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世の中に 絶えて花香(はなか)のなかりせば 我はいづくに宿るべき
うきよを知らで草に寝て 花に遊びて あしたには
露を情けの袖まくら 羽色(はいろ)にまがふ物とては
我に由縁(ゆかり)の深見草(ふかみぐさ)
花のおだまき 花のおだまき くり返し
風に柳の結ぶや 糸の ふかぬ其の間が命じゃものを
憎やつれなや 其のあじさへも わすれ兼ねつつ
飛びこふ中をぞ つとそよいでへだつるは
科戸(しなど)の神の嫉(ねた)みかや
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
よしや吉野の花より我は 羽風(はかぜ)にこぼす おしろいの
其の面影(おもかげ)のいとしさに いとど思ひは増鏡(ますかがみ)
うつる心や紫の 色に出(い)でたか恥づかしながら
まつに かひなき松風の
牡丹の花に たきぎを吹きそへて 雪をはこぶか朧(おぼろ)げの
我もまよふや 花の影 暫(しば)し木影(こかげ)に休らひぬ
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
(胡蝶)
夫(それ) 清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)は
人の渡せる橋ならず 法(のり)の功徳(くどく)に おのづから
出現なしたる橋なれば 暫(しばら)く またせ給へや
影向(ようこう)の時節も今いく程(ほど)に よも過ぎし
葉影(はかげ)にやすむ蝶の 風に翼かはして 飛びめぐる
獅子は勇んでくるくる くると
花に戯(たわむ)れ 枝に伏し転(まろ)び 実(げ)にも上なき獅子王の
勢(いきお)ひ ししの座にこそ なをりけれ
昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」 |
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昭和51年、宮城県・登米市佐沼で踊った長唄「鏡獅子(春興鏡獅子)」の写真を紹介させていただきました。
紹介した歌詞ですが、実は「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」のものではなく、それに先行して発表された長唄「鏡獅子」のものです。
「獅子もの=石橋(しゃっきょう)もの」は数が多く、それぞれに影響しあって「どれがどれやら」区別しかねるほどです。長唄の代表的なものだけでも「英執着獅子(はなぶさ しゅうちゃくじし)」、「俄獅子(にわかじし)」、「枕獅子(まくらじし)」、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」があるのです。長唄以外にも獅子ものがあるため、もはや何が何やら。
わたしが踊ったのは、もちろん福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)の「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」ですが、あまり長いので今回まずは、その元となった長唄「鏡獅子」歌詞の方を紹介させていただきました。作詞者は不明で、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の陰にかくれ、演じられなくなってしまったようです。
長唄「鏡獅子」と長唄「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の後半の歌詞は、ほぼ完全一致です。(長唄「鏡獅子」作曲は、6代目 杵屋六左衛門)
本名題「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」
初演・明治26年(1893)、東京歌舞伎座 9代目 市川団十郎(1838~1903年)
作曲・3代目 杵屋正次郎(1827~1895年)
振付・9代目 市川団十郎(1838~1903年)、2代目 藤間勘右衛門(1840~1925年、勘翁)
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発表当時、庶民の評価はメチャクチャ高かったにもかかわらず、文士連中から猛批判を受けた作品です。作った福地桜痴は「書き写しただけなのに」と、さぞや納得いかない思いだったことでしょう。
写真は水木歌惣のもの、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
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