2019年4月18日木曜日

説教くさいぞ!浅草観音さま。常磐津「独楽(こま)」全訳






以前公開した、「独楽(こま)」という踊りの記事の続きです。







////// 湯島天神さま探訪記

東京へ行ったら一度行ってみたいと思っていた湯島天神さま。清元「傀儡師(かいらいし)」という踊りで、八百屋お七が「恋」と書いた「書初め」を奉納する神社です。頻繁に東京へ出ますが、今までご縁がありませんでした。

みなさんは、この神社へ行くとき、どうやって行くと思われますか? 住所を調べると「湯島三丁目」とあるので、今年の一月、わたしはJR「御茶ノ水」駅で下り、さだまさしの歌で知られる「聖橋」を渡ったところの「湯島」という神社で、息子の受験合格を祈願しました。

そうして意気揚々と「お参りおわったよ!」と東京住まいの従姉妹に写メを送ったところ、「そこは湯島天神ではない」と言われてしまい。。。


湯島天神さまへお参りするには、JRであれば「御徒町」駅、本来なら東京メトロ千代田線「湯島」駅で下りるのが正しいらしいです。地方人であるわたしには、湯島へ行くのに上野近辺で下りるイメージはありませんでした(フォークソング「檸檬」のせい?)

わたしが息子の合格祈願をしたのは菅原道真公をお祀りする「湯島天満宮(湯島天神さん)」ではなく、五代将軍 徳川綱吉公が作った孔子廟「湯島聖堂」でした。武家の子弟に儒学を広めるため建てたという学問所の跡で、孔子を祀る神社です。考えてみれば、そもそもわたしは「湯島天神=湯島聖堂」と思っていたのです。

そうは言っても、こちらもご霊験あらたからしく、おかげさまで息子は無事合格しました。やれやれ。

探訪記と書きましたが、実際には「探訪できなかった記」ですね。


2019年1月の湯島聖堂




////// 常磐津「独楽(こま)」概要


■初演■
昭和3年(1928)、東京歌舞伎座
2代目 市川猿之助(猿翁=えんおう、1888~1963年)

■作曲■
3代目 常磐津文字衛(ときわず もじべえ、1888~1960年)

■作詞■
木村富子(1890~1944年)

■振付■
2代目 花柳寿輔(はなやぎ じゅすけ、1893~1970年)



常磐津「独楽」には、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「車曳(くるまひき)」と、「賀の祝(がのいわい)」の場面が取り込まれています。

曲独楽売の商い




////// 常磐津「独楽(こま)」に取り込まれた「菅原伝授手習鑑」

浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」は延享3年(1746年)、大坂・竹本座初演の戯曲です。初代 竹田出雲(生年不詳~1747年)ほか複数人による合作で、平安時代に実際に起きた大臣・菅原道真(825~903年)の失脚から、死んで天神となり政権に祟るまでをドラマチックに描くものです。

菅原道真が愛した梅の樹が、大宰府へ配流(はいる)された主人のもとへ飛んで行ったという伝説(「源平盛衰記」など)をもとに、主君・菅丞相(かんしょうじょう=菅原道真)から松、梅、桜、の樹を下げ渡された家臣・白太夫と、その三人の息子たち・松王丸、梅王丸、桜丸の悲劇を語ります。


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- 菅原道真(825~903年)が詠んだ和歌「大鏡(平安時代後期)」-

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ
(現代語訳)
春風が吹いたなら、また花の香を届けておくれ。主(あるじ)を失ったからと言って、春を忘れるほど嘆いてはいけないよ。


湯島天神の梅


「車曳(くるまひき)」は菅丞相(かんしょうじょう)側の馬引きである桜丸と梅王丸が、主君を失脚させた時平(しへい)が載る牛車を襲い、時平(しへい)側の馬引きである松王丸と、牛車を曳き合って争う場面です。

「賀の祝(がのいわい)」は白太夫七十歳の祝いのため、「車曳(くるまひき)」のあとで三人息子が集まる目出度い日の場面です。息子たちは父の手前、争(あらそ)ったことを隠しています。しかし菅丞相(かんしょうじょう)失脚の原因を作った桜丸は、その日責任をとり、父・白太夫と梅王丸の前で自害することになるのです。

常磐津「独楽」が「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」を取り込んだ第一の理由は、独楽の古名が「小松ぶり」だったからでしょう。第二に、車曳(くるまひき)の「さっさ引け引け」という歌詞が、曲ゴマを操る動作と重なるからでしょう。しかし「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」は悲劇なため、近代的でスピード感のある常磐津舞踊「独楽」のなかでは、少しばかり違和感のある、不幸なイメージの挿入になっています。

車曳(くるまひき)




////// 常磐津「独楽(こま)」に漂う、浅草観音さまのいたずらの匂い


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- 「独楽売 萬作(こまうりの まんさく)」あらすじ-

正月元旦の朝、独楽売 萬作(こまうりの まんさく)が浅草寺の雷門の前で売立口上し、見物客を前に曲ゴマの技(わざ)を披露します。やがて興が乗った萬作はみずからがコマに変身し、抜き身の刀の上を廻る「刃渡り」という曲ゴマを観せながら、人々の前から消えてゆくのです。


以前の記事で、ナンセンスすぎるこの物語の終幕を「浅草観音さまの、いつもの悪ふざけだろうか」と、書きました。浅草寺の観音さまは、悪戯(いたずら)好きで知られます。有名なところでは姥ヶ池(「浅茅が宿」とも)の伝説があります。
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- 姥ヶ池(浅茅が宿)伝説-

浅草雷門の下で娘に客引きさせ、客になった男だけ石の枕に寝かせる老婆がいた。男が寝入るともうひとつの石で上から打って頭を潰し、荷物を奪うのだ。あるとき美しい稚児が客になり、娘をつくづくと篭絡(ろうらく)した。娘はうっとりしたあまり自分の部屋へ戻らずにそのまま客の枕で寝ていて、老婆に頭を潰されて死んだ。老婆は嘆き悲しみ、客の遺体を投げ込んでいた池へ自分も身を投げて死んだという。娘を誘惑した稚児は、浅草観音さまの化身だと言われている(「江戸から東京へ」大正2年刊行)

姥ヶ池は、いまも花川戸公園(東京都台東区)に一部が残っています。

浅草寺の雷門

ところで、あまり知られていませんが、浅草観音さまは開闢以来一度もご開帳なさってません。推古天皇36年3月16日(628)、当時はまだ海だった浅草で漁師の網に一寸八分の仏像(聖観音像=しょうかんのんぞう)が掛かかります。これを持ち帰った漁師が仏師になって祀ったのが、浅草の観音さま信仰の始まりです。その後、浅草寺は何度も戦災で消失しますが、そのたび観音さまは「自分から避難し、寺が再建されるとまた自分から戻って来た」と言われています。本当に戻ってらっしゃったのか、誰も確認していません。

そもそも一寸八分のご本尊さまです。5cmくらいですから。漁師の網って、推古天皇の時代でもだいぶ細かかったんですね。

いらっしゃるのか、いらっしゃらないのか。天子さまや徳川家康公を含めて誰も見たことがなく、それでも霊験あらたかなのが浅草観音さまです。江戸人の洒落の集大成とでも、言いましょうか。生まれも育ちも浅草だというご老人は、「誰も見たことないから、ありがたいんじゃないか」と、笑います。洒落というのは、関西の専売特許ではないようです。

ところで江戸時代の人々は「シラミ」を「観音さん」と、呼んでいました。その形が千手観音(せんじゅかんのん)に似ているから、など説明されますが、単純に小さいからのような気もします。ムズムズすると「観音さんが、またいたずらを」などと言ったようです。



////// 常磐津「独楽(こま)」歌詞・註解と、伝説あれこれ

◆新玉(あらたま)
お正月のことです。


◆門礼(かどれい)
お正月に門のところで年始の挨拶をして廻る人々を指します。「廻らば廻れ門礼も」というのは、「花笠」という流行歌(「松の落葉集」など)や河東節・外記節「傀儡師」に出てくる、「廻れ廻れ風車」をもじったように思います。


◆気散(きさん)じな
のんきな、というぐらいの意味です。

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

◆味(あぢ)に拗(す)ねたる松の振り
「逢はじに拗ねたる、松の枝振り」という意味の掛詞のようです。「松=待つ」です。梅には声をかけたのに、声を掛けられなかった松が主人に逢うことができず拗ねていたとも読める(掛詞(1))し、一方で「淡路の松」(掛詞(2))とも読むことができる、複雑な洒落です。

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掛詞ー(1)ー
とても有名な「大宰府の飛び梅」ですが、もうひとつ「板宿(いたやど)の飛び松」という伝説もあります。

実は主人の大宰府配流に際して、菅原道真の家から飛び立ったのは梅の樹だけではありません。大宰府へ向かう途中「板宿(いたやど)(兵庫県神戸市須磨区板宿町)というところに立ち寄った菅原道真は、このように詠んだと言われます。

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- 菅原道真(825~903年)が詠んだ和歌「天神本地(てんじんのほんち、天神縁起など)」-

梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて 松のつれなかるらむ
(現代語訳)
梅は飛び、桜は悲しみで枯れてしまったというのに、何故、松は冷たいのだろう。

するととたんに菅原道真の邸宅(京都)にあった松の樹が飛来し、その地に根付きました。大正時代に落雷で枯れましたが、板宿(いたやど)には今も巨大な松の根が保存されています。「大宰府の飛び梅」「板宿(いたやど)の飛び松」と、並び称される伝説です。

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掛詞ー(2)ー
「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「寺子屋」では、時平(しへい)の馬引きとして兄弟と反目しあった松王丸が、父の主君・菅丞相(かんしょうじょう)の子の身代わりに自身の息子を差し出します。このエピソードのもととなったのは、伊勢平氏の本拠地・淡路島の記録です。伊勢平氏頭領・平清盛(1118~1181年)が大和田泊(おおわだのとまり)を整備した際、30人の人柱(ひとばしら)が必要になったのですが、それを押し止(とど)め、自分からすすんで身代わりの人柱(ひとばしら)となった小姓があり、その名前が「松王丸」です。

寺子屋

「淡路の松」は、見ず知らずの他人のため、自分の命を差し出した「松王丸」のやさしさを想起させる言葉なのです。


◆二階の盃
女郎買いをする客は、揚げ屋の二階で夫婦の契りを模した盃ごと・三々九度をしなければいけませんでした。神主は立ち会わず、「花車」と呼ばれた揚げ屋の女房が執りしきる形式だけの結婚式です。江戸の昔、二世を誓わない同士が男女の営みをすると、生きたまま地獄へ堕ちると言われていたせいです。

ですがこの盃ごとが仮のもので、閻魔さまの鏡の前ではなんら効果がないことを、女郎たちは知ってました。そのため、揚げ屋の二階で交わす三々九度は、女郎にとっては悲しいことであり、「因果の小車」を象徴する苦行のひとつでもありました。


◆独楽の起源
歌詞の中では菅丞相(かんしょうじょう)を独楽の起源のように扱いますが、架空のエピソードです。


平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」


////// 常磐津「独楽(こま)」歌詞・全現代語訳

◆原文

(にぎわ)ひは花の東(あづま)の浅草寺
金龍山(浅草寺の山号)の名にしるき
今日新玉(あらたま)の縁起よく 商い始め 来そはじめ
ご利生(りしょう)も 身に澤潟屋(おもだかや)
八百八町ご贔屓(ひいき)を めぐりくるくる 独楽売(こまうり)

さぁさぁこれは お子ども衆のお慰(なぐさ)み 評判の独楽ぢゃ 独楽ぢゃ

商う品は大独楽小独楽 廻らば廻れ門礼(かどれい)
屠蘇(とそ)の機嫌の調子よく 沖ぢゃえ 沖ぢや 朝夕まわる汐(しお)
さしたり引いたり帆がまわる 舟にゆられて眼がまわる
えぇしょんがえ 身は気散じな世わたりや
大路(おおぢ)をわたる初東風(はつこち)
浮かれうかれて来たりける

エヘン 古めかしくも言い立ては そもそも独楽のはじまりは

(ふ)りし延喜(えんぎ)の御代(みよ)かとよ
時平(しへい)の大臣(おとど)の よこしまより 筑紫へ遠くさすらいの
菅丞相(かんしょうじょう)が 愛樹(あいじゅ)の梅

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

東風(こち)吹かば 匂ひおこせ とよみたまふ
君が情けの通ひては 花もの言はねど都(みやこ)より ひと夜のうちに飛び梅の
その枯木(かれき)にて 手ずさみの 姿も優な小松ぶり(独楽の古名)
(かぶ)りの紐をきりりとしやんと巻いて 投げては えいと引く
さっさ引け引け 五色の独楽や御所車(ごしょぐるま)
ありやありや こりやこりや やっとな
酒がすぎたか目元が桜 梅は笑へど常(つね)の癖 味に拗ねたる松の振り

三つ子の親は七十の 賀の祝ひとてなますやら
米炊(か)し味噌摺(す)り あたふたと
きざむ嫁菜(よめな)の姉妹(あねいもと) 色香を添へてなまめかし
約束かたき心棒(しんぼう)に やがてもうけし 子持独楽(こもちごま)
孫彦玄孫(まごひこやしゃご)と末広(すえひろ)
黄金銭独楽(こがねぜにごま) うなり独楽(ごま)
ごんごん独楽の鳴りもよく 天下とるとる 投げ取りの
曲はさまざま それ 綱渡り(つなわたり)


燕廻(つばめまわ)しや 風車 めぐる月日が縁となり 一寸(ちょっと)格子へ
煙管(きせる)の火皿(ひざら)が熱くなるほど 登りつめ
二階で廻る さんさん盃(さかづき)
とんだりはねたり 雷門(かみなりもん)の助六さんでは無けれども
衣紋流し(えもんながし、曲ゴマの芸)の居続けは しんぞ命の雪見酒
おっとそこらで とまらんせ
止めても止まらずくるくると 寿命は尽きぬ 独楽しらべ
めでたかりける 次第なり



◆現代語訳

花の吾妻の浅草寺、山号・金龍山の名で有名なその山へ、
縁起をかつぎ正月元日の朝から商い始めに来ております。
これなるは、重くご利益をたまわっている、澤潟屋(おもだかや)でございます。
広く江戸八百八町にご贔屓(ひいき)をたまわろうと、
独楽売(こまうり)だけに、くるくる巡(まわ)っているのでございます。

(台詞)
さぁさぁ、これが子ども衆の遊び道具、評判の独楽というものじゃ。

商う品は大きなものから小さなものまで。
廻るならば、お廻りなさい。
ご近所挨拶に廻るのも、振舞いの屠蘇に浮かれて調子良く。
吉原行きの舟に乗れば、沖じゃ、沖じゃとはしゃいで廻る。
朝な夕な、潮が差してはまた引いて。
風に吹かれて帆が廻れば、今度はこちらの眼が廻る。
えぇ、しょうがない、この身は暢気(のんき)な世渡りだ。
大通りを吹き抜ける春風に乗り、浮かれ浮かれてやって来たのでございます。

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

(台詞)
えぇへん。古めかしい言い立てをさせていただくならば、そもそも独楽の始まりとは。

ずっと昔の延喜(えんぎ)の御代(みよ)のこと(901~921年)
大臣・時平(しへい)の邪(よこしま)な換言で筑紫へ流されてしまった、
菅丞相(かんしょうじょう)さんが愛した梅の樹です。

春風が吹いたら香りを届けて欲しいと、お詠みになったところ、
主君のお気持ちが通じたのか、ものを言わない花ではあるが、
京の都(みやこ)から一夜のうちに大宰府まで飛来したのでございます。
その樹が枯れたとき、菅丞相(かんしょうじょう)さんが手遊びに、
姿の美しい「小松ぶり」を作ったのが始まりです。
コマの使い方はと言えば、
冠の紐をきりりとしゃんと巻きつけ、投げてはえいっと引くのでございます。
さっさ引け引け、五色の独楽と御所車、
ありゃありゃ、こりゃこりゃ、やっとな。
酒が過ぎたか目元が桜色に染まり、梅は咲き染(そ)め微笑みますが、
逢いたい人に逢えず、拗ねているのは松の枝振り(独楽の古名は「小松ぶり」)です。


梅王丸、桜丸、松王丸の親・白太夫の七十の賀の祝(古希)のため、
その嫁たちは魚を捌(さば)いたり、米を炊いたり、味噌をすったり、あたふたと。
嫁菜(葉物野菜)をきざむその姉妹(あねいもと)たちが、
祝いの席に色香を添えてなまめかしく。
そういう女とかたく契りを交わして辛抱すれば、子持ちになれるし、
孫も玄孫(やしゃご)も授かりましょう。子孫は末広がりに広がるのです。
そうすれば黄金(こがね)も手に入るし、銭がうなることでしょう。
ごんごんと成りあがり、天下を取る取る、投げ縄を投げて独楽を取るようなもの。
独楽の曲芸はさまざまです。たとえば、それ、綱渡りをごろうじろ。


燕廻(つばめまわし)はいかが。次には風車の技(わざ)を、お観せいたしましょう。
月日が巡るうちにはご縁があり、ちょっと遊郭の格子を覗くこともあるでしょう。
二階の盃ごとでは緊張のあまり、
煙管(きせる)の火皿(ひざら)が熱くなるのも気がつかず、
うろたえたまま三々九度を交わすのです。

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

運命の独楽は飛んだり跳ねたり。
雷門(かみなりもん)の助六さんではないですが、
衣文坂(新吉原の土手)に居続けるのは、命をかけて雪見酒をするようなもの。
おっと、そこらで止めておきなさい。
そう言って止めても、止まることなく独楽はまだ、くるくると。
廻る独楽の寿命は尽きず、因果の唄を奏(かな)で続けます。
こうして目出度い正月の日は、今年も過ぎていったのでございまする。

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近年の新作のため、音曲だけ聞くと口説(くどき)くささが少なく爽快な踊りです。ところが歌詞を丁寧に解きほぐせば、やっぱり口説(くどき)が出てきます。というか、意外なことに、ちょっと説教くさかったですね(笑)





百廻り(独楽の技)に思いを込め、因果なんか吹っ飛ばせ! ぐらいの勢いで踊るのが、よろしいかと思います。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

独楽=小松ぶり=管相丞の繋がり、言葉遊びをご伝授頂きたいです😅

水木歌惣事務局「上月まこと」 さんのコメント...

お返事遅くなりました。 ちょっと、気を抜いていてご質問に気づきませんでした。 申し訳ありません。

古い時代の日本では、ひとり遊び用の木のかけらを「つぶり」と呼んでいたところ、奈良時代ごろ高麗国(こま)から珍しい「つぶり」が伝来、「高麗(こまの)つぶり」と呼ばれました。これを和風に当て字したのが「小松ぶり」で、日本のコマの起源です。のち省略して「こま」と呼ばれるようになり、再度、ひとり遊びを表す当て字(独楽)が当てられたようです。

管相丞こと菅原道真公は大宰府に独楽を持ち込んだと言われ、九州では「独楽の開祖」のように扱われています(さいふごま、八女ごま)。 常磐津「独楽」では、この伝承を扱っています。

「言葉遊び」というより、「独楽尽くし」の最初に独楽の起源をざっと説明している部分だと思います。

お役に立てれば、嬉しく存じます。。。。。

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