2019年1月31日木曜日

タイムトラベル舞踊「松廼羽衣(まつのはごろも)」全訳



だいぶ間(ま)が空いてしまいましたが、平成24年、水木流東京水木会舞踊公演で踊った、常磐津「松廼羽衣(まつの はごろも)」という踊りの紹介の、続きです。






////// 歴史

謡曲「羽衣」を歌舞伎舞踊に転じたもので、明治31年(1898)、5代目 尾上菊五郎が初演し、のち「新古演劇十種(しんこ えんげき じっしゅ)」のひとつに入れられました。3代目 河竹新七(かわたけ しんしち)作詞、8代目 小文字太夫と6代目 岸澤式佐(=5代目 岸澤古式部)による作曲ですが、長唄部分の作曲は13代目 杵屋六左衛門(きねや ろくざえもん)です。

初演当時は長唄と常磐津の掛け合いがあり、その後常磐津曲として独立しました。謡曲「羽衣」由来の邦楽曲は、ほかに一中節や長唄が知られます。




////// 見どころ、特徴

前の紹介記事にも書きましたが、もとになった謡曲「羽衣」は物語の構成が無茶苦茶です。神道と仏教が渾然(こんぜん)一体となって扱われるうえに、わが国における太母神(たいぼしん)信仰の代表格・月の満ち欠けを作り出す黒衣の十五人、白衣の十五人の月乙女の伝説が登場し、「東遊び(あずまあそび)」のうち「駿河舞(するがまい)」と呼ばれる勇壮な神楽(かぐら)の起源を、富士山信仰とともに謳いあげる意味不明な内容です。

意味がわからないですよね。大丈夫、書いているわたしも、何がナンだかわかりません(笑)


****************
- 伝・世阿弥(生年不詳~1443年)作「羽衣」※観世流 謡曲-

三保の松原の漁師・白龍が松の枝にかかった美しい衣を見つけ、家宝にするため持ち帰ろうとするが、そこへ持ち主である天人が現われ返してくれと言う。

返す代わりに舞を所望すると天人は喜び、自身が月の乙女のひとりであり、この出会いと喜びを記念して「東遊び」のひとつ駿河舞を地上に授けると言い、「南無帰命月天子本地大勢至(月天子さま、またの名を大勢至菩薩さまに帰依しもうしあげます)」と舞いながら、富士の峰高く飛び去ってゆく。


[地謡]
東遊の駿河舞 此時や始めなるらん。それ久方の天と言っぱ 二神出世の古 十万世界を定めしに 空は限りもなければとて 久方の空とは 名づけたり。然るに月宮殿の有様 玉斧乃修理とこしなえにして 白衣黒衣の天人乃 数を三五に分つて 一月夜々の天少女 奉仕を定め役をなす。

[シテ]
我も数ある天少女。月乃桂の身を分けて假に東乃 駿河舞 世に傳へたる曲とかや。


[地謡]※現代語訳
東遊の駿河舞は、このときの天女の舞がもとになっているのだろう。そう申し上げるのは、昔々イザナギ・イザナミの二神が世界を創ったとき、天は限りなく上まで広がっていたので「久方の空」と名付けられた。そうして、その空にある月宮殿は美しい斧をもって建築され、永遠に壊れることがないのである。その月宮殿内には白衣と黒衣をまとった天人が、それぞれ十五人ずつ住んでおり、一月のあいだ毎夜交代で舞を舞うことで、月の満ち欠けを管理するのだ。

[シテ]※現代語訳
はい、わたしも、その天人たちのひとりです。月の世界に住まう身ですが、いまは即興的に駿河舞を舞い、人の世へ伝えることといたしましょう。
****************


原曲は上記のような内容です。「天人」だと言うから都率天(とそつてん)に住んでいるかと思いきや、何故か月の満ち欠けを担当する月乙女です。

かつ「今から駿河舞を授けよう」と言いながら、仏道帰依を口にし富士山へ帰ってゆきます。駿河舞は男性武人による舞なので、文脈的にどこもどうやっても意味がつながりません。

常磐津の歌詞はその「羽衣」のくどくて意味のわからない部分をバッサリ捨て去り、すっきりとまとめあげ見事です。また、謡曲「羽衣」が月乙女の伝説を主軸にしたのに対し、常磐津では「東遊び」という雅楽そのものを主軸に据え、物語を展開します。


****************
-「東遊(あずま あそび)※神楽舞、雅楽 -

貞観3年(861)3月14日、東大寺大仏供養に奉納されていることから、その頃には既に成立していたとわかります。むしろ「廃(すた)れていた」と記録にあり、この廃れゆく「東国の男舞」を一条天皇(980~1011年)が後年「神楽(かぐら)」に選定するなど、現在にいたるまで国を挙げ、その保存と伝承に努めてきた経緯があります。

阿波礼(あはれ)[斉唱]
天晴(あはれ) お お お お

一歌(いちうた)[斉唱]
はれな 手を調へろな 歌 調へむな 相模(さがむ)の嶺

二歌(にうた)[独唱、斉唱]
え 我が背子が 今朝の言伝えは 天晴(あはれ)
七つ絃(を)の 八つ絃の琴を 調べたることや なほ懸山の桂の木や
お お お お

駿河歌一段(するがうたの いちだん)[独唱、斉唱]
や 宇渡浜(うとはま)に 駿河なる宇渡浜(うとはま)に 
打ち寄する波は 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し

駿河歌二段(するがうたの にだん)[斉唱、舞]
言こそ佳し 七種(ななぐさ)の妹(いも)は 言こそ佳し 
逢える時 いささは寝なんや 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し

加多於呂志(かたおろし)[舞(所作のみ)、唄なし]

阿波礼(あはれ)[斉唱]
天晴(あはれ)

求子歌(もとめごの うた)[独唱、斉唱、舞]
千早振る 神の御前の 姫小松
あはれれん れれんやれれんや れれんやれん 可憐(あはれ)の姫小松

大比礼歌(おおびれの うた)[独唱、斉唱]
大比礼や 小比礼の山 はや寄りてこそ
****************


この「東遊び」のうち、駿河舞こと「駿河歌」と求子舞こと「求子歌」を、常磐津は物語のベースに選びました。ところが、天女が漁師と姫子松をなしたという伝説「求子舞」のせいで、時間軸に信じられない異変が起きてしまいます。

この「時間軸の異変」について、前の記事では「作者の作為」ではないか、と書きました。



////// 作詞者・3代目 河竹新七

3代目 河竹新七(かわたけ しんしち、1842~1901年)は、おもに明治時代に活躍した歌舞伎狂言作者です。河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816~1893年)の弟子であり、市村座の立作者になったあとに3代目 河竹新七を襲名、市村座や歌舞伎座などの立作者として活躍しますが、9代目 市川團十郎(1838~1903年)と福地桜痴(ふくち おうち、1841~1906年、ジャーナリスト・政治家・劇作家)による演劇改良運動に対立して歌舞伎座を退座、しかし翌年、5代目 尾上菊五郎の歌舞伎座出演を機に歌舞伎座へ復帰する、めんどくさい人物です。

明治時代に活躍したため現存作品が多く、なかでも代表作は「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)」という、陰惨で、もどかしい因果話(いんが ばなし)です。

籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとの えいざめ、河竹新七 作)

ところで、河竹新七(かわたけ しんしち)が一時的に反目した福地桜痴(ふくち おうち)の演劇改良運動とは、明治期になって始まった、旧来舞台芸術の近代化を目指す運動です。そこではたとえば芝居茶屋を通した切符流通の見直しや、女形の廃止などが提唱されました。同じころ、作家・坪内逍遥(つぼうち しょうよう、1859~1935年も西洋オペラに刺激され、国劇(歌舞伎=竹本、など)・国楽(能、清元、長唄、常磐津、など)を統合した「新楽劇」という、わが国独自の総合音楽芸術を作ろうとしていました。

福地桜痴(ふくち おうち)の演劇改良作品としては女児が出演する「鏡獅子(かがみじし、1893年歌舞伎座にて初演)」が有名で、坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の新楽劇としては新劇(台詞が現代語)を取り込んだ新舞踊「お夏物狂い(別名「お夏狂乱」、1908年発表、1914年帝国劇場にて初演、6代目 文字太夫と2代目 文字兵衛による常磐津作品)」が有名です。

昭和51年(1976)、歌泰会「鏡獅子」

何故、現存する多くの歌舞伎舞踊曲が明治以降に作り直されたものなのか。その疑問への答えのひとつが、ここにあります。歌舞伎には演劇改良運動があり、歌舞伎舞踊には(坪内逍遥いわく)国楽の近代化が求められた時期がありました。

歌舞伎座
これら近代化を目指す時代の潮流のなか、戯作者・河竹新七は謡曲「羽衣」由来の新しい常磐津に、どのような唄をつけたのでしょう。河竹新七は代表作「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)」では、時空を超え、忘れたころに不意に襲いかかる人間の運命というか、「因果」と「宿業」の悲しさを、写実の凄みで描ききりました。そこには狐も、知盛の幽霊も、曽我の五郎も登場しません。

謡曲「羽衣」を写実化した河竹新七作品を、現代語訳でお届けします。エピソードを短縮したら「SF(science fiction)」風になってしまった、摩訶不思議な明治時代の作品です。

皆さまは、どのようにお感じになるでしょうか。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」




////// 歌詞(全現代語訳)

◆原文
〽風早(かざはや)の 三穂の浦面(うらわ)を漕ぐ舟の 浦人さわぐ浪路かな

「是(これ)はこの傍(あたり)に住む 伯了と申す漁夫にて候」
〽実に長閑(のどか)なる朝霞(あさ がすみ) 四方(よも)の景色を見渡せば あれなる松に美しき 衣懸(かか)れり いざや取りて我が家へ帰らん

駿河湾 田子の浦

「喃々(のう のう)それこそは羽衣とて 容易(たやす)く人に与ふべきものにあらず 返させ給え返させ給え 喃(のう)
〽吹く春風に誘い来る 姿を三穂の松原や 霞に裾は隠せども 未だ白妙(しろたえ)の富士の顔

「さては天女にましますかや 好(よ)き物えたり」
〽と打ち喜び 返す気色(けしき)も無かりける

〽今はさながら天人も 羽根無き鳥の如くにて
〽飛行(ひぎょう)の道も絶えぬると 挿頭(かざし)の花も打ちしおれ 五衰(ごすい)の姿あらわれて 露の玉散るばかりなり

〽伯了はそれと見て いかにもあまり御痛(おんいたわ)し されども衣を返しなば そのまま天にや昇るらん

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

〽否(いや)とよ我も 天乙女(あま おとめ) たとえ世界は変わるとも 慕ふ心は只一筋に 思ひ染めにし恋衣(こい ごろも) 契り結ばん女夫松(みょうと まつ) やがて小松(こ まつ)の色添えて 夢かうつつか疑わしくも 一人寂しき手枕(た まくら)に 妹背を渡す鵲(かささぎ)の 天津乙女(あまつ おとめ)は我妻と 睦(むつ)み合うのも楽しみに 賤(しづ)が手業(てわざ)もまだ白波の 寄する渚に千代かけて 変わらぬ松の深みどり 心の丈を推(すい)してと いとも床(ゆか)しき其の風情

〽然(さあ)らばかねて聞き及ぶ 天女の舞を今ここで 奏(かな)で給えと進むるにぞ
〽乙女は衣着なしつつ 仮に吾妻の駿河舞

〽思ひは胸に打ち寄する 波の鼓(つづみ)のそれならで 虚空(こくう)に響く 音楽に 霓裳羽衣(げいしょう うい)の一曲(ひとかなで) 雨に潤う花の顔 連理(れんり)の枝に比翼(ひよく)の鳥 翼交わしてうらやまし

〽面白や 絶えなる香り花降りて 天の羽衣吹き返す 風に乗じて ひらひらひら 昇り行方(ゆくえ)も 白波に 霞彩(かすみ いろど)る乙女の姿 しばし止(とど)めて三保の浦

〽茂れる松の常磐津の
〽波打ち寄する岸澤の 糸に残して伝へける 糸に残して伝へける


◆現代語訳

三保の浦あたりを行く舟が風の速さにあおられ、立ち上がる荒波にあらがおうと漁師たちが声をかけあう、松原のそんなある日の朝のこと。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

「自分はこのあたりに住む、伯了という漁師でござる」
実にのどかに、朝の霞(かすみ)がたなびいております。四方を見渡してみたところ、あれ、あそこの松に美しい衣がかかっていました。さてでは、それを取って家へ帰るとしましょう。

「のう、のう、それはまさしく羽衣というもの。人の身で、簡単に手に入れることができるものではありませぬ。お返しください、お返しください、のう」

そう言うのを見てみれば、春風に吹かれてやってきたような可憐な姿が、三保の松原に降り立っています。霞(かすみ)の向こうにのぞく富士の高峰(たか みね)のように白く美しい、年端もゆかぬ顔立ちの女性です。

「さすれば貴女は天女さまでございますか、天女さまの衣とは、これは良いものを手に入れました」と、伯了はかえって喜んでしまい、返そうという意思を見せません。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

こうなっては天人も自分を羽根のない鳥のように感じ、飛んで天へ帰る道が絶えてしまったと絶望したせいで、髪に挿した花が急にしおれてしまったほど。相貌に第二の五衰(ごすい)まで顕(あらわ)れ、若葉の姿も玉露が散る寸前のように、儚(はかない)い様子になりました。

伯了はそんな天女の姿に同情し「だいぶおいたわしいご様子ですが、とは言え、衣をお返しもうしあげたら、きっとそのまま昇天なさるに違いなく、これは悩ましいことです」と、いう声を漏らします。

すると「まさか、わたくしは天津乙女なのですよ」と、天女が返します。そうして続けて言うには「たとえ住む世界が変わってしまったとしても、お互いが、お互いを慕うこころは、これからもずっと永遠に、ふたつの世界を突き抜け一筋につながっていますとも」と。

お忘れになったのですか、ふたりの出会い、恋の初めのあの衣のことを。あの羽衣をきっかけにわたくしたちは契りを結ぼうと夫婦松(めおとまつ)のように寄り添い、やがて小さな子どもの姫小松が生まれ、ふたりの恋に彩りを添えてくれたものです。

今はこうしてお別れしなければいけませんが、夢かうつつかと疑心暗鬼になりながら、ひとり寂しく手枕で寝る夜にも、七夕の夜にはカササギが、夜空に羽を重ねて天の川に橋を作り、自分はその橋を渡って行って、また再び天津乙女に遭うのだと、そのように信じてはくださいませんか。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

自分の妻は天津乙女なのだと、そうしてまたいつの日にか抱き合い、愛し合うのだと、それを楽しみに、わたくしを待っていてはくださいませんか。

(けが)れを知らない白波の寄せる渚に千年のときが行き過ぎ、それでも変らない松の深緑のように、わたくしのこころも穢(けが)れを知らず、松の緑と同じに未来永劫こころ変わりはありません。このわたくしのこころのたけを、どうぞ察してくださいませ。そう、妻になった天女が、どうにも奥ゆかしい風情で伯了にすがります。

そうまで言うのであれば、かねて評判の、しかしわたしには一度も見せてくれていないあの天女の舞を、今ここで舞ってはくれないかと、伯了が頼みました。妻は委細承知とばかり羽衣をまとい、即興で東遊びの駿河舞を舞い始めます。

伯了のこころに、「鼓の連打かと思うほど間断なく岸へ打ち寄せる波のように、あなたへの恋の想いが、この胸に強く打ち寄せてまいります」と言う、天女のこころの声が聞こえるや、何もない空のうえに、唐の玄宗皇帝が月宮で見た仙女の舞を覚えて作曲したという、霓裳羽衣(げいしょう うい)の一節(ひとふし)が響き渡り、そのとたん疲れたように見えた天女の顔が、雨に潤う花のように再び瑞々(みずみず)しく輝きを取り戻しました。

「松廼羽衣」伯了を演じる師匠・水木歌泰先生

玄宗皇帝と楊貴妃は七夕の夜にふたりきり、「天にあっては比翼(ひよく)の鳥となり、地にあっては連理(れんり)の枝となろう」と誓ったそうでございます。飛ぶ鳥が翼を交わして睦(むつ)みあうのは、いまの境遇のわたくしには羨ましいことです。

(玄宗皇帝と楊貴妃の恋はこの世では成就せず、妃だけがひとり永遠世界へ旅立つことになりました。わたくしもいま、ひとりでそっと永遠世界へ先立ちます。天人であるわたくしですが、この五衰の末には命を落とし、やがて常磐津の松とその磯におとなう漣(さざなみ)となって、未来永劫あなたと姫小松を見守ることになるでしょう)

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

不思議なことに、妻である天女が舞い進むうち天上から麗しい香りのする花が降り注ぎ、天の羽衣が風に乗って、ひらひらと空へたなびきます。天女はいまは地上への未練も忘れ、若い乙女の姿に戻ると五色の霞(かすみ)とまじわりながら風の向くまま昇天し、空の彼方へ消えてゆきました。もう、海を漂う白波のように、その行方を見ることはできません。三保の浦に、ほんのいっとき姿をとどめていた、霞(かすみ)のようなものでした。

三保の松原「羽衣の松」

(気づけば伯了の前には天女と出会う前と同じ朝霞の浜が広がり、いまも変らぬ松が、何ごともなかったかのように常盤(ときわ)の緑をたたえています)

深い緑が青々と茂る常磐津の松と
松の浜に打ち寄せる岸澤の波の物語を、
三味線の糸に写し、三味線の糸に写して、こうしてお伝えいたしました。

****************

五色の霞たなびく富士山の夜明け(写真です)



なんとも美しい、不思議な歌詞だと思います。文化的な重要さで言えば、もちろん謡曲「羽衣」とは比較になりませんが、物語の構成や歌詞の良さで言えば、本家をうわまわる出来とさえ、感じます。

ただ、読みようによっては、漁師・伯了が鼻薬をかがされ、うまく丸め込まれただけのようにも。。。おっと、ごにょごにょ。

※「松廼羽衣(まつのはごろも)」という踊り、の記事はこちらからどうぞ



いかがでしょう。天界へ還ってゆく天女は「してやったり」、意気揚々と駿河舞を舞うのでしょうか。それとも悲しい別れに泣き泣き、駿河舞を舞うのでしょうか。皆さまは、どう思われますか。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年1月28日月曜日

仙台伊達家の祈祷所「大嶽山興福寺(おおだけさんこうふくじ)」と六角堂





仙台の帰り、ふと思い立ち近くのお寺・興福寺(こうふくじ)へお参りして来ました。

奈良県にある同名のお寺・興福寺さんが有名すぎて、こちらはあまり知られていませんが、わたしの住む宮城県登米市迫町(とめし はさまちょう)のお隣、南方町(みなみかたまち)の大嶽山(おおだけさん)には「興福寺」という、立派なお寺さんがあります(天台宗「大嶽山興福寺」)


お寺の記録には「平安時代初期・大同2年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂により創建、京都清水寺延鎮法師の開基」とあるようです。


戦国時代には荒れた寺になっていたのを領主・葛西氏が再建、しかし豊臣秀吉公に財産没収されたあと、領民による一揆が起こり寺も加担したため観音堂を残して消失、その後亘理(わたり)氏が寺の別当について再建、伊達氏の所領になってからは伊達家の祈祷所になっています。


上の写真は明治21年に再建された、観音堂です。




高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの二人椀久(ににんわんきゅう)全訳」という記事では、日本橋中洲(三叉)に浮かぶ船の中で、仙台藩主が寛永三名妓のひとり「2代目 高尾太夫(生年不詳~1660)」を吊るし切りにしたという、当時の江戸の噂をとりあげました。もちろん仙台藩の記録にはそのようなことは一切なく、あくまで噂にすぎません。

高尾太夫を殺したと噂された、仙台藩3代目藩主・伊達綱宗(だて つなむね、1640~1711年)公の病気平癒祈祷(1708~1710)は、このお寺で行われました。江戸では悪い噂の多い藩主さまですが、地元仙台では評判の良い方です。そのため、地元では高尾太夫吊るし切りの噂自体が、伊達騒動を誘発しようとした、江戸幕府の陰謀だという説があるほどです。


写真は明治17年に建築された六角堂です。洋風デザインがとりいれられた珍しさのせいで人気があり、昭和21年、地元南方町(みなみかたまち)の指定文化財になりました。季節が良ければ、中に入ることもできます。




登米市は自然環境が豊かなだけでなく、仙台さま(仙台伊達氏)の要衝(ようしょう)として貴重な文化財がたくさん残っているところです。気候の良いときに是非、お越しくださいませ。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年1月26日土曜日

頑張れ!お江戸の派遣労働者「供奴」という踊り(全訳)





だいぶ以前ですが昭和55年、宮城県登米市佐沼、歌泰会の舞台で踊った「供奴」という踊りについて、紹介させたくださいね。写真はなんと、一部白黒です。昭和55年頃はもちろん、カラー写真全盛です。モノクロ写真は、わたしの母の好みですね。





////// 歴史と概要

本名題(ほんなだい)を「拙筆力七以呂波 (にじりがき ななつ いろは)」と言い、文政11年(1828)3月、江戸・中村座で中村芝翫 (4代目 中村歌右衛門) が初演した七変化舞踊です。「成駒(なりこま)やっとこよいやさ」と、芝翫の屋号(成駒屋)が歌詞の中に取り込まれ、「芝翫奴」とも呼ばれます。

七変化
(1) 長唄「傾城(けいせい)
(2) 常磐津「芥太夫(ごみたゆう)
(3) 長唄「供奴(ともやっこ)
(4) 富本「乙姫(おとひめ)
(5) 長唄「浦島(うらしま)
(6) 長唄・常磐津「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)
(7) 長唄「石橋(しゃっきょう)

作曲
十代目 杵屋六左衛門
三代目 岸澤式佐(きしざわ しきさ)

作詞
二代目 瀬川如皐(せがわ じょうこう)

振付
市山七十郎(いちやま しちじゅうろう)
初代 藤間大助(二代目 藤間勘十郎)
四代目 西川扇蔵

振付の市山七十郎は初代(生没年不詳、初代 瀬川如皐の実父)でないことは年代から確定できるものの、2代目(生没年不詳)なのか3代目(1816〜1875年、本拠地を大阪から新潟へ変更)なのか不明です。


昭和55年、歌泰会「供奴」



////// 見どころ

「してこいな!」(やってこい!)から始まる、威勢の良い踊りです

(くるわ)通いをする武家の主(あるじ)に遅れをとったお供の「奴=中間(ちゅうげん)」が、あとを追いながら当時の流行・丹前姿や武士の六法歩きを紹介し、「うちえいぱまでんす(りゅう ちぇい ぱま でんす、とも言う)」というジャンケン遊びを語り、「投げ草履(草履取り)」の技(わざ)を見せたりしながら、拍子に合わせて明るく踊る、愉(たの)しい演目です。

一番の見どころ・聞きどころは、二上がり・本調子の三味線と鼓の速い打ち合い、そこへ踊り手が負けじと刻み込む和製タップダンス(tap dance)「足拍子」です。




////// 考察・供奴だった「一心太助」

供奴とは「お供をする奴さん」という意味です。「奴」は「下僕」の意味、さげすみの意味を込めて「旗本奴」と呼ばれた旗本で士分の不良青年たちや、その対抗として出てきた、おもに浪人侍の町衆からなる「町奴」たちとは違う、真面目な武家の奉公人です。つまり、さげすみの意味での「奴」ではなく、本当に身分が下僕の「奴」さんで、少しもヤクザじみたところはありません。

奴さんの正式な役職名は、「中間(ちゅうげん)」です。出身はだいたいが農家の次男三男だったと言われ、農業を嫌って江戸へ上り、とはいえ手に職を付ける根気はなく、二本差しにあこがれて武家へ入り込んだ若者たちです。

ちなみに、旗本奴としては芝居小屋での席争いの末、町奴の幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)を殺し、寛文4年=1664年に切腹させられた水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん、生年不詳~1664年)が有名です。いっぽう、町奴としてはその水野十郎左衛門に殺された幡随院長兵衛こと、士分で浪人の口入屋(くちいれや)・塚本伊太郎(1622~1650年※1657年没説あり)が有名です。

供奴だった人物としては、架空か実在か意見が分かれるものの、やはり「一心太助(いっしんたすけ、伝説と言われ生没年不詳)」が有名でしょう。魚屋の太助はもとは農家の出身、徳川家の家臣・大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん、本名「大久保 忠教=おおくぼ ただたか」、1560~1639年)の草履取りとして働いたあと、その人柄に惚れた大久保家の出入り商人に乞われ、魚屋の養子に入ったことになっています。「一心」は苗字ではなく、太助の刺青にちなんだ「あだ名」です。太助の墓は東京都港区白金「立行寺(りゅうぎょうじ)」、大久保家墓所の傍(かたわら)に建てられています。




////// 考察・武家に喧嘩要員として雇われた「武家奉公人」

江戸幕府は農業の担い手が減ることを嫌い、農業を棄てて都会へ出る若者たちを抑制するため、武家奉公人に年季契約を定めていました。彼らは江戸の人材紹介業「口入屋(くちいれや)」を通して雇われ、一年ごとに契約更新しながら働きます。今で言う、派遣労働者です。

いわゆる「武家奉公人」は、中世以前には軽い身分の足軽からなる馬引き・草履取りなどを指しますが、彼ら低いなりにも士分の者は江戸時代になると下働きには駆り出されません。武家の雑役(ぞうえき)は、特に江戸では町衆からなる「軽き身分の武家奉公人」に任されていました。戦国の世が終わり太平の時代がやってくるや、武家同士の諍(いさか)いや士分の者による町衆への横暴が厳しく咎(とが)められ、町衆とかかわりのある部署や、揉め事の起こりそうな部署に、家来を配置することが難しくなったからです。

江戸時代には侍同士が喧嘩をすれば「喧嘩両成敗」、侍が町衆を理由なく殺せば「お家断絶」、主君があれば主君も連座で責任を取らされます。

そのため、大きな武家の出入り口や外出時のボディガードには、士分にない・家来でない・しかし腕に覚えのある若者が配置されることになりました。そして武士や武士の家族の外出には、出先の格に合わせ時には二本差しの若党(わかとう、サンピン侍と馬鹿にされる)が、時には脇差し一本の中間(ちゅうげん、奴さん)が伴われることになったのです(供奴)




////// 考察・奴さん一世一代の見せどころ「大名行列」

奴さんの平素の仕事はかつて足軽・荒らし子が行っていた力仕事・馬引き・草履とりです。しかし運よく大名行列の時期に雇われることができれば、行列の先頭で毛槍(けやり)や挟箱(はさみばこ)を振るという、花形仕事にありつけました。

武家の早馬・大名行列・御用提灯は「斬り捨て御免」が許されていたのですが、特に外様大名(とざま だいみょう)の場合「斬り捨て御免」のあとの、江戸幕府による事情聴取は避けたいものでした。だから「斬り捨て御免」にならないよう、行列に先立つこと数日から数時間、何人かの奴と若党たちが予定のコースを練り歩き、往来の町衆を威嚇して蹴散らす必要がありました。威嚇するのが目的なので、奴さんの身なりは奴頭(やっこあたま、深い月代と膨らんだ髪)や鎌ひげ(かまひげ、跳ね上がった髭)、腰巻丹前(こしまきたんぜん、帯に巻き込んだ丹前)に丸出しの尻など、遠目で見てもハッキリわかるほど派手で異様な風体(ふうてい)に作りこまれています。

大名行列の先頭で長い毛槍を振ることは、奴さんたち、みんなの夢でした。




////// 歌詞※太字が現代語訳

してこいな
やつちやしてこい今夜のお供 ちつと遅れて出掛たが足の早いに我が折れ
田圃(たんぼ)は近道見はぐるまいぞよ 合点だ

[仲間の声]やってこいや!
ようし、やってやろうぞ、今夜のお供。
ちっと遅れて出かけたせいだが、主人の足が速くて追いつけない。
よし、近道して田んぼを突っ切るぞ!
[仲間の声]見失いなうなよ、はぐれるなよ。
がってんだい!

振つて消しやるなだい提灯に 御定紋(ごじょうもん)つき でつかりと
ふくれた紺のだいなしは 伊達に着なした奴等(やっこら)
武家のかたぎや奉公根性 やれさていつかな出しやしよない
胼(ひび)や皹(あかぎれ)(かかと)や脛(すね)
不二の雪ほどあるとても

吉原風景
ぶん回したせいで消してしまった
名代提灯(なだいちょうちん)
ご定紋(じょうもん)付きの格式高い立派なもの。
体を大きく見せようとふくらませた
紺のだいなし(筒袖の着物)を、
伊達に着こなす奴さん。
武家に勤める武家かたぎな奉公人の心意気を、
やれさて、ここはなんとか出すしかない。
素足で走り回るせいでカカトもスネも、
ヒビ、アカギレだらけ。
あたかも富士の峰の雪のように積もり積もり、
年季が入って、どんなに痛かろうとも。

何時(なんどき)限らぬお使は、かかさぬ正直正道者(しょうじき しょうどうもの)
脇よれ頼むぞ脇よれと 急ぎ廓(くるわ)へ一目散 息をきつてぞ駆けつける

いつと決まりのない、ささいな遣(つかい)いにも、
正直に対応し、ご正道(せいどう)を行くその好ましい人品。
ワキへ寄ってくれ、頼む、ワキへ寄ってくれ、と町衆に呼びかけながら、
急いで廓(くるわ)へ一目散、息せき切って駆けつける。

おんらが旦那は廓一番隠れないない丹前好み
華奢に召したる腰巻羽織きりりとしやんと
しやんときりりと高股立(たかももだち)の袴(はかま)つき
跡に下郎がお草履取つて 夫(そ)れさ是(こ)れさ


錦絵「子どもに人気の丹前風人形と丹前奴人形」

おいらの旦那は、誰の目にも明らかな、廓(くるわ)でいちばん丹前風の色男。
華奢に着こなす腰巻羽織、きりりとしゃんと、
しゃんときりりと高腿立ち(たか ももだち)の、袴(はかま)姿。
後ろから、おいら、しもべがお草履を持って追いかける。
それさ、これさ。

小気味ようよう六法振(ろっぽうぶり)
なには師匠(演じた中村芝翫の師・3代目 中村歌右衛門
の其の風俗に似たか
似たぞ似ましたり扨々(さてさて)
広濶華麗(こうかつ かれい)な出立(いでたち)

小気味良く六法振りに歩く仕草、
浪花師匠と呼ばれた、中村歌右衛門に似せたのか。
似てる、似てるぞ、
さてもさても、ゆったり華麗な出(い)で立ちだ。

おはもじながら去る方へほの字とれの字の謎かけて
ほどかせたさの三重の帯
解けて寐た夜は免(ゆる)さんせ アァ儘(まま)よ浮名がどうなろと
人の噂も七十五日、てんとたまらぬ

昭和55年、歌泰会「供奴」

恥ずかしながら、さるお方に、惚れた惚れたとささやいた。

三重の帯まで、ほどかせたくて。
いざ帯が解けて寝た夜のことは、いやさて、なにとぞお許しを。
あぁ。ままよ、浮名が立ってどうなろうと構うものか、
人の噂も七十五日と言うじゃあないか。いやぁ、恋はたまらん。

吉原風景
子褄(こづま)とりやつた其の姿 見初め見初めて目が覚めた
さめた夕べけん酒に ついつい ついつい
さされた盃はうちゑいはまでんす(うちえいぱまでんす)
くはい(くわい)と云(いっ)てはらつた
はつた(貼った) けんびき(肩癖) 
ちりちり ちりけ(身柱)
(亥)のめ やいと(眼灸)がくつきりと

裾の前を取るその姿にひと目ぼれ、
惚れて惚れて、
女を相撲の技(小褄取り=こづまとり)のように、
ひっくり返したところで目が覚めた。
思い起こせば、夕べはついつい、ついつい、
ジャンケン遊びで酒を飲み、出された杯(さかづき)を、
「うちえいぱまでんす、くわい!」とばかり負け、さんざん呑まされたものだった。
肩、首、腰は膏薬(こうやく)、お灸の跡だらけ。

捻ぢ切(ねじきり)おいどが真白で 
手つ首手の平しつかと握つた いしづき
こりやこりやこりや成駒やつとこよんやさ
浮れ拍子にのりが来て ひよつくり旦那に捨られた
うろたへ眼(まなこ)で提灯を つけたり消したり灯(とも)したり
揚屋が門を行きすぎる

裾をからげて尻(おいど)を見せればイナセに白い褌(ふんどし)
大名行列の先頭を夢見て、
手首と手のひらで、毛槍の石突(いしづき)をしっかり握る。
そうしてこりゃこりゃ、こりゃこりゃ、
成駒(なりこま)やっとこよいやさ、と唄い踊るうち、
浮かれ拍子に我を忘れ、うっかり、置いけぼりにされたのだ。
あわてたあげく、うろたえた目をして、
提灯を点けたり消したり、また灯(とも)したり。
(あるじ)が入った揚屋(あげや)の門を、
行きすぎてしまう、奴さんであった。

//////


昭和55年、歌泰会「供奴」


「クドキ」に当たる歌詞の一部が下品すぎるということで、現在は下記のように変わっています(あまり上演されません)

****************
おはもじながら去る方へ はの字となの字の謎かけて 
ほどかせたさの八重一重 解けて嬉しき したふしに
アァ儘よ 仇名がどう立とうと 人の噂も七十五日
てんとたまらぬ 露の化粧(けはい)の初桜

恥ずかしながら、さるお方に、惚れた惚れたとささやいた。
八重の帯を最後の一重まで、ほどかせたくて。
いざ帯が解けたときには大喜びで、桜の下で抱き合った。
あぁ。ままよ、浮名が立ってどうなろうと構うものか、
人の噂も七十五日と言うじゃあないか。
おしろいの匂いが、あぁ、たまらない。
****************
これもまぁまぁ下品じゃないの? と思うのは、わたしだけでしょうか。




////// 田んぼと丹前姿

歌詞に登場する「田んぼ」について、ときどき「この当時の武家屋敷から、吉原へ行く道程に田畑があったと思えない」という意見を聞くことがあります。もちろん、当時の譜代大名・旗本がいた芝や青山、もしくは麹町などお堀に近いあたりから、最初の吉原(元吉原)である人形町(現在の日本橋人形町)へ行くあいだに田園地帯はいっさいありません。ですので、この舞踊に登場する「廓」は明暦(めいれき)の大火後に移転した、浅草寺(せんそうじ)裏日本堤(現在の台東区日本堤)の「新吉原」の方だと思われます。

移転時にはのち「吉原土手」と呼ばれる日本堤のあたりは田畑だらけ、そうとうな田舎だったようです。それでも、たとえば外様大名の江戸屋敷が並んでいた和泉橋近辺(千代田区神田佐久間町・岩本町)から日本堤へは、徒歩4~50分ほどで到着します。芝から歩いて2時間弱ぐらいでしょうか。

でもわたしは、この舞踊の背景となった武家屋敷は、江戸上屋敷や登城用に使われたお堀に近い中屋敷より、本所(現在の台東区本所)あたりに多かった「下屋敷」と呼ばれる隠居・子ども用の屋敷のように感じます。

奴さん自慢のご主人さまは、下屋敷でのびのび暮らす若隠居か、代替わり前の武家の放蕩息子ではないでしょうか。だとすると、歩きはじめて20分もかからず大門(おおもん)へ到着したことでしょう。奴さんが、あわてるわけです。



錦絵「吉原通いの丹前姿」
ところで、歌詞で讃えられる「丹前好み(=丹前姿)」ですが、伊達羽織もしくは伊達丹前を帯の下にはさんで(「腰巻羽織」「腰巻丹前」と言う)腿立ち(ももだち)を高くとった、流行のファッションだそうです。

唄の途中に挿れた錦絵は、まさしく当時もっとも「カッコイイ!」とされた二本差しに高腿(たか もも)立ち、伊達羽織を腰に撒きつけ帯にはさんだ「丹前風(丹前姿)」のお人形を描いたものです。

そうしてその横の錦絵は、子どもが「奴さん」の扮装で踊るお人形の絵です。奴さんの衣装は「丹前奴(たんぜん やっこ)」と呼ばれるファッションで、頭の頭巾は違うものの(子どもは月代がないため)「供奴」の丹前を、柄ものに変えればほぼ同じです。そうです。この舞踊の衣装が、そもそも「丹前風」なのです。

奴さんは子どもたちの憧れでも、ありました。現代のわたしたちには、だいぶ恥ずかしい衣装ですが、お尻丸出し足丸出しを、むしろ自慢そうに演じるべきなのでしょうね。




いやぁ、それでもやっぱり、恥ずかしいですけどね(誰かわかんないし)

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年1月24日木曜日

平成31年各流派合同新春舞踊大会、終わりました!





おかげさまで、今年の各流派合同新春舞踊大会(「平成31年 各流派合同新春舞踊大会」)が無事、終わりました。たくさんのご観覧、ありがとうございました。
















お昼は「鍋焼き雑煮」、国立劇場裏の「甘味おかめ」さんにて



国立小劇場入り口で師匠・水木歌泰先生と











わたしも師匠・水木歌泰先生と観覧しました。写真、なんだか旅行ではしゃいでいる二人のようになってしまい、恐縮です。

今年のお昼ご飯は2日間とも、裏の甘味どころ「甘味おかめ」さん(東京都 千代田区 麹町 1丁目7 フェルテ麹町)で、いただきました。1日目は「甘辛弁当」、2日目は「鍋焼き雑煮」です。とても美味しくて、有名なお店ですよ。






肝心の舞台の方ですが、例年3日間・60番をかけるところ今年は2日間・40番に絞られ、精鋭になった分だけ、お上手な方が多い印象でした。基本的に皆さましっかり丁寧に踊っておられますが、技術を追求した結果、少しばかり「型どおり」な内容が多かったように感じます。それぞれの方が、何をどのように表現したいのかという点においては、課題が残るように見えました。

それでも何人か、劇場の空気を一変させるほど、個性溢れる世界観をかもし出した方がいて、愉(たの)しく拝見できました。



帰りがけ夜提灯が綺麗だったので、夜の劇場を写真に撮ってみました。

2019年1月22日、国立小劇場前のお飾り


2019年1月22日、国立小劇場前の看板


2019年1月22日、夜の国立劇場

来たる2月16日(土)、2月17日(日)には、日本舞踊協会の本公演もございます。
わたしも去年は出演させていただきました。コンクールではなく、現在活躍中の舞踊家の皆さまが出演する舞台です。※パンフレットがご入用の方は、こちらのリンクからご入手ください。


<<<<<<<<<<<<<<<
2019/2/16(土)、2/17(日)『第62回 日本舞踊協会公演
主宰 公益社団法人)日本舞踊協会(後援 NHK)
会場 国立劇場大劇場(東京都千代田区隼町4-1)
開場 昼の部12:30(開演11:30)、夜の部16:30(開演16:00)
入場 1等席 8,500円(指定席)、2等席 5,000円(指定席)、3等席 2,000円(自由席)
アクセス 東京メトロ「半蔵門駅」下車徒歩6分~、JR「麹町駅」下車徒歩15分
<<<<<<<<<<<<<<<




またまた、わたしも出かけます。劇場で、お会いしませう。

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







TOPへ戻る