2019年2月2日土曜日

清元「傀儡師(かいらいし)」の原型、浮世傀儡師と外記傀儡師




平成10年、仙台電力ホール「歌泰会」で踊った「傀儡師(かいらいし)」という踊りの紹介の、続きです。







////// 考察・傀儡師(かいらいし)の記録

傀儡師(かいらいし)というのは古代から中世にかけて存在した、漂白しながら芸人として生きるわが国の流民集団のことです。彼らは中国からの渡来人であると言われていたため、日本語の「くぐつ師」ではなく中国語の「傀儡師(かいらいし)」と呼ばれることになりました。彼らの見せる芸能の種類は幅広く、傀儡師の代名詞である人形廻し(舞わし)はもちろん、花見の山では祭礼の花笠を被って集団で舞い踊り、かと思えば連れ立って漫才(おめでたい唄を唄う)を演じ、ときには幼い子どもを連れて、曲芸や奇術などを披露しました。香具師と祭礼の芸者衆、どちらも傀儡師だったのです。

香具師は後年浄瑠璃語りに、祭礼の芸者衆は猿楽・能楽・歌舞伎踊りに発展します。

「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、931~938年に編纂された辞典)」には「久々豆(くぐつ)への言及があり、和歌集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう、1180年前後)」には「てくぐつ」として傀儡師が登場します。もっとも有名な大江匡房(おおえまさふさ、1041~1111)の「傀儡師記(かいらいしき)」は、筵(むしろ)の簡易住居を作りながら水と食料を抱えて移動する傀儡師たちを「頗る北狄の俗に類たり(すこぶる ほくてきの ならいに にたり)つまり「蒙古人のような習性だ」と、記録します。

絵草紙・からくり人形に唄をつける傀儡師

「貞丈雑記(ていじょうざっき、1763~1784年の雑記を1843年に刊行)」には「傀儡師と云うも遊女なり、傀儡はくぐつとよみて、人形のことなり、歌をうたい人形をまわす物なり、いまは男のすることに成りたるなり」と書いてあります。

これらのことから、その源流が「朝鮮の広大と社堂」だとする論もあります。朝鮮の寺堂・社堂(サダン)というのは色を売りながら集団(牌=ぺ)を作って漂白する芸人のこと、定住すると「広大(クァンデ)」と呼ばれ、身分は最下層の「白丁(ペクチョン)」です。寺堂・社堂という名前でわかるとおり、その拠り処(よりどころ)は寺社や神社の祭礼です。

中国や朝鮮には、かつて蓬莱(ほうらい)信仰というものがあり、たとえば白居易(はっきょい=白楽天)の「長恨歌(ちょうこんか)」によると、蓬莱宮(ほうらいのみや)というのは海のなかにそびえ立つ山のうえの、五色の霞(かすみ)たなびく仙人の住まいです。

この蓬莱山(ほうらいさん)を目指し、戦火や差別を逃(のが)れようと、多くの大陸人が故国の岸辺を漕ぎ出しました。わが国日本に辿り着く人々も、少なからず存在したことでしょう。

わが国にはもちろん土着の人々がいて、固有の文化(海の向こうを穢れとする)がありました。そのせいで渡来人は上陸当初は居どころがなく、移動しながら生きることになったのだろうと推察します。そんな境遇でも当然ながら、彼らはやがて土着の人々と交わって日本人となり、活躍するための自分の居場所を自分たちの手で創り出すのです。





////// 考察・戎(えびす)信仰と浄瑠璃姫伝説

傀儡師は日本全国に存在しましたが、いつの頃からか西宮(兵庫県)の戎(えびす)神社(明治5年=1879年、官幣大社廣田神社と分離)を拠点とする集団が勢力をもち、「えびすかき」(夷舁=えびす信仰にもとづく集団)と称して各地を巡りました。この時点では彼らの遊行(ゆうぎょう)目的は戎(えびす)信仰を広めることであり、小さな木製の神像を用いた人形芝居を観せたあと、御札を撒いたりしたようです。

絵草紙・箱の中で人形を廻す傀儡師

「傀儡女(かいらいめ)」と呼ばれる傀儡師の女性たちは職業的に売笑しましたが、鎌倉時代までは「遊女」とは呼ばれません。ここに何らかの差別か区別があったらしく、ざっくり説明してしまうと水辺で春を売るのが「遊女」、東海道筋の宿屋で春を売るのが「傀儡女(かいらいめ)」です。白拍子など遊女の子どもが武将になることはあっても、鎌倉時代を迎えるまで、傀儡師の子どもが武将になることはありません(埼玉学園大学・服藤早苗「傀儡女の登場と変容:日本における売買春」2010年発行より)

鎌倉時代から室町時代にかけ、祭礼のための芝居と舞踊は猿楽に発展、傀儡師という芸能集団はそのまま人形を廻す(舞わす、の意味)人々と、芝居や舞踊を追及した結果、猿楽・能楽・女歌舞伎へ行き着く人々と、ゆるやかに分裂し始めます。

なかでも東海道の街道筋に定住した傀儡師たちは、室町時代になると東海道の要所・岡崎(愛知県岡崎市)の矢作川(やはぎがわ、矢矧川とも書くに伝わる浄瑠璃御前(じょうるりごぜん)こと、「浄瑠璃姫(じょうるりひめ)」の伝説を語るようになりました。するとこれを人形廻し(人形舞わし)に取り入れ、「人形浄瑠璃」と称して芝居小屋を立ち上げる傀儡師が現われます。やがて京都・大阪に天才戯作者「近松門左衛門(1653~1725、武門の生まれ)が登場するや、浄瑠璃姫の物語(十二段草紙、浄瑠璃十二段)を超える名作悲劇を次々と創作(義太夫・竹本座)し、現在の文楽に続く日本の伝統芸能を創り出してゆくのです。




////// 考察・河東節「浮世傀儡師」と長唄「(外記)傀儡師」

前の記事では、下記のように説明しました。

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古浄瑠璃にかつて「外記節 (げきぶし) 」という流派があり、現在の浄瑠璃よりも硬派な内容だったと伝わります。この外記節初代 薩摩浄雲(さつま じょううん、1593~1672年)の門弟から曲をゆずられた初代 河東(かとう=江戸太夫河東、1684~1725年)が発表したのが河東節「浮世傀儡師(うかれ かいらいし)(1718年)で、そのあと外記節復活を目指し、長唄の「傀儡師(外記傀儡師、げき かいらいし)(1815年)が作られます。一番最後に成立した歌舞伎舞踊曲・清元「傀儡師(復新三組盃、1824年)」は、これら先行する「傀儡師」から影響を受けた内容になります。

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平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

河東節「浮世(うかれ)傀儡師」と長唄「(外記)傀儡師」の歌詞は、ほぼ同じです。とても純朴で何ともないような歌詞ですが、終わりに向けて少しづつ盛り上げてゆき、最後にストンと落とす感じが面白いと思います。また、日常の小さな喜びを淡々と重ねるだけでことさら何か形あることを語ろうともしない、その控えめなさまが形容しがたく美しいと感じます。清元「傀儡師」の原型として、参考までに、紹介させてくださいね。



取り込まれているのは、まずは、大阪の端歌とそれを江戸風に転じた端唄「露は尾花と」、そこから発展して取り込まれる、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の和歌です。

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-大阪の端唄(はうた)
露は芒(すすき)と寝たという 芒(すすき)は露と寝ぬという いや寝たという寝ぬという 寝たらこそ 芒(すすき)は穂に出てあらわれ

[現代語訳]
露はススキと寝たと言うし、ススキは露なんかと寝ていないと言う。いや寝たと言う、また寝ないと言う。ところがススキの頬が赤くなって尾花(穂が出たススキのこと)になり、寝たからこそだと露見した。

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-江戸の端唄(はうた)
露は尾花(穂が出たススキのこと)と寝たという 尾花は露と寝ぬという あれ 寝たという寝ぬという 尾花に穂が出てあらわれた

[現代語訳]
露は尾花と寝たと言うし、尾花は露なんかと寝ていないという。いや寝たという、また寝ないという。そこへ尾花の頬が赤らんで尾花になり、寝ていたことが露見した。
※唄い出しで下げの「尾花」を使ってしまったぶん、そのあとの意味がつながっていません。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

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-「山家鳥蟲集」-
富士の裾野の一本薄(すすき) いつか穂に出て みだれあう

[現代語訳]
いまは富士の裾野に生(お)う一人ぽっちのススキだが、いつかは大人になり、多くの恋と出会うことだろう。

***

-「糸竹初心集」-
小倉の裾野の一本薄(すすき) いつ さて穂に出て みだれや あいおいの おたまこがれて なきこがれ つらや

[現代語訳]
いまは小倉(京都)の野辺に生(お)う一人ぽっちのススキ、いつ大人になり多くの恋と出会うのだろうか。おたまが焦がれ焦がれて泣き焦がれ、つらいことになるだろう。

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-柿本人麿「拾遺集」-
あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む

[現代語訳]
今夜も山鳥の、垂れ下がった尾ほどに長い、無駄に長い長い長い夜を、遭いたい人に遭うこともなく、独りさびしく寝ることになるのか。

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そうして次に、法華経七喩(ほっけ しちゆ)のひとつである「 衣珠(衣裏繋珠=えりけいじゅ)のたとえ」が取り込まれます。

◆衣裏繋珠(えりけいじゅ)のたとえ、とは
急に去らなければいけなくなった金持ちの男が貧乏な友人を心配し、時間がないので友人が酔って眠っているあいだ、他人に盗られないよう衣の裏に宝珠を縫い付けて出て行きました。その友人はまったく気がつかずに何年も貧乏暮らしを続け、あとで金持ちの男に再会すると、自分の着ている着物に宝が付いているのを知らされ、ひどく驚きます。ひとは本来的に仏性をそなえながら、平素はそれに気づかないことのたとえ話で、「幸福は知らないだけで手の中にある」という、メーテルリンクの「青い鳥」に似た趣旨です。

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-僧都源信942~1017年「千載集」「新古今和歌集」-
玉かけし 衣のうらをかへしてぞ おろかなりける 心をば知る

[現代語訳]
衣の裏に宝珠が縫い付けてあると、裏返してみて初めて気づくものだ。そのときになって人はやっと、自分がどれほど心疎(おろそ)かに生きてきたか、思い知ることになるのだ。

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-高弁上人(明恵上人、1173~1232年)「続後撰和歌集」「新百人一首」-
松が下 巌(いわお)のうえに墨染(すみぞめ)の 袖の霰(あられ)や しら玉の

[解説]
高山寺華宮殿(こうさんじ けきゅうでん)の「定心石(じょうしんせき)」の傍(かたわ)ら、松の根元で座禅していた正月12日の明け方のこと。風が激しくなって雪霰(ゆきあられ=氷つぶ)が夥(おびただ)しく降り、袖に霰(あられ)が溜(た)まったために詠んだという歌。

[現代語訳]
松の下、岩のうえに座った墨染めの衣の袖に、雪のつぶてが飛び込んできた。これもまた、御仏(みほとけ)のお慈悲に違いないと有り難く。

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平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」


なお河東節「浮世(うかれ)傀儡師」と長唄「(外記)傀儡師」には、傀儡師の歴史がそれとなく唄い込まれています。

慶安2年(1649)に書かれた「よだれかけ」には、「銅鈷箱(どうこばこ)」と呼ぶ箱を首から下げ、「紗(しゃ)のしゃの衣(ころも)、紗(しゃ)の衣(ころも)」と唄うべきところ、高価な紗(しゃ)が入手できなかったか「茶の茶の衣(ころも)」と唄いながら茶色い着物を着せた人形を操る、どこか可哀想な「木偶(でく)の坊」こと傀儡師が登場します。江戸時代の傀儡師はふだんは綿帽子(わたぼうし、まわたを重ねただけの防寒用の頭巾)を被って箱鼓(はこつづみ、箱を打って鼓の代わりにするもの)を打ち、また時には赤い毛振りを被って大鼓・小鼓を打ち、同道した子どもにも唄わせながら人形廻し(人形舞わし=人形芝居)を観せたようです。




////// 河東節「浮世傀儡師」歌詞

◆原文
浮世の業(わざ)や西の海 塩の蛭子(ひるこ)のさと広く 国々修行の傀儡師
つれに放れて春雨や がくやをかぶり通るにぞ へいがまへなる窓の内
呼びかけられてゆかしくも 立留(たちとど)まれば美しき
女郎の声にて傀儡師、一曲舞わせと望まれし

言葉の下より取敢(とりあ)えず 声悪(あ)しけれど箱鼓
拍子とりどり人形を 数多(あまた)(いだ)してそれぞれに
歌いけるこそをかしけれ

小倉の野辺の一本薄(すすき)
いつか穂に出て尾花とならば、露が妬(ねた)まん恋草よな
積もり積もりて足曳(あしひ)きの 山猫の尾の長々と、独りかもねん淋しさに
(ゆうべ)迎えし花嫁様は 鎌もよく切れ千草も靡(なび)
心よさそなかみさまぢゃ

おらが女房を賞(ほ)むるぢゃないが 物もよく縫い機(はた)も織りそろ
(あや)や錦(にしき)や金襴緞子(きんらんどんす)
折々こどの睦言(むつごと)に 三人もちし子寶(だから)
総領息子は鷹揚(おうよう)に 父の前でも懐手(ふところで) 物をいうても返事せず
二番息子はせい高く 三番息子はいたづらにて わるさ盛りの六つ七つ
中でいとしきちのあまり 肩に打乗せ都の名所 廻れ廻れ風車
張子(はりこ)かつこやふり鼓(つづみ) 手にもてあそべさ

花が見たくば吉野へ御座れ 今は吉野の花盛り
花が咲きつれしゃらしゃらと このはしたはすいづらを たもとに巻きてからたまや
(つい)(あき)らけき天(あま)つ空
桜曇りに今日の日も くれはあやはのとりどりに くれはあやはのとりどりの
貢物(みつぎもの)(そな)うる御代(みよ)こそ目出たけれと 箱の中にぞ納めける

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

◆現代語訳
生きてゆくため西宮から漕ぎ出して、
海神・戎(えびす)さまの治める広い里を、国から国へと修行して歩く傀儡師です。
相方(あいかた)と別れたとたん、春雨が降りはじめました。
真綿の帽子を目深に被り、路地を足早に行きすぎようとしたところ、塀構えの窓の中から呼びかける声がします。風流に感じて立ち止まると、美しい女性の声が「傀儡師さん、一曲舞わしてくださいな」と、ご所望でした。

そう言われたとたん、すぐさま窓に近づき、声はだいぶ悪いところ箱鼓(箱を打って鼓の代わりにする)を打ち、拍子をとりながら、多くの人形をとりどり出して懸命に唄うのが、かえって情緒のあることです。

物語は京の小倉の野辺に生きる、ススキのような端女(はしため)から始まります。ススキはいまは一人ぽっちだけれど、いつか恋をして多くの人と乱れあうのです。そうして恋草になったススキを、ひそかに惚れていた露は妬(ねた)ましくさえ感じてしまうのです。

恋しい想いが積もり積もり、山猫の尾のような、無駄に長い長い長い夜を独り寂しく寝るのですが、やがて露も花嫁を迎えます。夕べ迎えた花嫁さんは、畑仕事が上手で鎌もうまく使い、どんな下草もなびかせます。心も良さそうな、まるで神様のような人です。
おいらの女房を誉めるわけではないが、縫い物も出来るし機(はた)も織るのでございまする、おいらにとっては綾錦(あやにしき)の糸で織った宝もの、金襴緞子(きんらんどんす)のような人なのです。そうやって折々ごとに夫婦相和(ふうふ あいわ)し、三人の子宝に恵まれました。

総領息子は鷹揚(おうよう)な性格で、父の前では、もぞもぞと懐手(ふくろで)になって返事ができず、二番目息子は背が高く、父の方がもぞもぞと。三番目息子はいたずらっこで、悪さ盛りの六つか七つになりました。この子を三人の中でもとくに愛しい愛しいと父の血が騒ぎ、肩に乗せては都(みやこ)の名所を巡ります。廻れ廻れ風車、張子(宇和島牛鬼張り子など)や羯鼓(かっこ、鼓の一種)や振鼓(ふりつづみ、二個で一対、両手で振る小さな鼓)、好きに手に取り遊びなさい。

花を見るなら吉野へいらっしゃい、今は吉野の花盛りです。

花が咲くにつれ、祭礼の行列が集まり鈴や衣(ころも)がしゃらしゃらと。この端女(はしため)は忍冬(すいづら、すいかづら)を、袂(たもと)に巻いて、唐(もろこし)の仏のお慈悲がわりといたしましょう。

そうしたところで遂(つい)に雨が止み、唐土(もろこし)につながる天空が明るく晴れました。桜の花びら舞い散る桜曇(さくらぐもり)の今日のような日に、呉織漢織(くれは あやは、呉王から与えられた織姫たち「日本書記」応神紀)の姫たちが織り伝えてくれた祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空へ棚引きます。呉織漢織(くれは あやは)の祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空に棚引きます。

祭礼の貢物(みつぎもの)を揃え、幼子(おさなご)に土産(みやげ)を買ってあげられる今の時代は、本当にめでたく有り難いことでございます、と、言いながら、唄い終わって人形を箱にしまう傀儡師でした。




////// 長唄「(外記)傀儡師」歌詞

◆原文
浮世の業(わざ)や西の海 汐の蛭子(ひるこ)の里広く 国々修行の傀儡師
連れに離れて雪の下 椿にならう青柳(あおやぎ)の 雫(しづく)もかろき春雨に
がくやをかぶり通るにぞ 塀構えなる窓の内
呼びかけられて床しくも 立止(たちとど)まれば麗(うるわ)しき
女中の声にて傀儡師、一曲舞わせと望まれし

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

(ことば)の下より取敢(とりあ)えず 声悪(あ)しければ箱鼓
拍子とりどり人形を 数多(あまた)(いだ)してそれそれと
唄いけるこそ可笑(おか)しけれ

小倉の野辺の一本薄(すすき)
いつか穂に出て尾花と成らば、露が妬(ねた)まん恋草(こいくさ)
積もり積もりて足曳(あしび)きの 山猫の尾の長々と、独りかもねん淋しさに

(ゆうべ)迎えし花嫁様は 鎌もよく切る千草も靡(なび)
心よさそなかみさまぢゃ
おらが女房を誉(ほ)めるぢゃないが 物もよく縫い機(はた)も織り候(そろ)
(あや)や錦(にしき)や金襴緞子(きんらんどんす)
折々毎(おりおりごと)の睦言(むつごと)に 三人持ちし子寶(だから)

総領息子は大楼(おうよう)にて 父の前でも懐手(ふところで) 物をいうても返事せず
二番息子は背(せい)高く 三番息子は腕白(いたづら)にて 悪さ盛りの六つ七つ
中でいとしき血のあまり 肩に打乗って都の名所 廻れ廻れ風車
張子(はりこ)羯鼓(かつこ)や振り鼓(つづみ) 手にもて遊べさ

花が見たくば吉野へござれ 今は吉野の花盛り
花笠きつれしやなやなと 此(こ)のはしたは吸筒(すいづつ)
(たもと)に巻いてから玉や

つい明らけき天津空
桜曇(さくらぐも)りに今日の日も 日も
呉羽綾羽(くれはあやは)のとりどりに
呉羽綾羽(くれはあやは)のとりどりの
御貢物(おんみつぎもの) 治まる御代(みよ)こそ芽出たけれ
箱の内にぞ納めけり


◆現代語訳
生きてゆくため西宮から漕ぎ出して、
海神・戎(えびす)さまが治める広い里を、国から国へと修行して歩く傀儡師です。
相方(あいかた)と別れたとたん、まだ椿に雪が残り青柳がしなだれる空に、軽い春雨が降りはじめました。真綿の帽子を目深に被り、路地を足早に行きすぎようとしたところ、塀構えの窓の中から呼びかける声がします。風流に感じて立ち止まると、美しい女性の声が「傀儡師さん、一曲舞わしてくださいな」とご所望でした。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

そう言われたとたん、すぐさま窓に近づきますが、声がだいぶ悪いらしく箱鼓(箱を打って鼓の代わりにする)を打ち、拍子をとって多くの人形をとり出しながら、それそれ、と、合いの手を入れて唄うのがまた滑稽味があって面白いことです。

物語は京の小倉の野辺に生きる、ススキのような端女(はしため)から始まります。ススキはいまは一人ぽっちだけれど、いつか恋をして多くの人と乱れあうのです。そうして恋草になったススキを、ひそかに惚れていた露は妬(ねた)ましくさえ感じてしまうのです。

恋しい想いが積もり積もり、山猫の尾のような、無駄に長い長い長い夜を独り寂しく寝るのですが、やがて露も花嫁を迎えます。夕べ迎えた花嫁さんは、畑仕事が上手で鎌をうまく使うため、どんな下草もなびかせます。心も良さそうな、まるで神様のような人です。
おいらの女房を誉めるわけではないが、縫い物も出来るし機(はた)も織るのでございまする、おいらにとっては綾錦(あやにしき)の糸で織った宝もの、金襴緞子(きんらんどんす)のような人なのです。そうやって折々ごとに夫婦相和(ふうふ あいわ)し、三人の子宝に恵まれました。

総領息子は鷹揚(おうよう)な性格で、父の前では、もぞもぞと懐手(ふくろで)になって返事ができず、二番目息子は背が高く、父の方がもぞもぞと。三番目息子はいたずらっこで、悪さ盛りの六つか七つになりました。この子を三人の中でもとくに愛しい愛しいと父の血が騒ぎ、肩に乗せては都(みやこ)の名所を巡ります。廻れ廻れ風車、張子(宇和島牛鬼張り子など)や羯鼓(かっこ、鼓の一種)や振鼓(ふりつづみ、二個で一対、両手で振る小さな鼓)、好きに手に取り遊びなさい。

花を見るなら吉野へいらっしゃい、今は吉野の花盛りです。

そこへ花笠踊り衆が手振りを揃え、やなやなと踊りながらやってきます。この端女(はしため)は水筒の瓢(ひさご)を袂(たもと)に巻いて、唐(もろこし)の仏のお慈悲がわりといたしましょう。

そうしたところで遂(つい)に雨が止み、唐土(もろこし)につながる天空が明るく晴れました。桜の花びら舞い散る桜曇(さくらぐもり)の今日のような日に、呉織漢織(くれは あやは、呉王から与えられた織姫たち「日本書記」応神紀)の姫たちが織り伝えてくれた祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空へ棚引きます。呉織漢織(くれは あやは)の祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空に棚引きます。

祭礼の貢物(みつぎもの)をお納めできる平和な時代は、本当にめでたく有り難いものでございます、と言いながら、唄い終わり人形を箱にしまう傀儡師でした。



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傀儡師が語る唄は、自分たちの来(こ)し方を懐かしむような内容です。現代人で傀儡師とはまったく関係ないような自分でさえ、懐かしいと感じさせられるほどの説得力です。



※「傀儡師(かいらいし)」という踊り、の記事はこちら
※  傀儡師よ永遠に。清元「傀儡師(かいらいし)」全訳、の記事はこちら



清元「傀儡師」の歌詞については、また紹介させていただきますね。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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