2019年1月16日水曜日

高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳




~お気をつけください~
こちらの記事は、今は上演されない古い「二人椀久」歌詞の全訳紹介です。現在の「二人椀久(其面影二人椀久)」全訳は、松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳へどうぞ。


平成27年(2015)、日本舞踊協会宮城県支部・各流舞踊公演で踊った「二人椀久」の説明の続きの、そのまた続きです。
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら





「二人椀久」は本名題(ほんなだい)「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」と、いう踊りで、作詞者不詳、作曲・初代 錦屋金蔵(生没年不詳)です。安永3年(1774) 、江戸・市村座において9代目 市村羽左衛門と瀬川富三郎(3代目瀬川菊之丞)が初演しました。

作詞者不詳であることについて以前の記事で、下のごとく説明させていただきました。
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「二人椀久」は「椀久」作者である大阪の女形・大和屋甚兵衛(生年不詳~1704年)と、「椀久末の松山」作者である俳人・紀海音(きのかいおん、1663~1742年)、その他複数人による共同作詞と考えるのが妥当のように思います
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大和屋甚兵衛の「椀久」出端(では)にも、紀海音の「椀久末の松山」にも存在しない、「その他の作詞者」が書いた歌詞こそが、後半、タマなど曲の盛り上がる部分です。

内容は謡曲「筒井筒」、コチャエ節(コチャ節ともいう)のひとふし、按摩の客寄せ唄「按摩けんぴき」、そうして謎の「三浦屋のお女郎さま」への呼びかけで、一見とりとめのない、脈絡のないものに見えます。でも、この部分がなければこの演目は面白くありません。実はこの部分こそ、現在上演される「其面影二人椀久」の前身、今や振付が失われてしまった昔の「二人椀久」の歌詞なのです。



////// 「二人椀久」と伊達騒動

ところで「二人椀久」は歌詞の一部、とくに伊達羽織のあたりで椀屋を武家のように扱う箇所があります。言うまでもなく主人公・椀久こと椀屋久兵衛(わんや きゅうべえ)は豪商であり町人です。当然ながら「椀久末の松山」に、このような箇所は存在しません。

「二人椀久(1774年)」の土台となった芝居「傾城袖の海(1700年)」、浄瑠璃「椀久末の松山(1710年)」発表から70年あまりが経過するや、主人公が武家になる奇妙な現象が起こっているわけですが、この当時何があったか歴史的に検証するに、椀久が死んだ1676年か1677年は伊達騒動(1660~1671年)の時代です。

江戸幕府がひた隠しにした伊達騒動が一般庶民の知るところとなったのは、事件からおよそ50年から100年ほど経過したあとのこと。何がきっかけか不明なものの騒動沈静後、数十年かけて吉原・三浦屋の高尾太夫惨殺の噂が爆発的に日本中に広まり、特に、吉原擁(よう)する江戸の庶民に伊達大名への反感が高まったと言われます。伊達騒動から100年後は、まさしく「其面影二人椀久」発表当時です。(歌舞伎狂言「伽羅先代萩(めいぼく せんだいはぎ)」初演もだいたい同じ年代、安永6年=1777年)





////// もうひとつの「二人椀久」

前述したとおり「二人椀久」は本当のところふたつあり、享保19年(1734)、「陸奥弓勢源氏(みちのく ゆんぜい げんじ)」という芝居の中で踊られた舞踊「二人椀久」が原型です。物語の中の踊りなので、本名代(ほんなだい)はついていません。

上演されたのは江戸・市村座、唄は美声で知られた名人・初代 松島庄五郎(生年不詳~1764年頃)、一緒に活動していた名人・坂田兵四郎(さかたひょうしろう、1702~1749年)との、掛け合いの長唄でした。
伊達羽織に二本差し丹前風

演じるは初代 瀬川菊之丞(1693~1749年)と4代目 市村竹之丞(8代目 市村羽左衛門、1699~1762年)、内容は瀬川菊之丞演じる松山太夫が大小の刀を使って男女を踊り分け、そのあと市村竹之丞演じる椀久と「井筒」を踊り、「連れ舞い」へ発展するというものです。伊達羽織に大小二本差しで椀久を表現した松山太夫が、その男姿のまま椀久本人と「連れ舞い」するため、舞踊の呼び名が「二人(の)椀久」になったわけです。

作詞者不詳ですが、作曲は三味線方を務めた初代 杵屋新右衛門(生没年不詳)で、たいへんな人気となりアチコチの本に記録が残るほど。元文4年(1739)3月「助六定紋英(すけろく じょうもんの はなぶさ)」で上演、さらに寛保元年(1741)11月「初額早咲丹前(はつひたい はやざき たんぜん)」で上演されたと、ものの本に記されてます。全上演記録が江戸・市村座で、ちなみに杵屋新右衛門は「高尾さんげ」作曲者でも、あります。
※本名題「高尾懺悔の段」、延享元年(1744)江戸・市村座初演。
※高尾太夫の亡霊が自身の生前を語る舞踊です。



ところがこの人気演目が、その後は上演されません。やがて振付も途絶え、1774年、初代 錦屋金蔵作曲の新しい踊りとなって復活上演されます。

「高尾さんげ」はその曲の良さのあまり、江戸幕府の統制をくぐりぬけ歴史に残った高尾太夫の歌舞伎舞踊です。その後一連の「高尾もの」を生み出す原動力にも、なりました。だから同じ杵屋新右衛門作である前の「二人椀久」も当然ながら良い曲だったはず、わざわざ変える必要があると思えません。
※歌舞伎舞踊「三つ面椀久」というものもあり、大阪ではむしろこちらの方が人気でした。
※狂乱した椀久が「田舎大尽」「太鼓持」「女形」の面をつけ大尽遊びを踊りで語る内容です。

寛延2年(1749)、瀬川菊之丞と坂田兵四郎があいついで亡くなったことは、大きく影響したと思います。それでもなぜ、ほんの数十年で有名な踊りの振りが途絶え、作詞者がわからなくなり、作曲者を変える必要まで生じたのでしょう。





////// 「二人椀久」の不穏さ

キーワードは「伊達羽織」に「片袖主」です。「片袖主(かたそでぬし)」は「片袖脱ぎ」に通じます。「片袖脱ぐ」は切腹の仕草を表しますので、もとの「二人椀久」は、言ってみれば唄と踊りの両面から、瀬川菊之丞扮する「女郎が二本差しで迫り伊達大名に切腹をうながす」形になるわけで、現代人のわたしでさえ、過激すぎると感じます。

吉原風景
そのうえ、後半の歌詞では松山太夫に「廓(さと)の三浦女郎さま」と、呼びかけます。松山太夫は「椀久末の松山」では井筒屋の女郎、井原西鶴「椀久一世の物語」で丹波屋の女郎です。

大阪新町・扇屋の女郎と記載されることも多い松山太夫ですが、それは椀久を演じて当たりをとった初代 中村鴈治郎(1860~1935年)が、松山太夫の所属先を自身の実家「扇屋」に変えて、「椀久末の松山」を上演したせいです(大阪・新町遊郭の「扇屋」は名妓「夕霧太夫」が所属したことで知られる有名な揚屋)

三浦屋の看板女郎が、「高尾太夫」です。



結論として、この一連の不自然な歌詞と振付は、江戸幕府の統制をかいくぐろうとした伊達批判でなかったかと推察します。それがために前の「二人椀久」は途絶え、「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」が、復活上演という形で再度歴史の舞台に登場したのではないでしょうか。

「陸奥弓勢源氏(みちのく ゆんぜい げんじ)」の「二人椀久」歌詞は、ちゃんと残っています(振付が問題だった?)。ほぼそのまま後身「其面影二人椀久」へ引き継がれますが、新しい「二人椀久」は政治的に問題のある部分を誤魔化そうと、わざと読みにくくしているように感じます。ですので、より平明な歌詞である、もとの「二人椀久」の歌詞をまずは、現代語訳と共に紹介させていただきます。




////// 古い「二人椀久」歌詞(1734年版)※太字が現代語訳

「椀久袖の松山」~あらすじ(下段・椀久道行の直前まで)~
椀久こと堺の豪商・椀屋久兵衛が揚屋・井筒屋で節分の豆撒きがわりに一分金を撒いていたところ、父親・椀屋久右衛門が踏み込み、ひとり息子・椀久の髻(もとどり)を切り落とし勘当を申し付ける。愛人である松山太夫は椀久に縁切りを言い、自分は身を引くから許してあげてと懇願するが、椀久の父親は許さない。妻の実家の座敷牢に入れられた椀久を助けようと松山太夫が駆けつけると、妻・おさんが椀久に付き添っていた。松山太夫は、夫婦の仲を引き裂いて申し訳ないと詫び、泣きながら帰る。椀久はそのあとを追って、妻の家を出る。


<松山太夫の視点>※廓(くるわ)へ帰る途中の、松山太夫の心の中

ゆく水に うつれば変わる飛鳥川
波の里にきのうまで はて もったいつけたえ

ゆく水に うつれば変わる飛鳥川。
移り変わりの激しいその波の打ち寄せる里に、
つい昨日まで居たのだ。
はて。うつろいやすい恋にもかかわらず、もったいぶってしまったものだわ。

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」

せいもんほんにせんせいも われはくるわをはなしどり
かごはうらめし 心くどくどわくせくと
恋しき人を松山に
やれすえかけてかいどりしゃんと しゃんとしゃんともしおらしく
君が定紋だて羽織 男なりけり女子とも
片袖主も眺めやる

誓文(せいもん)がまかり通って生きづらい世の中だけれど、

このわたしは廓(くるわ)の中では別格で、
まるで放し飼いの鳥のよう。
それでも籠(かご)の中にある境遇は恨めしく、
心はくどくど、あくせくと動き回る。
吉原風景
恋しき人を待ちながら、
ヤレ、未来のため、裾をしっかり両手で取り、
身持ち正しく、しゃんしゃんと、しおらしく生きてきた。
恋しい人の定紋を染めた伊達羽織を身に纏い、
井筒の井戸を覗き込めば、
水面(みなも)に映るのは男椀久であり、
女である自分自身であり。
水面(みなも)の向こうから、
片袖脱いだ主(ぬぐ=ぬし)さまも、
こちらをじっと見つめている。

思いざしなら むさしのてなりと
なんじゃおりべの うすさかづきを

恋のご指名のそのお杯(さかづき)、頂戴しましょう、
いっそ、特大の武蔵野(杯の名前)で。
何ならお高い織部の薄杯を、恋の契りに交わしましょう。

なんしょしょ 恋によわみをみせまいと
ぴんとすねては せなむけて
くねれる花と出(いで)てみれば
女心のつよからで あとより恋のせめくれば
小袖にひたと いだきつき
申し椀久さん さっても てったり お日よりな

なんとしても、恋しい人に弱みを見せるものかと、
すねたそぶりでピンと背を向け、
縁切りを言い、くねった(=すねた)花のように不機嫌そうに別れたけれど。
女ごころというものは、強いものではないために、
足許(あしもと)から恋が攻めてくると昔の人の歌ったとおり(「古今和歌集」)
ほんに、あとから恋の想いが寄せてきて。
またもや、あの人の小袖へひたっと抱き付き、
もうし、椀久さん、とすがりついてしまった。
てっきり、座敷牢にはひとりで居るのだと、思っていた。
(「椀久末の松山」より。松山が助けに行くと、襖の向こうに椀久の妻・おさんが控えていた)

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」


<椀久の視点>※松山太夫を追いながら、少しづつ狂乱の兆しが顕れる

ふられず帰る しあわせは
私にはあらぬ 太夫が袖

振られずに帰るのは幸せなこと。
わたしではなく、
わたしに袖を引かれた太夫が、という意味だけれど。


月のもるより やみがよい
いいやいやいや こちゃ やみよりも おお月さまがよい
お前はそうかと寄りそえば
月がよいとのいいぐさに すいな心で はらがたつわいな

会いたい人に会えもせず雲間(くもま)に洩れる月光も見ず、
こうして闇夜のまま死んでしまうのかと、小野小町は嘆いたが、
坊さん忍ぶにゃ闇が良い、月夜にゃ頭がぶうらりしゃらりと(坊さん忍ぶ唄)
そう、座興唄にもあるじゃないかと言ったところ、
いいや、いやいや、コチャ闇よりも月が良い(コチャエ節)と唄で返され、
へぇ、お前はそうなのかいと、寄り添ったが(ソウカイ節)
(もとどり)切られたこの身に向かって、月が良い、という言い草は、
その心意気が粋(いき)すぎて、かえって腹が立つわいな。

もうこれからが くせつの段
しさいらしげに座をうって
袖尺着尺衣文坂(そでしゃくきしゃくえもんざか)
ういこうむりの投げ頭巾
語るも昔男山

もうここからが、口けんかの段。
仔細了解した風に席を立ち、
袖尺着尺、衣紋坂(えもんざか=吉原の土手)を登りながら、
投げ頭巾(後ろを折った頭巾、法師や俳人が被るもの)に馴染みきれない坊主が語る、
尺にかかわる昔の自分の色自慢(男山の坂=男盛りの思い出、「古今集」序)

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」

<吉原土手にへたりこんだ、椀久の幻想>※もはや狂乱のルツボ

つつ井筒 井筒にかけし まろがたけ
老いにけらしな いも見ざるまにと
よみて送りける程に
其の時 女もくらべごし
ふりわけがみも 肩すぎぬ
君ならずして誰かあぐべきと。
たがいに よみし ゆえなれば
つついづつの女 ともきこえしは
有常が女の ふるき名なるぞ


筒井筒、井戸の高さと比べて遊んだわたしの背丈、
貴女が見ないうちにわたしは成長し、背が高くなりましたよと、
和歌を詠んで送ったところ
女の方も
こちらも、長さ比べをした髪が長くなりました、
貴男さま以外、どなたが髪上げをしてくださいますか、と。
たがいに気持ちを詠みあい、そのせいで「井筒の女」と広まったのは、
紀有常(きの ありつね)の娘であって、
井筒の、とは、古い渾名(あだな)に違いない。


おちゃの くちきり
たぎらすめもとに ええ とりつけば
ああ なんぞいの
手持ちぶさたに ひょうしそろえて わざくれ
あんまさん ひきひき さりとはひきひきひねる

新茶を口切(くちきり)、たぎる湯音を聞きながら、
エェ、つと目を見れば、
あぁ、なんぞいなぁ。
手持ち無沙汰のなぐさめに、
拍子をそろえ、いたずらしかけてきたりして。
あんまさんたら、ひいたりひいたり、
こんな風に、ひねって、ひねってみたりして。

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」

自体それがしは大阪もので
お江戸 町(まち)なか 見物様の
なじみ 情(なさけ)の 御ひいきつよく
あんまけんぴき 朝の六ッから 日のくるるまで
さりとはさりとは かたじけない
あんまみょうりに かのうて嬉し

そもそも自分は大阪生まれの力自慢。
お江戸中のご見物さまに、
馴染(なじ)みやお情(なさ)け、ごひいきをたまわります。
お肩もませて、いただきましょ。
朝の六つから日が暮れるまで、
いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。
按摩冥利に叶うというもの、やれ嬉しいこと。


(さと)の三浦女郎様
ちえこちへ
袖をそっそとひかば おなびきや
かんまえて よい女郎の顔を
おしやるな ちえこちへ
ふたりつれだち 語るもの

吉原廓(よしわら くるわ)
三浦屋のお女郎さまよ(三浦屋の高尾太夫か)
ちっとこちらへおいでなさい(ここから初期長唄「引車」)
袖をそっそと引かれたら、おとなしく、おなびきよ
覚悟を決めて、良い女郎顔をね。
押しやらないで、もうちっとこちらへ。
そうしてふたりで連れ立ち、恋を語って言うことには(「引車」ここまで)


さとざとは わが家なれば
やり手 禿も 一緒につれ立ち いそぐべし
あそび嬉しき なじみへ通う
恋にこがれて ちゃちゃとちゃとちゃと ちゃと行こう
やれ かわいがったり がられてみたり
むりなくせつの 遊びの品よく
あなたへいいぬけ こなたへいいぬけ
すそにもつれて ちゃらくらちゃらくら

そちらの廓(くるわ)もあちらの廓(くるわ)も、わが家みたなものだから。
遣り手婆(やりてばばあ)も禿(かむろ)も連れ立ち、
さぁ急ぎましょ、遊んで愉(たの)しい馴染みの店へ。
恋に焦がれて、
ちゃちゃと、ちゃとちゃと、
さっさと行こう。
かわいがったり、がられてみたり、
無理な言い分で始まる口げんかも、遊びであれば品良く見える。
あぁも言いぬけ、こうも言いぬけ、
裾にもつれて倒れてしまい、ちゃらくら、ちゃらくらと。


平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会、椀久を演じる水木歌泰先生

わるじゃれの 花もかもある しこなしは
ひとえ二重や みえのおび
ふとんのうちこそ 候(そうろう)かしこ

悪ふざけの中にも、花も実もある色っぽい仕草。
一重二重(ひとえ ふたえ)と帯を解き、三重の帯まで取り去ると、
布団の中では、、、
おっといやいや、これにて候(そうろう)つかまつる、ではまたね。

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吉原廓(よしわら くるわ)・三浦屋の花魁「高尾太夫」を身請けしたものの、間男と逃げようとしたのを恨み、日本橋中州(三叉)に浮かんだ船の中で吊るし切りにしたと噂されたのは、仙台藩3代目藩主・伊達綱宗 (だて つなむね、1640~1711年) です。

もちろん、そのような事実は仙台藩の記録にはなく、まったく架空の話ということになっています。ところが問題の2代目 高尾太夫は広く知られた名妓だったにもかかわらず、万治3年に没し(1660)、その死因も死んだ状況も定かではありません。

ちなみに「高尾太夫」は、寛永三名妓(京都・島原遊郭「吉野太夫」、大阪・新町遊郭「夕霧太夫」、江戸・吉原遊郭「高尾太夫」)と讃えられた高名な太夫のひとりです。ほかの名妓の生涯はその後も語り継がれ、どこの誰に身請けされ、どう死んだのか詳細がわかります。

学術的には寛保元年(1741年)、播磨姫路藩主 榊原政岑(さかきばら まさみね)に身請けされた6代目 高尾太夫(天明9年=1789年病死)と混同された結果、仙台藩藩主による惨殺の噂が広まったということで、決着がついているようです。

それでも、混同された末に惨殺の噂まで立った説明にはなりません。もっと言えば後年の出来事が、その50~100年前から混同されて噂になるのは理屈が通りません。江戸の昔の庶民と同じに、現代のわたしたち庶民も、高尾太夫の件ではすっきり納得できていないのです。

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「二人椀久」は、愉(たの)しい踊りです。でも少しばかり、いけない領域へ踏み込んでいるようです。考えてみればモデルになった椀久本人が悲劇的な死を遂げているわけで、そもそも平穏な踊りであるはずも、ないのですけれど。

※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら




「椀久末の松山」結末は、現在の「二人椀久」全訳の記事で紹介しますね。乞ご期待!(大丈夫なのだろうか、、、こそこそ)

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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