2018年11月16日金曜日

「官女(かんじょ)」という踊り(1)






本名題(ほん なだい)を『八嶋落官女(やしま おち かんじょ)の業(なりわい)』と言い、「官女(かんじょ)」とも、「八島官女(やしま かんじょ)」とも、呼ばれる歌舞伎舞踊です。

文政13年(1830)3月、江戸・中村座で中村芝翫(しかん・4代目歌右衛門)が踊った九変化舞踊『第二番目 九変化(そのこうへん はなの ここのえ)』の一節であり、作詞・松井幸三、作曲・杵屋三郎助(10代目六左衛門)と伝わります。

平家滅亡後、八島(=屋島)の浦に生き残った官女が魚を売り、また身を売りながら、昔の恋を語り、戦いの記憶におびえて生きるさまを描く、むごく哀れな踊りです。

※「官女(かんじょ)」という踊り(2)の記事は、こちらからどうぞ
※  修羅の舞踊「官女(かんじょ)」全訳 の記事は、こちらからどうぞ





////// 趣向について

謡曲「八島」の主題を借り、老いた漁師の設定を若い海女に置き換えてあります。
謡曲「八島」の結びの歌詞を、ほぼそのまま取り込んでいます。
長唄「汐汲」から、少しばかりの歌詞と物語背景を借りています。
山田流箏曲・山田検校(けんぎょう)作曲「江ノ島曲(えのしまの きょく)の、趣向を借りた部分があります。

 ◆謡曲「八島」結びの歌詞
  水やそらそら行くもまた雲の波の 打ち合い刺し違ごうる 船いくさのかけひき
  浮き沈むとせし程に 春の夜の波より明けて 敵とみえしは群れいる鴎(かもめ)
  ときの声と聞こえしは 浦風なりけり高松の
  浦風なりけり高松の朝嵐とぞなりにける

平成27年、東京水木会「官女」



////// 内容について

同じ須磨(現在の兵庫県神戸市須磨区)の恋物語をとりあげながら、「汐汲」に比べ、暗く重苦しい内容です。※ただし恋物語とみえて、実際には恋の唄ではありません。

那須与一(なすのよいち)
「汐汲」では帝(みかど)の血を引く都(みやこ)の貴公子・在原 行平(ありわらの ゆきひら、818~893年)と、その身の回りの世話のため、一時的に囲われた在所の海女との身分違いの恋を、亡霊となった海女たちの言葉で何処か懐かしそうに、まだいとおしそうに語らせます。


いっぽう「官女」は戦いに敗れて零落し、売笑(=売春)しながら生きる女の「いま」を、女自身が死なずに語る物語だからです。


 ◆汐汲
  塩屋の煙さへ 立つ名厭はで三歳はここに
  須磨の浦曲の松の行平 立帰り来ば
  我も小蔭にいざ立寄りて 磯馴松の懐かしや
鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし

  -現代語訳-
  塩を焼く煙のように浮名が立って揶揄されるのもいとわず、
  ここ須磨の浦で、三年お世話いたしました。
  もしもお帰りになったならば、
  わたしは走り寄って木陰に隠れ、
  磯馴松(そなれまつ)のように
  浜に横たわり、すぐさま抱き合うことでしょう。

 ◆官女
  そなた思へば室と八島で塩やく煙
  立ちし浮名も厭ひはせいで
  朝な夕なに胸くゆらする

  -現代語訳-
  都(みやこ)へ想いを馳せながら、
  下女のように徒歩はだしで歩きまわり、室戸屋島で塩を焼いています。
  塩焼きの煙が浜に立つように、
  浮き名が立って揶揄されるのもいとわず、
  朝も夜も、想いで胸をくゆらせているのです。


舞子の浜(神戸)



////// 歴史考察

ところで
官女はつまりは「采女(うねめ)」もしくは「女官(にょかん)」「官人(くにん)」です。天皇(すめら みこと)や皇后(おお きさき)の顔を見たことのある官位を授けられた女性たちが、平家出身だからと言って、戦(いくさ)のあとも内裏(だいり)に召還されないことがあるでしょうか(平安期以降の女官の叙位任官の有無は不明、室町以降は明確に廃止)。平家滅亡と言っても、平 清盛(たいらの きよもり)ひきいる平家は桓武平氏の一部、伊勢平氏にすぎず、その他の平氏は皇孫として現代までも生き残ります。

平 清盛の娘で安徳帝の生母・徳子(1155~1213)でさえ、「建礼門院(けんれいもんいん)」として京都大原の寂光院(じゃっこう いん)へ迎えられ、静かな余生を送りました。徳子以外の生き残りの貴族女性は、徳子と親しい女性は尼にされて寂光院と後述の阿弥陀寺へ迎えられ、そのほかの女性たちは伊勢平氏ではない平氏の家々が引き取ったと、歴史は伝えます。

では、召還されなかったこの女性は、いったい何者なのでしょう。

上臈(じょうろう)が参拝する、赤間神社の拝殿




////// 赤間神宮の「先帝祭」

踊りの典拠は赤間神宮(あかまじんぐう・山口県下関市、安徳天皇を祭る神社で旧官幣社)の「先帝祭」の儀式のひとつ、「上臈参拝(じょうろう さんぱい)」にあるようです。
花魁と禿(かむろ)

いわく
文治元年(1185年)
壇之浦にて平家滅亡のち、多くの女官・上臈(じょうろう、武家の女性のうち、高位な女性)たちが赤間関(あかまのせき、下関の古名)の人々に助けられ花を売って生計を立て、やがて春をひさぐようになったが、そのような身のうえでも建久2年(1191年)、ときの帝(みかど、安徳帝の異母弟・後鳥羽天皇)の勅命により御影堂阿弥陀寺、のち赤間神宮に改称)が建立されるや、安徳帝の命日には毎年かかさず礼拝に訪れた、とのことです。

その故事にならい、現在も同社の「先帝祭」では花魁太夫が警護・稚児・禿(かむろ)を引きつれて道中し、神前へ閼伽(あか)と香華(こうげ)を手向ける安徳帝の供養式が行われます。

古来、先帝祭では、
旧遊郭・稲荷町の太夫たちに引き継がれていた「上臈参拝」と、公式の行事であった源平武者と十二単姿の官女の扮装による「道中」が、別々の行事として催されていました。

それを戦後宮司に就任した水野 直房(1934~、2014年名誉宮司へ引退)氏が、「花魁道中~花魁姿で参拝」という現在の形に統一、昭和41年以降、下関舞踊協会が花魁役を引き受けています。ちなみに源平武者の行列は、平家の落ち武者たちが山にこもって決起を図ったが、うまくゆかずやがて農民となり漁師となって在所に住み着いた故事にちなみ、赤間神宮氏子の衆が勤めます。

平成27年、東京水木会「官女」

采女・女官を内裏の外に放置するならば、政権はいったん女たちを内裏へ召還し、その後あらためて処刑したことでしょう。江戸幕府の時代でさえ、引退した大奥の女性たちは小石川あたりで死ぬまで飼い殺しだったのです。

赤間関(下関)に残された女性たちは、飯炊き女として行軍に付き添っていた「もとから売笑の女たち」だったか、もしくは陪臣(ばいしん、家来のこと)の妻女であって、他の平家と姻戚関係がないため引き取られず放置された、下級武士階級の女性たちだったかもしれません。

題材の元官女の境遇について考察してみましたが、引き取り手もなかった、ということがかえって哀れに感じさせる結果でした。

平成27年、東京水木会「官女」

でも、わたしはこの「官女」は、本当は生きていないと感じています。
詳細は(2)の方で説明させていただきますね。

平成27年(2015)9月6日、水木歌峰追善 水木流東京水木会のため国立劇場で踊った、「官女」について紹介させていただきました。

※「官女(かんじょ)」という踊り(2)の記事は、こちらからどうぞ
※  修羅の舞踊「官女(かんじょ)」全訳 の記事は、こちらからどうぞ



内容のわりに明るい照明・明るい衣装が使われますが、もう少し暗くしても良いのかもしれません。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2018 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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