2019年2月16日土曜日

ここが地獄の一丁目。「幻お七」という踊り




平成19年、仙台電力ホールで踊った「幻お七」という踊りを紹介させてください。

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※八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら







////// 歴史と概要

この演目は義太夫「櫓(やぐらの)お七」と「(通称)八百屋お七からくり口上」から着想したと伝わり、「櫓(やぐらの)お七」に似た背景で、人形振りなしに踊るものです。昔のお師匠連中は「新舞踊と名言されてはいないが、新舞踊と呼んでもよい踊り」と、説明していました。最近はどうなのでしょうか。

ともすると「櫓お七」の準備のため若い舞踊家に演じさせる練習曲扱いをされたり、「櫓お七」の簡略版のように扱われる「幻お七」ですが、昔のお師匠連中からの申し送りもあって、自分はそのようには考えていません。

■作詞(原作)
木村富子(1890~1944年)

■作曲■
3代目 清元梅吉(1889~1966年、2代目 清元寿兵衛)
4代目 清元栄寿太夫(1895~1939年、延寿太夫襲名前に没)

■振付■
不明、初演したのは尾上菊枝(1913~1947年)

■初演■
昭和5年(1930)「東京劇場」(曲は4代目 清元栄寿太夫)



平成19年、歌泰会「幻お七


つまるところ技術の「櫓お七」、リアリティ(写実)の「幻お七」です。

たとえば最初に曲をつけた「3代目 清元梅吉(1889~1966年、2代目 清元寿兵衛)」は「新楽劇(しんがくげき)」を提唱した坪内逍遥(1859~1935年)作・新舞踊「お夏狂乱(常磐津)」を、さらに改良して名曲に変えた作曲者です。冗長で不快な印象を与える子ども達の場面を削除し、すっきりと見やすくまとめました。

初演した尾上菊枝(1913~1947年、本名「近藤冨志」) は神田佐久間町の生まれ、実業家 近藤波保の令嬢で6代目 尾上菊五郎(1885~1949年)のお弟子さんです(踊りは若柳吉三郎門下)。昭和6年、女性として初めて名題(なだい、看板役者※名題以下が大部屋役者)に昇進した舞踊家で、「鏡獅子」の弥生や「紅葉狩」の鬼女を当たり役にして活躍したあと新派に転じ、狂言師・和泉流 野村万介(のち9代目 三宅藤九郎)と結婚引退しました。

平成19年、歌泰会「幻お七

つまり新派の女優さんで、和泉元弥氏の祖母にあたる人です。新派作品も今では古典ですが、もとはリアリティ(写実)を追求した「新劇」でした。




////// 「幻お七」作者・木村富子

「幻お七」は木村富子(1890~1944年)という、女性作家の作品です。木村富子は大正時代から昭和へかけて活躍した劇作家・舞踊作家で、歌舞伎狂言作者・松竹役員だった木村錦花(きむら きんか、1877~1960年)の妻として知られます。また2代目 市川猿之助の従姉妹にあたるため、「黒塚(くろづか)」「高野物狂(こうやものぐるい)」「独楽(こま)」など、多くの木村富子作品を2代目 市川猿之助(初代 猿翁)が演じたことで知られます。

ただし市川猿之助のために書いたと言われる「黒塚(くろづか)」は、最初は6代目 尾上梅幸(1870~1934年)の依頼で書いたものです。(随筆「浅草富士」木村富子著)



平成19年、歌泰会「幻お七

松竹映画第一号「島の女」を監督し、歌舞伎座の立作者代理としてたくさんの作品を上演した木村綿花ですが、もとは初代 市川左団次一座の役者の子に生まれ、明治座の興行主任などしていた人です。木村富子は最初から作家志望でしたが父親に理解されず、結婚し子育てが一段落したあとの大正15年(1926)、やっと初作品「玉菊」を雑誌「早稲田文学」に発表します。この「玉菊」を5代目 中村歌右衛門(1866~1940年)が気に入って歌舞伎座で上演、その技量を広く認められました。このとき後ろ盾になった戯曲の師匠が「松居松葉(まついしょうよう、1870~1933年)」で、宮城県出身の劇作家・演出家であり、坪内逍遥の弟子だった人です。

松井松葉(まついしょうよう)は宮城県塩竈市の生まれ、尋常中学校卒業後に丁稚奉公へ行かされ、そこから努力して坪内逍遥の弟子にまでなりました。その後、初代 市川左団次が力を認めて松葉作「悪源太」など一連の作品を上演、ヨーロッパ留学後、「椿姫」など翻訳劇を上演しながら松竹の文芸顧問として働いていました。要するに、木村富子の活躍の背景には坪内逍遥の「新楽劇論」と、歌舞伎座の「演劇改良運動」がありました。

平成19年、歌泰会「幻お七



////// 「櫓お七」と「幻お七」の違い

木村富子の作品の特徴は、登場人物への深い理解と愛情、そして新解釈にあります。

あまり知られていないことですが、木村富子は父方の祖母が加賀藩の「お狂言師(長唄と舞踊を担当)」、母方の祖父が琴古流尺八宗家・2代目 荒木竹翁(あらきちくおう、1823~1908年)です。また、伯母に初代 市川猿之助(2代目 市川団四郎)と結婚した喜熨斗古登子(きのし ことこ、赤倉古登子)がいます。この喜熨斗古登子は初代 花柳壽輔(はなやぎ じゅすけ、1821~1903年)に芸養子に乞われたほど、舞踊家として有名な人です。木村富子の芸ごとへの理解度は、常人のものではないのです。

ところで「幻お七」の歌詞は、「独楽(こま)」や「黒塚(くろづか)」など傑作揃いの木村富子作品のなかでは、どうにも微妙な出来ばえです。三味線の思い切りの悪さのせいもありますが、これを義太夫作品と見て「櫓お七」と聴き比べれば、「幻お七」はその改悪版にすぎないと感じてしまうことでしょう。

しかし「幻お七」を松井松葉が上演したようなギリシア悲劇風表現と見て、清元節をコロス(ギリシア悲劇であらすじ語りを担当する群衆、koros、chorus)の唄と考えれば、このスカスカな歌詞の意味がわかります。舞踊家の写実的な演技が、その行間を埋めなければいけないのです。これは清元節を愉(たの)しむための踊りではなく、近代的で写実的な舞踊表現を愉(たの)しむための踊りなのです。




////// 歌詞(抜粋)

スカスカ、と書きましたが酷評しているわけではありません。マイムのための間(ま)をかせぐため、この舞踊は歌詞が少ないのです。義太夫「櫓お七」では歌詞のあいだに語りが入りますが、「幻お七」では入りません。しくじれば間延(まの)びするわけで、唄い手にとっても、踊り手にとっても、難しい演目だと思います。歌詞自体は、もちろん少しも悪くありません。


平成19年、歌泰会「幻お七


◆原文
あるか無しかのとげさえも ふるう手先に 抜きかねる
寂漠(しじま)が縁(えん)の はしわたし
のぼりて嬉し 恋の山

「おお さっても見事な嫁入りの」

花の姿や 伊達衣装
いろ土器(かわらけ)の 三つがさね
祝いさざめく その中に
うちの子飼(こが)いの太郎松(たろまつ)
ませた調子の 小唄ぶし


平成19年、歌泰会「幻お七


◆現代語訳
あるかなしかの棘を抜いてあげようと、手先を動かすにも、
吉さまのお顔が美しすぎて、手が震えたほどでした。
ふたりとも、お互いがお互いに見入ってしまい、
ずっと沈黙が続きましたね。
その沈黙が、恋の始まりでした。
恋の山に登ることができて、嬉しくて仕方がない今のわたしです。

山から里を見下ろしたところ、花嫁行列が目に留まりました。
「ああ、なんて見事な嫁入り仕度(じたく)でしょう。」

花嫁の色とりどりの伊達衣装と、美しい三つ重ねの調度品が目に入ります。
行列を取り囲み、祝いに賑わうその中には、
大人の声で小唄を歌い、花嫁を言祝(ことほ)いでいる、
うちの奉公人の太郎松(たろまつ)が、いるではありませんか。
(ああ、それならあれは、わたし自身の嫁入りなのだねぇ)

******

平成19年、歌泰会「幻お七



「櫓お七」の良いところを取り入れながら、お七の狂乱してゆくさまが時間どおりゆっくりと、恐ろしいほどリアルに描かれます。歌詞でほのめかされる、お七が辿る地獄道についてはまた後日、紹介させてくださいね。

※地獄の数え唄「幻お七」鈴ヶ森刑場への道、の記事はこちら
※八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら






お七の恋と狂乱を、頑張って演じました。いかがでしょうか。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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