れてきたと感じる。
末の松山という山へ、わたしの心は向かっているのだけれど。

あのや椀久は これさこれさ
うちこんだ とかく恋路の濡衣

勘当され、茫然としたまま立ち去ろうとしたら、
椀久さん、と、引き戻された。
こうしてこうして、ふたりで恋の鼓を打ち合って。
恋というものは、とかく涙で袖を濡らし、
互いが濡れ衣のように、なるものなのだな。

干さぬ涙の しっぽりと
身に染々と 可愛ゆさの
それが嵩じた 物狂
とても濡れたるや 闇なりやこそ

涙を乾かす暇もないほどしっぽりと、
身にしみじみと、いとおしいさが染みてくる。
それが高じて、物狂いになったのだが。
涙に濡れそぼった衣のまま、闇夜を彷徨(さまよ)っている。
闇夜だからこそ、歩いていられるほどに。

親の意見もわざくれて
とかく耳には入相の 鐘に合図の廓(さと)
行こやれ 行こやれ さっさ ゆこやれ

親に意見されようが、どうにでもなれと聞き棄てに、

何につけても親の言うことなぞ、耳に入れたことはなく、
夕刻の鐘を合図に廓(くるわ)へ行きたいと躍起になり、
いつでも、さっさと行こう、さっさと行こう、と、思うばかり。

昨日は今日の昔なり
坊様坊様 ちと たしなまさんせ
墨の衣に身は染(そ)みもせで
恋に焦(こが)るる 身は浮舟の
寄る辺定めぬ 世のうたかたや

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」

昨日はもう、今日から見れば昔のこと。
坊さま、坊さま、ちょっとはお控えなさい、という声が聞こえてくるが、
父に剃髪されてしまっただけで、墨ごろもに自分の身はまだ馴染んでいない。
いまだ恋にやきもき、この身は浮舟のようなもの。
舟をつなぎ泊める岸辺も定めず、世の中を泡のように行き過ぎるのみ。

由縁(ゆかり)ぼうしの その一節に
智恵も器量も 皆淡雪と

一中法師の歌の、ひとふしと同じ(「源氏十二段 浄瑠璃供養」)
智恵も器量も、みな淡雪(あわゆき)と消えてしまった。

消ゆるばかりの物思い
独り焦がるる一人ごと
恋しき人に逢わせてみや
とかく心のやる瀬なき

何を考えても、すぐ死にたいと思ってしまう。
独りで恋に焦がれ、独りごとを口にしているせいだろうか。
恋しい人に遭わせてください。
とかく心というものは、やるせないものだな。

身の果て 何とあさましやと
(しば)しまどろむ手枕(たまくら)
此の頃見する現(うつつ)なり

いまの自分の境遇は、なんとみすぼらしいことか。
しばしのあいだ手枕で眠ると、
夢の中では、むしろ正気に返ってぞっとする。


<松山の視点>※廓(くるわ)へ帰る途中の、松山太夫の心の中

行く水に 映れば変わる飛鳥川
流れの里に 昨日まで
はて 勿体つけたえ

行く水に 映れば変わる飛鳥川
移り変わりの激しいその川の流れの里に、
つい昨日まで居たのだ。
はて。うつろいやすい恋にもかかわらず、
もったいぶってしまったものだわ。

誓文ほんに全盛も
我は廓を放し鳥
(かご)は恨めし 心ぐどぐどあくせくと
恋しき人を 松山はやれ
末かけて かいどりしゃんと
しゃんしゃんともしおらしく
君が定紋 伊達羽織
男なりけり また 女子なり
片袖主と眺めやる

吉原風景
誓文(せいもん)がまかり通って生きづらい世の中だけれど、
このわたしは廓(くるわ)の中では別格で、
まるで放し飼いの鳥のよう。
それでも籠(かご)の中にある境遇は恨めしく、
心はくどくど、あくせくと動き回る。
恋しき人を待ちながら、
ヤレ、未来のため、裾をしっかり両手で取り、
身持ち正しく、しゃんしゃんと、しおらしく生きてきた。
恋しい人の定紋を染めた伊達羽織を身に纏い、
井筒の井戸を覗き込めば、
水面(みなも)に映るのは男椀久であり、
女である自分自身であり。
水面(みなも)の向こうから、
片袖脱いだ主(ぬぐ=ぬし)さまも、こちらをじっと見つめている。

思いざしなら 武蔵野でなりと
何じゃ 織部の薄杯(うす さかづき)
よいさ しょうがえ
平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」

恋のご指名のそのお杯(さかづき)、頂戴しましょう、
いっそ、特大の武蔵野(杯の名前)で。
何ならお高い織部の薄杯を、恋の契りに交わしましょう。
よいさ、女郎だ、しょうがない。

恋に弱身を 見せまじと
ひんと拗ねては 背(せな)向けて
くねれる花と 出てみれば
女心の強からで
あとより恋の せめ来れば
小袖に ひたと 抱(いだ)き付き
もうし 椀久さん
さっても てっきり おひとりさま

恋しい人に弱みを見せるものかと、
すねたそぶりでピンと背を向け、
縁切りを言い、
くねった(=すねた)花のように不機嫌そうに別れたけれど。
女ごころというものは、強いものではないために、
足許(あしもと)から恋が攻めてくると、
昔の人の歌ったとおり(「古今和歌集」)
ほんに、あとから恋の想いが寄せてきて。
またもや、あの人の小袖へひたっと抱き付き、
もうし、椀久さん、とすがりついてしまった。
てっきり、座敷牢にはひとりで居るのだと、思っていた。
(松山が助けに行くと、襖の向こうに椀久の妻・おさんが控えていた)


<椀久の視点>※松山太夫を追いながら、少しづつ狂乱の兆しが顕れる

ふられず帰る 仕合せの
松にはあらぬ 太夫が袖

振られずに帰るのは幸せなこと。
それを待っていたわけではないが、
太夫に袖を引かれ、愛情を確かめることはできたと思う。

月の漏るより闇がよい
いいや いやいや
こちゃ闇よりも月がよい
お前もそうかと寄添えば
月がよいとの言草に
(すい)な心で腹が立つわいな
もうこれからが 口説のだん
仔細らしげに座を打って
袖尺着尺衣紋坂(そでしゃくきしゃくえもんざか)
ういこうむりの投頭巾(なげずきん)
語るも昔男山(むかし おとこやま

会いたい人に会えもせず雲間(くもま)に洩れる月光も見ず、
こうして闇夜のまま死んでしまうのかと、小野小町は嘆いたが、
坊さん忍ぶにゃ闇が良い、月夜にゃ頭がぶうらりしゃらりと(坊さん忍ぶ唄)
そう、座興唄にもあるじゃないかと言ったところ、
いいや、いやいや、コチャ闇よりも月が良い(コチャエ節)と唄で返され、
へぇ、お前はそうなのかいと、寄り添ったが(ソウカイ節)
(もとどり)切られたこの身に向かって、月が良い、という言い草は、
その心意気が粋(いき)すぎて、かえって腹が立つわいな。
もうここからが、口けんかの段。
仔細了解した風に席を立ち、
袖尺着尺、衣紋坂(えもんざか=吉原の土手)を登りながら、
投げ頭巾(後ろを折った頭巾、法師や俳人が被るもの)に馴染みきれない坊主が語る、
尺にかかわる昔の自分の色自慢(男山の坂=男盛りの思い出、「古今集」序)

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」

<吉原土手にへたりこんだ、椀久の幻想>※もはや狂乱のルツボ

筒井筒 井筒にかけし麿がたけ
老いにけらしな 妹見ざる間にと
詠みて送りける程に
其時女も
比べこし 振り分け髪も肩過ぎぬ
君ならずして誰(たれ)かあぐべき と
互いに詠みしゆえなれば
筒井筒の女とも 聞こえしは
有常が娘の古き名なるべし

ああ 古い古い 女郎買いも しおがからくなった


筒井筒、井戸の高さと比べて遊んだわたしの背丈、
貴女が見ないうちにわたしは成長し、背が高くなりましたよと、
和歌を詠んで送ったところ
女の方も
こちらも、長さ比べをした髪が長くなりました、
貴男さま以外、どなたが髪上げをしてくださいますか、と。
たがいに気持ちを詠みあい、そのせいで「井筒の女」と広まったのは、
紀有常(きの ありつね)の娘であって、
井筒の、とは、古い渾名(あだな)に違いない。

ああ、古くさい、古くさい。
女郎買いも、だいぶん、しょっぱくなったわい。

お茶の口切 たぎらす目元に取り付けば
あら なんぞいな 手持ち無沙汰に
拍子揃えて わざくれ

新茶を口切(くちきり)、たぎる湯音を聞きながら目を見れば、
あら、なんぞいな、手持ち無沙汰のなぐさめに、
拍子をそろえ、いたずらしかけてきたりして。

按摩けんぴき 按摩けんぴき
さりとは引け引けひねろ
自体 某(それがし)は東の生まれ(※椀久は大阪生まれです)
お江戸町中(まちなか) 見物様の
馴染 情けの ご贔屓つよく
按摩けんぴき
朝の六時(むつ)から 日の暮(くる)る迄
さりとは さりとは かたじけない
按摩冥利に叶うて嬉し
按摩けんぴき 按摩けんぴき

按摩しますよ、按摩いたしましょ。
こんな風に、引いたり、引いたり、ひねりましょ。
そもそも自分は東(あずま)生まれの力自慢。
お江戸中のご見物さまに、
馴染(なじ)みやお情(なさ)け、ごひいきをたまわります。
お肩もませて、いただきましょ。
朝の六つから日が暮れるまで、
いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。
按摩冥利に叶うというもの、やれ嬉しいこと。
按摩しますよ、按摩いたしましょ。



(さと)の三浦女郎さま ちえごちえ
袖をそっそと引かば おお靡(なび)きやれ
かんまえてよい
よい女郎の顔をしやるな ちえごちえ
二人連(つれ)立ち語ろもの


吉原廓(よしわら くるわ)
三浦屋のお女郎さまよ(三浦屋の高尾太夫か)
智恵は後知恵。
袖をそっそと引かれたら、おとなしく、おなびきよ。(初期長唄「引車」)
覚悟を決めて、ヨイ。
良いからいまは、女郎の顔をしないでおくれ。
智恵は後智恵、考えたって仕方がない。
ふたりで連れ立ち、恋を語って生きようじゃないか。

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」
廓々(さとざと)は我家(わがいえ)なれば
やり手 かむろを 一所に連れ立ち
急ぐべし 遊び嬉しき馴染みへ通う
恋に焦がれて
ちゃちゃと ちゃとちゃと
ちゃっとゆこやれ
可愛がったり がられてみたり
無理な口舌も 遊びの品よく
彼方へ云いぬけ 此方へ云いぬけ
裾に縺れて じゃらくら じゃらくら
じゃらくら じゃらくら

そちらの廓(くるわ)もあちらの廓(くるわ)も、わが家みたなものだから。
遣り手婆(やりてばばあ)も禿(かむろ)も連れ立ち、
さぁ急ぎましょ、遊んで愉(たの)しい馴染みの店へ。
恋に焦がれて、
ちゃちゃっと、ちゃとちゃと、
さっさと行きましょ。
かわいがったり、がられてみたり、
無理な言い分で始まる口げんかも、遊びであれば品良く見える。
あぁも言いぬけ、こうも言いぬけ、
裾にもつれて倒れてしまい、じゃらくら、じゃらくらと。
じゃらくら、じゃらくら。

悪じゃれの 花も実もある しこなしは
一重二重や 三重の帯
ふすまのうちぞ そろかしく

悪ふざけのなかにも、花も実もある、色っぽい仕草。
一重二重(ひとえ ふたえ)と帯を解き、三重の帯まで取り去ると、
布団の中では、、、
おっといやいや、これにて候(そうろう)つかまつる、ではまたね。





////// 「椀久末の松山」あらすじ(椀久道行のあと)

井筒屋に辿り着けず、近くの土手にへたり込んだ椀久に花嫁姿の松山を連れた駕籠の一行が気がつき、椀久を哀れんで心づけの百銭(百文、ひとくくりになっている)を与えようとする。だが椀久はその金を拒み、駕籠の中の松山太夫に向かって声高に恨み言を言う。

椀久と椀久の父・久右衛門に助けられた女中・道柴(みちしば)と駕籠かき・作兵衛が気がついて駆けつけ、恩人・椀久の面倒を見ると言い引き取ろうとするが、椀久は動こうとしない。

やがて白無垢姿の松山太夫が折れ、椀久と別れられないのを思いつめ短刀で喉を突こうとする。それを松山を引かせた備前の豪商・早次郎が止め「実は椀久のことは知っていた。自分はその父・久右衛門の家の出入り商人でもあるから、椀屋の家には恩も義理もある。松山はいずれ暇を出すから安心するように。まずはふたりを国許(くにもと)へ同道し、それから親元へ勘当を解いてもらうよう、手紙を書き送るつもりだ」と言い聞かせ、松山はそのまま駕籠に、椀久を輿に乗せ、ふたりを廓から連れ出してゆく。目出たし。目出たし。

//////



「二人椀久」歌詞と一緒に、「物語の筋立てが秀逸」と高く評価される浄瑠璃「椀久末の松山」の物語を、紹介させていただきました。

誰もがひっかかるのが「廓から大金持って軽々と抜け出してくる松山太夫」と、「椀久の座敷牢に、高い塀を飛び越えてやって来る松山太夫」、最後にやっぱり「椀久が妻の介抱をしている隙(すき)に、ひらりと高い塀を飛び越え、また廓(くるわ)へ帰ってゆく松山太夫」です。

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会、椀久を演じる水木歌泰先生



松山太夫の運動能力が、くの一忍者(女忍者)のレベルです。もとが浄瑠璃(人形)だから、ということもあるでしょう。しかしその後、この浄瑠璃は初代 中村鴈治郎(1860~1935年)が舞台にかけて当たりをとり、「玩辞楼十二曲(がんじろう じゅうにきょく)」に入れられました。揚屋の名前は同人の実家「扇屋」に変っています。最近では、2000年1月大阪・松竹座で3代目 中村鴈治郎さんの椀久、3代目 中村扇雀さんの松山太夫で上演されました。

それにしても当時の芝居は全体に女形の方がケレン主体、姫君の格好で派手に跳んだり跳ねたりしたようです。松山太夫、大暴れの「椀久末の松山」でした。

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「二人椀久(ににん わんきゅう)」関連が、たいへん長いシリーズになってしまい、恐縮に存じます。人気演目のわりに、「難解」「わかりずらい」と評される舞踊です。あえて浄瑠璃の筋立てから、歌舞伎舞踊の歌詞を解きほぐしてみましたが、いかがでしたか。

なお、全歌詞を現代語訳するにあたって、タマのあたりは「其面影二人椀久」よりも古い、享保19年(1734)初演「陸奥弓勢源氏(みちのく ゆんぜい げんじ)」の「二人椀久」歌詞を参考にしました。「もうひとつの二人椀久」という記事で、下記リンクにて詳細ご覧いただけます。

※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら






演目のひとつの解釈として、ご理解のお役に立てたら嬉しいことです。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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