だいぶ間(ま)が空いてしまいましたが、平成24年、水木流東京水木会舞踊公演で踊った、常磐津「松廼羽衣(まつの はごろも)」という踊りの紹介の、続きです。
////// 歴史
謡曲「羽衣」を歌舞伎舞踊に転じたもので、明治31年(1898)、5代目 尾上菊五郎が初演し、のち「新古演劇十種(しんこ えんげき じっしゅ)」のひとつに入れられました。3代目 河竹新七(かわたけ しんしち)作詞、8代目 小文字太夫と6代目 岸澤式佐(=5代目 岸澤古式部)による作曲ですが、長唄部分の作曲は13代目 杵屋六左衛門(きねや ろくざえもん)です。
初演当時は長唄と常磐津の掛け合いがあり、その後常磐津曲として独立しました。謡曲「羽衣」由来の邦楽曲は、ほかに一中節や長唄が知られます。
////// 見どころ、特徴
前の紹介記事にも書きましたが、もとになった謡曲「羽衣」は物語の構成が無茶苦茶です。神道と仏教が渾然(こんぜん)一体となって扱われるうえに、わが国における太母神(たいぼしん)信仰の代表格・月の満ち欠けを作り出す黒衣の十五人、白衣の十五人の月乙女の伝説が登場し、「東遊び(あずまあそび)」のうち「駿河舞(するがまい)」と呼ばれる勇壮な神楽(かぐら)の起源を、富士山信仰とともに謳いあげる意味不明な内容です。
意味がわからないですよね。大丈夫、書いているわたしも、何がナンだかわかりません(笑)。
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- 伝・世阿弥(生年不詳~1443年)作「羽衣」※観世流 謡曲-
三保の松原の漁師・白龍が松の枝にかかった美しい衣を見つけ、家宝にするため持ち帰ろうとするが、そこへ持ち主である天人が現われ返してくれと言う。
返す代わりに舞を所望すると天人は喜び、自身が月の乙女のひとりであり、この出会いと喜びを記念して「東遊び」のひとつ駿河舞を地上に授けると言い、「南無帰命月天子本地大勢至(月天子さま、またの名を大勢至菩薩さまに帰依しもうしあげます)」と舞いながら、富士の峰高く飛び去ってゆく。
[地謡]
東遊の駿河舞 此時や始めなるらん。それ久方の天と言っぱ 二神出世の古 十万世界を定めしに 空は限りもなければとて 久方の空とは 名づけたり。然るに月宮殿の有様 玉斧乃修理とこしなえにして 白衣黒衣の天人乃 数を三五に分つて 一月夜々の天少女 奉仕を定め役をなす。
[シテ]
我も数ある天少女。月乃桂の身を分けて假に東乃 駿河舞 世に傳へたる曲とかや。
[地謡]※現代語訳
東遊の駿河舞は、このときの天女の舞がもとになっているのだろう。そう申し上げるのは、昔々イザナギ・イザナミの二神が世界を創ったとき、天は限りなく上まで広がっていたので「久方の空」と名付けられた。そうして、その空にある月宮殿は美しい斧をもって建築され、永遠に壊れることがないのである。その月宮殿内には白衣と黒衣をまとった天人が、それぞれ十五人ずつ住んでおり、一月のあいだ毎夜交代で舞を舞うことで、月の満ち欠けを管理するのだ。
[シテ]※現代語訳
はい、わたしも、その天人たちのひとりです。月の世界に住まう身ですが、いまは即興的に駿河舞を舞い、人の世へ伝えることといたしましょう。
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原曲は上記のような内容です。「天人」だと言うから都率天(とそつてん)に住んでいるかと思いきや、何故か月の満ち欠けを担当する月乙女です。
かつ「今から駿河舞を授けよう」と言いながら、仏道帰依を口にし富士山へ帰ってゆきます。駿河舞は男性武人による舞なので、文脈的にどこもどうやっても意味がつながりません。
常磐津の歌詞はその「羽衣」のくどくて意味のわからない部分をバッサリ捨て去り、すっきりとまとめあげ見事です。また、謡曲「羽衣」が月乙女の伝説を主軸にしたのに対し、常磐津では「東遊び」という雅楽そのものを主軸に据え、物語を展開します。
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-「東遊(あずま あそび)」※神楽舞、雅楽 -
貞観3年(861)3月14日、東大寺大仏供養に奉納されていることから、その頃には既に成立していたとわかります。むしろ「廃(すた)れていた」と記録にあり、この廃れゆく「東国の男舞」を一条天皇(980~1011年)が後年「神楽(かぐら)」に選定するなど、現在にいたるまで国を挙げ、その保存と伝承に努めてきた経緯があります。
阿波礼(あはれ)[斉唱]
天晴(あはれ) お お お お
↓
一歌(いちうた)[斉唱]
はれな 手を調へろな 歌 調へむな 相模(さがむ)の嶺
↓
二歌(にうた)[独唱、斉唱]
え 我が背子が 今朝の言伝えは 天晴(あはれ)
七つ絃(を)の 八つ絃の琴を 調べたることや なほ懸山の桂の木や
お お お お
↓
駿河歌一段(するがうたの いちだん)[独唱、斉唱]
や 宇渡浜(うとはま)に 駿河なる宇渡浜(うとはま)に
打ち寄する波は 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し
↓
駿河歌二段(するがうたの にだん)[斉唱、舞]
言こそ佳し 七種(ななぐさ)の妹(いも)は 言こそ佳し
逢える時 いささは寝なんや 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し
↓
加多於呂志(かたおろし)[舞(所作のみ)、唄なし]
↓
阿波礼(あはれ)[斉唱]
天晴(あはれ)
↓
求子歌(もとめごの うた)[独唱、斉唱、舞]
千早振る 神の御前の 姫小松
あはれれん れれんやれれんや れれんやれん 可憐(あはれ)の姫小松
↓
大比礼歌(おおびれの うた)[独唱、斉唱]
大比礼や 小比礼の山 はや寄りてこそ
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この「東遊び」のうち、駿河舞こと「駿河歌」と求子舞こと「求子歌」を、常磐津は物語のベースに選びました。ところが、天女が漁師と姫子松をなしたという伝説「求子舞」のせいで、時間軸に信じられない異変が起きてしまいます。
この「時間軸の異変」について、前の記事では「作者の作為」ではないか、と書きました。
////// 作詞者・3代目 河竹新七
3代目 河竹新七(かわたけ しんしち、1842~1901年)は、おもに明治時代に活躍した歌舞伎狂言作者です。河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816~1893年)の弟子であり、市村座の立作者になったあとに3代目 河竹新七を襲名、市村座や歌舞伎座などの立作者として活躍しますが、9代目 市川團十郎(1838~1903年)と福地桜痴(ふくち おうち、1841~1906年、ジャーナリスト・政治家・劇作家)による演劇改良運動に対立して歌舞伎座を退座、しかし翌年、5代目 尾上菊五郎の歌舞伎座出演を機に歌舞伎座へ復帰する、めんどくさい人物です。
明治時代に活躍したため現存作品が多く、なかでも代表作は「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)」という、陰惨で、もどかしい因果話(いんが ばなし)です。
籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとの えいざめ、河竹新七 作) |
ところで、河竹新七(かわたけ しんしち)が一時的に反目した福地桜痴(ふくち おうち)の演劇改良運動とは、明治期になって始まった、旧来舞台芸術の近代化を目指す運動です。そこではたとえば芝居茶屋を通した切符流通の見直しや、女形の廃止などが提唱されました。同じころ、作家・坪内逍遥(つぼうち しょうよう、1859~1935年)も西洋オペラに刺激され、国劇(歌舞伎=竹本、など)・国楽(能、清元、長唄、常磐津、など)を統合した「新楽劇」という、わが国独自の総合音楽芸術を作ろうとしていました。
福地桜痴(ふくち おうち)の演劇改良作品としては女児が出演する「鏡獅子(かがみじし、1893年歌舞伎座にて初演)」が有名で、坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の新楽劇としては新劇(台詞が現代語)を取り込んだ新舞踊「お夏物狂い(別名「お夏狂乱」、1908年発表、1914年帝国劇場にて初演、6代目 文字太夫と2代目 文字兵衛による常磐津作品)」が有名です。
昭和51年(1976)、歌泰会「鏡獅子」 |
何故、現存する多くの歌舞伎舞踊曲が明治以降に作り直されたものなのか。その疑問への答えのひとつが、ここにあります。歌舞伎には演劇改良運動があり、歌舞伎舞踊には(坪内逍遥いわく)国楽の近代化が求められた時期がありました。
歌舞伎座 |
謡曲「羽衣」を写実化した河竹新七作品を、現代語訳でお届けします。エピソードを短縮したら「SF(science fiction)」風になってしまった、摩訶不思議な明治時代の作品です。
皆さまは、どのようにお感じになるでしょうか。
平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」 |
////// 歌詞(全現代語訳)
◆原文
〽風早(かざはや)の 三穂の浦面(うらわ)を漕ぐ舟の 浦人さわぐ浪路かな
「是(これ)はこの傍(あたり)に住む 伯了と申す漁夫にて候」
〽実に長閑(のどか)なる朝霞(あさ がすみ) 四方(よも)の景色を見渡せば あれなる松に美しき 衣懸(かか)れり いざや取りて我が家へ帰らん
駿河湾 田子の浦 |
「喃々(のう のう)それこそは羽衣とて 容易(たやす)く人に与ふべきものにあらず 返させ給え返させ給え 喃(のう)」
〽吹く春風に誘い来る 姿を三穂の松原や 霞に裾は隠せども 未だ白妙(しろたえ)の富士の顔
「さては天女にましますかや 好(よ)き物えたり」
〽と打ち喜び 返す気色(けしき)も無かりける
〽今はさながら天人も 羽根無き鳥の如くにて
〽飛行(ひぎょう)の道も絶えぬると 挿頭(かざし)の花も打ちしおれ 五衰(ごすい)の姿あらわれて 露の玉散るばかりなり
〽伯了はそれと見て いかにもあまり御痛(おんいたわ)し されども衣を返しなば そのまま天にや昇るらん
平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」 |
〽否(いや)とよ我も 天乙女(あま おとめ) たとえ世界は変わるとも 慕ふ心は只一筋に 思ひ染めにし恋衣(こい ごろも) 契り結ばん女夫松(みょうと まつ) やがて小松(こ まつ)の色添えて 夢かうつつか疑わしくも 一人寂しき手枕(た まくら)に 妹背を渡す鵲(かささぎ)の 天津乙女(あまつ おとめ)は我妻と 睦(むつ)み合うのも楽しみに 賤(しづ)が手業(てわざ)もまだ白波の 寄する渚に千代かけて 変わらぬ松の深みどり 心の丈を推(すい)してと いとも床(ゆか)しき其の風情
〽然(さあ)らばかねて聞き及ぶ 天女の舞を今ここで 奏(かな)で給えと進むるにぞ
〽乙女は衣着なしつつ 仮に吾妻の駿河舞
〽思ひは胸に打ち寄する 波の鼓(つづみ)のそれならで 虚空(こくう)に響く 音楽に 霓裳羽衣(げいしょう うい)の一曲(ひとかなで) 雨に潤う花の顔 連理(れんり)の枝に比翼(ひよく)の鳥 翼交わしてうらやまし
〽面白や 絶えなる香り花降りて 天の羽衣吹き返す 風に乗じて ひらひらひら 昇り行方(ゆくえ)も 白波に 霞彩(かすみ いろど)る乙女の姿 しばし止(とど)めて三保の浦
〽茂れる松の常磐津の
〽波打ち寄する岸澤の 糸に残して伝へける 糸に残して伝へける
◆現代語訳
三保の浦あたりを行く舟が風の速さにあおられ、立ち上がる荒波にあらがおうと漁師たちが声をかけあう、松原のそんなある日の朝のこと。
平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」 |
「自分はこのあたりに住む、伯了という漁師でござる」
実にのどかに、朝の霞(かすみ)がたなびいております。四方を見渡してみたところ、あれ、あそこの松に美しい衣がかかっていました。さてでは、それを取って家へ帰るとしましょう。
「のう、のう、それはまさしく羽衣というもの。人の身で、簡単に手に入れることができるものではありませぬ。お返しください、お返しください、のう」
そう言うのを見てみれば、春風に吹かれてやってきたような可憐な姿が、三保の松原に降り立っています。霞(かすみ)の向こうにのぞく富士の高峰(たか みね)のように白く美しい、年端もゆかぬ顔立ちの女性です。
「さすれば貴女は天女さまでございますか、天女さまの衣とは、これは良いものを手に入れました」と、伯了はかえって喜んでしまい、返そうという意思を見せません。
平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」 |
こうなっては天人も自分を羽根のない鳥のように感じ、飛んで天へ帰る道が絶えてしまったと絶望したせいで、髪に挿した花が急にしおれてしまったほど。相貌に第二の五衰(ごすい)まで顕(あらわ)れ、若葉の姿も玉露が散る寸前のように、儚(はかない)い様子になりました。
伯了はそんな天女の姿に同情し「だいぶおいたわしいご様子ですが、とは言え、衣をお返しもうしあげたら、きっとそのまま昇天なさるに違いなく、これは悩ましいことです」と、いう声を漏らします。
すると「まさか、わたくしは天津乙女なのですよ」と、天女が返します。そうして続けて言うには「たとえ住む世界が変わってしまったとしても、お互いが、お互いを慕うこころは、これからもずっと永遠に、ふたつの世界を突き抜け一筋につながっていますとも」と。
お忘れになったのですか、ふたりの出会い、恋の初めのあの衣のことを。あの羽衣をきっかけにわたくしたちは契りを結ぼうと夫婦松(めおとまつ)のように寄り添い、やがて小さな子どもの姫小松が生まれ、ふたりの恋に彩りを添えてくれたものです。
今はこうしてお別れしなければいけませんが、夢かうつつかと疑心暗鬼になりながら、ひとり寂しく手枕で寝る夜にも、七夕の夜にはカササギが、夜空に羽を重ねて天の川に橋を作り、自分はその橋を渡って行って、また再び天津乙女に遭うのだと、そのように信じてはくださいませんか。
平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」 |
自分の妻は天津乙女なのだと、そうしてまたいつの日にか抱き合い、愛し合うのだと、それを楽しみに、わたくしを待っていてはくださいませんか。
穢(けが)れを知らない白波の寄せる渚に千年のときが行き過ぎ、それでも変らない松の深緑のように、わたくしのこころも穢(けが)れを知らず、松の緑と同じに未来永劫こころ変わりはありません。このわたくしのこころのたけを、どうぞ察してくださいませ。そう、妻になった天女が、どうにも奥ゆかしい風情で伯了にすがります。
そうまで言うのであれば、かねて評判の、しかしわたしには一度も見せてくれていないあの天女の舞を、今ここで舞ってはくれないかと、伯了が頼みました。妻は委細承知とばかり羽衣をまとい、即興で東遊びの駿河舞を舞い始めます。
伯了のこころに、「鼓の連打かと思うほど間断なく岸へ打ち寄せる波のように、あなたへの恋の想いが、この胸に強く打ち寄せてまいります」と言う、天女のこころの声が聞こえるや、何もない空のうえに、唐の玄宗皇帝が月宮で見た仙女の舞を覚えて作曲したという、霓裳羽衣(げいしょう うい)の一節(ひとふし)が響き渡り、そのとたん疲れたように見えた天女の顔が、雨に潤う花のように再び瑞々(みずみず)しく輝きを取り戻しました。
「松廼羽衣」伯了を演じる師匠・水木歌泰先生 |
玄宗皇帝と楊貴妃は七夕の夜にふたりきり、「天にあっては比翼(ひよく)の鳥となり、地にあっては連理(れんり)の枝となろう」と誓ったそうでございます。飛ぶ鳥が翼を交わして睦(むつ)みあうのは、いまの境遇のわたくしには羨ましいことです。
(玄宗皇帝と楊貴妃の恋はこの世では成就せず、妃だけがひとり永遠世界へ旅立つことになりました。わたくしもいま、ひとりでそっと永遠世界へ先立ちます。天人であるわたくしですが、この五衰の末には命を落とし、やがて常磐津の松とその磯におとなう漣(さざなみ)となって、未来永劫あなたと姫小松を見守ることになるでしょう)
平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」 |
不思議なことに、妻である天女が舞い進むうち天上から麗しい香りのする花が降り注ぎ、天の羽衣が風に乗って、ひらひらと空へたなびきます。天女はいまは地上への未練も忘れ、若い乙女の姿に戻ると五色の霞(かすみ)とまじわりながら風の向くまま昇天し、空の彼方へ消えてゆきました。もう、海を漂う白波のように、その行方を見ることはできません。三保の浦に、ほんのいっとき姿をとどめていた、霞(かすみ)のようなものでした。
三保の松原「羽衣の松」 |
(気づけば伯了の前には天女と出会う前と同じ朝霞の浜が広がり、いまも変らぬ松が、何ごともなかったかのように常盤(ときわ)の緑をたたえています)
深い緑が青々と茂る常磐津の松と
松の浜に打ち寄せる岸澤の波の物語を、
三味線の糸に写し、三味線の糸に写して、こうしてお伝えいたしました。
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五色の霞たなびく富士山の夜明け(写真です) |
なんとも美しい、不思議な歌詞だと思います。文化的な重要さで言えば、もちろん謡曲「羽衣」とは比較になりませんが、物語の構成や歌詞の良さで言えば、本家をうわまわる出来とさえ、感じます。
ただ、読みようによっては、漁師・伯了が鼻薬をかがされ、うまく丸め込まれただけのようにも。。。おっと、ごにょごにょ。
※「松廼羽衣(まつのはごろも)」という踊り、の記事はこちらからどうぞ
いかがでしょう。天界へ還ってゆく天女は「してやったり」、意気揚々と駿河舞を舞うのでしょうか。それとも悲しい別れに泣き泣き、駿河舞を舞うのでしょうか。皆さまは、どう思われますか。
踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |