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2019年1月22日火曜日

松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳



平成27年(2015)、日本舞踊協会宮城県支部・各流舞踊公演で踊った「二人椀久」の説明の続き、全訳です。
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら


「二人椀久」は本名題(ほんなだい)「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」と、いう踊りで、作詞者不詳、作曲・初代 錦屋金蔵です。安永3年(1774) 、江戸・市村座において9代目 市村羽左衛門と瀬川富三郎(3代目瀬川菊之丞)が初演しました。

「二人椀久」の歌詞は、そのもとになった浄瑠璃「椀久末の松山」の流れを知らないと理解しにくい内容です。ですので、「椀久末の松山」のあらすじと一緒に、読み進めていただきたいと思います。※長いです!

途中、謡曲「筒井筒」が出てきたり、コチャエ節(コチャ節ともいう)のひとふしが出てきたり、流行歌「按摩けんぴき(按摩の「客寄せ歌」)」や、当時ささやかれていた高尾太夫の噂が唐突に挿入されます。そのあたりはお遊びとして、昔の人と同じ軽いノリで楽しんでくだされば嬉しく存じます。






吉原風景

////// 「椀久末の松山」あらすじ(椀久道行の前まで)


ある節分の日、揚屋「井筒屋」では三人の客を迎え、茶の湯が催されていた。使う茶入は名器・飛鳥川。客は堺の豪商・椀屋久兵衛、一中節家元・都一中(みやこ いっちゅう)、豪商・又右衛門(またえもん)の三人。

そこへ客の脇差しを盗もうとする手が伸びる。椀久が気づいて打ち払い松山太夫が問い詰めると、女中の道柴(みちしば)が駕籠かきの作兵衛を引き込んで、盗みを働こうとしたのが露見する。仔細を聞けば、五十両の借金を返せず、長崎へ売られてゆくのが嫌さに、作兵衛とふたり心中するため、脇差しが欲しかったとのこと。

椀久は気の毒がり、これから撒く節分の豆代わりの一分金合計にも満たない金なら自分が出そうと言い、家に使いを送る。その後豆代わりに一分金を撒いていると、最前やった使いの男が父親・椀屋久右衛門(わんや きゅうえもん)を伴って帰ってきた。椀久は父・久右衛門から勘当され、髻(もとどり)を切られたうえに「托鉢(たくはつ)して生きろ」と突き放されてしまう。それでも久右衛門は息子の義理は果たさせると言い、自分の懐から五十両を出して松山太夫に与えた。

松山は椀久の父親の手前、嘘の縁切りをするが、久右衛門は勘当を解かない。椀久が松山の縁切りを本気にして座敷を去ろうとしたところ、松山は「あれは嘘だ」と言ってすがりつき引き止める。

この混沌とした状況のなか、家元・一中が「勘当も当座二三日のことだろう。親子だし、仲直りしてまた直ぐ会えるようになるのだから、いまは邪魔しない方が良い」と言って松山をなだめ、椀久を椀屋久右衛門に引き渡す。

その際、髻(もとどり)を切られたせいで普通の着物に合わなくなった椀久に同情し、一中は「あまりにみすぼらしくて、かわいそうだ」と自分の十徳(羽織のように着る、男性もの・法師や俳人の切る和服)を脱いで椀久に着せてやる。椀久は妻・おさんの実家に引き渡され、幽閉される。

場面はおさんの実家へ移り、座敷牢へ入れられた椀久をおさんが襖越しに世話をしている。そこへ廓を抜け出した松山太夫が大金を持ち塀を飛び越えて現われ、椀久と逃げようとする。おさんは自分は襖一枚踏み込めないのに、廓を抜け出してまで椀久に会いに来た松山の情の強さに打たれ、みずから死んで椀久たちを行かせようとする。それを見た松山はかえっておさんの気持ちに打たれ、おさんに詫び、断る予定だった身請け話を受け、自分は永久に椀久の前から消えると告げる。

死のうとした妻を介抱する間(ま)に松山太夫を帰らせてしまった椀久は悔しがり、妻を義理両親に預けると松山のあとを追う。松山を追ううち椀久は松山への情と、自分に向かって二度も縁切りした松山憎さに心を引き裂かれ、もの狂いする。

平成27年、日本舞踊協会各流舞踊大会「二人椀久」





////// 「二人椀久」歌詞・全現代語訳(1774年版)※太字が現代語訳

<椀久の視点>※松山太夫を追う椀久の心の中

たどり行く 今は心も乱れ候
末の松山 思いの種よ

松山の帰って行った道を、たどっているが、
だんだん、心が乱れてきたと感じる。
末の松山という山へ、わたしの心は向かっているのだけれど。

あのや椀久は これさこれさ
うちこんだ とかく恋路の濡衣

勘当され、茫然としたまま立ち去ろうとしたら、
椀久さん、と、引き戻された。
こうしてこうして、ふたりで恋の鼓を打ち合って。
恋というものは、とかく涙で袖を濡らし、
互いが濡れ衣のように、なるものなのだな。

干さぬ涙の しっぽりと
身に染々と 可愛ゆさの
それが嵩じた 物狂
とても濡れたるや 闇なりやこそ

涙を乾かす暇もないほどしっぽりと、
身にしみじみと、いとおしいさが染みてくる。
それが高じて、物狂いになったのだが。
涙に濡れそぼった衣のまま、闇夜を彷徨(さまよ)っている。
闇夜だからこそ、歩いていられるほどに。

親の意見もわざくれて
とかく耳には入相の 鐘に合図の廓(さと)
行こやれ 行こやれ さっさ ゆこやれ

親に意見されようが、どうにでもなれと聞き棄てに、

何につけても親の言うことなぞ、耳に入れたことはなく、
夕刻の鐘を合図に廓(くるわ)へ行きたいと躍起になり、
いつでも、さっさと行こう、さっさと行こう、と、思うばかり。

昨日は今日の昔なり
坊様坊様 ちと たしなまさんせ
墨の衣に身は染(そ)みもせで
恋に焦(こが)るる 身は浮舟の
寄る辺定めぬ 世のうたかたや

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」

昨日はもう、今日から見れば昔のこと。
坊さま、坊さま、ちょっとはお控えなさい、という声が聞こえてくるが、
父に剃髪されてしまっただけで、墨ごろもに自分の身はまだ馴染んでいない。
いまだ恋にやきもき、この身は浮舟のようなもの。
舟をつなぎ泊める岸辺も定めず、世の中を泡のように行き過ぎるのみ。

由縁(ゆかり)ぼうしの その一節に
智恵も器量も 皆淡雪と

一中法師の歌の、ひとふしと同じ(「源氏十二段 浄瑠璃供養」)
智恵も器量も、みな淡雪(あわゆき)と消えてしまった。

消ゆるばかりの物思い
独り焦がるる一人ごと
恋しき人に逢わせてみや
とかく心のやる瀬なき

何を考えても、すぐ死にたいと思ってしまう。
独りで恋に焦がれ、独りごとを口にしているせいだろうか。
恋しい人に遭わせてください。
とかく心というものは、やるせないものだな。

身の果て 何とあさましやと
(しば)しまどろむ手枕(たまくら)
此の頃見する現(うつつ)なり

いまの自分の境遇は、なんとみすぼらしいことか。
しばしのあいだ手枕で眠ると、
夢の中では、むしろ正気に返ってぞっとする。


<松山の視点>※廓(くるわ)へ帰る途中の、松山太夫の心の中

行く水に 映れば変わる飛鳥川
流れの里に 昨日まで
はて 勿体つけたえ

行く水に 映れば変わる飛鳥川
移り変わりの激しいその川の流れの里に、
つい昨日まで居たのだ。
はて。うつろいやすい恋にもかかわらず、
もったいぶってしまったものだわ。

誓文ほんに全盛も
我は廓を放し鳥
(かご)は恨めし 心ぐどぐどあくせくと
恋しき人を 松山はやれ
末かけて かいどりしゃんと
しゃんしゃんともしおらしく
君が定紋 伊達羽織
男なりけり また 女子なり
片袖主と眺めやる

吉原風景
誓文(せいもん)がまかり通って生きづらい世の中だけれど、
このわたしは廓(くるわ)の中では別格で、
まるで放し飼いの鳥のよう。
それでも籠(かご)の中にある境遇は恨めしく、
心はくどくど、あくせくと動き回る。
恋しき人を待ちながら、
ヤレ、未来のため、裾をしっかり両手で取り、
身持ち正しく、しゃんしゃんと、しおらしく生きてきた。
恋しい人の定紋を染めた伊達羽織を身に纏い、
井筒の井戸を覗き込めば、
水面(みなも)に映るのは男椀久であり、
女である自分自身であり。
水面(みなも)の向こうから、
片袖脱いだ主(ぬぐ=ぬし)さまも、こちらをじっと見つめている。

思いざしなら 武蔵野でなりと
何じゃ 織部の薄杯(うす さかづき)
よいさ しょうがえ
平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」

恋のご指名のそのお杯(さかづき)、頂戴しましょう、
いっそ、特大の武蔵野(杯の名前)で。
何ならお高い織部の薄杯を、恋の契りに交わしましょう。
よいさ、女郎だ、しょうがない。

恋に弱身を 見せまじと
ひんと拗ねては 背(せな)向けて
くねれる花と 出てみれば
女心の強からで
あとより恋の せめ来れば
小袖に ひたと 抱(いだ)き付き
もうし 椀久さん
さっても てっきり おひとりさま

恋しい人に弱みを見せるものかと、
すねたそぶりでピンと背を向け、
縁切りを言い、
くねった(=すねた)花のように不機嫌そうに別れたけれど。
女ごころというものは、強いものではないために、
足許(あしもと)から恋が攻めてくると、
昔の人の歌ったとおり(「古今和歌集」)
ほんに、あとから恋の想いが寄せてきて。
またもや、あの人の小袖へひたっと抱き付き、
もうし、椀久さん、とすがりついてしまった。
てっきり、座敷牢にはひとりで居るのだと、思っていた。
(松山が助けに行くと、襖の向こうに椀久の妻・おさんが控えていた)


<椀久の視点>※松山太夫を追いながら、少しづつ狂乱の兆しが顕れる

ふられず帰る 仕合せの
松にはあらぬ 太夫が袖

振られずに帰るのは幸せなこと。
それを待っていたわけではないが、
太夫に袖を引かれ、愛情を確かめることはできたと思う。

月の漏るより闇がよい
いいや いやいや
こちゃ闇よりも月がよい
お前もそうかと寄添えば
月がよいとの言草に
(すい)な心で腹が立つわいな
もうこれからが 口説のだん
仔細らしげに座を打って
袖尺着尺衣紋坂(そでしゃくきしゃくえもんざか)
ういこうむりの投頭巾(なげずきん)
語るも昔男山(むかし おとこやま

会いたい人に会えもせず雲間(くもま)に洩れる月光も見ず、
こうして闇夜のまま死んでしまうのかと、小野小町は嘆いたが、
坊さん忍ぶにゃ闇が良い、月夜にゃ頭がぶうらりしゃらりと(坊さん忍ぶ唄)
そう、座興唄にもあるじゃないかと言ったところ、
いいや、いやいや、コチャ闇よりも月が良い(コチャエ節)と唄で返され、
へぇ、お前はそうなのかいと、寄り添ったが(ソウカイ節)
(もとどり)切られたこの身に向かって、月が良い、という言い草は、
その心意気が粋(いき)すぎて、かえって腹が立つわいな。
もうここからが、口けんかの段。
仔細了解した風に席を立ち、
袖尺着尺、衣紋坂(えもんざか=吉原の土手)を登りながら、
投げ頭巾(後ろを折った頭巾、法師や俳人が被るもの)に馴染みきれない坊主が語る、
尺にかかわる昔の自分の色自慢(男山の坂=男盛りの思い出、「古今集」序)

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」

<吉原土手にへたりこんだ、椀久の幻想>※もはや狂乱のルツボ

筒井筒 井筒にかけし麿がたけ
老いにけらしな 妹見ざる間にと
詠みて送りける程に
其時女も
比べこし 振り分け髪も肩過ぎぬ
君ならずして誰(たれ)かあぐべき と
互いに詠みしゆえなれば
筒井筒の女とも 聞こえしは
有常が娘の古き名なるべし

ああ 古い古い 女郎買いも しおがからくなった


筒井筒、井戸の高さと比べて遊んだわたしの背丈、
貴女が見ないうちにわたしは成長し、背が高くなりましたよと、
和歌を詠んで送ったところ
女の方も
こちらも、長さ比べをした髪が長くなりました、
貴男さま以外、どなたが髪上げをしてくださいますか、と。
たがいに気持ちを詠みあい、そのせいで「井筒の女」と広まったのは、
紀有常(きの ありつね)の娘であって、
井筒の、とは、古い渾名(あだな)に違いない。

ああ、古くさい、古くさい。
女郎買いも、だいぶん、しょっぱくなったわい。

お茶の口切 たぎらす目元に取り付けば
あら なんぞいな 手持ち無沙汰に
拍子揃えて わざくれ

新茶を口切(くちきり)、たぎる湯音を聞きながら目を見れば、
あら、なんぞいな、手持ち無沙汰のなぐさめに、
拍子をそろえ、いたずらしかけてきたりして。

按摩けんぴき 按摩けんぴき
さりとは引け引けひねろ
自体 某(それがし)は東の生まれ(※椀久は大阪生まれです)
お江戸町中(まちなか) 見物様の
馴染 情けの ご贔屓つよく
按摩けんぴき
朝の六時(むつ)から 日の暮(くる)る迄
さりとは さりとは かたじけない
按摩冥利に叶うて嬉し
按摩けんぴき 按摩けんぴき

按摩しますよ、按摩いたしましょ。
こんな風に、引いたり、引いたり、ひねりましょ。
そもそも自分は東(あずま)生まれの力自慢。
お江戸中のご見物さまに、
馴染(なじ)みやお情(なさ)け、ごひいきをたまわります。
お肩もませて、いただきましょ。
朝の六つから日が暮れるまで、
いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。
按摩冥利に叶うというもの、やれ嬉しいこと。
按摩しますよ、按摩いたしましょ。



(さと)の三浦女郎さま ちえごちえ
袖をそっそと引かば おお靡(なび)きやれ
かんまえてよい
よい女郎の顔をしやるな ちえごちえ
二人連(つれ)立ち語ろもの


吉原廓(よしわら くるわ)
三浦屋のお女郎さまよ(三浦屋の高尾太夫か)
智恵は後知恵。
袖をそっそと引かれたら、おとなしく、おなびきよ。(初期長唄「引車」)
覚悟を決めて、ヨイ。
良いからいまは、女郎の顔をしないでおくれ。
智恵は後智恵、考えたって仕方がない。
ふたりで連れ立ち、恋を語って生きようじゃないか。

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会「二人椀久」
廓々(さとざと)は我家(わがいえ)なれば
やり手 かむろを 一所に連れ立ち
急ぐべし 遊び嬉しき馴染みへ通う
恋に焦がれて
ちゃちゃと ちゃとちゃと
ちゃっとゆこやれ
可愛がったり がられてみたり
無理な口舌も 遊びの品よく
彼方へ云いぬけ 此方へ云いぬけ
裾に縺れて じゃらくら じゃらくら
じゃらくら じゃらくら

そちらの廓(くるわ)もあちらの廓(くるわ)も、わが家みたなものだから。
遣り手婆(やりてばばあ)も禿(かむろ)も連れ立ち、
さぁ急ぎましょ、遊んで愉(たの)しい馴染みの店へ。
恋に焦がれて、
ちゃちゃっと、ちゃとちゃと、
さっさと行きましょ。
かわいがったり、がられてみたり、
無理な言い分で始まる口げんかも、遊びであれば品良く見える。
あぁも言いぬけ、こうも言いぬけ、
裾にもつれて倒れてしまい、じゃらくら、じゃらくらと。
じゃらくら、じゃらくら。

悪じゃれの 花も実もある しこなしは
一重二重や 三重の帯
ふすまのうちぞ そろかしく

悪ふざけのなかにも、花も実もある、色っぽい仕草。
一重二重(ひとえ ふたえ)と帯を解き、三重の帯まで取り去ると、
布団の中では、、、
おっといやいや、これにて候(そうろう)つかまつる、ではまたね。





////// 「椀久末の松山」あらすじ(椀久道行のあと)

井筒屋に辿り着けず、近くの土手にへたり込んだ椀久に花嫁姿の松山を連れた駕籠の一行が気がつき、椀久を哀れんで心づけの百銭(百文、ひとくくりになっている)を与えようとする。だが椀久はその金を拒み、駕籠の中の松山太夫に向かって声高に恨み言を言う。

椀久と椀久の父・久右衛門に助けられた女中・道柴(みちしば)と駕籠かき・作兵衛が気がついて駆けつけ、恩人・椀久の面倒を見ると言い引き取ろうとするが、椀久は動こうとしない。

やがて白無垢姿の松山太夫が折れ、椀久と別れられないのを思いつめ短刀で喉を突こうとする。それを松山を引かせた備前の豪商・早次郎が止め「実は椀久のことは知っていた。自分はその父・久右衛門の家の出入り商人でもあるから、椀屋の家には恩も義理もある。松山はいずれ暇を出すから安心するように。まずはふたりを国許(くにもと)へ同道し、それから親元へ勘当を解いてもらうよう、手紙を書き送るつもりだ」と言い聞かせ、松山はそのまま駕籠に、椀久を輿に乗せ、ふたりを廓から連れ出してゆく。目出たし。目出たし。

//////



「二人椀久」歌詞と一緒に、「物語の筋立てが秀逸」と高く評価される浄瑠璃「椀久末の松山」の物語を、紹介させていただきました。

誰もがひっかかるのが「廓から大金持って軽々と抜け出してくる松山太夫」と、「椀久の座敷牢に、高い塀を飛び越えてやって来る松山太夫」、最後にやっぱり「椀久が妻の介抱をしている隙(すき)に、ひらりと高い塀を飛び越え、また廓(くるわ)へ帰ってゆく松山太夫」です。

平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会、椀久を演じる水木歌泰先生



松山太夫の運動能力が、くの一忍者(女忍者)のレベルです。もとが浄瑠璃(人形)だから、ということもあるでしょう。しかしその後、この浄瑠璃は初代 中村鴈治郎(1860~1935年)が舞台にかけて当たりをとり、「玩辞楼十二曲(がんじろう じゅうにきょく)」に入れられました。揚屋の名前は同人の実家「扇屋」に変っています。最近では、2000年1月大阪・松竹座で3代目 中村鴈治郎さんの椀久、3代目 中村扇雀さんの松山太夫で上演されました。

それにしても当時の芝居は全体に女形の方がケレン主体、姫君の格好で派手に跳んだり跳ねたりしたようです。松山太夫、大暴れの「椀久末の松山」でした。

**************


「二人椀久(ににん わんきゅう)」関連が、たいへん長いシリーズになってしまい、恐縮に存じます。人気演目のわりに、「難解」「わかりずらい」と評される舞踊です。あえて浄瑠璃の筋立てから、歌舞伎舞踊の歌詞を解きほぐしてみましたが、いかがでしたか。

なお、全歌詞を現代語訳するにあたって、タマのあたりは「其面影二人椀久」よりも古い、享保19年(1734)初演「陸奥弓勢源氏(みちのく ゆんぜい げんじ)」の「二人椀久」歌詞を参考にしました。「もうひとつの二人椀久」という記事で、下記リンクにて詳細ご覧いただけます。

※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら






演目のひとつの解釈として、ご理解のお役に立てたら嬉しいことです。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年1月16日水曜日

高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳




~お気をつけください~
こちらの記事は、今は上演されない古い「二人椀久」歌詞の全訳紹介です。現在の「二人椀久(其面影二人椀久)」全訳は、松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳へどうぞ。


平成27年(2015)、日本舞踊協会宮城県支部・各流舞踊公演で踊った「二人椀久」の説明の続きの、そのまた続きです。
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら





「二人椀久」は本名題(ほんなだい)「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」と、いう踊りで、作詞者不詳、作曲・初代 錦屋金蔵(生没年不詳)です。安永3年(1774) 、江戸・市村座において9代目 市村羽左衛門と瀬川富三郎(3代目瀬川菊之丞)が初演しました。

作詞者不詳であることについて以前の記事で、下のごとく説明させていただきました。
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「二人椀久」は「椀久」作者である大阪の女形・大和屋甚兵衛(生年不詳~1704年)と、「椀久末の松山」作者である俳人・紀海音(きのかいおん、1663~1742年)、その他複数人による共同作詞と考えるのが妥当のように思います
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大和屋甚兵衛の「椀久」出端(では)にも、紀海音の「椀久末の松山」にも存在しない、「その他の作詞者」が書いた歌詞こそが、後半、タマなど曲の盛り上がる部分です。

内容は謡曲「筒井筒」、コチャエ節(コチャ節ともいう)のひとふし、按摩の客寄せ唄「按摩けんぴき」、そうして謎の「三浦屋のお女郎さま」への呼びかけで、一見とりとめのない、脈絡のないものに見えます。でも、この部分がなければこの演目は面白くありません。実はこの部分こそ、現在上演される「其面影二人椀久」の前身、今や振付が失われてしまった昔の「二人椀久」の歌詞なのです。



////// 「二人椀久」と伊達騒動

ところで「二人椀久」は歌詞の一部、とくに伊達羽織のあたりで椀屋を武家のように扱う箇所があります。言うまでもなく主人公・椀久こと椀屋久兵衛(わんや きゅうべえ)は豪商であり町人です。当然ながら「椀久末の松山」に、このような箇所は存在しません。

「二人椀久(1774年)」の土台となった芝居「傾城袖の海(1700年)」、浄瑠璃「椀久末の松山(1710年)」発表から70年あまりが経過するや、主人公が武家になる奇妙な現象が起こっているわけですが、この当時何があったか歴史的に検証するに、椀久が死んだ1676年か1677年は伊達騒動(1660~1671年)の時代です。

江戸幕府がひた隠しにした伊達騒動が一般庶民の知るところとなったのは、事件からおよそ50年から100年ほど経過したあとのこと。何がきっかけか不明なものの騒動沈静後、数十年かけて吉原・三浦屋の高尾太夫惨殺の噂が爆発的に日本中に広まり、特に、吉原擁(よう)する江戸の庶民に伊達大名への反感が高まったと言われます。伊達騒動から100年後は、まさしく「其面影二人椀久」発表当時です。(歌舞伎狂言「伽羅先代萩(めいぼく せんだいはぎ)」初演もだいたい同じ年代、安永6年=1777年)





////// もうひとつの「二人椀久」

前述したとおり「二人椀久」は本当のところふたつあり、享保19年(1734)、「陸奥弓勢源氏(みちのく ゆんぜい げんじ)」という芝居の中で踊られた舞踊「二人椀久」が原型です。物語の中の踊りなので、本名代(ほんなだい)はついていません。

上演されたのは江戸・市村座、唄は美声で知られた名人・初代 松島庄五郎(生年不詳~1764年頃)、一緒に活動していた名人・坂田兵四郎(さかたひょうしろう、1702~1749年)との、掛け合いの長唄でした。
伊達羽織に二本差し丹前風

演じるは初代 瀬川菊之丞(1693~1749年)と4代目 市村竹之丞(8代目 市村羽左衛門、1699~1762年)、内容は瀬川菊之丞演じる松山太夫が大小の刀を使って男女を踊り分け、そのあと市村竹之丞演じる椀久と「井筒」を踊り、「連れ舞い」へ発展するというものです。伊達羽織に大小二本差しで椀久を表現した松山太夫が、その男姿のまま椀久本人と「連れ舞い」するため、舞踊の呼び名が「二人(の)椀久」になったわけです。

作詞者不詳ですが、作曲は三味線方を務めた初代 杵屋新右衛門(生没年不詳)で、たいへんな人気となりアチコチの本に記録が残るほど。元文4年(1739)3月「助六定紋英(すけろく じょうもんの はなぶさ)」で上演、さらに寛保元年(1741)11月「初額早咲丹前(はつひたい はやざき たんぜん)」で上演されたと、ものの本に記されてます。全上演記録が江戸・市村座で、ちなみに杵屋新右衛門は「高尾さんげ」作曲者でも、あります。
※本名題「高尾懺悔の段」、延享元年(1744)江戸・市村座初演。
※高尾太夫の亡霊が自身の生前を語る舞踊です。



ところがこの人気演目が、その後は上演されません。やがて振付も途絶え、1774年、初代 錦屋金蔵作曲の新しい踊りとなって復活上演されます。

「高尾さんげ」はその曲の良さのあまり、江戸幕府の統制をくぐりぬけ歴史に残った高尾太夫の歌舞伎舞踊です。その後一連の「高尾もの」を生み出す原動力にも、なりました。だから同じ杵屋新右衛門作である前の「二人椀久」も当然ながら良い曲だったはず、わざわざ変える必要があると思えません。
※歌舞伎舞踊「三つ面椀久」というものもあり、大阪ではむしろこちらの方が人気でした。
※狂乱した椀久が「田舎大尽」「太鼓持」「女形」の面をつけ大尽遊びを踊りで語る内容です。

寛延2年(1749)、瀬川菊之丞と坂田兵四郎があいついで亡くなったことは、大きく影響したと思います。それでもなぜ、ほんの数十年で有名な踊りの振りが途絶え、作詞者がわからなくなり、作曲者を変える必要まで生じたのでしょう。





////// 「二人椀久」の不穏さ

キーワードは「伊達羽織」に「片袖主」です。「片袖主(かたそでぬし)」は「片袖脱ぎ」に通じます。「片袖脱ぐ」は切腹の仕草を表しますので、もとの「二人椀久」は、言ってみれば唄と踊りの両面から、瀬川菊之丞扮する「女郎が二本差しで迫り伊達大名に切腹をうながす」形になるわけで、現代人のわたしでさえ、過激すぎると感じます。

吉原風景
そのうえ、後半の歌詞では松山太夫に「廓(さと)の三浦女郎さま」と、呼びかけます。松山太夫は「椀久末の松山」では井筒屋の女郎、井原西鶴「椀久一世の物語」で丹波屋の女郎です。

大阪新町・扇屋の女郎と記載されることも多い松山太夫ですが、それは椀久を演じて当たりをとった初代 中村鴈治郎(1860~1935年)が、松山太夫の所属先を自身の実家「扇屋」に変えて、「椀久末の松山」を上演したせいです(大阪・新町遊郭の「扇屋」は名妓「夕霧太夫」が所属したことで知られる有名な揚屋)

三浦屋の看板女郎が、「高尾太夫」です。



結論として、この一連の不自然な歌詞と振付は、江戸幕府の統制をかいくぐろうとした伊達批判でなかったかと推察します。それがために前の「二人椀久」は途絶え、「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」が、復活上演という形で再度歴史の舞台に登場したのではないでしょうか。

「陸奥弓勢源氏(みちのく ゆんぜい げんじ)」の「二人椀久」歌詞は、ちゃんと残っています(振付が問題だった?)。ほぼそのまま後身「其面影二人椀久」へ引き継がれますが、新しい「二人椀久」は政治的に問題のある部分を誤魔化そうと、わざと読みにくくしているように感じます。ですので、より平明な歌詞である、もとの「二人椀久」の歌詞をまずは、現代語訳と共に紹介させていただきます。




////// 古い「二人椀久」歌詞(1734年版)※太字が現代語訳

「椀久袖の松山」~あらすじ(下段・椀久道行の直前まで)~
椀久こと堺の豪商・椀屋久兵衛が揚屋・井筒屋で節分の豆撒きがわりに一分金を撒いていたところ、父親・椀屋久右衛門が踏み込み、ひとり息子・椀久の髻(もとどり)を切り落とし勘当を申し付ける。愛人である松山太夫は椀久に縁切りを言い、自分は身を引くから許してあげてと懇願するが、椀久の父親は許さない。妻の実家の座敷牢に入れられた椀久を助けようと松山太夫が駆けつけると、妻・おさんが椀久に付き添っていた。松山太夫は、夫婦の仲を引き裂いて申し訳ないと詫び、泣きながら帰る。椀久はそのあとを追って、妻の家を出る。


<松山太夫の視点>※廓(くるわ)へ帰る途中の、松山太夫の心の中

ゆく水に うつれば変わる飛鳥川
波の里にきのうまで はて もったいつけたえ

ゆく水に うつれば変わる飛鳥川。
移り変わりの激しいその波の打ち寄せる里に、
つい昨日まで居たのだ。
はて。うつろいやすい恋にもかかわらず、もったいぶってしまったものだわ。

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」

せいもんほんにせんせいも われはくるわをはなしどり
かごはうらめし 心くどくどわくせくと
恋しき人を松山に
やれすえかけてかいどりしゃんと しゃんとしゃんともしおらしく
君が定紋だて羽織 男なりけり女子とも
片袖主も眺めやる

誓文(せいもん)がまかり通って生きづらい世の中だけれど、

このわたしは廓(くるわ)の中では別格で、
まるで放し飼いの鳥のよう。
それでも籠(かご)の中にある境遇は恨めしく、
心はくどくど、あくせくと動き回る。
吉原風景
恋しき人を待ちながら、
ヤレ、未来のため、裾をしっかり両手で取り、
身持ち正しく、しゃんしゃんと、しおらしく生きてきた。
恋しい人の定紋を染めた伊達羽織を身に纏い、
井筒の井戸を覗き込めば、
水面(みなも)に映るのは男椀久であり、
女である自分自身であり。
水面(みなも)の向こうから、
片袖脱いだ主(ぬぐ=ぬし)さまも、
こちらをじっと見つめている。

思いざしなら むさしのてなりと
なんじゃおりべの うすさかづきを

恋のご指名のそのお杯(さかづき)、頂戴しましょう、
いっそ、特大の武蔵野(杯の名前)で。
何ならお高い織部の薄杯を、恋の契りに交わしましょう。

なんしょしょ 恋によわみをみせまいと
ぴんとすねては せなむけて
くねれる花と出(いで)てみれば
女心のつよからで あとより恋のせめくれば
小袖にひたと いだきつき
申し椀久さん さっても てったり お日よりな

なんとしても、恋しい人に弱みを見せるものかと、
すねたそぶりでピンと背を向け、
縁切りを言い、くねった(=すねた)花のように不機嫌そうに別れたけれど。
女ごころというものは、強いものではないために、
足許(あしもと)から恋が攻めてくると昔の人の歌ったとおり(「古今和歌集」)
ほんに、あとから恋の想いが寄せてきて。
またもや、あの人の小袖へひたっと抱き付き、
もうし、椀久さん、とすがりついてしまった。
てっきり、座敷牢にはひとりで居るのだと、思っていた。
(「椀久末の松山」より。松山が助けに行くと、襖の向こうに椀久の妻・おさんが控えていた)

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」


<椀久の視点>※松山太夫を追いながら、少しづつ狂乱の兆しが顕れる

ふられず帰る しあわせは
私にはあらぬ 太夫が袖

振られずに帰るのは幸せなこと。
わたしではなく、
わたしに袖を引かれた太夫が、という意味だけれど。


月のもるより やみがよい
いいやいやいや こちゃ やみよりも おお月さまがよい
お前はそうかと寄りそえば
月がよいとのいいぐさに すいな心で はらがたつわいな

会いたい人に会えもせず雲間(くもま)に洩れる月光も見ず、
こうして闇夜のまま死んでしまうのかと、小野小町は嘆いたが、
坊さん忍ぶにゃ闇が良い、月夜にゃ頭がぶうらりしゃらりと(坊さん忍ぶ唄)
そう、座興唄にもあるじゃないかと言ったところ、
いいや、いやいや、コチャ闇よりも月が良い(コチャエ節)と唄で返され、
へぇ、お前はそうなのかいと、寄り添ったが(ソウカイ節)
(もとどり)切られたこの身に向かって、月が良い、という言い草は、
その心意気が粋(いき)すぎて、かえって腹が立つわいな。

もうこれからが くせつの段
しさいらしげに座をうって
袖尺着尺衣文坂(そでしゃくきしゃくえもんざか)
ういこうむりの投げ頭巾
語るも昔男山

もうここからが、口けんかの段。
仔細了解した風に席を立ち、
袖尺着尺、衣紋坂(えもんざか=吉原の土手)を登りながら、
投げ頭巾(後ろを折った頭巾、法師や俳人が被るもの)に馴染みきれない坊主が語る、
尺にかかわる昔の自分の色自慢(男山の坂=男盛りの思い出、「古今集」序)

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」

<吉原土手にへたりこんだ、椀久の幻想>※もはや狂乱のルツボ

つつ井筒 井筒にかけし まろがたけ
老いにけらしな いも見ざるまにと
よみて送りける程に
其の時 女もくらべごし
ふりわけがみも 肩すぎぬ
君ならずして誰かあぐべきと。
たがいに よみし ゆえなれば
つついづつの女 ともきこえしは
有常が女の ふるき名なるぞ


筒井筒、井戸の高さと比べて遊んだわたしの背丈、
貴女が見ないうちにわたしは成長し、背が高くなりましたよと、
和歌を詠んで送ったところ
女の方も
こちらも、長さ比べをした髪が長くなりました、
貴男さま以外、どなたが髪上げをしてくださいますか、と。
たがいに気持ちを詠みあい、そのせいで「井筒の女」と広まったのは、
紀有常(きの ありつね)の娘であって、
井筒の、とは、古い渾名(あだな)に違いない。


おちゃの くちきり
たぎらすめもとに ええ とりつけば
ああ なんぞいの
手持ちぶさたに ひょうしそろえて わざくれ
あんまさん ひきひき さりとはひきひきひねる

新茶を口切(くちきり)、たぎる湯音を聞きながら、
エェ、つと目を見れば、
あぁ、なんぞいなぁ。
手持ち無沙汰のなぐさめに、
拍子をそろえ、いたずらしかけてきたりして。
あんまさんたら、ひいたりひいたり、
こんな風に、ひねって、ひねってみたりして。

平成27年、日本舞踊協会宮城県支部、各流舞踊大会「二人椀久」

自体それがしは大阪もので
お江戸 町(まち)なか 見物様の
なじみ 情(なさけ)の 御ひいきつよく
あんまけんぴき 朝の六ッから 日のくるるまで
さりとはさりとは かたじけない
あんまみょうりに かのうて嬉し

そもそも自分は大阪生まれの力自慢。
お江戸中のご見物さまに、
馴染(なじ)みやお情(なさ)け、ごひいきをたまわります。
お肩もませて、いただきましょ。
朝の六つから日が暮れるまで、
いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。
按摩冥利に叶うというもの、やれ嬉しいこと。


(さと)の三浦女郎様
ちえこちへ
袖をそっそとひかば おなびきや
かんまえて よい女郎の顔を
おしやるな ちえこちへ
ふたりつれだち 語るもの

吉原廓(よしわら くるわ)
三浦屋のお女郎さまよ(三浦屋の高尾太夫か)
ちっとこちらへおいでなさい(ここから初期長唄「引車」)
袖をそっそと引かれたら、おとなしく、おなびきよ
覚悟を決めて、良い女郎顔をね。
押しやらないで、もうちっとこちらへ。
そうしてふたりで連れ立ち、恋を語って言うことには(「引車」ここまで)


さとざとは わが家なれば
やり手 禿も 一緒につれ立ち いそぐべし
あそび嬉しき なじみへ通う
恋にこがれて ちゃちゃとちゃとちゃと ちゃと行こう
やれ かわいがったり がられてみたり
むりなくせつの 遊びの品よく
あなたへいいぬけ こなたへいいぬけ
すそにもつれて ちゃらくらちゃらくら

そちらの廓(くるわ)もあちらの廓(くるわ)も、わが家みたなものだから。
遣り手婆(やりてばばあ)も禿(かむろ)も連れ立ち、
さぁ急ぎましょ、遊んで愉(たの)しい馴染みの店へ。
恋に焦がれて、
ちゃちゃと、ちゃとちゃと、
さっさと行こう。
かわいがったり、がられてみたり、
無理な言い分で始まる口げんかも、遊びであれば品良く見える。
あぁも言いぬけ、こうも言いぬけ、
裾にもつれて倒れてしまい、ちゃらくら、ちゃらくらと。


平成27年、日本舞踊協会・各流舞踊大会、椀久を演じる水木歌泰先生

わるじゃれの 花もかもある しこなしは
ひとえ二重や みえのおび
ふとんのうちこそ 候(そうろう)かしこ

悪ふざけの中にも、花も実もある色っぽい仕草。
一重二重(ひとえ ふたえ)と帯を解き、三重の帯まで取り去ると、
布団の中では、、、
おっといやいや、これにて候(そうろう)つかまつる、ではまたね。

//////


吉原廓(よしわら くるわ)・三浦屋の花魁「高尾太夫」を身請けしたものの、間男と逃げようとしたのを恨み、日本橋中州(三叉)に浮かんだ船の中で吊るし切りにしたと噂されたのは、仙台藩3代目藩主・伊達綱宗 (だて つなむね、1640~1711年) です。

もちろん、そのような事実は仙台藩の記録にはなく、まったく架空の話ということになっています。ところが問題の2代目 高尾太夫は広く知られた名妓だったにもかかわらず、万治3年に没し(1660)、その死因も死んだ状況も定かではありません。

ちなみに「高尾太夫」は、寛永三名妓(京都・島原遊郭「吉野太夫」、大阪・新町遊郭「夕霧太夫」、江戸・吉原遊郭「高尾太夫」)と讃えられた高名な太夫のひとりです。ほかの名妓の生涯はその後も語り継がれ、どこの誰に身請けされ、どう死んだのか詳細がわかります。

学術的には寛保元年(1741年)、播磨姫路藩主 榊原政岑(さかきばら まさみね)に身請けされた6代目 高尾太夫(天明9年=1789年病死)と混同された結果、仙台藩藩主による惨殺の噂が広まったということで、決着がついているようです。

それでも、混同された末に惨殺の噂まで立った説明にはなりません。もっと言えば後年の出来事が、その50~100年前から混同されて噂になるのは理屈が通りません。江戸の昔の庶民と同じに、現代のわたしたち庶民も、高尾太夫の件ではすっきり納得できていないのです。

**************


「二人椀久」は、愉(たの)しい踊りです。でも少しばかり、いけない領域へ踏み込んでいるようです。考えてみればモデルになった椀久本人が悲劇的な死を遂げているわけで、そもそも平穏な踊りであるはずも、ないのですけれど。

※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※  松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら




「椀久末の松山」結末は、現在の「二人椀久」全訳の記事で紹介しますね。乞ご期待!(大丈夫なのだろうか、、、こそこそ)

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年1月10日木曜日

「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)





平成27年(2015)、各流舞踊公演で踊った「二人椀久」紹介のつづきです。


////// 実録・椀屋九兵衛

井原西鶴は大和屋甚兵衛と旧知のあいだがらで、大和屋甚兵衛に取材し「椀久一世の物語」を書きました。この作品のなかでの遊女・松山は「運命の女(Femme fatale)」ではあるものの、ヒロインではありません。

そもそも椀久は女性と同じぐらい若衆(=若い男性)が好きで、物語のなかでは若衆に対する愛情の方が、女性へのそれよりずっとやさしく、深いように描かれています。

※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※  高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら
※  松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら






◆井原西鶴「椀久一世の物語」あらすじ


(さかい)の豪商・椀久は、但馬屋の遊女・松山と深い仲になったあげく三百両を持参し身請けしようとするが、松山は金を受け取って大喜びでもてなすものの、身請け話は適当に受け流し、否(いな)とも応(おう)とも返事なく椀久を帰らせた。椀久は腹を立て、松山との交際はこれで終わりになる。同時期、美しい妻がわずか十八歳で夭折する。椀久は田舎へ引っ越す決意をする。
浮世絵「揚屋(あげや)」

親から継いだ資産を遊びで使い果たしていた椀久は、しかたなく広い家屋敷を売ると田舎に小さな家を買って移り住む。そこへふらりと放蕩ともだちの想八が訪れ、椀久の貧しさに驚愕する。この頃、人気女形・大和屋甚兵衛が放蕩のすえ零落した椀久を芝居に取り上げ、みずから椀久役を演じて大当たりをとった。

想八と、想八の女としばらく一緒に暮らしていると、松山の使いだという廓の女がやってきて、松山が椀久を恋しがり零落したと聞いてたいへん心配している、と告げる。「松山姉さんがとても気落ちしているので、遊びに来てやってください」と路銀を渡され、椀久は一念発起して想八と大阪(物語の中では江戸)へ向かうことにする。


しかし途中で伏見稲荷近くの遊郭(撞木町=しゅもくちょう)に寄り道して女郎に深入りすると、椀久は松山に会う気が失せる。そしてそのころから椀久は、日が暮れると身を寄せた知人宅を抜け出し、ふらふら町を徘徊するようになる。想八は友人の様子に不穏なものを感じ、椀久を寺へ連れて行き出家させた。

しかし僧となっても相変わらず徘徊していたある夜、椀久は川べりで遊女たちを引き連れ、豪勢な舟遊びに興じるお大尽に言いがかりをつけ、持っていた竹杖で打ちかかろうとしたところ、竹杖を本物の刀と見間違えた用心棒の男らに散々に打たれ、川へ投げられて落命した。享年三十三歳。

浮世絵「金竜山下(浅草)の船」




////// 椀屋九兵衛という人物

節分の豆まきがわりに揚屋で一分金を撒いたことで知られる放蕩者(ほうとうもの)の椀久ですが、井原西鶴はほかにもいくつか、あとあじの悪いエピソードを紹介しています。

あるとき博打遊びの帰り、年のころ四十ばかりのホームレスの女に物乞いされた椀久は、女が境遇のわりに身奇麗にしていることに感心し、さいぜん博打で勝った三百文を与えると「その代わり、その髪を切って俺にくれ」と言いました。恋の契りの証(あかし)として髪や爪や、ときには小指を切り落として客の男に捧げる遊女たちの心づくしを、椀久は何故かホームレスに要求したのです。

しかし女はこれを聞くと恐ろしがり「ほんのちょっとの金をくれ、三百文はいらない」と言い、押し付けられた三百文を椀久へ向けて投げ返しました。すると椀久は「ホームレスが触った汚い金だ」と言い、三百文を川に投げ沈めてしまいます。ちょっと、お友達になりたくないタイプの男です。
浮世絵「黒髪切り」

また、椀久を演じた女形・大和屋甚兵衛はあるとき椀久を自宅へ招き、「何でも望みのものを差し上げます。何が欲しいですか」と聞きました。椀久の答えは「ひらひらした洒落た紙子(かみこ)の羽織を着て、紅おしろいを塗って、役者のように歌い踊ることができれば、ほかには何もいりません」と、いうものでした。「そんなもので良いのですか、すぐ準備させます」と言って座敷で待たせ、準備ができて呼びに行かせたところ、もう何処へ行ったのか、姿が見えなくなっていたそうです。

延宝4年(1676)死亡説(大阪・円徳寺 過去帳)と、延宝5年(1677)死亡説(大阪・実相寺 墓誌)と異なる死亡年の記録があり、実相寺には「椀久松山の墓」なるものが建てられています(墓碑によると、松山の死は椀久死亡の翌年)。「椀久一世の物語」が事実であれば、松山と一緒に眠るのは本人的には不本意だろうと、少しばかり同情します。

椀久は、今で言う「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)で、適応障害があったのではないでしょうか。死因はそして、現代のわたしたちの目からはアルコール依存症による幻覚妄想と、それが原因の他害、けんかのすえの事故と見えます。

平成27年、日本舞踊協会各流舞踊公演「二人椀久」




////// 歌詞(タマから結びまで)

◆原文
按摩けんぴき 按摩けんぴき
さりとは引け引けひねろ
自体 某(それがし)は東の生まれ(※椀久は大阪生まれです)
お江戸町中(まちなか) 見物様の
馴染 情けの 御贔屓つよく
按摩けんぴき
朝の六時(むつ)から 日の暮(くる)る迄
さりとは さりとは かたじけない

◇現代語訳
按摩しますよ、按摩いたしましょ。
こんな風に、引いたり、引いたり、ひねりましょ。
そもそも自分は東(あずま)生まれの力自慢。
お江戸中のご見物さまに、
馴染(なじ)みやお情(なさ)け、ごひいきをたまわります。
お肩もませて、いただきましょ。
朝の六つから日が暮れるまで、
いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。

平成27年、日本舞踊協会各流舞踊公演「二人椀久」
◆原文
廓々(さとざと)は我家(わがいえ)なれば
やり手 かむろを 一所に連れ立ち
急ぐべし 遊び嬉しき馴染みへ通う
恋に焦がれて
ちゃちゃと ちゃとちゃと
ちゃっとゆこやれ
可愛がったり がられてみたり
無理な口舌(くぜつ)も遊びの品(しな)よく
彼方(かなた)へ云いぬけ 此方(こなた)へ云いぬけ
裾にもつれて じゃらくら じゃらくら
じゃらくら じゃらくら
悪じゃれの 花も実もある しこなしは
一重二重や 三重の帯
ふすまのうちぞ(※公演では「恋のえにしぞ」や「えにしの糸ぞ」に変更) 
そろかしく

◇現代語訳
そちらの廓(くるわ)もあちらの廓(くるわ)も、
わが家みたなものだから。
遣り手婆(やりてばばあ)も禿(かむろ)も連れ立ち、
さぁ急ぎましょ、遊んで愉(たの)しい馴染みの店へ。
恋に焦がれて、
ちゃちゃっと、ちゃとちゃと、
さっさと行きましょ。
かわいがったり、がられてみたり、
無理な言い分で始まる口げんかも、
遊びであれば品良く見える。
あぁも言いぬけ、こうも言いぬけ、
裾にもつれて倒れてしまい、じゃらくら、じゃらくらと。
じゃらくら、じゃらくら、
悪ふざけのなかにも、花も実もある、色っぽい仕草。
一重二重(ひとえ ふたえ)と帯を解き、三重の帯まで取り去ると、
布団の中では、、、
おっといやいや、これにて候(そうろう)つかまつる、ではまたね。

平成27年、師匠・水木歌泰(みずきかやす)先生

※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(1)、の記事はこちら
※  高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら
※  松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら



実際のところはわかりませんが、踊りの中の椀久は廓(くるわ)での男女の駆け引きを愉(たの)しんでいるかのように見えますね。好き勝手に生きたのだから、それなりにしあわせな人生だったと思います。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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