2019年5月19日日曜日

なんでエロなん。長唄「元禄花見踊り」全訳





→この「元禄花見踊」解説には「つづき」があります。よろしければ(別ページが開きます)









////// 長唄「元禄花見踊」概略


■初演■
明治11年(1878)、東京・新富座で初演された群舞(「惣踊」)です。

■本名題(ほんなだい)
「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)
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上の段「石橋(しゃっきょう)
下の段「元禄踊」
※下の段がのち、本名題「元禄風花見踊」になりました。

■作曲■
3代目 杵屋正次郎(きねやしょうじろう、1827~1896年)

■作詞
竹柴瓢助(たけしばひょうすけ)

■振付
初代 花柳寿輔(はなやぎじゅすけ、1821~1903年)



明治11年、新富座開場の写真


明治11年6月、明治9年の火事による焼失以来仮小屋で興行していた「新富座」が西洋式大劇場として新築完成、政府高官や外国公使を招き、にぎにぎしく開場式を行いました。舞台では12代目 守田勘弥(もりたかんや、1846~1897年)以下、一座の役者が総出で舞台に居並ぶなか9代目 市川団十郎(1838~1903年)と5代目 尾上菊五郎(1844~1903年)が代表して口上を述べ、そのあと初代 市川左団次(1842~1904年)を加え、三人で「式三番」を踊りました。

やがて両花道より一座惣出で役者たちが出てきて、長唄の伴奏で「手踊り」を踊ったと記録されています。

上野寛永寺と、元禄時代の風俗、花見で踊る女性




////// 江戸三座の猿若町(さるわかまち)移転

江戸の堺町(さかいちょう、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)にあった中村座(座元・中村勘三郎)と、同じく江戸・葺屋町(ふきやちょう、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)の市村座(座元・市村羽左衛門)、同・木挽町(こびきちょう、現在の中央区銀座6丁目)の森田座(座元・守田勘弥、控えで河原崎座・河原崎権之助)が浅草のはずれ聖天町(しょうでんちょう、現在の東京都台東区浅草6丁目)へ移転を命じられたのは天保12年(1841)のこと、老中・水野忠邦(1794~1851年)による「天保の改革」によるものでした。

綱紀粛正・風俗取締りのための措置でしたが、歌舞伎関係者は水野には特に嫌われていたらしく、移転命令以前にも7代目 市川団十郎(1791~1859年)が贅沢を理由に江戸ところ払いにされたり、役者の舞台関係者以外との交際が禁止されたり、役者の参詣や湯治などの旅行は禁止、役者は外出時には編み笠着用を義務付けらたりしていました。

三箇所の出入り口(木戸)を使って出入りしなければならない閉じられた空間だったものの、そういう意味では、浅草のはずれはむしろ当時の歌舞伎関係者にとって自由に生きることができる「別天地」でした(浄瑠璃の座も猿若町へ移転)

明治11年、新富座開場時の記録「新富座評判記」


最後の河原崎座(森田座)の移転が完了したのは天保14年(1843)、浅草寺(せんそうじ)参りの客も集まったため、歌舞伎舞踊創始者・初代 中村勘三郎(1598~1658年)の最初の芸名「猿若勘三郎(大蔵流狂言師)」にちなみ、猿若町(さるわかまち)と名づけた浅草のはずれで三座は生き返り、かつてない盛況の時代を迎えます(猿若三座)

その猿若町移転から25年を経た慶応4年(1868年)、新政府はまた一方的に三座に対し猿若町からの立ち退きを命じます。戊辰戦争(ぼしんせんそう、1868~1869年)の先行きが読めず渋る三座のなか最初に応じたのが、来るのは一番遅かった森田座(河原崎座)でした。

「新富座評判記」より、明治11年、新富座開場時「石橋」



ちなみに幕政下の歌舞伎上演には芝居小屋の数が定められていたため、経営難で休演となった場合には控えの座が興行する仕組みをとっていました。森田座の控えが河原崎座ですが、江戸時代を通じて「河原崎座」と記録されている文献の方が多いため、森田座の財政難ぶりがしのばれます。森田座(のち守田座)の座元で看板役者が、「守田勘弥(もりたかんや)」です。坂東玉三郎もしくは坂東三津五郎が襲名する、大きな名跡です。初代が中村勘三郎の弟子だったため、この名前がついたと言われています。

ちょっとややこしいのでまとめると、下記のとおりです。
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1、新富座=守田座(猿若町移転時に改名)=森田座 ≒ 河原崎座※完全一致ではない
2、守田勘弥(もりたかんや)=坂東玉三郎の出世名
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「新富座評判記」より、明治11年、新富座開場時「元禄年間の風俗を写せし手踊」




////// 江戸三座の一角「森田座」後身、「新富座」の隆盛と衰退

12代目 守田勘弥(もりたかんや)は、その先見性で知られます。本人は役者の子ではなく森田座の会計だった人(市村座頭取・中村翫左衛門)の次男です。11代目 守田勘弥(もりたかんや、4代目 坂東三津五郎)に実子がなかったため、養子になりました。

時代の息吹を感じて逸早く猿若町(さるわかまち)をあとにしますが、後援組合の了解を得ていなかったために揉めてしまい、座頭(ざがしら)だった7代目 河原崎権之助を失うことになりました。しかし7代目 河原崎権之助は9代目 市川団十郎を襲名し、やがて新富座(現在の東京都中央区新富町1丁目、移転時に改名)へ戻ってきます。かえって隆盛となった新富座も、明治9年(1876)火事で焼失しました。

12代目 森田勘弥(もりたかんや)

明治11年、新富座はガス灯を使った近代的な劇場建築として再建、政府のお歴々を迎えるため劇場職員がフロックコート着用で対応しました。新富座は芝居茶屋を使わないで済むよう食事どころや喫茶室が準備され、ガス灯を使って初めての夜間興行を行い、西洋演劇を翻訳上演して上流階級の社交場としても賑わいました。

しかし後援組合なしに建築費用をまかなったため守田勘弥(もりたかんや)の借財は膨(ふく)れ上がり、劇場所有権は人手に渡ってしまいます。関東大震災で焼失したあとには、もう再建できませんでした。

井上安治郎画「新富町新富座景」




//////「和田酒盛」「黒い盃」「闇」の政権批判


「元禄花見踊」は冒頭、志賀山流(しがやまりゅう)という古い歌舞伎舞踊流派を取り上げながら、さらに古い幸若舞(こうわかまい)を扱っているように見える部分があり、この部分の解説が解説書によって混乱しています。

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和田酒盛の 黒い盃 闇でも嬉し
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「和田酒盛(わださかもり)」という言葉自体は、幸若舞(こうわかまい)と呼ばれた狂言の演目名です。幸若舞(こうわかまい)は室町時代~戦国時代に流行し、謡曲や歌舞伎の源流のひとつとなった歌舞伎と歌舞伎舞踊に似た狂言です。「和田酒盛(わださかもり)」は、のち古浄瑠璃「曽我物語」などに取り込まれました。
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- 伝・幸若太夫桃井直詮=もものいなおあき、生没年不詳)「和田酒盛」-
源平合戦で功績のあった和田吉盛(わだよしもり)が山下宿河原(神奈川県平塚市山下付近)の長者の宿で三昼夜におよぶ酒宴を催し、評判の遊女・虎御前(とらごぜん)を酒席に呼んで、「おもいざし」の相手をめぐり曽我十郎(そがのじゅうろう)と争っていたところ、曽我五郎(そがのごろう)が駆けつけ兄・十郎に加勢する。
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「おもいざし」は相手を決めて盃を差すことを言います。

絵草紙・幸若舞「和田酒盛」

幸若舞(こうわかまい)と言えば、死の直前に織田信長(1534~1582年)が舞い踊った「人間五十年 下天(かてん)の内にくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者の あるべきか」という「敦盛(あつもり)」が、もっとも有名でしょう。幸若舞(こうわかまい)は徳川の時代を迎えていっそう政権の庇護を受けました。しかしそれがため民衆の前から消えてしまい、江戸幕府崩壊後には廃業に至りました。

ただし「元禄花見踊」歌詞のなかの「和田酒盛(わださかもり)」は、幸若舞(こうわかまい)を取り上げる意思はなく、たんなる盃の名前として使ったように、わたしには見えます。むしろそのあとの「黒い盃、闇でも嬉し」が、非常に気になるところです

「和田酒盛(わださかもり)」と駄洒落に使われた主人公のひとり・和田義盛(わだよしもり、1147~1213年、物語では「和田吉盛」)は実在の人物で、藤原泰衡(ふじわらのやすひら、1155~1189年)に裏切られ、自害に追い込まれた源義経(1159~1189年)の首実検をした人物です。藤原泰衡は義経の首をどういうわけか黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ※おそらく首桶のこと)に入れ、美酒に浸(ひた)して届けました(「吾妻鏡」など)

「源平英雄競」より、和田左エ門尉義盛

この首実検に立ち会ったもう一人の武将・梶原景時(かじわらのかげとき、1140~1200年)は梶原源太・景季(かげすえ、1162~1200)の父として知られますが、のち和田義盛らの讒言(ざんげん)により、息子ともども反逆者として死んでいます。そして和田義盛自身も、すっかり老齢となったあと2代目 執権・北条義時(1163~1224年)の挑発によって挙兵に追い込まれ、一族郎党そろって反逆者として死にました。源義経を裏切った藤原泰衡は、もちろん源頼朝の奥州討伐によって本拠地を追われ、自身の下人の裏切りにあって死んでいます。

ですので武士が「和田酒盛」という名の「黒い盃」で呑み、「闇でも嬉し」と言って周囲を呆れさせる場面は、だいぶ皮肉がきいています。開花したばかりの新しい時代・政権が、死ぬべきではない人々を死なせた「黒い盃」であり未来が「闇」であること、この先それぞれ報(むく)いを受けるかもしれないことを、揶揄しているように見えるからです。

屋島(八島)の義経




////// 長唄「元禄花見踊」歌詞・註解


◆あらすじ
花の盛り、上野の山で岡崎女郎衆が踊り、御所の侍女が踊り、酔った武士や武士の下男が踊る、元禄時代の開放感を表わす風俗舞踊と、いうことになっています。(実際はだいぶ違いますが、ちょっと表現しにくい事情が。ごほごほ。まぁ、読んでください)


◆志賀山(しがやま)
元禄期(1688~1704)、志賀山万作(しがやままんさく、生没年不詳)が始めたもっとも古い歌舞伎舞踊の流派です。有名な演目としては、通称「舌出三番叟(しただしさんばそう)」があります。猿若勘三郎(初代 中村勘三郎、大蔵流狂言師、1598~1658年)が踊った「乱曲三番叟(らんきょくさんばそう)」が志賀山万作の手で「志賀山三番叟(しがやまさんばそう)」になり、志賀山流を継承した初代 中村仲蔵(1736~1790年)が「寿世嗣三番叟(ことぶきよつぎさんばそう)」として復活させました。さらにそれへ3代目 中村歌右衛門(1778~1838年)らが手を加え「再春菘種蒔(またくるはる すずなのたねまき)」こと、通称「舌出三番叟(しただしさんばそう)」になったのです。


★華美(はで)をかまわぬ伊達染や
「かまわぬ=鎌輪奴」という洒落が元になった判じ物で、市川団十郎の衣装に使われることで有名です。「判じ物」というのは「なぞなぞになっている型押し柄」のことです(7代目 市川団十郎本人のデザイン)。「市川団十郎」は元禄期に現われ、江戸・野郎歌舞伎の型(荒事)を完成させた、元禄歌舞伎の代表的存在でもあります。

鎌輪奴



★斧琴菊(よきこときく)の判じ物
「良きことを聞く」の吉祥の意味を込めた判じ物で、尾上菊五郎の衣装に使われることで有名です。「判じ物」というのは「なぞなぞになっている型押し柄」のことです。

斧琴菊



★たんだ振れ振れ六尺袖
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- 山東京伝「近世奇跡考(1804年)」-
延宝天和の頃までは一尺五寸を大振袖と云
たんだふれふれ六尺袖をとうたひしは 其頃のこととぞ
一尺五寸四つ合せて 六尺袖なり
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現在の尺で言えば、57cmの振袖のことです(短か!)


★岡崎女郎衆
三味線の練習曲になった江戸時代初期の流行歌「岡崎女郎衆はゑい(良い)女郎衆」という唄で知られる東海道の飯炊女です。「傀儡師」のところで説明したように、古くは「傀儡女(かいらいめ)」と呼ばれた、東海道筋の宿場で春を売っていた売笑婦たちです。

矢作川(やはぎがわ)に浄瑠璃姫の墓、八丁味噌の蔵元に徳川家康公生誕の地である岡崎城、岡崎女郎衆が居たという遊郭跡など、ほかにも史跡旧跡だらけの愛知県岡崎市ですが、何故か公式キャラクターは謎の「オカザえもん」さんです。

何故だ。何故なんだ、岡崎市。
遊女が腰に巻いているのが「紐帯」


★二條通の百足屋(にじょうどおりのむかでや)
仮名草子『竹斎(ちくさい)(伝・烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年ごろ成立)に出てくる表現で、肥前名護屋(佐賀県)の「名護屋帯」という「紐帯」を指すと言われています。発音は同じですが「名古屋帯」とは別物です。


★熊ヶ谷笠
深い編み笠です。


★熊谷、武蔵野でござれ
熊谷も武蔵野も盃の名前ですが、「武蔵野」は特大の盃です。


★和田酒盛
前述のとおり、明治新政府を「黒い盃」を呑む「和田義盛」だと、皮肉っています。


★腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
ここは暗喩のようです。瓢箪(ひょうたん)は男性の陰部の別称で、毛巾着(けぎんちゃく)は女性の陰部の別称です。この語句が出た辺りから、唄が急激にエロへ転じます。


★蝙蝠羽織(こうもりばおり)
若衆が着る、袖丈より着丈の短い羽織です。若者のあいだで流行したようです。


★無反角鍔(むぞりかくつば)
反りのない真っ直ぐな刀身に四角い鍔(つば)をはいた、飾りにしかならない刀のことです。


★角内(かくない)
下男の総称です。普段は「角助(かくすけ)」と呼ばれました。


★手細(てぼそ)
若衆がほおかむりに用いたりする、細い手拭(てぬぐい)のことです。女性がつける場合は、腰紐か綿帽子を指します。江戸期の綿帽子は婚礼ではなく、風・埃除けのための普段使いの帽子というかターバンです。ちなみに「手細(てぼそ)」は「細布(ほそぬの・さいふ)」の異名(麻布、白布、狭布=けふ・せばぬの、手作り)のひとつで、「自由奔放な恋」の象徴です。


★小町踊(こまちおどり)
阿国歌舞伎の一派・娘歌舞伎が得意としていた、七夕踊りの演目名です。娘歌舞伎が禁止されたあとは、盆踊りとして町の娘衆が踊っていました。この盆踊り=念仏踊りは女子の成人式を兼ねており、夜這い解禁を村の男性に告げ知らせる意味があったとも言われます。


★永当(えいとう)
人がどっと来ることを意味します。掛け声の「えいッ」を、漢字であらわした言葉です。元禄の頃の「上を下へ ゑいとう山の花見かな(荒木加友)」という、上野東叡山の人混みを笑った地口狂歌が元のようです。<文政8(1830)年刊「嬉遊笑覧」巻之七 行遊>


★東叡(とうねい)
東叡山寛永寺(とうねいざん かんえいじ)→上野の山の寛永寺(かんえいじ)のことです。


水野年方画「延宝頃婦人」




////// 長唄「元禄花見踊」歌詞(全訳)


この唄を真面目に読んでみると、一貫したテーマがあるとわかります。
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- 詠み人知らず※古今和歌集(平安時代前期)867番-
紫の 一本(ひともと)ゆゑに 武蔵野の草は みながらあはれとぞ見る
[現代語訳]
紫草が一本あるから、そしてそれが一本だからこそ、武蔵野にある草がすべて、いとおしく見えるのだろう。
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「元禄花見踊」は近年の作なのに、なぜ誰もこのことについて言及しないか不思議です。この和歌をエロに発展させた裏テーマがあるため、「元禄花見踊」は「桜の散る月夜の晩に、草原で自由にまじわる若者たちの唄」になっています。かなり色っぽい衝撃作ですよ。

歌詞には「踊れ」と何度も出てきますが、意味するところは、舞踊の手振りではありません。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆のイメージ




◆歌詞(太字が現代語訳)

吾妻路(あづまぢ)を 都の春に志賀山の 花見小袖の 縫箔(ぬいはく)
華美(はで)をかまはぬ伊達染(だてぞめ)
よき琴菊(こときく)の判じ物 思ひ思ひの出立栄(でたちばえ)
連れて着つれて行袖(ゆくそで)も たんだ振れ振れ六尺袖の
しかも鹿の子の 岡崎女郎衆

東国江戸の都(みやこ)の春に、志賀山舞踊の風が吹く。
花見客の小袖に縫い込められた金銀箔の、なんと豪華なこと。
派手になることを構わない、鎌輪奴(かまわぬ)の伊達染めもあれば、
よき事を聞いた、という、おめでたい斧琴菊(よきこときく)の判じ物など、
みな思い思いに着飾って出かけているのが、江戸の栄えというもの。
同じ衣装に揃えて連れ合い、愉(たの)しそうに行くその小袖を、
たんだ振れ振れ、六尺もの長さの、その大振袖を。
そこへさらに鹿の子絞りで飾り立てた、
粋で豪華な岡崎女郎衆がやって来る。


裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいナ
そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいナ
手先揃へてざざんざの 音は浜松よんやさ

その裾は、伊勢物語東(あずま)下りを描(えが)いた八つ橋模様だ、
ヤンレほんとにそうかいナ、東下りでしょうかいな。
それは紫、しかも濃い紫だ、
ヤンレそれはそうじゃいナ、ほんとに濃い色の紫じゃいな。
手先を揃え、流行唄(はやりうた)を真似て「ざざんざ」と、
これは浜をゆき過ぎる、松風の音。よんやさ。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」御所の腰元
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」御所の腰元のイメージ



花と月とは どれが都の眺めやら
冠衣眼深(かつぎまぶか)に北嵯峨御室(きたさがおむろ)
二條通の百足屋(にじょうどほりのむかでや)が 辛気(しんき)こらした真紅の紐を
袖へ通してつなげや桜 疋田(ひった)鹿の子の小袖幕(こそでまく)
目にも綾(あや)ある 小袖の主の
顔を見たなら 猶(なお)よかろ ヤンレそんれはへ

花と月とが美しい対比を見せているが、
花と月のどちらが、より都(みやこ)の眺めと呼ぶのに相応しいだろう。
花見幕は、あたかも目深(まぶか)に冠衣(かつぎ)を被った北嵯峨の桜御殿のように。
二條通の百足屋(にじょうどおりのむかでや)が、つらい作業を辛抱し、
丹念に編んだ真紅の紐帯を、袖へ通してつなげてくれる桜の枝。
疋田鹿子(ひきたかのこ)の小袖で作った、その花見の幕の内側で、
目にも綾(あや)な美しい小袖の人が踊っているようだが、
そのお顔を見ることができたら、なおいっそう良かろうものを。
ヤンレそんれはへ、はなから無理であろうもの。


花見するとて 熊ヶ谷笠よ 飲むも熊谷 武蔵野で御座れ
月に兎(うさぎ)は和田酒盛の 黒い盃闇でも嬉し
腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
酔うて踊るが ヨイヨイよいよいよいやさ

花見のため深い編み笠を被った武士が、
熊谷の盃で呑みすすみ、興が乗ったあまり「特大の武蔵野を持て!」と。
月にウサギを描(えが)いた、和田酒盛という名の黒い盃で呑んで。
黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ)の中、
美酒に浸されていた義経公の首実験に臨(のぞ)んだ和田義盛は滅んだのだが、
そんな闇でも旨いものは旨い、
たとえ行く末(すえ)、暗黒が待ち受けようが、それでも酒は嬉しいと言わんばかり。
瓢箪(ひょうたん)を腰に下げて男が踊れば、酔った女が寄ってくる。
酔って踊るが、ヨイヨイ良いと言うものさ。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」踊る侍
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」踊る侍のイメージ



武蔵名物 月のよい晩は
御方鉢巻(おかたはちまき)蝙蝠羽織(こうもりばおり)
無反角鍔(むぞりかくつば) かく内連れて
ととは手細(てぼそ)に伏編笠(ふせあみがさ)
踊れ踊れや 布搗(つ)く杵(きね) 
小町踊(こまちおどり)の 伊達(だて)道具
ヨイヨイヨイヨイよいやさ 面白や

武蔵国(むさしのくに、江戸のこと)名物、名月の晩には、
紫ハチマキを頭に置いた蝙蝠羽織(こうもりばおり)の若衆が、
反りのない刀身に角鍔(かくつば)をはかせた飾り刀を腰に下げ、
下男をお供(とも)に出かけて行く。
年長ととさま役は細い手拭(てぬぐい)に伏編笠(ふせあみがさ)で顔を隠し、
踊れ踊れや 杵(きね)でもって布を突き、存分に、楽しむが良い
若衆の杵(きね)は七夕の夜には娘衆にも、伊達な遊び道具になることだろう。
ヨイヨイヨイヨイ良いやさ、いや風流なこと。



入り来る入り来る桜時(さくらどき) 永当東叡(えいとうとうねい)人の山
(いや)が上野の花盛り
皆清水(みなきよみず)の新舞台 賑(にぎ)はしかりける次第なり

人が来る来る桜どき、東叡山寛永寺(とうねいざん かんえいじ)は人の山。
いやが上にも、上野の山は花盛り。
誰もがみんな、清水(きよみず)の新舞台の上で肝(きも)を縮めているところ。
上野の山を賑わしたのは、こういう次第なのでございまする。

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平成30年、宮城県芸術協会「元禄花見踊り」


福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)や9代目 市川団十郎の演劇改良運動の魁(さきがけ)となった、12代目 守田勘弥(もりたかんや)の劇場改革について紹介しました。5代目 坂東玉三郎氏(当代)は祖父の大名跡を継ぐ予定にないため、少しばかり寂しく感じます。

→「元禄花見踊」解説には「つづき」があります。こちらからどうぞ(別ページが開きます)



写真がまったく足りず、いとこ作のイラストを使いました。このブログも、ほんとうに、もっと改良しないと!

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.






2019年5月15日水曜日

長唄「雨の四季」2019、絶賛お稽古中です!




今回で三回目のチャレンジとなる長唄「雨の四季」は、以前の記事で紹介させていただいたとおり、日本舞踊協会の各流合同新春舞踊大会で奨励賞(平成4年)を頂戴した演目です。

その際、ご指導いただいた橘流3代目家元 橘芳慧(たちばな よしえ)先生に、今回もみていただくことになりました。直接お声が聞けるのは、およそ30年ぶりです。お稽古の日には、おかげさまで、とても嬉しい感動の一日になりました。

写真は、はじまりのところを念入りに教えてくださる芳慧(よしえ)先生とわたしです。始まりが後ろ向きからなので、ふたりとも後ろ向きで恐縮です。



まさか手ずから教えていただけるとまで期待していなかったので、ちょっと驚きました。先生は数年前に大病なさったのですが、かくしゃくとした踊りで、相変わらず別格の足捌(さば)きです。



師匠・水木歌泰先生は今回、清元「船頭」を踊ります。
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2019/5/26(日)六十周年記念『各流舞踊公演』
主宰(公社)日本舞踊協会宮城県支部
共催 宮城県扇の会
後援 宮城県、仙台市、河北新報社、NHK仙台放送局、宮城県芸術協会
会場 仙台電力ホール(仙台市青葉区一番町3丁目7−1)
開場 午前9時30分、開園 午前10時
入場 4,000円(全席自由)
アクセス JR「仙台駅」から徒歩約10分(バスもあります)
問合 022-356-2339(チケットなど。宮城県支部)
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いや、芳慧(よしえ)先生がお上手すぎて、どうついて行って良いやら、わからないレベル。わたしの方が今回ちょっと怪我をして、体の動きがいまひとつなのですが、ヘコたれずに、また頑張ります!

本文・写真ともに水木歌惣。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou All Rights Reserved.







2019年5月11日土曜日

阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳





以前公開した、長唄「鏡獅子(春興鏡獅子)」という踊りの説明の、続きの続きです。こちらでは、歌詞の内容を解きほぐしてゆきます。

※  獅子だらけ、長唄「鏡獅子」(舞踊鑑賞室)
※  人生いろいろ「鏡獅子」という踊り
※  女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳





地唄にしろ浄瑠璃にしろ、すべての邦楽の「獅子もの」は謡曲「石橋(しゃっきょう)」起源と言われます。





////// すべての獅子ものの原型となった、謡曲「石橋(しゃっきょう)


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- 作者不詳・伝承曲「石橋(しゃっきょう)」※謡曲-

中国の仏教寺院を訪ね歩いていた寂昭法師・大江定基は、清涼山(しょうりょうぜん、現在の中国山西省)に着き、そこにある石橋を渡ろうとしたところ、ひとりの樵(きこり)の少年に引き止められます。少年は橋の向こうは文殊菩薩の浄土であり、人が容易に渡れる橋ではないと言って、仏教修行の厳しさを説くのです。さらに、ここで待っていれば仏の奇跡の一部を見ることができるだろうと言うので待っていると、文殊菩薩の使いの獅子が生きて顕(あらわ)れ、牡丹に戯(たわむ)れて遊んだあと、文殊菩薩の乗り物である獅子の台座に戻ります。少年は文殊菩薩の化身なのでした。

[シテ]獅子
獅子団乱旋(ししとらでん)の舞楽のみぎん みぎん 牡丹の花房にほひ満ち満ち たいきんりきんの獅子頭。打てや囃(はや)せや 牡丹芳(ぼたん ほう) 牡丹芳(ぼたん ほう)。黄金の蕊(こうきんのしべ) 現れて 花に戯(たわむ)れ枝に伏し転(まろ)び。 げにも上なき獅子王の勢(いきほひ) 靡(なび)かぬ草木もなき時なれや。 万歳千秋と舞ひ納め 万歳千秋と舞ひ納めて 獅子の座にこそ直りけれ
現代語訳
獅子の団乱旋(とらでん)の舞楽を舞い始めるや、牡丹の花房には匂いが充ち満ち、高く立ち昇った。すると百獣の王たる獅子は頭(こうべ)を振る。鼓を打て、歌い囃(はや)せ。牡丹うるわし、牡丹うるわし。牡丹の雌しべ雄しべが顕(あらわ)れ黄金色に光り輝くや、獅子は花に戯(たわむ)れ、枝に体をこすりつけたり、また転げまわったり。まことに、獣の中ではうわまわるものなどない獅子王に、なびかない草木は無いと思われたそのとき、獅子は「万歳千秋(世よ永遠に!)」と舞い納め、「万歳千秋(世よ永遠に!)」と舞い納め、文殊菩薩像の台座に戻ったのである。※「団乱旋」は狂乱した獅子の集団が旋回して暴れる様子を表現した唐の舞楽
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葛飾北斎「石橋の舞」


「石橋(しゃっきょう)」物語の主人公・寂昭法師こと大江定基(おおえさだもと、962頃~1034年)」は天台宗の僧侶です。988年ごろ三河国司に任じられ、前の妻を離縁し新しい妻を伴って赴任するのですが、赴任先で女が死んでしまいます。定基は別れがたく遺体を抱いて7日すごし、腐敗したのを見てやっと女を埋葬します。そうして「恵心僧都(えしんそうず)」こと源信(げんしん、942~1017年)のもとで出家、天台宗を学び寂昭と名乗ったのです(「今昔物語集」「源平盛衰記」ほか)

都で乞食修行(こつじきしゅぎょう)していたところ、前の妻が通りかかって定基(さだもと)に気づき「ざまあみろ」と、さんざん辱(はずかし)めます。しかし出家した定基(さだもと)は、「かえって徳を積むことが出来た」と悦(よろこ)びます(「今昔物語集」「今鏡」)。やがて1003年、源信(げんしん)の使いで宋へ渡り、天台山(広東省)で源信(げんしん)の書簡への返答を受け取るなどし、そのまま帰国することなく1034年、杭州(浙江省)で入滅しました。謡曲「石橋(しゃっきょう)」は架空の物語ですが、遺体を抱いて7日寝たこと、大勢の見ているところで前の妻に激しく罵倒されたのは事実です。

「石橋(しゃっきょう)」は仏の道に迷う旅の法師の前へ、ご褒美のように文殊菩薩がほんのひととき顕現し、仏の奇特を見せることで、これから進もうとする道が正しいと確信させてくれる、心あたたまる物語です。実話の寂昭法師の人生があまりにも哀れなため、このような物語が出来たのだろうと推察します。

ところで「石橋(しゃっきょう)」という語の意味は、庭にある「飛び石」のこと。自分から石と石のあいだを飛び、そこにない橋を伝い渡ることを仏教用語で「石橋」というようです。これは「鏡獅子(春興鏡獅子)」の歌詞の中に唄われています。





//////「牡丹」「胡蝶」のもととなった、漢詩「牡丹芳(ぼたんよし)


前の記事でも取り上げましたが、謡曲「石橋(しゃっきょう)」や邦楽「獅子もの」牡丹のくだりは、唐の詩人・白居易(はっきょい、772~846年、あざな「楽天」で「白楽天」)の「牡丹芳(ぼたん よし=ムータン・ファン)」から取られています。とても美しい漢詩です。

「芳(ファン)」は感嘆詞のため、音にこだわって訳す場合は「ぼたんほう」と表記します。ムータン(牡丹)の立場は、、、むにゃむにゃ。

ところで「牡丹芳(ぼたん よし)」は、牡丹に熱狂する長安の人々を批判し政権におもねる内容のため、中国本土での評価はかならずしも高くありません。
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- 白居易(772~846年)「牡丹芳(ぼたん よし、ムータン・ファン)」※漢詩-

牡丹芳 牡丹芳 黄金蕊綻紅玉房 千片赤英霞爛爛 百枝絳點燈煌煌
(現代語訳)
牡丹うるわし
牡丹うるわし
紅い玉のような花房(はなぶさ)のなかで、黄金の蘂(しべ)がほころび
紅い霞(かすみ)が千の瑠璃(るり)のように、房なりになって爛々(らんらん)と輝く
数百の枝が、煌々(こうこう)と輝く真紅の燈明を、点々と支えているのだ
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戲蝶雙舞看人久 殘鶯一聲春日長
(現代語訳)
やがてつがいの蝶が花に戯(たわむ)れて舞ったので
人々は飽くことなく、いつまでも眺めていた
季節を忘れた鶯(うぐいす)が一声啼けば、ますます春の日は長く、暮れてはゆかない
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花開花落二十日 一城之人皆若狂
(現代語訳)
花が開いて落ちるまで二十日
ひとつの城郭(長安)の人々は、一人残らずにわかに物狂いとなる
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減卻牡丹妖豔色 少回卿士愛花心 同似吾君憂稼穡
(現代語訳)
牡丹の花の妖しい色気を滅することができたなら
花を愛する大臣たちの心を、少しばかり迂回させることができるだろうか
わが君の、種まき田植えへの憂いに近い考えに、させることができるだろうか

===おわり===

はい。結末、かなり微妙です。





//////「飛騨の踊(ひんだのおどり)は面白や」の真実

前の記事では下記のように書きました。
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中国から三味線が流入した早い時期、検校(けんぎょう)たちが和風にアレンジし独自の演奏法を作りました。「飛騨組(ひんだぐみ)」はそのひとつで、石村検校(生年不詳~1642年)の音曲です(「松の葉集」1703年刊行)
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これは「飛騨組(ひんだぐみ)」の説明ではあるけれど、実のところ「飛騨組(ひんだぐみ)」が各種「獅子もの」に取り込まれた理由の説明にはなっていません。そこでは説明が多くなりすぎるからでした。ごめんなさい。

とりあえず、「飛騨組(ひんだぐみ)」の唄はこんな感じです。
****************
- 石村検校(生年不詳~1642年)、飛騨組の唄※抜粋-

船の中には 何とお寝(よ)るぞ 苫(とま)をしき寝(ね)に 梶(かぢ)を枕に
ひんだの踊りを 一踊り 一踊り
(現代語訳)
船の中で寝るときには、どうして寝ましょうか。
そう聞かれれば、
(とま、御座のようなもの)を敷いて、梶を枕に、と答えます。
(えぇ、いいですよ、一緒に寝ましょう)
ひんだの踊りをひとさし、ひとさし、舞ってお観せしましょうね。


葛飾北斎「勇士騎獅子図」


「飛騨組(ひんだぐみ)」が「獅子もの」に組み込まれたのは、下記のような経緯です。

<1>
石村検校(生年不詳~1642年)の、「飛騨組(ひんだぐみ)」という三味線の手が大阪にあった。「飛騨組(ひんだぐみ)」の歌舞音曲は流行した。石村検校と同時代の芸能者・出雲阿国(いずもの おくに)との関係は不明。

<2>
===ここから「舞曲扇林(ぶきょくせんりん、1684~1689年ごろ)」===

初代 出雲阿国(いずもの おくに)こと「お通」は死に際して「お郡(くに)」に演目を伝承した。2代目 阿国(おくに)こと「お郡(くに)」は幼い少女たちや少年たちを集めて芸を仕込んだ。少女たちは娘歌舞伎を演じ、少年たちは若衆歌舞伎を演じた。その若衆歌舞伎は「業平おどり」と名乗り、いつの頃からか大阪を拠点にした。演目は「お郡(くに)」がお仕着せにした「十二番(12演目)」の大小狂言だった。


<3>
娘歌舞伎(女)や阿国歌舞伎(おくにかぶき、男女混合)が禁止され「お郡(くに、2代目 阿国)」が芸人を廃業したとき、「お郡(くに)」は演目を狂言師「角助」に託し、「角助」は大阪へ行って「業平おどり」名手である「日本伝助」へ伝え、「日本伝助」が歌舞伎三味線の名手である盲人の「太左衛門」へ伝え、「太左衛門」が「業平おどり」に「四番(4演目)」追加して、計「十六番(16演目)」とした。
===ここまで===

<4>
「業平おどり」の演目「飛騨の踊(ひんだのおどり)」を、初代 瀬川菊之丞(初代 瀬川路考、1693~1749年)が「英獅子乱曲(通称「枕獅子」)」など製作することで、獅子の踊りに取り込んだ。初代 瀬川菊之丞は、浄瑠璃「獅子もの」すべてに影響を与えた地唄「石橋(しゃっきょう)」も作詞・製作した。「飛騨の踊(ひんだのおどり)」は「業平おどり」11番目の演目で、2代目 阿国がお仕着せにしたもの。
*****

葛飾北斎「達磨(だるま)騎獅子図」※北斎、ふざけてる?


推論ですが、「獅子ものと言えば、瀬川菊之丞」と呼び讃えられた、獅子もの作者・初代 瀬川菊之丞は「業平おどり」出身なのでしょう。そうして恐らく、文殊菩薩が庶民(農民)の日常の苦労を癒してくれる存在だと、訴えたかったのではないでしょうか。「業平おどり」や初代 瀬川菊之丞など初期の歌舞伎作者は、権力者のためでなく庶民のために唄い踊っていたのです。

ちなみに「業平おどり」は恋の歌人・在原業平(825~885)とは、いっさい関係ございません。娘歌舞伎(女)で人気だった七夕踊りが演目名「小町おどり」だったので、有名歌人つながり(小野小町に対して在原業平)で演目名を「業平おどり」と称したようです。

そうして問題の「業平おどり」11番、「飛騨(ひんだ)の踊り」がこちらです。
****************
- 飛騨の踊り(業平踊り、11番)※抜粋

ひんだの横田の若苗を 若苗を しょんぼりしょんぼりと植ゑたもの
今くる嫁が枯らすよの 腹立ちや
ひんだの踊りはおもしろや おもしろや
これ迄よ
(現代語訳)
飛騨の横田の若苗を、若苗を、うんざりしながら頑張って植えたものなのに、
今来た嫁が枯らしてしまい、あぁ、腹が立つったら。
(覚えがあるかい?)
ひんだの踊りは愉快だな、
ひんだの踊りは愉快だな、
ここまで!



皮肉芸ですね。ここまで大上段に語ったあげくの、結末がまさかの「綾●路き○まろ」さんです。我が国芸能史の重要なところなのに、傀儡師(かいらいし)たちの、おふざけが止まりません。そりゃあ、起源が一緒でも、この人たちはあと100年待とうが能楽師にはならなかったろうと感じさせます。

悲しいことを悲しく演じるより、悲しいことを愉(たの)しく演じることに熱意を注(そそ)ぐ人たちが、人形浄瑠璃や歌舞伎狂言(歌舞伎舞踊含む)を作ったのです。

それにしても、新時代の演劇改良運動(歌舞伎改良)の代表作「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」に、もっとも古い「阿国歌舞伎」由来の歌詞が唄われていることに、ある種、感動を覚えます。





//////  長唄「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」歌詞・註解

前回記事、前々回記事と続けて註解を出します。歌詞を読みながら同じ画面で解説を見ていただきたいなぁ、と思うからです。ですので、内容が一部以前の記事と重複しています。ご了承ください。

葛飾北斎「金時(金太郎さん)騎獅子図」※北斎ぜったい、ふざけてる


◆川崎音頭
長唄に取り込まれた伊勢音頭は、いわゆる「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」系の参詣端唄や巡礼端唄ではありません。もとは「間(あい)の山節」という伊勢の民謡に、伊勢近在の川崎(伊勢市河崎)の音頭=川崎音頭が混ざったものです。それを伊勢の内宮と外宮(げくう)のあいだにあった旅籠(たびかご)で遊女たちが歌い踊り、広めたようです。


◆人目の関
関所で役人の目を気にするように、人目を気にして、思いどおりにできないことを表わす常套句です。


◆朧月夜や時鳥(ほととぎす)
ほととぎすは夜にも啼(な)くのですが、美声ではなく「キョキョキョキョ(クェクェ、、、とも)、、、」という、ちょっと耳障りな鳴き声です。鶯(うぐいす)とは違います。月夜の幻想を、台無しにされるイメージです。


◆半日の客(かく)たりしも
漢の明帝時代・永平五年(508)、 劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)の二人が楮(こうぞ)を取りに天台山へ登り、道に迷って神女に助けられます。半日遊んだだけで下山したのに、下界では既に七代が経過していたという浦島太郎のような物語(短編小説集「幽明録」より、「天台神女」)です。


◆二十日草
白居易(はっきょい)の「牡丹芳(ぼたん よし)」の中で、牡丹の寿命は二十日とされています。牡丹の花は異名が多く、謡曲「石橋(しゃっきょう)」ではもうひとつの異名「深見草(ふかみぐさ)」が使われます。一方、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」では「二十日草」と「深見草(ふかみぐさ)」、両方の異名とさらに「牡丹」が登場します(よくばりすぎ!)


◆科戸(しなど)の神
級長戸辺命(しなとべのみこと)の略称で、風の神さまです。


◆ます鏡
「鏡」は現世を見とおす閻魔の鏡の暗喩で、タイトルに「鏡」がある文芸作品はたいてい歴史上の有名人の人生を描いた伝記です(「大鏡」「吾妻鏡」など)。いっぽう、十寸(約30cm)ぐらいの鏡を「真澄鏡=ますかがみ」と、呼びました。ここでは「想いが増す」「人生」「化粧鏡」全部の掛詞になっています。ちなみに「感情が募(つの)る」ことを「増鏡(ますかがみ)」で掛詞にするのは、古い歌ではよくある常套句です。
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嵐三右衛門、吉澤あやめ「吉田小女郎」※抜粋(「落葉集」第7巻、1624年ごろ刊行)
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恋の山 寝るに寝れず 目も合はぬ 身の狂乱は誰ゆゑぞ 問ふにつらさのます鏡
(現代語訳)
恋の山を登るため寝るに寝られず、まぶたを会わせることすらできない。この身の狂乱は誰のせいかと、問うのも辛さがます鏡。


◆花のをだまき 花のおだまき くりかえし
有名な「倭文(しづ)の苧環(をだまき)」というのは中心を空洞に、麻布をくるくる巻いた古文書です。「倭文(しづ)=賎(しづ)」で音が重なったせいか、和歌などでは「繰り返す」や「賎(いや)しい」という語の序詞になりました。

ここでは「繰り返す」の序詞「しづのおだまき」を、「花のおだまき」に変えてあります。「賎(いや)しい」イメージを、払拭したかったように見えます。

1186年、鎌倉へ呼び出された白拍子(遊女)・静御前(生没年不詳)が、逃亡中の愛人・源義経(1159~1189年)へ想いを馳せ、鶴岡八幡宮の大祭で歌い踊った和歌を引いています。
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静御前(「吾妻鏡」
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しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(現代語訳)
賎しい身分のわたしですが、それでも昔が恋しく「静(しづ)や」と呼んでいただいた、あの方との日々が今ここへ戻ってきて欲しいと、願っているのでございます。

錦絵「静御前」

これを観た源頼朝(1147~1199年)は激怒します。源頼朝は朝廷のため平氏と戦った弟・源義経に幕府への反逆の疑いをかけ、討伐令を出しています。観衆の面前で、遊女ごときに意見されたからです。


◆獅子の座にこそ なおりけれ
獅子は文殊菩薩の台座、つまり乗り物です。ですから「獅子の座にこそなおりけれ」とは、「まさしく文殊菩薩さまの足許(あしもと)に戻った」という意味です。

昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」




////// 「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」歌詞・全現代語訳

◆あらすじ

江戸城(正式名称・千代田城)大奥の踊小姓・弥生は、「鏡餅曳(かがみもちひき)」の奉納俄(にわか)を披露する籤(くじ)に当たって怖気(おじけ)づく。上役の人々の説得で不承不承座敷中央へ出て踊りはじめるが、やがて即興の踊りに興が乗り、祭壇に置かれた手獅子(小さな獅子頭)を持ったところ、獅子の精に憑依され、手獅子に曳かれ座敷を飛び出してゆく。まもなく全身獅子となった弥生が戻ってくるが、心は獅子の精に乗っ取られ、胡蝶とともに激しく舞い乱れるのだった。



◆歌詞(太字が現代語訳)

<長唄「枕獅子」を改変した歌詞>

樵歌牧笛(しょうかぼくてき)の声 人間万事さまざまに
世を渡りゆく その中に 世の恋草を余所(よそ)に見て
われは下(した)萌えくむ春風に 花の東(あずま)の宮仕え
忍ぶ便りも長廊下(ながろうか) 忍ぶ便りも長廊下(ながろうか)

きこりの唄の旋律が風に乗って流れついたかと思えば、
羊を追う牧童の笛の音も、聞こえてきます。
何につけ、ひとの生き方はさまざまなものですね。

浮世を渡って生きる喧騒(けんそう)の中にあっても、
御殿勤(づと)めのわたしは人の恋路と距離をとり、
恋草が下草のように胸の中に萌えているのを感じながら、
春風にまかせ、花の東国で宮仕えをしております。
我慢しなければいけないのは、
恋しい人の便りを待ちながら寝る長い夜ではなく、
恋しい人の便りを隠して歩く、御殿の長い廊下です。
ほんとうに、ほんとうに長い廊下なのですよ。


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」


されば結ぶのそのかみや
天の浮橋(あまのうきはし)渡り染め 女神男神の二柱(ふたはしら)
恋の根笹(ねざさ)の伊勢海士小舟(いせあまおぶね) 川崎音頭口々に

男と女を結ぶという神、
天の浮橋(あまのうきはし、国産神話の最初の段)を渡りそめた、
伊邪那美命(いざなみ)さまと、伊邪那岐命(いざなぎ)さま。
女神男神(めがみおがみ)
二柱(ふたはしら)の神がお創りになった恋の道です。

小舟(こぶね)に乗った伊勢の海女が唄いはじめ、
根笹(ねざさ)が土中にじわっと広がるように、
世の中に知れ渡った川崎音頭(伊勢音頭のこと)では、
こんな風に唄われています。


人の心の花の露 濡れにぞ濡れし鬢水(びんみず)
はたち鬘(かつら)の 堅意地(かたいじ)
道理 御殿の勤めぢゃと 人にうたはれ
結い立ての 櫛の歯にまでかけられし
平元結(ひらもとゆい)の高髷(たかまげ)
(かゆ)いところへ平打ちの とどかぬ人につながれて
人目の関の別れ坂

人の心の涙は、花の露のようなもの。
櫛に水をつけ、鬢(びん)のほつれ毛をしっかり梳(す)いて。
はたちになるかならぬかという若さでも、固く意地をつらぬいて。
そりゃ道理、御殿勤めはそういうものじゃろうと、
他人に面白く歌いはやされ、
結い立ての髪の櫛の先まで噂にされる(櫛の歯=口の歯)、
御殿女中のわたしです。

お勤めのため平元結(平たい紙で結んだまとめ髪)の髪を、
高髷(たかまげ、高島田のこと)に結い上げています。
かゆいところに手が届くような、
よく気がつく優しい男に添いたいけれど、
そうでもない男と縁を結んだせいで、
平打ち簪(かんざし)で頭を掻くようにもどかしい思いです。
まるで関所にいるかのように、
人目を気にして、離れて暮らしているのです。

昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」


春は花見に 心うつりて山里の
谷の川音 雨とのみ聞こえて 松の風
(げ)に過(あやま)って半日の客(かく)たりしも 今 身の上に白雲の
その折(おり)過ぎて 花も散り 青葉茂るや夏木立
飛騨の踊(ひんだのおどり)は面白や

春には花見に参りましょう。
山里にすっかり心を奪われているところへ、ふいに谷の川音が響き、
雨が来るかと思っていると、松を吹き抜けるただの風の音でした。
実際に松風に騙され、半日山の神の客人となっただけで、
下山してみると白雲のような白髪の老人になった例もあるのです。
そんな春の盛りの時期が過ぎて花が散ってしまうと、夏木立に青葉が茂ります。
飛騨の踊(ひんだのおどり)は風流ですね。


早乙女(さおとめ)がござれば 苗代水(なわしろみず)や 五月雨(さつきあめ)
(はつ)の人にも馴染むは お茶よ ほんにさ

うらみかこつもな 実(じつ)からしんぞ
気にあたらうとは 夢々(ゆめゆめ)知らなんだ
見るたびたびや聞くたびに
(にく)てらしほど可愛(かあ)ゆさの
朧月夜(おぼろづきよ)や時鳥(ほととぎす)

田植えの乙女がござれば、水を湛(たた)えた苗代(なわしろ)に、
春めいた五月雨(さつきあめ)が降り注(そそ)ぎます。
初めて会う方に馴染んでいただくには、茶事を催すのが良いですよ。
ええ、ほんとうに。

(うら)み言を言いつのるのは、心が本気の証拠です。
気に障ったのならごめんなさい、お気に障るとは夢にも思わないことでした。
逢えば逢うほど、お手紙を頂戴すれば頂戴するほど、
我ながらどうしてここまでと、憎らしくなるほど恋しさが募(つの)ったせいでした。
穏やかな朧月夜(おぼろづきよ)に、時鳥(ほととぎす)がうるさく啼き喚いていますね



時しも今は牡丹の花の 咲くや乱れて 散るは散るは
散り来るは 散り来るは
散り来るは ちりちり ちりちり ちりちり
散りかかるようで おもしろうて寝られぬ
花見てあかそ 花には憂(う)さをも打ち忘れ

折りしも今は牡丹の花が咲き乱れる時期、咲いたとたんに咲き乱れ、
今にも散り始めそうで、
今にも散り始めそうで、
ちりちり、ちり散り始めそうに見えて、あぁ、おもしろくて夜も寝られません。
花を見ながら夜明かししましょう。花を見れば、つらいことを忘れます。


咲き乱れたる 風に香(か)のある花の波
きつれてつれて 顔は紅白薄紅(こうはく うすべに)さいて
見するは見するは 丁度二十日草(はつかぐさ)
牡丹に戯(たわむ)れ 獅子の曲

花が咲き乱れ、花の香おりが風に乗って、波のように吹き寄せます。
ほら、花の化身の花笠衆がやって来ました。
花の顔々は紅白に、薄紅色に染まっていますね。
二十日でお別れの花を見続け、ちょうど二十日目。
どうして? 牡丹に戯(たわむ)れる、獅子の音曲が聞こえてきました。


(げ)に石橋(しゃっきょう)の有様は
その面(おもて)わづかにして 苔(こけ)滑らかに谷深く
下は泥犂(ないり、地獄・奈落のこと)も白浪(しらなみ)
音は嵐に響き合い 笙歌(しょうか)の花降り
簫笛琴箜篌(しょうちゃくきんくご) 夕日の雲に聞こゆべき
目前の奇特(きとく)あらたなり

そこへ突然出現した石橋(しゃっきょう)は、
深い谷に架かかった、巾の狭い(約3cm)苔むした橋でした。
下は奈落の底のように見える白い波のうずまく急流で、
さざ波の音が風の嵐と響き合い、
笙歌(しょうが)の声が、散る花のように谷川に降るところです。
おや。竪琴(たてごと)、笛、琴、箜篌(くご、竪琴に似た弦楽器)の音色(ねいろ)が、
夕日の雲に音曲を聞かせようと、天空を目指し、また谷底から飛翔してゆきますよ。
目の前に展開される奇跡の数々は、仏の世界が確かに存在すると証明するものです。



昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」


<長唄「鏡獅子」をほぼそのまま取り込んだ歌詞>
※「胡蝶」ここから

世の中に 絶えて花香(はなか)のなかりせば 我はいづくに宿るべき
浮世も知らで草に寝て 花に遊びて
あしたには 露を情けの袖まくら 
羽色(はいろ)にまがふ物とては われにゆかりの深見草(ふかみぐさ、牡丹のこと)
花のをだまき 花のをだまき くり返し
風に柳の結ぶや糸の ふかぬその間(ま)が命ぢゃものを
(にく)やつれなや そのあじさへも
わすれかねつつ飛び交(こ)ふ中を
そつとそよいで隔(へだ)つるは 科戸(しなど)の神のねたみかや

世の中に花の香おりというものがなかったならば、
蝶であるわたしは、どこに宿をとって休めば良いのでしょう。
浮世の苦しみを知ることもなく草の上に寝て、花に遊び、
翌朝にはまた、愛する男とそうするように、
情愛の露を袖枕に寝るのが、蝶というものなのです。

わたしの羽の色と見まがうものなんて、
わたしと深いゆかりのある、深見草(ふかみぐさ=牡丹)しかありません。
だから花が咲くたび、しづのおだまきのように、くるくると、繰り返し花を追うのです。

蝶は、風に恋をした柳が運命の糸をたぐり寄せ、
契りを結んで草木を芽吹かせるまでの、
そのほんの短いあいだの命ですのに。
花の味わいを忘れられず、
名残(なごり)を惜しんで飛び交っているだけなのに。
そっとそよいでわたしたちを引き離すとは、
風の神さまは、花と蝶との関係を妬んでらっしゃるものでしょうか。




よしや吉野の花よりわれは 羽風(はかぜ)にこぼす 白粉(おしろい)
その面影(おもかげ)のいとしさに いとど思ひは ます鏡(かがみ)
うつる心や 紫の色に出(い)でたか 恥ずかしながら
待つにかひなき松風の 花に薪(たきぎ)を吹き添へて
雪をはこぶか朧(おぼろ)げの われも迷ふや 花の影
(しば)し 木影(こかげ)に休らひぬ

吉野の花から飛び立つわたしは、羽風(はかぜ)を立てては、
白粉(おしろい)のような花の花粉を散りこぼします。
あとにはその花粉の面影(おもかげ)を思い出し、花恋しさが増すばかり。
恋にうつろう心が色になって出たのか、
秋になると、わたしの羽は牡丹のような紫色になりました。

そう思って恥じ入りながら待っていても、
秋に咲いた紫の花のあとには、ただ松風が吹くばかりです。
風にそなえて花に添え木をするように、
花木の傍(そば)に薪(たきぎ)が積み上げられるころには、
かすかな雪が風に運ばれてやってくるのだけれど、
その雪が花影に見えるため、
わたしはまた迷いの道へと、踏み込んでしまいそうで、
だからほんの少しのあいだ、木陰に羽を休めたのです。
※「胡蝶」ここまで


それ清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)は 人の渡せる橋ならず
(のり)の功徳(くどく)に おのづから 出現なしたる橋なれば
石橋(しゃっきょう)とこそ名付(なづけ)たり

(しばら)く 待たせ給へや
影向(ようごう)の時節も 今いくほどによも過ぎじ 
いま いくほどによも過ぎじ
牡丹の花に舞い遊ぶ
葉影(はかげ)にやすむ蝶の 風に翼かはして 飛びめぐる
獅子は勇んでくるくる くると


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」


文殊菩薩さまのおっしゃるには、
これ、清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)は、
人が渡れる橋ではないぞよ、と。
三宝(さんぽう、仏・法・僧)の功徳(くどく)を伝えるため、自然と出現した橋だから、
まさに「石橋(しゃっきょう=元の意味は「飛び石」、飛ぶ石)」とばかり、名づけたのだ。

しばらくお待ちなさい、
神仏の降臨と邂逅(かいこう)の時は、
今から幾(いく)ほどもかからず実現し、すぐに終わってしまうからと。
すると牡丹の花に舞い遊び、いままで葉影(はかげ)で羽を休めていた蝶が、
また風に乗り、舞い上がって飛び巡(まわ)ります。
気づくとそこに獅子が顕(あらわ)れ、
勇み足でくるくる、くるくる廻っているではないですか。



花に戯(たわむ)れ 枝に伏し転(まろ)
(げ)にも 上なき獅子王の勢(いきお)
ししの座にこそ なをりけれ

そうして花に戯(たわむ)れ、
枝に身体(からだ)をこすりつけたと思えば、次には伏して転げまわって。
まこと百獣の王と讃(たた)えられる、獅子王の勢いと言うもの。
やがて舞い納めると文殊菩薩像さまの足許(あしもと)へ戻り、
台座に還(かえ)った獅子なのでした。

//////

葛飾北斎「文殊菩薩騎獅子図」


「枕獅子」由来の前段は踊小姓・弥生が主人公の弥生目線、長唄「鏡獅子」由来の後段は蝶が主人公で蝶目線です。

前段の終わりまぢか手獅子を手にして獅子の精に憑依され、しばらく蝶に見とれるなどの小芝居があったあと、意思を持ったような手獅子に引かれ、小走りに花道を引っ込むくだりは、何度観ても心が躍(おど)ります。そのあとは「毛ぶり」と呼ばれる獅子の振りがたっぷり。いまさら言うまでもないことですが、迫力があって見ごたえのある、素晴らしい演目です。

※  獅子だらけ、長唄「鏡獅子」(舞踊鑑賞室)
※  人生いろいろ「鏡獅子」という踊り
※  女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳




歌詞は二つの長唄を掛け合わせたせいで複雑な、難しい内容です。でも踊りを見ると複雑に感じることはありません。スッキリ愉(たの)しい踊りですよ。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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