2019年2月9日土曜日

傀儡師よ永遠に。清元「傀儡師(かいらいし)」全訳





平成10年、仙台電力ホール「歌泰会」で踊った「傀儡師(かいらいし)」という踊りの紹介の、続きの続きです(いつも、すみません、、、)。

「傀儡師(かいらいし)」という踊り、の記事はこちら
  清元「傀儡師(かいらいし)」の原型、浮世化傀儡師と外記傀儡師、の記事はこちら







////// 舞踊の歴史と概要

文政7年(1824)9月、江戸・市村座において3代目 坂東三津五郎が初演した三変化舞踊です。「三変化舞踊」であること、「坂東三津五郎」であること、「大和屋」の紋が「三つ紋」であることを珍しがって、まず「三つの杯」が付き、作曲・初代 清元延寿太夫の「延寿斎」名乗りあげを祝う意味で「また新しく~」と、命名されました。

■本名代(ほんなだい)
「復新三組盃(またあたらしく みつの さかずき)」

■三変化■
(1) 長唄「傾城」
(2) 清元「大山参り」
(3) 長唄・清元「傀儡師(かいらいし)

演目上の三変化の内容は上記のとおりですが、舞踊のテーマも「お七と吉三」「牛若丸と浄瑠璃姫」「知盛と弁慶」と、三変化します。下半身が男で上半身が女という、一風変った振付を出すこともあります。

■作曲■
初代 清元斎兵衛(生没年不詳、初代 清元延寿太夫、初代 延寿斎

■作詞■
2代目 桜田治助(1768~1829)

■振付■
松本五郎市(生没年不詳)

邦楽年表によると、終幕に「雀踊(すずめおどり)」があったかのように書かれています。「雀踊」とは「竹に雀」の着物で奴姿(やっこすがた)になって編み笠を被り、大人数で踊ったものを言うようです。傀儡師の大道芸では終幕に山猫が出るはずのところ、この舞踊が「雀追わえて」で終わるのは、あとに「雀踊」が予定されていたからだそうです。

絵草紙・傀儡師のお人形

このときの「雀踊」は、現在よく知られている長唄「雀踊」(歌詞に「成駒」が唄い込まれている)とは違います。「花の三組色まして」という一節が出てくる新作で、出演者みんなで踊り、「延寿斎」をお祝いしたようです。

本来の傀儡師の出し物としては、箱鼓か大鼓小鼓を打ったあとで唐人風の衣装の人形を出して「唐人踊(とうじんおどり)」を舞わせ、そのあと平知盛(たいらの とももり)などの人形で芝居を観せ、最後に木製のカシラに布を張った本物そっくりの「山猫」の人形をヌッと出し見物の子どもたちを驚かせる、という構成でした。





////// 考察・傀儡師(かいらいし)と竹田からくり芝居

竹田近江(阿波の国出身のからくり師、生年不詳~1704年)は阿波の国の出身ですが、江戸に在住していたときに、からくりの仕組みを思いつき、京都・大阪で成功しました。からくり人形で興行を打ちましたが、直接人形浄瑠璃を演じたわけではありません。竹田のからくり芝居では、茶入れ人形や曲芸をする人形を見せたようです。

その次男の竹田出雲(生年不詳~1747年)が人形浄瑠璃の貢献者であり、竹本義太夫から竹本座の座本を譲り受けると、みずから戯作者ともなり、天才戯作者・近松門左衛門(1653~1725年、武門の生まれ)と共同で興行を打って大成功を収めました。いっぽう竹本座から脱退した豊竹若太夫(1681~1764年)が作ったのが豊竹座で、ここにも天才戯作者・紀海音(きのかいおん、1663~1742年)がいました。「二人椀久」のもとになった浄瑠璃「椀久末の松山」作者です。

竹本・豊竹、両座は次々と名作を発表し人形浄瑠璃は全盛期を迎えます。しかしやがて歌舞伎人気に押されて衰退、幕末頃に登場した文楽座に全部、呑み込まれました。昭和38年(1963)、松竹(1909年に文楽座の要請により興行権を取得)が文楽座の興行権を放棄、現在は国や自治体・企業の支援を受け人形浄瑠璃の上演を続けています。

いっぽう街頭ではどうかというと、「覗きからくり(首から下げられた箱の中で、からくり人形が動く)」を観せる香具師は明治頃まで残った(「瓦版のはやり唄」八百屋お七からくり口上)ようですが、唄いながら手で人形を廻す(舞わす、の意味)傀儡師は、江戸時代には消えたと言われます。

享和3年(1803)に書かれた「異本後昔物語」という本では、「明和安永の頃迄ありて其の後絶えたるもの」「今なくなりし物」として「傀儡師、すたすた坊主、地紙売、木綿の高荷(たかに)、帷子(かたびら)(以下、省略)」が挙げられます。明和は1764~1772年、安永は1772~1781年です。

絵草紙・からくり人形に唄をつける傀儡師




////// 演目に取り込まれた「お七と吉三」の物語

お七は江戸・本郷駒込の八百屋の娘、天和2 (1682) 年の江戸の大火で寺に非難した際、寺小姓を見初(そ)めて恋をし、家に帰ったあと再会を願って放火、みずから火事の半鐘(はんしょう)を鳴らした罪により天和3年(1683)、江戸・鈴ヶ森刑場(東京都品川区)で火あぶりになったと伝わります。実際の処刑や事件の記録はなく、お七は実在か架空か研究者のあいだで意見が分かれます。なお、お七の恋の相手の寺小姓は「吉三郎」か「吉三」になることが多いものの、作品によってまったく違います。

お七吉三の段には「チョボクレ坊主」が登場します。「チョボクレ」は小さい木魚を打ち鳴らして歩いた、江戸の昔の回遊こつじき坊主が歌う、猥雑な唄のことです。ちなみに、清元「傀儡師」でチョボクレを披露する「弁長」は、九州で念仏を広めた浄土宗の「弁長(1162~1238年)」さんではありません。こちらはたいへん有名な念仏坊主であったため、名前を使い回されたようです。

清元「傀儡師」に出てくるチョボクレ坊主「弁長」の正体は、安永2年(1773)に大阪の芝居小屋で初演された人形浄瑠璃「櫓(やぐら)のお七(「伊達娘恋緋鹿子」だてむすめ こいの ひがのこ)」、「吉祥院お土砂(どしゃ)の場」で八百屋お七を助ける「紅屋長兵衛(通称が「べんちょう」)」という登場人物です。

ただし「三人吉三」という芝居でも、お坊吉三(おぼうきちさ)の寺小姓時代の名前が「弁長」です。ですので前述のとおり、お坊さんの名前として芝居ではよく耳にする、使いまわしの名前です。

錦絵・櫓お七




////// 演目に取り込まれた「浄瑠璃姫」の物語

三河の国司・源中納言兼高(みなもとの ちゅうなごん かねたか)と矢作宿(やはぎの やど)の長者夫婦には子どもがなく、鳳来寺の薬師瑠光如来(やくし るりこう にょらい)へ祈願して浄瑠璃姫(じょうるり ひめ)を授かりました。源氏の御曹司・牛若丸(のちの源義経)は幽閉されていた鞍馬山を抜け出し、藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼り奥州平泉へ向かいますが、途中、矢作(やはぎ)の長者の宿に泊まり、琴を弾く長者の姫に惹かれて一夜の契りを交わします。その後再び旅立った牛若丸でしたが、旅の疲れで重い病に臥せ、吹上の浜で亡くなりました。しかし悪い予感で駆けつけた浄瑠璃姫が介抱し、牛若丸は生き返ります。ふたりは再び契りを交わし、浄瑠璃姫は天狗の羽に乗せられて矢作宿(やはぎの やど)へ帰り、牛若丸は旅を続け、無事奥州へ到着します。

以上が「十二段草紙」「浄瑠璃十二段」という、浄瑠璃本に書かれた浄瑠璃姫の物語です。矢作の伝説はここから幾つか分岐し、浄瑠璃姫がその後すぐ死んで平家討伐のため再度矢作を通りかかった源義経(牛若丸)に菩提を弔われる物語と、衣川の戦いでの源義経自害の知らせを聞いた浄瑠璃姫が矢作川(やはぎがわ、矢矧とも書く)に身を投げて死ぬ物語などが存在します。一中節の「源氏十二段 浄瑠璃供養」や河東節「浄瑠璃供養(一中節とのかけあい)」は、姫が先に死に、源義経が弔いごとをするパターンにあたります。

矢作の宿へ帰った浄瑠璃姫ですが、御曹司・牛若丸と情を交わしたことが母の長者に理解されずに家を追われ、自分の生まれの由来である鳳来寺を頼って住みつくと、ほどなく死んでしまいます。三年後平家討伐の軍勢を率い上京する途中、矢作宿(やはぎの やど)へ立ち寄った源義経は、浄瑠璃姫の死を知り鳳来寺を訪ねます。御曹司が供養を始めるや墓は三度揺れて五輪の輪が三つに砕け、一つは御曹司の右の袂(たもと)へ飛び込み、一つは金色に光りながら空へ飛び去り、最後の一つは墓の印になって浄瑠璃姫成仏が暗喩されます。

前の記事で、「袂(たもと)の玉」が「仏の慈悲」の象徴であるという話を書きました。「袂(たもと)の玉」は、浄瑠璃にとっては原点的なモチーフのひとつです。


絵蔵氏・浄瑠璃姫と牛若丸




////// 「平知盛(たいらの とももり)」の物語

平知盛(1152~1185年)は実在の人物で、伊勢平氏の総領・平清盛(1118~1181年)の4男です。文武両道にひいでたせいか、九条兼実(生没年不詳、平安時代末期~鎌倉時代初期)の日記「玉葉」には「入道相国(平清盛)最愛の息子」と書かれています。ところで平氏は源平の戦いでは、源氏や後白河法王による和睦の要請を執拗に拒否し、国母(こくぼ)である平徳子とその子・安徳天皇を宮中から秘かに連れ出すと、三種の神器と一緒に人質として合戦に同道、宮中からの再三にわたる返還要求も跳ねつけ、最後にはすべてを海中に沈める暴挙を行います。

なかでも壇ノ浦の戦い(1185年)における愚行はひどく、そこでは安徳天皇は死ぬ必要はまったくありませんでした。海に身を投げ姫鯛に変身したという哀れな伝説を残す官女たちも、本当は死ぬ必要はなかったのです。死なせたのは平知盛です。

平知盛は壇ノ浦の戦いで敗戦がはっきりすると御所の方々の船へ乗り移り、「見苦しい物を残すな、みな海へ投げ入れろ」と呼びかけながら手ずから清掃をはじめます。それを見た官女たちが戦況を問うや「まもなく珍しい東男(あずまおとこ)というものを、ご覧になれることでしょう」と、からから笑いました。宮中からの迎えの輿を受け入れるつもりのないことが、こうして御所の人々に知れるのです。敵軍に直接あいまみえるということは、見苦しい最期を予想させます。

官女たちはいっせいに「何故、こんなときにそのような冗談を言うのですか」と喚きちらし、それを見ていた知盛の母で清盛の妻、安徳天皇にとっては祖母にあたる「二位の尼(にいのあま)」は「敵の手にはかかるまじ」と、安徳天皇を抱いて入水します。そのあとを安徳天皇の母・徳子が続き、官女たちも次々海へ飛び込みました。知盛の言う「見苦しいもの」とは、人質である御所の方々そのものだったのでしょうか。

その後しばらく奮戦したのち、家来に手伝わせて鎧(よろい)を二重に着込み、もしくは舟の碇(いかり)を体にしばりつけ「見るべきものは見つ(この世で見る価値のあるものは、すべて見てしまったから)」と、平知盛も海に身を投げました。そりゃあ、お前はそうかも知れないが。

錦絵・弁慶と知盛と牛若丸

「水の底にある竜宮城へ行きましょうね」と言い聞かされて入水する安徳帝の最期の様子と、助けられ尼となったあと「まさか、安徳帝が死ぬとまで思わず、狼狽したあまり死にそこねた」と泣く建礼門院(けんれいもんいん)・徳子の悲嘆ぶり(「平家物語」)は、その無残さゆえに今でも読む人の胸を深くえぐります。

「見るべきものは見つ」と言ったわりに物語世界では、平知盛は源義経(御曹司・牛若丸)か武蔵坊弁慶が出れば知盛幽霊も出るという、うっとうしいことこの上ない、義経主従のストーカーになりました。

伊勢平氏は滅びましたが、その他の平氏は政権中枢に残留したため、源平合戦後、平知盛は英雄視されました。同様に兄・源頼朝によって理不尽に失脚させられた源義経も、反・源氏勢力から非常に英雄視されました。ところが、朝廷からの直接の要請で戦闘した源義経と違い、平知盛は明らかに朝敵です。為政者(いせいしゃ)による知盛礼賛に合点のゆかない民衆の戸惑いが、颯爽と登場する悲劇の英雄・源義経と、そのあとを執拗に追いまわしては毎回容易(たやす)く撃退される平知盛の幽霊という、どこか滑稽な物語パターンを作らせたのかも知れません。

ちなみに清元「傀儡師」では、謡曲「船弁慶」の一節を軽妙な駄洒落で取り込みます。

◆清元「傀儡師」による「船弁慶」の駄洒落
打ち物業(うちもの わざ)にて叶うまじと ⇒ 吸物(すいもの)(わん)にて叶うまじと


****************
-観世信光(かんぜのぶみつ、1435もしくは1450~1516)作・謡曲「船弁慶」-
兄・源頼朝に忠義心を疑われ、東国へ落ちてゆこうとする源義経一行の船の前に、平知盛の幽霊がたちはだかります。義経は落ち着いて刀を抜くと、生きている相手にするように声を掛け太刀(たち)を合わせますが、従者である武蔵坊弁慶がそれを押し止(とど)め、「相手は怨霊なのだから、刀などでは叶うまい」と、数珠(じゅず)を出して読経し知盛の霊をしりぞけます。

[シテ]
そもそもこれは、桓武天皇九代の後胤(こうえい)、平知盛、幽霊なり。
ああら珍しや、いかに義経。

[地謡]
その時義経少しも騒がず。打ち物抜き持ち、現(うつつ)の人に向こうが如く。言葉を交わし戦い給(たま)えば弁慶押し隔(へだ)て、打ち物業(うちもの わざ)にて叶うまじと。数珠(じゅず)さらさらと押し揉んで。
****************

錦絵・平知盛の幽霊




////// 「唐人踊(とうじんおどり)」の歌詞

首から箱を下げ、人形を廻して歩く傀儡師の演目の始まりは「唐人踊」というものでした。これは長崎に発し江戸で流行った「かんかん踊り(別名「唐人踊」)」という「清楽(しんがく)」だそうです。清国の言葉を日本風の発音で唄っているらしいのですが、まったく意味がわかりません。「唐人歌」というものもあるのですが、意味のわからなさは同じです。

清元「傀儡師」に取り込まれてますので、念のため紹介させていただきます。なお、訳はつけません。まったく読めませんので(笑)


****************
-唐人踊(とうじんおどり、成立年不詳)「松の落葉集」-

いきにていきにて すいちゃえんちゃ
すいちゃすいふいちやういさらこわいめさはんやさそうわそうわ
ううちたるまたひさらきこいさらこわめさはんやさそうわそうわ
うあううあう

****************


ただし歌詞の「すいやい」以降は、日本語を唐人歌風に洒落ただけのように見えます。
****************
-清元「傀儡師」-
すいやい すいやい すいやい
みんちやぁ うつうなや

[音を頼りに、普通の日本語に変えてみる]
酔よ、酔よ、酔よ。
みな、現実(うつつ)なや。
****************


////// 清元「傀儡師(かいらいし)」歌詞、全現代語訳

◆原文
蓬莱(ほうらい)の島は目出度い島での
黄金桝(こがね ます)にて米はかる
(しゃ)のしゃの袴(はかま) 紗(しゃ)の袴よの
竹田のむかしはやしごと 誰(た)が今知らん傀儡師(かいらいし)
阿波の鳴門を 小唄とは
晋子(しんし)が吟(ぎん)の風流や 古き合点(がてん)でそのままに


平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

小倉の野辺の一本芒(ひともと すすき)
いつか穂に出て尾花とならば 露(つゆ)が嫉(ねた)まん恋草や
恋ぞ積りて渕(ふち)となる 渕(ふち)ぢゃごんせぬ花嫁に 仲人を入れて祝言も
四海波風(しかい なみかぜ)穏やかに 下戸(げこ)の振(ふり)して口きかず

物もよく縫い機(はた)も織り 心よさそなかみさまの 三人もちし子宝の
総領息子(そうりょうむすこ)は親に似て
色と名がつきゃ夜鷹でも ごぜでも巫女でも市子でも
可愛いかわいが落合うて 女に憂身(うきみ)やつしごと
二番息子は堅造(かたぞう)で ぽきぽき折れるとげ茨(いばら)
三番息子は色白で お寺小姓にやり梅の 吉三と名をも夕日かげ

それとお七はうしろから 見る目可愛き水仙の
初に根締(ねじめ)のうれしさに恋という字の書初を 湯島にかけし筆つばな
八百屋万の神さんに 堅く誓いし縁結び 必ずやいの寄添えば
そこらへひょっくり弁長が いよいよ 色のみばえだち 差合くらずにやってくりょ

やれェどらがにょらい
やれやれやれやれ おぼくれちょんがれちょ
そこらでちょっくらちょっと聞いてもくんねェ
嘘ぢゃござらぬ 本郷辺りの八百屋のお娘が
十六ささげになんねえ先から
末は芽うどに 奈良漬なんぞと 胡麻せた固めを
松露(しょうろ)のしるしに きしょうが書いたり 小指を胡瓜ゃ
さりとはさりとは うるせえこんだに
奇妙頂礼(きみょう ちょうらい)どら娘 これはさておき

既に源氏のおん大将 御曹子にてまします頃
長者が姫と語らいも 小男鹿(さおじか)ならで笛による
想夫連理(そうふ れんり)の恋すちょう
惜しあかつきのかごとにも
矢矧(やはぎ)の橋は長けれど 逢(お)うたその夜の短かさよ
よいよいよいよい

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

よいやさ よいやさおのこ
敵と数度(すど)の戦いに 勝どきあげくに大物(だいもつ)
恨みつらみも波の上

そもそもこれは 桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい)
平の知盛幽霊なり
アラ珍らしや如何(いか)に どうでェ義公(よしこう)
娑婆(しゃば)以来

馴染の弁州伊勢駿河 早く盃さぁさし汐(しお)
吸物(すいもの)(わん)にて叶うまじと
浮いて散らして拍子どり

すいてうえいちや すいてうえいちや すいやい すいやい
すいやい みんちやぁ うつうなや

やつちゃ子どもよ 振鼓(ふり つづみ)
そこで仲よう 遊べさ
花が見たくばのう それそれ吉野へごされ
それや嘘 何んの今頃花があろ
いえいな 咲きます六ツの花
それやそれや それやそれや ほんかいな
木ごとにえ 見事にえ 景色よし野の花と雪 面白や

眺めありおう箱鼓(はこつづみ) とりどり なれや鳥篭(とりかご)
(かわ)ればぱっと忽(ただ)ちに すずめ追わえて慕いゆく
すずめ追わえて慕いゆく


平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」


◆現代語訳

蓬莱の島はめでたい山でのう、
黄金の枡(ます)を使って、米を計る豪気なところ。
住む人々は高価な紗(しゃ)の袴をはいて。
(しゃ)の袴をはいてのう。
これはそのむかし、竹田のからくり芝居のお囃子(はやし)に唄われたもの。
今となっては、いったい誰が傀儡師を覚えてくれているのやら。
「傀儡師 阿波の鳴門(なると)を 小うたかな」とは、
其角(ごかく、1661~1707年)が詠んだ俳句だが。
阿波の国生まれの竹田近江(たけだおうみ)が、小唄のもとだと言いたいのだ。
古いことでもあるし、うん、まぁ、そういうことにしておこうか。

物語の始まりは京の小倉の野辺に住む、
ススキのような端女(はしため)から。
いまは一人ぽっちのススキも、いつか大人になって恋をする。
ひそかに慕っていた露は、
そんな恋草になったススキを妬(ねた)ましいと思うほど。
恋が積もり積もって淵(ふち)から溢れるほどになると、
想いの淵(ふち)が、淵じゃなくなって花になった、
(思いの淵 ⇒ 淵と桜 ⇒ 想いの淵と花嫁、という連想唄に見えます)
つまりはススキが、露の花嫁に迎えられたのだ。
祝言では仲人が「四海波(しかい なみ)静かに」と、
高砂(たかさご)を謳って祝ったものだ。
花嫁は緊張のあまり酒も呑まず、
口もきけないありさまだったとか。

この嫁さんは縫い物が上手で機(はた)も織る、
心も綺麗な神さまのような人でのう。
そうして三人の子宝に恵まれたのだが、
跡取り息子は親に似て、
女と見れば遊女舟あやつる夜鷹だろうが、
目の見えない娘浄瑠璃の旅芸人だろうが、
神社の巫女だろうが、あやしげな回遊潮来(いたこ)だろうが、
かわいい、かわいそう、などと言って
隠れて遭(あ)っては女のことでやきもきし、
世間に公然とできない隠しごとに、その身を削っている。
二番目息子は堅物で、茨(いばら)の棘(とげ)のような男。
三番目息子は色白に生まれ、
寺小姓に売られて梅の花のように扱われ、
その名も「吉三」などと、夕日の日陰者のような、
生白い優男(やさおとこ)に育っちまった。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

そんな吉三を、お七がどこかで見初(みそ)めたのさ。
小さく可憐な水仙に、初めて根締(ねじめ)をするようなもの。
恋しさがどんどん根っこに染み込み、
湯島天神さまへ奉納する書初めに、
お七はつたない文字で「恋」と書いたほどだった。
八百屋だけに、やおよろずの神さまに、縁結びを堅く誓ったわけだ。
必ず、寄り添ってみせると息巻くところへ弁長が現われ、
お嬢さん、色に目覚めたんでやしょうが、
しくじらないようやってくんな、と。

やいこら、どら如来、
やれやれやれやれ、おぼくれちょんがれちょ。
そこらでちょっくらちょっと聞いてもくんねェ。
嘘じゃありませんぜ、本郷あたりの八百屋のお嬢が、
十六にもなんねぇうちから
「末は夫婦(めおと)になりたい」なんぞ、ませた口をね。
約束のあかしだと言って起請文を書いたり、小指を切って捧げたり。
吉三にはさぞや、うるせえことだろうよ。
奇妙などら娘だよ。まぁ、それはさておきさ。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

いまでは源氏の御大将(おんたいしょう)
それがまだまだ御曹司であらしゃった昔のこと。
長者の姫と恋を語ったのさ、
狩人(かりうど)が小男鹿(さおじか)を釣(つ)るように、
笛の音(ね)でもってお姫さまを誘い出してさ。
連理(れんり)の枝のように永遠に相思相愛でいようと、
「想夫連理(そうふ れんり)の恋」を誓ったところが、
夜明けを迎えたとたん、別れのつらさか恨みごとを言いやがった。
矢矧(やはぎ)の橋はあんなに長いのに、逢瀬(おうせ)の夜はこんなにも短いと。
よいよいよいよい。

よいやさ、いいさ御曹司さまは良いおとこ。
敵との数度にわたる戦いのすえ、
勝どきあげて大物(おおもの)を討ち取った。
恨みつらみも、はかないことに波のうえ。

そもそも、それがしは桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい)
平知盛幽霊でござる。
驚いたかい? めったにないことだろう?
どうでぇ義(よし)こう、生前以来。随分とおひさしぶり。

皆さまお馴染みの弁州こと武蔵坊弁慶に、
伊勢三郎(いせのさぶろう、四天王と賞賛される義経の家来)
駿河次郎(するがのじろう、四天王と賞賛される義経の家来)はおもしろがり、
早く盃(さかづき)を差し合おうじゃないか(刀を刺し合う、の駄洒落)
(すい)も、お椀を重ねたぐらいじゃ回るまいと、
うきうき騒ぎ、拍子をとって応えたものさ。

すいてうえいちや すいてうえいちや(唐人踊)
すいやい すいやい すいやい(酒よ、酒よ、酒よ)
みんちやぁ うつうなや(何もかもみな、現実ではないのだ)

ようし、こどもら、振鼓(ふり つづみ)をお取り。
そうしてそこで、仲良く遊んでいるのだぞ。
花が見たければな、それそれ、吉野へおいでな。
嘘だろう、こんな時期に花があるものかと、そう聞くかい?(文政7年9月初演※旧暦)
(いな)、否(いな)、咲くとも。雪の花がのう。
そりゃそりゃ、そりゃそりゃ。そりゃ本当に?
そうとも、木の一本一本、見事に雪が降り積もる。
花と雪、どちらも風流。吉野の風流な景色を、堪能なさい。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

こうして眺めさせた人形を、ひとつにまとめて箱鼓の中へ。
とりどりの物語を演じた箱鼓は、ぱっとばかり鳥かごに替わり、
傀儡師は、こんどは雀を追って、去ってゆく。
雀を追って、去ってゆく。



////// 雀踊(雀踊の振りを解説する、絵草紙のみ)






踊れる?

//////



軽妙洒脱な歌詞に乗せられ、最後にちょっと、ふざけてしまいました。江戸の昔の「雀踊」の踊り譜(ふ)が面白くて、つい。。。どうぞ、お許しくださいませ。それにしても江戸時代の人はどうしてこんなに、「お尻丸出し」が好きなのでしょうか。

「傀儡師(かいらいし)」という踊り、の記事はこちら
  清元「傀儡師(かいらいし)」の原型、浮世化傀儡師と外記傀儡師、の記事はこちら



以前の記事では、この踊りは特に前半が「だいぶ単調に見える」と書きました。評価の高い振付ですが、唄の出来が良すぎて、それでも引けをとるのかも知れません。




非常に難しい演目だと、思います。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして
今月歌舞伎座で傀儡師を初めてみて歌詞の中で船弁慶でてきたなぁと思ったらあら珍しや、いかにときたら義経だろうと思ったら義公とくだけたので「え、何?」と思いその後の展開がよくわからなくって一度しっかり詞章を読んでみたいわ!と思いこちらのブログにたどり着きました。
詞章だけでなくこんな詳しい解説があって大いに役立ちました。見る前に読んでおけばよかったと思います。もう一度見に行きますので次回は振りをみてもより理解できそうです。

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