2019年3月14日木曜日

男と女「越後獅子」布晒しの謎を解く





平成13年、仙台電力ホールで踊った長唄「越後獅子」の紹介の続きです。
※「越後獅子」という踊り
※  男の恋唄、三番叟と長唄「越後獅子」全訳







////// 謎が多い長唄「越後獅子」

ご存知のとおり、長唄「越後獅子」は謎の多い演目です。たいていは「しらうさ」か、それとも「獅子頭(ししがしら)」か、という議論が紹介されます。でも、ここで紹介するのは「うさぎ」でも「獅子」でもありません。

しらうさ問題とは別に、「布晒しの謎」というものがございまして。
まぁ、それを言うのは、どうも今のところ、わたしひとりなのですが。

と、申し上げるのは、どうにも長唄「越後獅子」に「布晒し」が取り入れられた経緯が、すっきり納得できないからです。その理由はたくさんありますが、まずは「布晒しの大道芸」とやらを記録した浮世絵や本が、江戸風俗の絵や文学にまったく見あたらないからです。

葛飾北斎の角兵衛獅子


現代人のわたしは、神社の大祭でたしかに「布晒しの大道芸」を見た覚えがあります。でもそれは「南京玉簾(なんきんたますだれ)」に続く水芸の一部として、ちょっと披露された程度のものでした。布晒しだから水芸の一部だったわけですが、逆立ち歩きの越後獅子の曲芸とはだいぶ趣(おもむき)が違いますよね。そのうえ口上では「越後獅子の唄に出てくる芸」と、後追いであることを名言していましたっけ。

たとえば越後獅子が布晒しを観せたとして、古い長唄註釈本にそれが一行も書かれていないのは、何故なのでしょう。

これは実は子ども時分、初めて長唄「越後獅子」を見た時からの長いあいだの疑問です。長唄「越後獅子」の終わりでは、どうして「布晒し」を踊るのでしょうか。角兵衛獅子の子どもたちが布晒しの芸を見せたからとか、同じ新潟に「男性の布晒し」が出る郷土芸能(綾子舞)があるから、など、さまざまに説明されますが、どの説も説得力がありません。






////// 長唄「越後獅子」に取り込まれた「布晒し」の起源を求めて

◆越後獅子の布晒し起源説・その(1)越後獅子が布晒しを演じたから
越後獅子が布晒しを演じた記録は、どこにもありません。

◆越後獅子の布晒し起源説・その(2)越後に「小千谷ちぢみ」があるから
越後獅子を表現する踊りの大団円が「小千谷ちぢみ」なのは不自然かな、と思います。

◆越後獅子の布晒し起源説・その(3)越後に「男性布晒し」の舞があるから
新潟県柏崎市の高原田(たかんだ)と下野(しもの)に「綾子舞(あやこまい)」という芸能があり、数百年以上も続く郷土芸能として知られます。「綾子舞(あやこまい)」は総称で、少女が踊る「踊り」、若い男性が踊る「囃子舞」、壮年の男性が踊る「狂言」に分かれます。特に「踊り」には出雲のお国歌舞伎がそのまま残っており、文化的に貴重だということで近年おおいに注目されています。この「狂言」の中に「布晒し」という演目があり(下野)、男性演者による「布晒し」が見られます。ただし、裃(かみしも)姿演じる無骨なものです。



この綾子舞は「越後獅子」の布晒し起源ではないと思うのは、綾子舞の狂言演者が「壮年男子」に限られるからです。それに綾子舞の布晒しは、長唄「越後獅子」の布晒しとは似てません。
***



「布晒し」という振りの起源は古く、歌舞伎に現存するもっとも古いものは長唄「晒三番叟(さらし さんばそう)(1755年初演)と言われます。

初演・宝暦2年(1755)、江戸市村座
作曲・杵屋忠次郎(生没年不詳)
作詞・不明、深草検校(ふかくさ けんぎょう)の「さらし」を借りたと言われますが、内容はぜんぜん似てません。
演奏・たて三味線は松尾五郎治(生没年不詳)
演者・瀬川吉次(1741~1773年、役名・二の宮)


なお、この長唄には「小車(おぐるま)」という概念が取り込まれています。「輪廻」や「因果」を、牛車の車輪にたとえた考え方です。たとえば、下記の歌が参考になります。
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- 作者不詳「閑吟集(かんぎんしゅう、1518年成立)」-
思ひまはせば小車(おぐるま)の 思ひまはせば小車(おぐるま)の わづかなりける うき世かな

[現代語訳]
考えてみれば小さな車輪のように、考えてみれば小さな車輪のように、浮世を急いで駆け抜けたような人生であった。
***

いっぱんに「因果はめぐる小車(おぐるま)」もしくは、簡略化して「因果の小車(おぐるま)」などと呼ばれる概念です(プラトンの「国家」の中の、「エルの物語」を思い起こさせますね=Plato,Myth of Er)



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- 伝承曲「今様四季三番三(いまようしきさんばそう、通称「晒三番叟」)」-

奉納された源氏の白旗を紛失し、大騒ぎになっている箱根権現。そこへ曽我二の宮という女が現われ、奉納のため三番叟を踊り始める。しかしこの二の宮は実は平忠度(たいらのただのり、1144~1184年)の娘・如月姫(きさらぎひめ、架空の人物)で、正体がばれると源氏の白旗を布に見立てて布晒しを踊り始め、取り戻そうとする源氏武者と面白く立ち回りを観せる。

[台詞]
のうのう、布は色増す晒しのや。晒して振りを見せ参らしょう。見せ参らしょう。

[唄]
さっさ車の輪が切れて、さっさ車の輪が切れて。
いづれ思いはどなたにも。どなたにも。
晒す細布、手にくるくると。くるくると、いざや帰らん。賤(しず)が庵(いおり)へ。


[台詞]※現代語訳
さて、布というものは水に晒すことで鮮やかになるのものなのです。いまからここで、晒しの振りをお見せしましょう。お見せしましょう。

[唄]※現代語訳
さあさあ、こうして因果の車の縁が切れ、因果の車の縁が切れました。こうなったからには、どなたさまとも新しくご縁を結べるというもの。ええ、新しく、どなたさまとも。こうして美しくするため細布を晒すと、真っ白な細布が手先でくるくる廻ります。手先でくるくる、新しく結ぶご縁の水車(みずぐるま)のように。さぁ帰りましょうか、この端女(はしため)の貧しい小屋へ。(来ないの?)
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錦絵・歌舞伎舞踊の三番叟


平忠度(たいらのただのり、1144~1184年)は伊勢平氏頭領・平清盛(たいらのきよもり、1118~1181年)の異母弟で、一ノ谷の戦い(1184年)で戦死しました。源氏方に潜入しスパイ活動を行ったことで知られており、そのため演目の中で「源氏党のふりをして旗を盗み出す主人公」が、平忠度(たいらのただのり)の子にあてられています。

現代語訳を読んでいただいたら、ご理解いただけるかと思います。「布晒し」は、女が男を誘う唄です。これが「実際の越後獅子は、布晒しを演じていない」と思う、第二の理由です。


結論を急ぎます。
本当は三味線を弾く方やちょっと故事に詳しい方なら、誰もがご存知の話題です。

「越後獅子が観せた布晒しの芸」というものは存在せず、代わりに出雲のお国歌舞伎から若衆歌舞伎の時代、晒し布を使った舞(まい)がありました。「布晒」や「布引」というジャンルで残っていたその舞を、長唄「越後獅子」作詞者・篠田金次(1768~1819年)が「晒三番叟」の歌詞を借りて、曲の中に取り込んだのです。

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」




////// 万葉集から続く「布晒し」の歌の伝統

日本最古の和歌集である「万葉集」に詠まれた、布晒しの歌を紹介します。
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- 詠み人しらず(東唄3373)「万葉集」(759年以降に成立)
多麻河伯尓 左良須弖豆久利 左良左良尓 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎

[よみくだし]
多摩川にさらす 手作りさらさらに 何そこの児の ここだかなしき

[現代語訳]
玉川の水にさらさらと晒し、心をこめて布を手作りしながらふと思う。ああ、どうしてこの子は、わたしがここまでするほど可愛いのかと。
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あまり知られていませんが、「手作り」は語源的には「手ずから水に晒して作った布」を意味します。古代の日本では、女性はみんな家族の衣服を「手作り」していたわけです。



次に、「晒三番叟」作者がインスパイアされたという、北沢勾当(きたざわこうとう、生没年不詳、1600年代後半)と深草検校(ふかくさけんぎょう、生没年不詳)の「さらし(古さらし)(全現代語訳)をご紹介します。この曲は北沢勾当が既存の「さらし」歌を集め、つなぎあわせて長歌化した(「古さらし」、1684~1688年)もので、そのあと深草検校が器楽曲へ発展させました(「新さらし」「さらし」)
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北沢勾当(きたざわこうとう)深草検校(ふかくさけんぎょう)作曲「さらし」-

(まき)の島には さらす麻布(あさぬの)
(しず)がしわざに宇治川の 浪か雪かと白妙(しろたえ)
いざ立ちいでて 布をさらさう
(かささぎ)の渡せる橋の霜よりも さらせる布に白みあり候
なうなう山が見え候 朝日山に霞たなびく景色は
たとへ駿河の富士はものかは 富士はものかは
小島が崎に寄る波の 小島が崎に寄る波の
月の光をうつさばや 月の光をうつさばや
見渡せば 見渡せば
伏見 竹田に淀 鳥羽も いづれ劣らぬ名所かな いづれ劣らぬ名所かな
立つ浪は 立つ浪は
瀬々の網代(あじろ)に障(さ)へられて
流るる水を堰き止めよ 流るる水を堰き止めよ
所柄(ところがら)とてな 所柄(ところがら)とてな
布を手ごとに 槙(まき)の里人うちつれて 戻らうやれ 賎が家へ

[現代語訳]
京都宇治川の中に立つ槙島(まきしま)では、
在所の人が麻布を晒して宇治川の浪を覆い、
それはまるで雪かと思うほど、真っ白い布が川一面に広がるものだ。
さぁ、一緒に出かけ、布を晒しましょう。
七夕の夜には、恋する二人のためにカササギが作ったという天の橋ができるが、
その橋から垂れてくる夜露の霜のおかげで、晒す布には白みが冴えまするよ。
のうのう、陽が差し始め、あれに山が見えます。
夜明け方、朝日山に霞(かすみ)がたなびく光景は、
たとえ駿河の富士山でも勝てますまい、富士山でも勝てますまい。
あれが浮舟(うきふね)と匂宮(におうのみや)が、
逢引をしている橘の小島だろうか。
まだ薄暗い橘の小島が崎に、浪が打ち寄せます。
月の光で、観せて欲しい。月の光で、観せて欲しい。
見渡せば、見渡せば、
伏見、竹田に淀、鳥羽と、いずれ劣らぬ名所づくし。名所づくし。
ああ、浪が逆巻いて激しくそそり立ちます。
そのそそり立つ浪を、川瀬に仕掛けられた定引網がさえぎりました。
流れ出す浪を、堰き止めてくれますように。
流れ出す浪を、堰き止めてくれますように。
これが槙島(まきしま)の在所風景、槙島(まきしま)の在所風景というものです。
槙島(まきしま)の里人はみな布を手にして声を掛け合い、
さて戻りましょう、
この端女(はしため)の、貧しいながらもあたたかい家へ、と。
***




////// お国歌舞伎から続く「布晒し」の舞の伝統

明和3年(1766年)ごろ発表された鈴木春信(すずきはるのぶ、172~1770年、江戸中期の浮世絵師)の作品に「調布玉川」があります。

浮世絵・鈴木春信「調布玉川」


調布は宮中に布を献上するため、古代から「布晒し」が盛んで、地名「調布」の語源ともなっています。もちろん、布を美しくするため、同じく布晒しが踊られる「近江お兼」の舞台・近江など日本全国で「布晒し」は行われていました。

一方、画家で芸人で奔放すぎる絵を描いて流罪になった英一蝶(はなぶさいっちょう、1652~1724年、江戸中期の画家)は、配流(はいる)中の元禄6年~宝永6年(1693~1709)、友人の求めに応じ代表作「布晒舞図(ぬのざらしまいず)」を描きます。

紙本着色・英一蝶「布晒舞図」

「布晒舞図(ぬのざらしまいず)」に描かれた踊り手は、お国歌舞伎の役者か若衆歌舞伎の演者ではないかと言われています。

一蝶の絵に描かれた踊り手が、何を踊っていたのかはわかりません。そして「調布玉川」の好評を受け明和5~6年(1768~1769)、鈴木春信は同じく代表作「今様おどり八景 布晒の帰帆(ぬのざらしのきほ)」を発表します。

浮世絵・鈴木春信「今様おどり八景 布晒の帰帆」


ご覧ください、高下駄はいて激しく踊ってます!

どんな曲だったのかわかりませんが、現代だったらば是非、観てみたいと思う踊りですよね。


////// 長唄「越後獅子」発表のあと

長唄「越後獅子」の発表後、空前絶後の「越後獅子」ブームが起こったようです。

この人気を受け文政6年(1823)外題「爰廓色友達(ここもくるわ いろのともだち)」、通称「角兵衛獅子」という演目が江戸・中村座で初演されます。ここでは角兵衛獅子の笛など披露され、廓(くるわ)のたわむれごとが描かれました。盥(たる)を抱え裾をからげて舞い踊るのは、傾城・玉蟲太夫(たまむしだゆう)こと「近江お兼(おうみの おかね)」です。
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- 初代・松井幸三作「爰廓恋友達(ここも くるわの いろのともだち、通称「角兵衛獅子」)」-

在所姿になお可愛ゆらし、かかげ片手に洗濯盥(せんたくだらい)、近江は野路の玉川に、脛(はぎ)もあらわの洗い髪。藁でたばねても、わしゃ女(おなご)。お姫お姫とこちゃ嫌い、振りになまりはなかりけり。

[現代語訳]
地元風のひなびた衣装が、かえって可愛らしい。片手に掲げた洗濯盥(せんたくだらい)、近江の野辺の玉川に、洗い髪のまま足もあらわに立ったかのような姿だ。お兼が言うには、髪を藁で束ねていても、わたしゃ女ですと。お姫さま、お姫さまと呼ばれるのは大嫌い。ところで晒しの振りは、訛(なま)ってないわよね?
***


長唄「越後獅子」(文化8年=1811年初演)の人気にあやかって作られた芝居が「近江のお兼」を登場させるわけで、どうも「越後獅子」と「近江のお兼」は、当時の感覚では二つでひとつの演目だったように見えます。

もちろん、「角兵衛獅子」に先立つ文化10年(1813)、江戸・森田座で歌舞伎舞踊・長唄「近江お兼」が初演されています。

錦絵・馬を投げ飛ばす怪力女「近江お兼」


ここで、もうひとつの謎が浮かび上がります。実際の越後獅子が、布晒しを観せていないことは直ぐにわかります。「布晒し」が日本の伝統で、そこから多くの舞踊と唄が発生したこともわかります。でもどうして、長唄「越後獅子」と「近江お兼」は、「晒す白布」ではなく「晒す細布」と唄うのでしょう。

「細布(ほそぬの、さいふ)」は古い昔は奥州・陸奥(みちのく)の特産品です。「十編の菅薦(とふの すがごも)」「狭布の細布(きょうの ほそぬの)」として数々の和歌に歌われた美品で、奈良の昔からずっと奥州人にしか作れなかったものです。江戸時代になれば近江など他県に「細布」を献上するところが現われますが、歌枕として確定(細布=奥州)したあとでは、歌詞に奥州・陸奥(みちのく)産ではない「細布」が登場するのは珍しいことです。

奥州・陸奥(みちのく)は現在の宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部(鹿角市・鹿角郡小阪町)にあたります。越後の国は、奥州・陸奥(みちのく)ではありません。

たとえば北沢勾当(きたざわこうとう)は「晒す麻布(あさぬの)」と唄います。そのほか「晒す白布(しろぬの)」や「晒す手作り」など、布晒しを表現する「布」のヴァリエーションは広いのです。そこをなぜ長唄「越後獅子」と「近江お兼」だけは、奥州・陸奥(みちのく)と無関係に「晒す細布」と唄うのでしょう。ちなみに「晒三番叟(さらしさんばそう)」は「晒す細布」ですが、これは問題ありません。なぜなら源平ものの後日談は、すべからく「陸奥(みちのく)」ものと言えるからです。


////// けふの細布(きょうの ほそぬの)と錦木(にしきぎ)の伝説

たった一日で書き上げたという伝説の、長唄「越後獅子」(1811年)です。地歌筝曲「越後獅子」を書き写すときに、「白布」を、より有名だった「細布」と間違えた可能性もあります。しかしだとしても結果的に「細布」で問題なかったから、「近江お兼」(1813年)に該当部分が引き継がれたと考えるのが普通です。

長唄「越後獅子」作詞は初代 篠田金治こと2代目 並木五瓶(なみきごへい、1868~1819)、代表作に長唄「橋弁慶」があります。長唄「近江お兼」作詞は2代目 桜田治助(1768~1829年)、代表作に「お祭」「汐汲(しおくみ)」「傀儡師(かいらいし)」「まかしょ」「玉兎(たまうさぎ)」「舌出三番叟(しただしさんばそう)」があります。この二人、頭の中でいったい何を共有していたのでしょうか。

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

ところで歌枕としての奥州・陸奥(みちのく)には、「恋」のイメージがつきまといます。どうしてこうなったかといえば、それは当然「錦木塚伝説(にしきぎづかでんせつ)」が原因です。

我が国にはおよそ平安時代初期から「狭布(きょう)の細布を織る女と、女に錦木を贈った男の悲恋=錦木塚伝説」というものがあり、和歌に詠われるなどしていました。そして「狭布(きょう)の里=錦木塚の里」が細布を産出する奥州のどこかであることは知られていました。しかし、具体的にどこなのかは、長いあいだわかっていませんでした。

その伝説の地があきらかになったのは、やっと江戸期に入ってからのことです。現在の青森県~岩手県あたりを統括した南部藩が、寛永11(1634)年、幕府に「領内郷村目録書上(りょうないごうそんもくろくかきあげ)」を提出し、その中で領内「鹿角郡(かづのぐん)」を「狭布郡(きょうのこおり)」と明記したのでした。今では、秋田県鹿角市十和田錦木地区に残る「錦木塚」と、「毛布=けふ=きょう」を織る「政子姫」の伝説が有名です。

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- 秋田県鹿角市十和田錦木の「政子姫」伝説

遠い昔奥州には、男性が色を塗った「錦木」というものを女性の家の門の前に立て、結婚を申し込む風習があった。申し出を受ける意思があれば、女性は錦木を家の中に取り込み、その気がなければ放置するのだ。

あるとき錦木地区を支配していた狭布太夫(さなのきみ)に、政子姫という布を織るのが得意な娘があった。その頃村には子どもを狙う大ワシが現われ、子どもたちが困っていた。そのため政子姫は僧侶の「白鳥の毛を混ぜた織物を着せれば、大ワシを追い払える」という言葉を信じ、村の子どもたちに着せるため毎日毛布(けふ)を織っていた。その政子姫に恋をした錦木売の男が錦木を立てたが、政子姫は毛布(けふ)を織るのに忙しく、また身分も違っていたので、取り込まなかった。

3年放置して家の前の錦木が千束におよぶころ、男の恋心はやっと相手に伝わり、政子姫は錦木を取り込む決心をした。ところが、父である狭布太夫(さなのきみ)が許可しない。男は落胆して雪に埋もれて死に、次の日政子姫も死んだ。狭布太夫(さなのきみ)は哀れに思い、二人を一緒に墓に入れた。この墓をのちの人々が「錦木塚」と呼んだのである。
***


いっぱんに世阿弥(1363~1443年)作・謡曲「錦木」の原案として、語られる伝説です。ところが、実のところこれは江戸時代の偽作・偽典にすぎません。延享2(1745)年、鹿角(かづの)で突然公表された「錦木山観音寺縁起」という怪文書がもとですが、「錦木山観音寺」という寺は公表当時も現在も、その存在が確認できません。もちろん史跡上も、その痕跡がありません。

つまり「政子姫」伝説は世阿弥の「錦木」に時代考察を加え、それらしく高級化したもの、現代ならば完全に著作権違反のしろものです。「錦木塚伝説」をより強く鹿角(かづの)に同定しようとした、民間人の戦略だったようです。


能「錦木(にしきぎ)」


南部藩の正式文書に記載されている錦木塚伝説は、およそ下記のようなものです。

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- 南部叢書「鹿角由来記(1600~1700頃成立)

遠い昔のこと。橋落(はしおち)川の下、赤森(あかもり)近くに村里があり、その村を芦田原(あしたはら)といった。いつのころか、この近くの村の農民夫婦が、子がなく行く末が不安のため美しく働き者の養女を迎えた。この美しい娘は機織(はたおり)が得意で、自分で工夫して色とりどりの鳥の毛を織り交ぜて布に仕立て、芦田原(あしたはら)の市で売った。娘の織る布は「錦(にしき)」と呼ばれ、評判になった。

同じころ草木村(くさぎむら)の奥の広川原(ひろかわら)というところに錦木売りの男があり、芦田原(あしたはら)の市へ売りに出て、錦(にしき)を織る女と恋に堕(お)ちた。

当時その集落では、恋する男が望みの女の家の門に錦木を立てるのが縁組の習わしで、男はさっそく女の門に錦木を立てたが、女の養父母は取り込まなかった。男はあきらめず女の門に通いつづけ3年ものあいだ錦木を立て続けるが、養父母の態度は変わらない。やがて恋する相手に会えないつらさから、女も男もやつれ果てて死んでしまった。

女の養父母は深い後悔の念にかられ、ふたりの亡がらをひとつにして、3年立て続けた男の錦木の束と一緒に埋葬し、小高い塚にしつらえた。

するとこの塚から、ときおり機織(はたおり)の音が響く。村人が不思議に思い近づいてみると、美しい女がおもしろい拍子でたのしそうに機織(はたおり)しては、やがて消えて行くのだという。

***

ただし、この伝説を世阿弥が知っていたか、この物語を下敷きに「錦木」を書いたのかどうか、ほんとうのところはまったく不明です。なぜなら謡曲「錦木」を書くにあたり、世阿弥が参考にしたのは、謡曲「通小町(かよいこまち、作者不詳、のち世阿弥が改作)」と言われているからです。



////// 変容してゆく恋の象徴「細布」

悲恋の「錦木塚(謡曲「錦木」では錦塚)」伝説のせいで、「細布」は、まずは「胸あわじ」「逢わじ」など、「恋の不成立」をあらわす、ちょっと残念な状態をあらわす序詞(じょことば)になります。

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- 詠み人しらず(集歌2647)「万葉集」(759年以降に成立)
東細布 従空延越 遠見社 目言踈良米 絶跡間也

[よみくだし]
東細布(あづまたえ) 空ゆ延(ひ)き越(こ)し  遠(とほ)みこそ
目言(めこと)(か)るらめ  絶(た)ゆと隔(へだ)てや

[現代語訳]
東国の細布(たえ=栲)のような細長い雲が、空に棚引き遠くまで延びています。お会いして目と目を合わせ直接言葉をかわすことはできず、わたしたちは、あの雲のように細くきれぎれに離れてしまうことでしょう。それでも、細いながらも雲がつながっているように、これでご縁を絶とうとしているのではなく、心はつながっているのだと、そう信じてください。
***


平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」

****************
- 能因法師(988年~1050年もしくは1058年)「能因法師集」(成立年不明)
錦木は 立ててぞともに 朽ちにける 狭布の細布 胸あはじとや

[現代語訳]
恋を宣言する錦木を立てたせいで、かえって一緒に死ぬことになってしまった狭布(きょう)の細布の伝説もある。衣服の桁が足りなくて胸が隠れないように、胸のうちの相性が悪い場合もあるのだ。
***


この、ちょっと悲しい「細布」が、平安後期、急に「家にしばられない男女の恋」という、解放的で情熱的なイメージに変わります。何がきっかけかわかりませんが、わたしは藤原基俊(ふじわらの もととし、1060~1142年)の、躍動的な歌が分岐点だったと考えます。


****************
- 藤原基俊(1060~1142年「基俊集」(上・1060年成立、下・1118年成立)
(上巻) 川上にさらす細布 けふだにも 胸あふばかり 契りせよ君

[現代語訳]
細布を川上で晒されたなら、たとえ巾が狭かろうと、尺が合わないなどと恨み言を言っていないで、無理にでも胸をあわせるぐらいに、いっそ抱き合ってしまえよ、君。
***


藤原基俊(ふじわらの もととし)の歌のあと、「細布」はずっと「自由な恋」の象徴です。藤原基俊は身分は高いながら何故か官位に恵まれず、和歌を詠んだり教えたりして一生を過ごした風流人で、弟子の中に天才歌人・藤原定家(ふじわらの ていか、1162~1241年)がいます。

****************
- 藤原俊頼(生没年不詳、平安後期の歌人)「俊頼髄脳」(1113年頃成立)
陸奥(みちのく)の 狭布の細布 ほどせばみ 胸あひがたき 恋もするかな

[現代語訳]
みちのくの「狭布(きょう)の細布」というもの、巾が狭くて胸が隠れない。そりゃあ、恋もするだろうさ。
***

//////長唄「越後獅子」歌詞(抜粋)

長唄「越後獅子」作詞者・初代 篠田金治こと2代目 並木五瓶と、「近江お兼」作詞者・2代目 桜田治助が共有していた概念は何か。

その答えは藤原基俊(ふじわらの もととし)」の和歌と、「晒三番叟(さらし さんばそう)」です。藤原基俊は「川上で女に細布を晒されたなら、どうにもならない尺のことなど忘れて、思い切って抱き合ってしまえばいい」と、歌いあげました。長唄「越後獅子」と「近江お兼」の該当部分は「晒三番叟」の歌詞を借りて、自由な恋を表現しているように見えるのです。

平成13年、仙台電力ホール、歌泰会「越後獅子」




◆原文(抜粋)

打寄る 打寄る 女波男波(めなみおなみ)の絶間なく、
逆巻水(さかまくみず)の面白や 面白や
晒す細布(ほそぬの) 手にくるくると、くるくると、
いざや帰らん おのが住家(すみか)


◆現代語訳(抜粋)

打ち寄せる、打ち寄せる、恋の女波男波(めなみおなみ)が絶え間なく。
打ち寄せる波が逆巻(さかま)いて、風流に、風流に。
細布(ほそぬの)を水に晒したところ、
打ち寄せる波のせいで手にくるくると、くるくると、
小車(おぐるま)の縁が、水車のようにまとわりついて。
少年が言う。さぁ、帰ろう。
俺たちの、帰るべきところへ。

※「越後獅子」という踊り
※  男の恋唄、三番叟と長唄「越後獅子」全訳




この終わり間際の長唄「越後獅子」の歌詞が、とても好きです。ほかの「晒しもの」歌詞にない、ダイナミズムを感じます。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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