2019年6月2日日曜日

来世で会いましょう。長唄「静と知盛」という踊り(全訳)





平成25年、仙台電力ホールで踊った長唄「静と知盛」という踊りの、紹介です。







三味線を導入した「吾妻能(明治時代初期)」として作曲された長唄「船弁慶」を、河竹木阿弥(1816~1893年)がアレンジして歌舞伎としての演目・長唄「船弁慶」に変え、さらにそこから「静」の登場シーンと「平知盛(たいらのとももり)」の登場シーンだけを取り出して舞踊化した演目です。





////// 長唄「静と知盛」概略


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「船弁慶」※吾妻能狂言(「吾妻能」「日吉能」などと呼ばれる)
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■初演
明治3年(1870)、能楽師(役者)・日吉吉左衛門(ひよしきちざえもん、生没年不詳)が製作

■作曲
2代目 杵屋勝三郎(1820~1896年)
※通称「勝三郎船弁慶」

■作詞
謡曲「船弁慶」の歌詞を利用

源義経、静御前、武蔵坊弁慶


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「船弁慶」※歌舞伎・歌舞伎舞踊
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■初演
明治18年(1885)、東京・新富座にて9代目 市川団十郎(1838~1903年)が初演

■作曲
2代目 杵屋正次郎(1836~1895年)

■作詞
河竹黙阿弥(1816~1893年)

■振付
初代 花柳寿輔(1821~1903年)

弁慶、平知盛、源義経


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「静と知盛」※歌舞伎舞踊
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■初演
昭和19年、舞踊家・坂東三津之丞(ばんどうみつのじょう、1896~1966年)が初演


坂東三之丞(ばんどうみつのじょう)氏は最古の歌舞伎舞踊流派・志賀山流師範の家に生まれ、歌舞伎役者になったあとで坂東三津五郎門下に入り、舞踊家・振付家として活躍した舞踊家です。






////// 長唄「静と知盛」の原型・謡曲「船弁慶」


多くの名作の母体となった普及の名作・謡曲「船弁慶」は、世阿弥元清(ぜあみもときよ、1363頃~1443年)の甥の七番目の子ども、観世小次郎信光(かんぜこじろうのぶみつ、1435もしくは1450~1516年)の作です。最初から才能があったという伝説がありますが、表舞台は兄たちに譲って自分は大鼓(おおかわ)担当になり、その後ワキ師になったという、人材の足りないところを補充して歩いた苦労人の天才です。

ワキ師だったせいか、どちらかというとワキが活躍する作品(「安宅」「紅葉狩」「羅生門」「船弁慶」など)を多く残している印象です。

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観世信光(かんぜのぶみつ)
謡曲「船弁慶」
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兄・源頼朝に忠義心を疑われ、東国へ落ちてゆこうとする源義経一行の船の前に、平知盛の幽霊がたちはだかります。義経は落ち着いて刀を抜くと、生きている相手にするように声を掛け太刀(たち)を合わせますが、従者である武蔵坊弁慶がそれを押し止(とど)め、「相手は怨霊なのだから、刀などでは叶うまい」と、数珠(じゅず)を出して読経し知盛の霊をしりぞけます。
[シテ]
そもそもこれは、桓武天皇九代の後胤(こうえい)、平知盛、幽霊なり。
ああら珍しや、いかに義経。
[地謡]
その時義経少しも騒がず。打ち物抜き持ち、現(うつつ)の人に向こうが如く。言葉を交わし戦い給(たま)えば弁慶押し隔(へだ)て、打ち物業(うちもの わざ)にて叶うまじと。数珠(じゅず)さらさらと押し揉んで。

船弁慶


「船弁慶」の着想の元となったのは、源義経(1159~1189年)が兄・頼朝(1147~1199年)の討伐から逃げるため、西国(さいこく)・九州へ向かった際のエピソードです。芝居の部分は幸若舞(こうわかまい、謡曲・歌舞伎の原型となった室町時代の狂言)の「四国落(しこくおち)」を参考にしたようです。

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吾妻鏡(鎌倉時代に成立)
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六日乙酉 行家・義経大物ノ浜ニ於イテ乗船ノ刻 疾風俄カニ起リテ 逆浪船ヲ覆スノ間、処ノ外ニ 渡海ノ儀ヲ止メヌ。伴類分散シ 予州ニ相従フノ輩ハ 僅カニ四人、所謂 伊豆右衛門、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、並妾女字静一人ナリ。
(現代語訳)
六日の酉の刻のこと、行家(源行家、1146~1186年)と源義経は大物浜(おおものうら、兵庫県尼崎市)から乗船しようとしたが、にわかに疾風が起こり逆波が渦巻いて船が転覆してしまい、予定外なことだが海を渡ることができなくなった。伴(とも)の者たちは分散してしまい、義経公にあい従うやからは僅(わず)か4人、よく知られた伊豆右衛門(源有綱、生年不詳~1186年)に堀弥太郎(堀景光、生没年不詳)、武蔵坊弁慶(生年不詳~1189年)と、妾で静という女(生没年不詳)が一人だった。


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平家物語(鎌倉時代に成立)
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西の風忽ちに激しく吹きけるは平家の怨念の故とぞ聞こえし。
(現代語訳)
西風が急に激しく吹いたのは、まさしく平家の怨念のせいだろうと噂された。


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四国落(しこくおち・幸若舞の演目、室町時代に成立)
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(あらすじ)
四国へ向かう義経主従の船団に、暗黒の妖気が襲いかかる。船団がちりぢりになるなか、小野篁(おののたかむら)子孫である武蔵坊弁慶が、数珠をさらさらと押し揉んで悪霊を退散させる。


現実に平家の幽霊は出なかったのですが、源義経一行は船を失い静御前を連れて吉野山へ隠れます。史実では、静は吉野山で5日逗留したあと、別れを告げられます。義経主従はその後九州逃亡を諦め、奥州へ向かいました。謡曲「船弁慶」では、静と義経は大物浦(おおものうら)での乗船前に別れを迎えます。

能「船弁慶」





////// 静御前というひと


1186年、鎌倉へ曳かれて行った白拍子(遊女)・静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、固辞するところを無理やりに引き出され、鎌倉幕府・源頼朝(1147~1199年)の前で鶴岡八幡宮の大祭に舞を披露します。静御前はその直前に愛人・源義経(1159~1189年)に捨てられ、京都まで護衛するはずの下人たちに抱(かか)えていた全財産を奪われたうえ、吉野の山に迷っているところを僧侶たちに捕えられました。しかも、義経の子を妊娠中です。

この状況下、静御前はこう歌い踊ります。
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静御前(生没年不詳、平安時代末期)
「吾妻鏡」
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しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(現代語訳)
賎しい身分のわたしですが、それでも昔が恋しく「静(しづ)や」と呼んでいただいた、あの方との日々が今ここへ戻ってきて欲しいと、願っているのでございます。


これを観た源頼朝は激怒します。源頼朝は朝廷のため平氏と戦った異母弟・源義経に幕府への反逆の疑いをかけ、討伐令(とうばつれい)を出しています。観衆の面前で、遊女ごときに馬鹿にされたと思ったことでしょう。

錦絵「静御前」

ちなみに「倭文(しづ)の苧環(をだまき)」というのは中心を空洞に、麻布をくるくる巻いた古文書です。「倭文(しづ)=賎(しづ)」で音が重なったせいか、和歌などでは「繰り返す」や「賎(いや)しい」という語の序詞になりました。


静御前が謳い踊った歌は、「伊勢物語」32話がもとだと言われます。
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詠み人しらず(「伊勢物語」32話)
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いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな
(現代語訳)
倭文(しづ)の苧環(をだまき)のように、私たちのあいだも繰り返して、昔を今に戻したいのだが(君はどう?)

この和歌を送られた相手は、なんら反応を示しません。どうも相手はなんとも思っていないようだといって、物語は終わります。いや、はっきり拒否されてるでしょ。




さらに言えば「伊勢物語」32話は、「古今和歌集」17巻を参考にしています。
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詠み人しらず(「古今和歌集」17巻)
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いにしへの 倭文(しづ)の苧環(をだまき) いやしきも よきも盛りは ありしものなり
(現代語訳)
(いや)しい身分で死ぬ人も高い身分で死ぬ人も、青春の盛りはあったに違いないのだ。


おおもとの歌はだいぶ質が悪く、うん、そうだね。だから? というレベルです。よくもここから「しづやしづ」が出たものだと、呆れるほどです。静御前という人は、このときたった二十歳前後、なかなか優秀な女性だったようです。

文治2年(1186)、鶴岡八幡宮の大祭で源頼朝を激怒させるも御台所(みだいどころ)・北条政子(1157~1225年)のとりなしで許され、同年閏7月(二度目の7月)男児を出産。静は泣き叫んで拒否しますが、赤児は頼朝の使いに連れてゆかれ、由比ヶ浜へ棄てられて処刑されました。同年9月、北条政子から見舞いの品を持たされ放免された静御前は、その後、消息を絶ちました。




////// 平知盛というひと


平知盛(1152~1185年)は実在の人物で、伊勢平氏の総領・平清盛(1118~1181年)の4男です。文武両道にひいでたせいか、九条兼実(生没年不詳、平安時代末期~鎌倉時代初期)の日記「玉葉(ぎょくよう)」には「入道相国(にゅうどうさがみ=平清盛)最愛の息子」と書かれています。

しかし平知盛についての評価は二分しており、英雄と見る意見もあれば、無能と見る意見もあります。

平家の拠点・厳島神社


たとえば一ノ谷の戦い(1184年)の舞台となった「生田の森」では、平知章(たいらのともあき、1169~1184年)が父である平知盛を助けるため、知盛の眼前で戦死します。いったん戦場を駆け回ってしりぞいたあと、長男・梶原景季(かじわらの かげすえ=通称「源太」、1162~1200年)が深入りして付いて来ないと気づき、すぐさま戦場へ駆け戻った、源氏の武将・梶原景時(かじわらのかげとき、1140頃~1200年)との違いは明白です(「梶原の二度駆け」)

兄である伊勢平氏棟梁・平宗盛(たいらのむねもり、1147~1185年)を助け、数々の戦(いくさ)で大将役を務めたため「武勇の人」の印象がありますが、本人は病気がちなうえ、勝ち戦(いくさ)の数は多くありません。

壇ノ浦の戦いで敗戦がはっきりすると平知盛は御所の方々の船へ乗り移り、「見苦しい物を残すな、みな海へ投げ入れろ」と呼びかけながら手ずから清掃をはじめました。それを見た官女たちが戦況を問うや「まもなく珍しい東男(あずまおとこ)というものを、ご覧になれることでしょう」と、知盛はからから笑います。宮中からの迎えの輿を受け入れるつもりのないことが、こうして御所の人々に知れました。敵軍に直接あいまみえるということは、見苦しい最期を予想させます。

官女たちはいっせいに「何故、こんなときにそのような冗談を言うのですか」と喚(わめ)きちらし、それを見ていた知盛の母で清盛の妻、安徳天皇にとっては祖母にあたる「二位の尼(にいのあま)」が「敵の手にはかかるまじ」と、安徳天皇を抱いて入水します。そのあとを安徳天皇の母・徳子が続き、官女たちも次々海へ飛び込みました。知盛の言う「見苦しいもの」とは、人質である御所の方々そのものだったのでしょうか。

安徳帝を祀る赤間神社


その後しばらく奮戦したのち、家来に手伝わせて鎧(よろい)を二重に着込み(「平家物語」)、もしくは舟の碇(いかり)を体にしばりつけ(浄瑠璃「義経千本桜」)、「見るべきものは見つ(この世で見る価値のあるものは、すべて見てしまったから)」と、平知盛も海に身を投げました。

「傀儡師」の説明にも書きましたが、幼い帝(みかど)を死に追いやり国の宝を海へ沈めた、このときの軽薄な言動は何処にも同情の余地がありません。しかしその直前、知盛は自身も最愛の息子を、自分の身替りに死なせています。そのため知盛は鬱状態だったという、意見もあります。

兄で伊勢平氏棟梁・平宗盛(たいらのむねもり、1147~1185年)は軍事を得意としていなかったため、戦(いくさ)のことは殆どすべて、知盛が兄に代わって指揮していました。

一族郎党、最愛の家族も含め、すべてが自身の采配のもと目の前で滅んでゆくのです。「見るべきものは見つ」と冷静そうな口をきいているものの、知盛の心情は海へ飛び込む前には、早くも修羅と化していたことでしょう。

平家供養塔





//////  長唄「静と知盛」歌詞・註解


◆帰洛(きらく)
わが国の伝統では、帝(みかど)のいまそかる都市を「都(みやこ)」「洛陽(らくよう)」と呼びます。上洛(じょうらく)は都(みやこ)へ上ること、帰洛(きらく)は都(みやこ)へ帰ることです。


◆時の調子をとりあへず
西洋音楽に音律があるように、邦楽にも音律があります。わが国には音階は仏教の聲明(しょうみょう)としてもたらされ、平安時代に流入した舞楽とあいまって雅楽になり、謡曲の「調子」になりました。1オクターブ12音であるところは、西洋音楽と同じです。ご紹介するのはその一例で、「12律」と呼ばれる「調子」の、ほんの一部です。

「12律」は仏教によって中国から伝来したものが元なので、当然「陰陽五行」の思想が取り入れられ、それぞれ季節と方角が決まっています。

壱越(いちこつ)  レ   土用   中央(天)   土 
平調(ひょうじょう)  ミ   秋   西   金 
双調(そうじょう)  ソ   春   東   木 
黄鐘(おうしき)  ラ   夏   南   火 
盤渉(ばんしき)  シ   冬   北   水 
神仙(しんせん)  ド 

声で祈るのが「聲明(しょうみょう)」なので、この「調子」は当然「唄って踊る」白拍子も守っていました。

謡曲「船弁慶」の註解などで、この部分は「時の調子をとり、とりあえず」と解釈するよう指定してあります。この「とりあへず」は動詞「取りあふ」の已(い)然形「へ」+否定「ず」ではなく、「急いで」という意味の副詞です。そのため「時節の調子を整え、急いで踊った」という意味になります。


★渡口の遊船は風静まって出(い)ず 波濤の謫所(たくしょ)は日晴れて見ゆ
小野篁(おののたかむら、802~853年)という人が、流罪になった際に詠んだ歌を「和漢朗詠集」からひいています。

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藤原公任(ふじわらきんとう、966~1041年)編纂
「和漢朗詠集」※1018年ごろ成立
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渡口郵船風定出 波頭諦處日晴看
(現代語訳)
風が定まったので船出すると、これから流されてゆく隠岐島(おきのしま)が、浪がしらの向こうの晴れ渡った空に浮かんで見えました。

ちなみに、謡曲「船弁慶」が参考にしたらしい幸若舞「四国落(しこくおち)」では、武蔵坊弁慶は「自分は小野篁(おののたかむら)子孫の法師だ!退散させてみせるぞ!」と言挙(ことあ)げして幽鬼に立ち向かい、念誦(ねんじゅ)でもってしりぞけます。

都(みやこ)の女官たち

★立舞うべくもあらぬ身の 袖うち振るも恥ずかしや
源氏物語の印象的な歌に、アレンジを加えた歌詞です。

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紫式部(生没年不詳、平安時代中期の歌人)
「源氏物語」紅葉賀(もみじのが)の巻
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もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の 袖うち振りし 心知りきや
(現代語訳)
あなたへの恋の想いに悩んだあまり立ち舞うことなど到底できそうにないこの身が、あなたのためこころを振り絞り、袖を打ち振って青海波(せいがいは)を舞いました。わたしのこころを、お察しくださったでしょうか。

義理の息子である光源氏(ひかるげんじ)との罪の子を宿した藤壺の宮のため、何も知らない桐壺帝は藤壺ら女性皇族のため、光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう、光源氏の親友)に宮中で舞楽「青海波(せいがいは)」を舞わせます。罪の意識におののく藤壺の宮は事件以来、光源氏を避けていましたが、その舞のあまりの美しさに驚き呆れ、翌朝届いた源氏の手紙に返事をしたためてしまいます。

から人の袖ふることは遠けれど 起(た)ち居(ゐ)につけて 哀れとは見き
(現代語訳)
唐の人が袖を振って踊ったのは遠い昔のことですが、昨日(さくじつ)わたくしは、此方(こなた)さまの立ち上がる動作、座(すわ)る動作、すべてにつけて優美なことだと、深く感動しながら拝見もうしあげました。



★宇治の網代(あぢろ)
網代(あぢろ)というのは魚をとる仕掛けのことで、その仕掛けを固定するため打ち込んだ杭を「網代木(あぢろぎ)」と呼びました。古来より冬の和歌の題材としてさまざまに歌われています。網代(あぢろ)には、宇治川の奔放な水流を制御するための、治水的な役割もありました。

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前大僧正慈圓こと慈円(1155~1225年)
「新古今和歌集」第六巻、第637
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網代木に いさよふ波の音ふけて ひとりや寝(ゐ)ぬる 宇治の橋姫
(現代語訳)
網代木にさまたげられて右往左往する波音が高くなった丑三つどき、宇治の橋姫は怨みを抱(かか)えながら、今夜も一人で寝ているのだろうか。

「平家物語剣巻(へいけものがたりけんのまき)(屋台本)や「源平盛衰記」に登場する、宇治川の橋姫伝説を扱った歌を紹介しました。橋姫は夫を奪った若い女性を恨み、日本文学史上初めて丑刻参(うしのこくまい)りをした伝説の女性です。

貴船神社に呪詛を願掛けしたところ「松脂(まつやに)で角(つの)を作り、鉄輪(かなわ)を被って宇治川に37日間浸れ」というお告げを受けた橋姫は、さっそく長い髪を松脂(まつやに)で塗り固めて角(つの)を立て、顔に朱色の丹(たん、辰砂)を塗り、頭に鉄輪を被ると燃える松明(たいまつ)をくわえて宇治川へ身を投げました。37日も潜れば、とうぜん自分が死ぬと思うのですが。

とうぜん自分が死んだため、橋姫は今では橋の守護女神として祀られています。網代(あぢろ)から、話が逸れてしまい恐縮です。ちょっと意味のわからない、平家物語関連伝説を紹介しました。



★月卿(げっけい)
後令泉帝(ごれいぜいてい、1025~1068年)頃に活躍した国語学者・藤原明衡(ふじわらのあきひら、989~1066年)作、手紙用例集「明衡往来(めいごうおうらい、成立年不明)」の中に出てくる表現で、大納言・中納言・参議・三位(さんみ)以上の官人を意味する「公卿(くぎょう)」の別称です。


★あら珍しや 如何(いか)に義経 思いもよらぬ浦浪(うらなみ)
「あら珍しや」は天皇の後裔(こうえい)である「自分が、珍しい(あり難い・光栄だ、という意味)」と生まれ自慢をしているとも取れるし、「おや義経じゃん、珍しいね」という意味にも取れる表現です。落語などで面白く取り上げられる由縁です。「傀儡師」という舞踊の説明では字義どおり前者にしましたが、今回は後者で訳してみます(その方がダイナミックかな、と)

「寄らない=寄らぬ」は「浦浪(うらなみ)」の序詞(じょことば)です。ですので「如何(いか)に」以降は「どうだい義経、ここ浦浪(うらなみ)で自分に出会うとは、思いもよらないことだったろう」と、いう意味になります。



★声を知辺(しるべ)に出舟(いでふね)
謡曲の説明などでは、知盛幽霊が「義経一行の非常事態を知り、その声をたよりに大物浦まで追ってきて、舟を出したところを襲った」という意味であると説明されます。

しかし海上にいる幽霊が「義経の政治上の立場の変化を知り、逃げる主従の声をたよりに京都市内から浜まで追ってきた」というのは、どうも違和感があります。故事によると、船幽霊(ふなゆうれい)は、そもそも海にしか出現しません。しかも壇ノ浦など地元民の証言では、義経一行とかかわりなく明け方になると出たようです。

ですので「普段どおり明け方に出現してみたら海上で交わされる義経一行の声に気づき、船が出航するのを待って襲った」と、字義どおり解釈するほうが妥当のように感じます。


★巴波(ともえなみ)の紋あたり
巴紋(ともえもん)という図象があり、渦巻(うずま)く浪をあらわしたものです。その渦(うず)の真ん中あたりを、という意味です。



★打ち物(うちもの)(わざ)にて叶うまじと
武器のことです。打物(うちもの)は「槍など」、業物(わざもの)は「刀剣など」です。


★中央大聖不動明王(ちゅうおう だいしょうふどうみょうおう)の索(さつく)にかけて
「索(さく)」というのは投げ縄で、不動明王が左手に持っている投げ縄は衆生を救い取る仏の奇特を象徴します。長い縄の片方の端に金具が、もう片方の端に独鈷(とっこ)がついています。「羂索」と書いて「けんさく」「けんじゃく」と呼びます。

平知盛幽霊




////// 長唄「静と知盛」・全現代語訳


◆あらすじ

静御前は別れをきり出され、想いを込めて、京の名所と四季の眺めを唄い込んだ、美しい別れの舞を踊ります。おわりごろ舞に使うため与えられた烏帽子が落ちてしまい、思わず抱きしめてから差し出しますが、義経はそのまま与え、行ってしまいます。そうして義経一行が出航すると波の上には平知盛の怨霊があらわれ、激しく船を追撃します。しかし武蔵坊弁慶が機転をきかせて経を詠んだので、怨霊は仏の奇特に押し戻され、船から遠ざかってゆくのです。




◆歌詞(太字が現代語訳)

<静の段>

今日思い立つ旅ごろも 今日思い立つ旅ごろも
帰洛(きらく)をいつと定めぬ。
静は賜わる烏帽子(えぼし)を着け 扇をとりて立ち上がり 時の調子をとりあへず

今日思い立ち、急な旅ごろもをまとうことになりました。
今日思い立ち、急な旅ごろもをまとうことになりました。
(みやこ)へ帰る予定を、定めることはできないと、
そう言われて静は舞のための烏帽子(えぼし)を賜(たまわ)り、
中啓(ちゅうけい、扇に似た舞扇子)を手にして立ち上がると、
時節の調子を整え、すぐさま謳(うた)い、舞ってみせたのでございます。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


[台詞]
渡口の遊船は 風静まって出(い)
波濤の謫所(たくしょ)は日晴れて見ゆ

[台詞]
渡し口に停泊していた船は、風が静まったので出港することになりました。
これから流されてゆく島影が、波がしらの向こうの晴れた空に浮かんで見えます。


[台詞]
立舞うべくもあらぬ身の 袖うち振るも恥しや
春の曙 しろじろと 雪と御室(おむろ)や 地主(ぢしゅ) 初瀬(はつせ)

[台詞]
悲しみのあまり立つことも舞うことも難しい今のわたしが、それでも、こころを奮い立たせて袖をうち振るのでございます。恥じ入るばかりのこのこころを、どうぞ汲みとってくださいませ。
春の曙(あけぼの)は、しろじろと明けてまいります。
雪と花で知られる都(みやこ)の名所はまずは、
御室(おむろ、京都・仁和寺の御室桜)と地主(じしゅ、京都・清水寺の地主桜)、
そして初瀬(はつせ、奈良・長谷寺の初瀬桜)でございますね。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


花の色香にひかされて 盛りを惜しむ諸人(もろひと)
散るをいとふや 嵐山
花も青葉の 夏木立 茂り 鞍馬の山越えて
(な)いて 北野の時鳥(ほととぎす)

花の色香に惹かれてやってきたのだから、
誰もみな花の盛りを惜しみます。嵐山の花が散るのは、寂しいことですね。
花が青葉に変わる頃には、山には夏の木立が生(お)い茂ります。
鞍馬の山(京都・鞍馬寺)を越えてゆくと、
北野(京都・北野天満宮)のあたりで、
時鳥(ほととぎす)が啼(な)いて迎えてくれることでしょう。


(ただす)の森の 秋立ちて 涼しき風に乙女子(をとめご)
手振り優しき七夕の みやこ踊(おどり)のとりなりは

(ただす)の森(京都・下賀茂神社)に秋が立つと、
涼しい風に誘われたように、乙女たちが七夕踊りの手振りを披露し、
みやこ踊りの、その美しい仕草で風流の風を呼び込むのでございます。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


その名 高尾や通天(つうてん)の 紅葉恥かし紅模様(べにもよう)
野辺の錦(にしき)も冬枯れて 竹も伏見の白雪に 
宇治の網代(あぢろ)の川寒(かはさむ)み あさる千鳥の音も鳴きつれて 
吹雪に交(まぢ)り立舞うも 朝(あした)まばゆき 朝日山影(あさひやまかげ)

その名も高い、高尾(高雄)の通天橋(つうてんきょう、京都・東福寺)の、
紅葉(もみじ)が頬を赤らめたような紅模様(べにもよう)を、
覚えておいてくださいませね。
野辺の花々が冬枯れたときには、
伏見(京都・伏見神社)の紅い鳥居と竹林が、白い雪に包まれますよ。
網代(あぢろ)にまとわりついて流れる宇治川の川水に寒さがやってくれば、
漁のため水に飛び込む千鳥たちが、泣きながら連れ飛ぶようになるのです。
吹雪が立ち舞う冬の朝も、朝日山の山影には、朝のまばゆい光が差し込みます。


静は名残り惜しまれて 涙にむせぶ 御(おん)別れ
見る目も哀れなりけり

静は名残惜しそうに、涙にむせびながら舞を納め、別れのときを迎えます。
見るも哀れな、ご様子でございました。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」



<知盛幽霊の段>

それ一陣の魔風(まふう)起こり 一天(いってん)(にわか)に磨(す)る墨を
流せる如く打ち曇り 数丈(すじょう)の高浪(たかなみ) 忽(たちま)ちに
御船(みふね)あやうく 見えければ※唄われません

そこへ一陣の悪霊(あくりょう)の風が吹き起こり、
空が急に、墨を流したような暗黒の曇り空へ変わったかと思うと、
怒涛の高波(たかなみ)が打ち寄せてきて、御船(みふね)はたちまち、
あやうく波に呑まれるところ。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


あら不思議や 海上を見れば 西国(さいこく)にて滅びし平家の公達(きんだち)
一門の月卿(げっけい)雲霞(うんか)のごとく 浪に浮かびて見えたるぞや

[台詞]
抑々(そもそも)これは桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい) 平知盛幽霊なり
あら珍しや 如何(いか)に義経 思いもよらぬ浦浪(うらなみ)
声を知辺(しるべ)に出舟(いでふね)の 声を知辺(しるべ)に出舟(いでふね)

なんと奇っ怪なことでしょう。海上へ目を遣(や)れば、
九州で滅びたはずの平家の公達(きんだち)、ご一門の月卿(げっけい)が、
雲霞(うんか)のごとく、わらわらと浮かび上がって見えるではありませんか。

[台詞]
そもそも、これなるは桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい)、平知盛の幽霊でござる。ああこれは奇縁なことに、義経主従を見つけたぞ。どうだ義経、この大物浦(おおものうら)でわたしに遭遇するとは、其方(そなた)にとっても、思いもよらぬことであろう。
其方(そなた)ら主従の声をしるべに、岸辺を漕ぎ出した舟を追ってまいったのだぞ。
其方(そなた)ら主従の声をしるべに、岸辺を漕ぎ出した舟を追ってまいったのだぞ。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」

[台詞]
知盛が沈みし 其(そ)のありさまに
又義経をも海に沈めんと 夕波に 浮べる 薙刀(なぎなた)とり直し
巴波(ともえなみ)の紋あたりを払ひ 潮を蹴立てて あく風を吹かけ
(まなこ)もくらみ 心も乱れて 前後を忘(ぼう)ずるばかりなり
其の時義経少しも騒がず 其の時義経少しも騒がず

[台詞]
この知盛が沈んだときの、そのありさま同様に、
義経めをも、同じ海へ沈めてしまおうと言わんばかり。
景色はあたかも壇ノ浦合戦の続きとなり、
かつて自分と一緒に水中へ沈んだ薙刀(なぎなた)が、
夕方の波の上へ浮かびあがってくるのを見てとると、知盛幽霊が掴(つか)み取る。
そうして手にした薙刀(なぎなた)をくるくる廻し、
巴波(ともえなみ)のようになったちょうど紋のあたり、
(うず)の真ん中をバシッと払い、潮(しお)を蹴立て悪風を吹きかける。
船上の人々は眼もくらみ、こころみだれ、
前後をきょろきょろ見回しながら、ただ呆然とするばかり。
しかしそのとき、義経公は少しも騒がず、
しかしそのとき、義経公は少しも騒がず、

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」

打物(うちもの)ぬき持ち、現(うつつ)の人に向ふがごとく
言葉をかはして戦ひ玉へば 弁慶押し隔(へだ)
打物(うちもの)(わざ)にて叶ふまじと
数珠さらと押(おし)もんで

槍を抜き持って立ち上がると、現実の敵に向かうがごとく名乗り挙げ、
威嚇するように声をかけ戦い給うたが、
武蔵坊弁慶が主(あるじ)を押し隔(へだ)てて申し上げるには、
相手は悪霊(あくりょう)、槍や刀ではたちうちできますまい、と。
そうして数珠を出し、さらさらと押し揉(も)んで読経を始めます。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


東方降三世(とうほう ごうさんぜ)
南方軍陀利夜叉(なんぽう ぐんだりやしゃ)
西方大威徳(さいほう だいいとく)
北方金剛夜叉明王(ほっぽう こんごうやしゃみょうおう)
中央大聖不動明王(ちゅうおう だいしょうふどうみょうおう)の、策(さつく)にかけて
祈り祈られ

東方降三世(とうほう ごうさんぜ)
南方軍陀利夜叉(なんぽう ぐんだりやしゃ)
西方大威徳(さいほう だいいとく)
北方金剛夜叉明王(ほっぽう こんごうやしゃみょうおう)
中央大聖不動明王(ちゅうおう だいしょうふどうみょうおう)の、
羂索(けんさく)の輪に掻けてくださりませと、五大明王へ祈りに祈ったところ、


平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


悪霊次第に遠ざかれば 弁慶舟子(ふなこ)に力を合せ
御舟(みふね)を漕(こぎ)のけ 汀(みぎは)に寄すれば
(なほ)怨霊は慕ひ来るを追払ひ
(いのり)退(しりぞ)け 又曳く汐にゆられ流れ 又曳く汐にゆられ流れて
(あと)白浪とぞなりにける 跡(あと)白浪とぞなりにける

悪霊(あくりょう)は次第に遠ざかって行ったので、
弁慶は船員たちに加勢して船を漕いで逃げ、
転覆しないよう浜の水際へ寄せたのだが、
怨霊はなおも追いすがって来たので、弁慶がこれをまた追い払う。
こうして祈祷(きとう)によって、しりぞけられた怨霊は、
先ほど曳いて来られた波に、また曳かれるように流されてゆき、
先ほど曳いて来られた波に、また曳かれるように流されてゆき、
あとには白い波だけが、残ったのでございまする。
あとには白い波だけが、残ったのでございまする。



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歌舞伎「船弁慶」の縮小版「静と知盛」は、謡曲「船弁慶」の良いところばかりを切り取って手を加えた、河竹木阿弥(かわたけ もくあみ)らしい美文調の歌詞が秀逸です。

衣装は演者によってさまざま。知盛はたいてい素踊りですが、静は能衣装になるときもあれば、素踊りになるときもあります。

※  悲しみをこらえて。「静と知盛」静の段(舞踊鑑賞室)
※  怨念のかたまり。「静と知盛」知盛の段(舞踊鑑賞室)




演じて面白く、観ても美しい演目です。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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