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2019年6月2日日曜日

来世で会いましょう。長唄「静と知盛」という踊り(全訳)





平成25年、仙台電力ホールで踊った長唄「静と知盛」という踊りの、紹介です。







三味線を導入した「吾妻能(明治時代初期)」として作曲された長唄「船弁慶」を、河竹木阿弥(1816~1893年)がアレンジして歌舞伎としての演目・長唄「船弁慶」に変え、さらにそこから「静」の登場シーンと「平知盛(たいらのとももり)」の登場シーンだけを取り出して舞踊化した演目です。





////// 長唄「静と知盛」概略


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「船弁慶」※吾妻能狂言(「吾妻能」「日吉能」などと呼ばれる)
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■初演
明治3年(1870)、能楽師(役者)・日吉吉左衛門(ひよしきちざえもん、生没年不詳)が製作

■作曲
2代目 杵屋勝三郎(1820~1896年)
※通称「勝三郎船弁慶」

■作詞
謡曲「船弁慶」の歌詞を利用

源義経、静御前、武蔵坊弁慶


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「船弁慶」※歌舞伎・歌舞伎舞踊
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■初演
明治18年(1885)、東京・新富座にて9代目 市川団十郎(1838~1903年)が初演

■作曲
2代目 杵屋正次郎(1836~1895年)

■作詞
河竹黙阿弥(1816~1893年)

■振付
初代 花柳寿輔(1821~1903年)

弁慶、平知盛、源義経


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「静と知盛」※歌舞伎舞踊
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■初演
昭和19年、舞踊家・坂東三津之丞(ばんどうみつのじょう、1896~1966年)が初演


坂東三之丞(ばんどうみつのじょう)氏は最古の歌舞伎舞踊流派・志賀山流師範の家に生まれ、歌舞伎役者になったあとで坂東三津五郎門下に入り、舞踊家・振付家として活躍した舞踊家です。






////// 長唄「静と知盛」の原型・謡曲「船弁慶」


多くの名作の母体となった普及の名作・謡曲「船弁慶」は、世阿弥元清(ぜあみもときよ、1363頃~1443年)の甥の七番目の子ども、観世小次郎信光(かんぜこじろうのぶみつ、1435もしくは1450~1516年)の作です。最初から才能があったという伝説がありますが、表舞台は兄たちに譲って自分は大鼓(おおかわ)担当になり、その後ワキ師になったという、人材の足りないところを補充して歩いた苦労人の天才です。

ワキ師だったせいか、どちらかというとワキが活躍する作品(「安宅」「紅葉狩」「羅生門」「船弁慶」など)を多く残している印象です。

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観世信光(かんぜのぶみつ)
謡曲「船弁慶」
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兄・源頼朝に忠義心を疑われ、東国へ落ちてゆこうとする源義経一行の船の前に、平知盛の幽霊がたちはだかります。義経は落ち着いて刀を抜くと、生きている相手にするように声を掛け太刀(たち)を合わせますが、従者である武蔵坊弁慶がそれを押し止(とど)め、「相手は怨霊なのだから、刀などでは叶うまい」と、数珠(じゅず)を出して読経し知盛の霊をしりぞけます。
[シテ]
そもそもこれは、桓武天皇九代の後胤(こうえい)、平知盛、幽霊なり。
ああら珍しや、いかに義経。
[地謡]
その時義経少しも騒がず。打ち物抜き持ち、現(うつつ)の人に向こうが如く。言葉を交わし戦い給(たま)えば弁慶押し隔(へだ)て、打ち物業(うちもの わざ)にて叶うまじと。数珠(じゅず)さらさらと押し揉んで。

船弁慶


「船弁慶」の着想の元となったのは、源義経(1159~1189年)が兄・頼朝(1147~1199年)の討伐から逃げるため、西国(さいこく)・九州へ向かった際のエピソードです。芝居の部分は幸若舞(こうわかまい、謡曲・歌舞伎の原型となった室町時代の狂言)の「四国落(しこくおち)」を参考にしたようです。

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吾妻鏡(鎌倉時代に成立)
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六日乙酉 行家・義経大物ノ浜ニ於イテ乗船ノ刻 疾風俄カニ起リテ 逆浪船ヲ覆スノ間、処ノ外ニ 渡海ノ儀ヲ止メヌ。伴類分散シ 予州ニ相従フノ輩ハ 僅カニ四人、所謂 伊豆右衛門、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、並妾女字静一人ナリ。
(現代語訳)
六日の酉の刻のこと、行家(源行家、1146~1186年)と源義経は大物浜(おおものうら、兵庫県尼崎市)から乗船しようとしたが、にわかに疾風が起こり逆波が渦巻いて船が転覆してしまい、予定外なことだが海を渡ることができなくなった。伴(とも)の者たちは分散してしまい、義経公にあい従うやからは僅(わず)か4人、よく知られた伊豆右衛門(源有綱、生年不詳~1186年)に堀弥太郎(堀景光、生没年不詳)、武蔵坊弁慶(生年不詳~1189年)と、妾で静という女(生没年不詳)が一人だった。


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平家物語(鎌倉時代に成立)
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西の風忽ちに激しく吹きけるは平家の怨念の故とぞ聞こえし。
(現代語訳)
西風が急に激しく吹いたのは、まさしく平家の怨念のせいだろうと噂された。


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四国落(しこくおち・幸若舞の演目、室町時代に成立)
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(あらすじ)
四国へ向かう義経主従の船団に、暗黒の妖気が襲いかかる。船団がちりぢりになるなか、小野篁(おののたかむら)子孫である武蔵坊弁慶が、数珠をさらさらと押し揉んで悪霊を退散させる。


現実に平家の幽霊は出なかったのですが、源義経一行は船を失い静御前を連れて吉野山へ隠れます。史実では、静は吉野山で5日逗留したあと、別れを告げられます。義経主従はその後九州逃亡を諦め、奥州へ向かいました。謡曲「船弁慶」では、静と義経は大物浦(おおものうら)での乗船前に別れを迎えます。

能「船弁慶」





////// 静御前というひと


1186年、鎌倉へ曳かれて行った白拍子(遊女)・静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、固辞するところを無理やりに引き出され、鎌倉幕府・源頼朝(1147~1199年)の前で鶴岡八幡宮の大祭に舞を披露します。静御前はその直前に愛人・源義経(1159~1189年)に捨てられ、京都まで護衛するはずの下人たちに抱(かか)えていた全財産を奪われたうえ、吉野の山に迷っているところを僧侶たちに捕えられました。しかも、義経の子を妊娠中です。

この状況下、静御前はこう歌い踊ります。
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静御前(生没年不詳、平安時代末期)
「吾妻鏡」
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しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(現代語訳)
賎しい身分のわたしですが、それでも昔が恋しく「静(しづ)や」と呼んでいただいた、あの方との日々が今ここへ戻ってきて欲しいと、願っているのでございます。


これを観た源頼朝は激怒します。源頼朝は朝廷のため平氏と戦った異母弟・源義経に幕府への反逆の疑いをかけ、討伐令(とうばつれい)を出しています。観衆の面前で、遊女ごときに馬鹿にされたと思ったことでしょう。

錦絵「静御前」

ちなみに「倭文(しづ)の苧環(をだまき)」というのは中心を空洞に、麻布をくるくる巻いた古文書です。「倭文(しづ)=賎(しづ)」で音が重なったせいか、和歌などでは「繰り返す」や「賎(いや)しい」という語の序詞になりました。


静御前が謳い踊った歌は、「伊勢物語」32話がもとだと言われます。
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詠み人しらず(「伊勢物語」32話)
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いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな
(現代語訳)
倭文(しづ)の苧環(をだまき)のように、私たちのあいだも繰り返して、昔を今に戻したいのだが(君はどう?)

この和歌を送られた相手は、なんら反応を示しません。どうも相手はなんとも思っていないようだといって、物語は終わります。いや、はっきり拒否されてるでしょ。




さらに言えば「伊勢物語」32話は、「古今和歌集」17巻を参考にしています。
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詠み人しらず(「古今和歌集」17巻)
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いにしへの 倭文(しづ)の苧環(をだまき) いやしきも よきも盛りは ありしものなり
(現代語訳)
(いや)しい身分で死ぬ人も高い身分で死ぬ人も、青春の盛りはあったに違いないのだ。


おおもとの歌はだいぶ質が悪く、うん、そうだね。だから? というレベルです。よくもここから「しづやしづ」が出たものだと、呆れるほどです。静御前という人は、このときたった二十歳前後、なかなか優秀な女性だったようです。

文治2年(1186)、鶴岡八幡宮の大祭で源頼朝を激怒させるも御台所(みだいどころ)・北条政子(1157~1225年)のとりなしで許され、同年閏7月(二度目の7月)男児を出産。静は泣き叫んで拒否しますが、赤児は頼朝の使いに連れてゆかれ、由比ヶ浜へ棄てられて処刑されました。同年9月、北条政子から見舞いの品を持たされ放免された静御前は、その後、消息を絶ちました。




////// 平知盛というひと


平知盛(1152~1185年)は実在の人物で、伊勢平氏の総領・平清盛(1118~1181年)の4男です。文武両道にひいでたせいか、九条兼実(生没年不詳、平安時代末期~鎌倉時代初期)の日記「玉葉(ぎょくよう)」には「入道相国(にゅうどうさがみ=平清盛)最愛の息子」と書かれています。

しかし平知盛についての評価は二分しており、英雄と見る意見もあれば、無能と見る意見もあります。

平家の拠点・厳島神社


たとえば一ノ谷の戦い(1184年)の舞台となった「生田の森」では、平知章(たいらのともあき、1169~1184年)が父である平知盛を助けるため、知盛の眼前で戦死します。いったん戦場を駆け回ってしりぞいたあと、長男・梶原景季(かじわらの かげすえ=通称「源太」、1162~1200年)が深入りして付いて来ないと気づき、すぐさま戦場へ駆け戻った、源氏の武将・梶原景時(かじわらのかげとき、1140頃~1200年)との違いは明白です(「梶原の二度駆け」)

兄である伊勢平氏棟梁・平宗盛(たいらのむねもり、1147~1185年)を助け、数々の戦(いくさ)で大将役を務めたため「武勇の人」の印象がありますが、本人は病気がちなうえ、勝ち戦(いくさ)の数は多くありません。

壇ノ浦の戦いで敗戦がはっきりすると平知盛は御所の方々の船へ乗り移り、「見苦しい物を残すな、みな海へ投げ入れろ」と呼びかけながら手ずから清掃をはじめました。それを見た官女たちが戦況を問うや「まもなく珍しい東男(あずまおとこ)というものを、ご覧になれることでしょう」と、知盛はからから笑います。宮中からの迎えの輿を受け入れるつもりのないことが、こうして御所の人々に知れました。敵軍に直接あいまみえるということは、見苦しい最期を予想させます。

官女たちはいっせいに「何故、こんなときにそのような冗談を言うのですか」と喚(わめ)きちらし、それを見ていた知盛の母で清盛の妻、安徳天皇にとっては祖母にあたる「二位の尼(にいのあま)」が「敵の手にはかかるまじ」と、安徳天皇を抱いて入水します。そのあとを安徳天皇の母・徳子が続き、官女たちも次々海へ飛び込みました。知盛の言う「見苦しいもの」とは、人質である御所の方々そのものだったのでしょうか。

安徳帝を祀る赤間神社


その後しばらく奮戦したのち、家来に手伝わせて鎧(よろい)を二重に着込み(「平家物語」)、もしくは舟の碇(いかり)を体にしばりつけ(浄瑠璃「義経千本桜」)、「見るべきものは見つ(この世で見る価値のあるものは、すべて見てしまったから)」と、平知盛も海に身を投げました。

「傀儡師」の説明にも書きましたが、幼い帝(みかど)を死に追いやり国の宝を海へ沈めた、このときの軽薄な言動は何処にも同情の余地がありません。しかしその直前、知盛は自身も最愛の息子を、自分の身替りに死なせています。そのため知盛は鬱状態だったという、意見もあります。

兄で伊勢平氏棟梁・平宗盛(たいらのむねもり、1147~1185年)は軍事を得意としていなかったため、戦(いくさ)のことは殆どすべて、知盛が兄に代わって指揮していました。

一族郎党、最愛の家族も含め、すべてが自身の采配のもと目の前で滅んでゆくのです。「見るべきものは見つ」と冷静そうな口をきいているものの、知盛の心情は海へ飛び込む前には、早くも修羅と化していたことでしょう。

平家供養塔





//////  長唄「静と知盛」歌詞・註解


◆帰洛(きらく)
わが国の伝統では、帝(みかど)のいまそかる都市を「都(みやこ)」「洛陽(らくよう)」と呼びます。上洛(じょうらく)は都(みやこ)へ上ること、帰洛(きらく)は都(みやこ)へ帰ることです。


◆時の調子をとりあへず
西洋音楽に音律があるように、邦楽にも音律があります。わが国には音階は仏教の聲明(しょうみょう)としてもたらされ、平安時代に流入した舞楽とあいまって雅楽になり、謡曲の「調子」になりました。1オクターブ12音であるところは、西洋音楽と同じです。ご紹介するのはその一例で、「12律」と呼ばれる「調子」の、ほんの一部です。

「12律」は仏教によって中国から伝来したものが元なので、当然「陰陽五行」の思想が取り入れられ、それぞれ季節と方角が決まっています。

壱越(いちこつ)  レ   土用   中央(天)   土 
平調(ひょうじょう)  ミ   秋   西   金 
双調(そうじょう)  ソ   春   東   木 
黄鐘(おうしき)  ラ   夏   南   火 
盤渉(ばんしき)  シ   冬   北   水 
神仙(しんせん)  ド 

声で祈るのが「聲明(しょうみょう)」なので、この「調子」は当然「唄って踊る」白拍子も守っていました。

謡曲「船弁慶」の註解などで、この部分は「時の調子をとり、とりあえず」と解釈するよう指定してあります。この「とりあへず」は動詞「取りあふ」の已(い)然形「へ」+否定「ず」ではなく、「急いで」という意味の副詞です。そのため「時節の調子を整え、急いで踊った」という意味になります。


★渡口の遊船は風静まって出(い)ず 波濤の謫所(たくしょ)は日晴れて見ゆ
小野篁(おののたかむら、802~853年)という人が、流罪になった際に詠んだ歌を「和漢朗詠集」からひいています。

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藤原公任(ふじわらきんとう、966~1041年)編纂
「和漢朗詠集」※1018年ごろ成立
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渡口郵船風定出 波頭諦處日晴看
(現代語訳)
風が定まったので船出すると、これから流されてゆく隠岐島(おきのしま)が、浪がしらの向こうの晴れ渡った空に浮かんで見えました。

ちなみに、謡曲「船弁慶」が参考にしたらしい幸若舞「四国落(しこくおち)」では、武蔵坊弁慶は「自分は小野篁(おののたかむら)子孫の法師だ!退散させてみせるぞ!」と言挙(ことあ)げして幽鬼に立ち向かい、念誦(ねんじゅ)でもってしりぞけます。

都(みやこ)の女官たち

★立舞うべくもあらぬ身の 袖うち振るも恥ずかしや
源氏物語の印象的な歌に、アレンジを加えた歌詞です。

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紫式部(生没年不詳、平安時代中期の歌人)
「源氏物語」紅葉賀(もみじのが)の巻
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もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の 袖うち振りし 心知りきや
(現代語訳)
あなたへの恋の想いに悩んだあまり立ち舞うことなど到底できそうにないこの身が、あなたのためこころを振り絞り、袖を打ち振って青海波(せいがいは)を舞いました。わたしのこころを、お察しくださったでしょうか。

義理の息子である光源氏(ひかるげんじ)との罪の子を宿した藤壺の宮のため、何も知らない桐壺帝は藤壺ら女性皇族のため、光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう、光源氏の親友)に宮中で舞楽「青海波(せいがいは)」を舞わせます。罪の意識におののく藤壺の宮は事件以来、光源氏を避けていましたが、その舞のあまりの美しさに驚き呆れ、翌朝届いた源氏の手紙に返事をしたためてしまいます。

から人の袖ふることは遠けれど 起(た)ち居(ゐ)につけて 哀れとは見き
(現代語訳)
唐の人が袖を振って踊ったのは遠い昔のことですが、昨日(さくじつ)わたくしは、此方(こなた)さまの立ち上がる動作、座(すわ)る動作、すべてにつけて優美なことだと、深く感動しながら拝見もうしあげました。



★宇治の網代(あぢろ)
網代(あぢろ)というのは魚をとる仕掛けのことで、その仕掛けを固定するため打ち込んだ杭を「網代木(あぢろぎ)」と呼びました。古来より冬の和歌の題材としてさまざまに歌われています。網代(あぢろ)には、宇治川の奔放な水流を制御するための、治水的な役割もありました。

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前大僧正慈圓こと慈円(1155~1225年)
「新古今和歌集」第六巻、第637
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網代木に いさよふ波の音ふけて ひとりや寝(ゐ)ぬる 宇治の橋姫
(現代語訳)
網代木にさまたげられて右往左往する波音が高くなった丑三つどき、宇治の橋姫は怨みを抱(かか)えながら、今夜も一人で寝ているのだろうか。

「平家物語剣巻(へいけものがたりけんのまき)(屋台本)や「源平盛衰記」に登場する、宇治川の橋姫伝説を扱った歌を紹介しました。橋姫は夫を奪った若い女性を恨み、日本文学史上初めて丑刻参(うしのこくまい)りをした伝説の女性です。

貴船神社に呪詛を願掛けしたところ「松脂(まつやに)で角(つの)を作り、鉄輪(かなわ)を被って宇治川に37日間浸れ」というお告げを受けた橋姫は、さっそく長い髪を松脂(まつやに)で塗り固めて角(つの)を立て、顔に朱色の丹(たん、辰砂)を塗り、頭に鉄輪を被ると燃える松明(たいまつ)をくわえて宇治川へ身を投げました。37日も潜れば、とうぜん自分が死ぬと思うのですが。

とうぜん自分が死んだため、橋姫は今では橋の守護女神として祀られています。網代(あぢろ)から、話が逸れてしまい恐縮です。ちょっと意味のわからない、平家物語関連伝説を紹介しました。



★月卿(げっけい)
後令泉帝(ごれいぜいてい、1025~1068年)頃に活躍した国語学者・藤原明衡(ふじわらのあきひら、989~1066年)作、手紙用例集「明衡往来(めいごうおうらい、成立年不明)」の中に出てくる表現で、大納言・中納言・参議・三位(さんみ)以上の官人を意味する「公卿(くぎょう)」の別称です。


★あら珍しや 如何(いか)に義経 思いもよらぬ浦浪(うらなみ)
「あら珍しや」は天皇の後裔(こうえい)である「自分が、珍しい(あり難い・光栄だ、という意味)」と生まれ自慢をしているとも取れるし、「おや義経じゃん、珍しいね」という意味にも取れる表現です。落語などで面白く取り上げられる由縁です。「傀儡師」という舞踊の説明では字義どおり前者にしましたが、今回は後者で訳してみます(その方がダイナミックかな、と)

「寄らない=寄らぬ」は「浦浪(うらなみ)」の序詞(じょことば)です。ですので「如何(いか)に」以降は「どうだい義経、ここ浦浪(うらなみ)で自分に出会うとは、思いもよらないことだったろう」と、いう意味になります。



★声を知辺(しるべ)に出舟(いでふね)
謡曲の説明などでは、知盛幽霊が「義経一行の非常事態を知り、その声をたよりに大物浦まで追ってきて、舟を出したところを襲った」という意味であると説明されます。

しかし海上にいる幽霊が「義経の政治上の立場の変化を知り、逃げる主従の声をたよりに京都市内から浜まで追ってきた」というのは、どうも違和感があります。故事によると、船幽霊(ふなゆうれい)は、そもそも海にしか出現しません。しかも壇ノ浦など地元民の証言では、義経一行とかかわりなく明け方になると出たようです。

ですので「普段どおり明け方に出現してみたら海上で交わされる義経一行の声に気づき、船が出航するのを待って襲った」と、字義どおり解釈するほうが妥当のように感じます。


★巴波(ともえなみ)の紋あたり
巴紋(ともえもん)という図象があり、渦巻(うずま)く浪をあらわしたものです。その渦(うず)の真ん中あたりを、という意味です。



★打ち物(うちもの)(わざ)にて叶うまじと
武器のことです。打物(うちもの)は「槍など」、業物(わざもの)は「刀剣など」です。


★中央大聖不動明王(ちゅうおう だいしょうふどうみょうおう)の索(さつく)にかけて
「索(さく)」というのは投げ縄で、不動明王が左手に持っている投げ縄は衆生を救い取る仏の奇特を象徴します。長い縄の片方の端に金具が、もう片方の端に独鈷(とっこ)がついています。「羂索」と書いて「けんさく」「けんじゃく」と呼びます。

平知盛幽霊




////// 長唄「静と知盛」・全現代語訳


◆あらすじ

静御前は別れをきり出され、想いを込めて、京の名所と四季の眺めを唄い込んだ、美しい別れの舞を踊ります。おわりごろ舞に使うため与えられた烏帽子が落ちてしまい、思わず抱きしめてから差し出しますが、義経はそのまま与え、行ってしまいます。そうして義経一行が出航すると波の上には平知盛の怨霊があらわれ、激しく船を追撃します。しかし武蔵坊弁慶が機転をきかせて経を詠んだので、怨霊は仏の奇特に押し戻され、船から遠ざかってゆくのです。




◆歌詞(太字が現代語訳)

<静の段>

今日思い立つ旅ごろも 今日思い立つ旅ごろも
帰洛(きらく)をいつと定めぬ。
静は賜わる烏帽子(えぼし)を着け 扇をとりて立ち上がり 時の調子をとりあへず

今日思い立ち、急な旅ごろもをまとうことになりました。
今日思い立ち、急な旅ごろもをまとうことになりました。
(みやこ)へ帰る予定を、定めることはできないと、
そう言われて静は舞のための烏帽子(えぼし)を賜(たまわ)り、
中啓(ちゅうけい、扇に似た舞扇子)を手にして立ち上がると、
時節の調子を整え、すぐさま謳(うた)い、舞ってみせたのでございます。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


[台詞]
渡口の遊船は 風静まって出(い)
波濤の謫所(たくしょ)は日晴れて見ゆ

[台詞]
渡し口に停泊していた船は、風が静まったので出港することになりました。
これから流されてゆく島影が、波がしらの向こうの晴れた空に浮かんで見えます。


[台詞]
立舞うべくもあらぬ身の 袖うち振るも恥しや
春の曙 しろじろと 雪と御室(おむろ)や 地主(ぢしゅ) 初瀬(はつせ)

[台詞]
悲しみのあまり立つことも舞うことも難しい今のわたしが、それでも、こころを奮い立たせて袖をうち振るのでございます。恥じ入るばかりのこのこころを、どうぞ汲みとってくださいませ。
春の曙(あけぼの)は、しろじろと明けてまいります。
雪と花で知られる都(みやこ)の名所はまずは、
御室(おむろ、京都・仁和寺の御室桜)と地主(じしゅ、京都・清水寺の地主桜)、
そして初瀬(はつせ、奈良・長谷寺の初瀬桜)でございますね。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


花の色香にひかされて 盛りを惜しむ諸人(もろひと)
散るをいとふや 嵐山
花も青葉の 夏木立 茂り 鞍馬の山越えて
(な)いて 北野の時鳥(ほととぎす)

花の色香に惹かれてやってきたのだから、
誰もみな花の盛りを惜しみます。嵐山の花が散るのは、寂しいことですね。
花が青葉に変わる頃には、山には夏の木立が生(お)い茂ります。
鞍馬の山(京都・鞍馬寺)を越えてゆくと、
北野(京都・北野天満宮)のあたりで、
時鳥(ほととぎす)が啼(な)いて迎えてくれることでしょう。


(ただす)の森の 秋立ちて 涼しき風に乙女子(をとめご)
手振り優しき七夕の みやこ踊(おどり)のとりなりは

(ただす)の森(京都・下賀茂神社)に秋が立つと、
涼しい風に誘われたように、乙女たちが七夕踊りの手振りを披露し、
みやこ踊りの、その美しい仕草で風流の風を呼び込むのでございます。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


その名 高尾や通天(つうてん)の 紅葉恥かし紅模様(べにもよう)
野辺の錦(にしき)も冬枯れて 竹も伏見の白雪に 
宇治の網代(あぢろ)の川寒(かはさむ)み あさる千鳥の音も鳴きつれて 
吹雪に交(まぢ)り立舞うも 朝(あした)まばゆき 朝日山影(あさひやまかげ)

その名も高い、高尾(高雄)の通天橋(つうてんきょう、京都・東福寺)の、
紅葉(もみじ)が頬を赤らめたような紅模様(べにもよう)を、
覚えておいてくださいませね。
野辺の花々が冬枯れたときには、
伏見(京都・伏見神社)の紅い鳥居と竹林が、白い雪に包まれますよ。
網代(あぢろ)にまとわりついて流れる宇治川の川水に寒さがやってくれば、
漁のため水に飛び込む千鳥たちが、泣きながら連れ飛ぶようになるのです。
吹雪が立ち舞う冬の朝も、朝日山の山影には、朝のまばゆい光が差し込みます。


静は名残り惜しまれて 涙にむせぶ 御(おん)別れ
見る目も哀れなりけり

静は名残惜しそうに、涙にむせびながら舞を納め、別れのときを迎えます。
見るも哀れな、ご様子でございました。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」



<知盛幽霊の段>

それ一陣の魔風(まふう)起こり 一天(いってん)(にわか)に磨(す)る墨を
流せる如く打ち曇り 数丈(すじょう)の高浪(たかなみ) 忽(たちま)ちに
御船(みふね)あやうく 見えければ※唄われません

そこへ一陣の悪霊(あくりょう)の風が吹き起こり、
空が急に、墨を流したような暗黒の曇り空へ変わったかと思うと、
怒涛の高波(たかなみ)が打ち寄せてきて、御船(みふね)はたちまち、
あやうく波に呑まれるところ。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


あら不思議や 海上を見れば 西国(さいこく)にて滅びし平家の公達(きんだち)
一門の月卿(げっけい)雲霞(うんか)のごとく 浪に浮かびて見えたるぞや

[台詞]
抑々(そもそも)これは桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい) 平知盛幽霊なり
あら珍しや 如何(いか)に義経 思いもよらぬ浦浪(うらなみ)
声を知辺(しるべ)に出舟(いでふね)の 声を知辺(しるべ)に出舟(いでふね)

なんと奇っ怪なことでしょう。海上へ目を遣(や)れば、
九州で滅びたはずの平家の公達(きんだち)、ご一門の月卿(げっけい)が、
雲霞(うんか)のごとく、わらわらと浮かび上がって見えるではありませんか。

[台詞]
そもそも、これなるは桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい)、平知盛の幽霊でござる。ああこれは奇縁なことに、義経主従を見つけたぞ。どうだ義経、この大物浦(おおものうら)でわたしに遭遇するとは、其方(そなた)にとっても、思いもよらぬことであろう。
其方(そなた)ら主従の声をしるべに、岸辺を漕ぎ出した舟を追ってまいったのだぞ。
其方(そなた)ら主従の声をしるべに、岸辺を漕ぎ出した舟を追ってまいったのだぞ。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」

[台詞]
知盛が沈みし 其(そ)のありさまに
又義経をも海に沈めんと 夕波に 浮べる 薙刀(なぎなた)とり直し
巴波(ともえなみ)の紋あたりを払ひ 潮を蹴立てて あく風を吹かけ
(まなこ)もくらみ 心も乱れて 前後を忘(ぼう)ずるばかりなり
其の時義経少しも騒がず 其の時義経少しも騒がず

[台詞]
この知盛が沈んだときの、そのありさま同様に、
義経めをも、同じ海へ沈めてしまおうと言わんばかり。
景色はあたかも壇ノ浦合戦の続きとなり、
かつて自分と一緒に水中へ沈んだ薙刀(なぎなた)が、
夕方の波の上へ浮かびあがってくるのを見てとると、知盛幽霊が掴(つか)み取る。
そうして手にした薙刀(なぎなた)をくるくる廻し、
巴波(ともえなみ)のようになったちょうど紋のあたり、
(うず)の真ん中をバシッと払い、潮(しお)を蹴立て悪風を吹きかける。
船上の人々は眼もくらみ、こころみだれ、
前後をきょろきょろ見回しながら、ただ呆然とするばかり。
しかしそのとき、義経公は少しも騒がず、
しかしそのとき、義経公は少しも騒がず、

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」

打物(うちもの)ぬき持ち、現(うつつ)の人に向ふがごとく
言葉をかはして戦ひ玉へば 弁慶押し隔(へだ)
打物(うちもの)(わざ)にて叶ふまじと
数珠さらと押(おし)もんで

槍を抜き持って立ち上がると、現実の敵に向かうがごとく名乗り挙げ、
威嚇するように声をかけ戦い給うたが、
武蔵坊弁慶が主(あるじ)を押し隔(へだ)てて申し上げるには、
相手は悪霊(あくりょう)、槍や刀ではたちうちできますまい、と。
そうして数珠を出し、さらさらと押し揉(も)んで読経を始めます。

平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


東方降三世(とうほう ごうさんぜ)
南方軍陀利夜叉(なんぽう ぐんだりやしゃ)
西方大威徳(さいほう だいいとく)
北方金剛夜叉明王(ほっぽう こんごうやしゃみょうおう)
中央大聖不動明王(ちゅうおう だいしょうふどうみょうおう)の、策(さつく)にかけて
祈り祈られ

東方降三世(とうほう ごうさんぜ)
南方軍陀利夜叉(なんぽう ぐんだりやしゃ)
西方大威徳(さいほう だいいとく)
北方金剛夜叉明王(ほっぽう こんごうやしゃみょうおう)
中央大聖不動明王(ちゅうおう だいしょうふどうみょうおう)の、
羂索(けんさく)の輪に掻けてくださりませと、五大明王へ祈りに祈ったところ、


平成30年、仙台電力ホール、歌泰会「静と知盛」


悪霊次第に遠ざかれば 弁慶舟子(ふなこ)に力を合せ
御舟(みふね)を漕(こぎ)のけ 汀(みぎは)に寄すれば
(なほ)怨霊は慕ひ来るを追払ひ
(いのり)退(しりぞ)け 又曳く汐にゆられ流れ 又曳く汐にゆられ流れて
(あと)白浪とぞなりにける 跡(あと)白浪とぞなりにける

悪霊(あくりょう)は次第に遠ざかって行ったので、
弁慶は船員たちに加勢して船を漕いで逃げ、
転覆しないよう浜の水際へ寄せたのだが、
怨霊はなおも追いすがって来たので、弁慶がこれをまた追い払う。
こうして祈祷(きとう)によって、しりぞけられた怨霊は、
先ほど曳いて来られた波に、また曳かれるように流されてゆき、
先ほど曳いて来られた波に、また曳かれるように流されてゆき、
あとには白い波だけが、残ったのでございまする。
あとには白い波だけが、残ったのでございまする。



//////


歌舞伎「船弁慶」の縮小版「静と知盛」は、謡曲「船弁慶」の良いところばかりを切り取って手を加えた、河竹木阿弥(かわたけ もくあみ)らしい美文調の歌詞が秀逸です。

衣装は演者によってさまざま。知盛はたいてい素踊りですが、静は能衣装になるときもあれば、素踊りになるときもあります。

※  悲しみをこらえて。「静と知盛」静の段(舞踊鑑賞室)
※  怨念のかたまり。「静と知盛」知盛の段(舞踊鑑賞室)




演じて面白く、観ても美しい演目です。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年5月19日日曜日

なんでエロなん。長唄「元禄花見踊り」全訳





→この「元禄花見踊」解説には「つづき」があります。よろしければ(別ページが開きます)









////// 長唄「元禄花見踊」概略


■初演■
明治11年(1878)、東京・新富座で初演された群舞(「惣踊」)です。

■本名題(ほんなだい)
「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)
=======
上の段「石橋(しゃっきょう)
下の段「元禄踊」
※下の段がのち、本名題「元禄風花見踊」になりました。

■作曲■
3代目 杵屋正次郎(きねやしょうじろう、1827~1896年)

■作詞
竹柴瓢助(たけしばひょうすけ)

■振付
初代 花柳寿輔(はなやぎじゅすけ、1821~1903年)



明治11年、新富座開場の写真


明治11年6月、明治9年の火事による焼失以来仮小屋で興行していた「新富座」が西洋式大劇場として新築完成、政府高官や外国公使を招き、にぎにぎしく開場式を行いました。舞台では12代目 守田勘弥(もりたかんや、1846~1897年)以下、一座の役者が総出で舞台に居並ぶなか9代目 市川団十郎(1838~1903年)と5代目 尾上菊五郎(1844~1903年)が代表して口上を述べ、そのあと初代 市川左団次(1842~1904年)を加え、三人で「式三番」を踊りました。

やがて両花道より一座惣出で役者たちが出てきて、長唄の伴奏で「手踊り」を踊ったと記録されています。

上野寛永寺と、元禄時代の風俗、花見で踊る女性




////// 江戸三座の猿若町(さるわかまち)移転

江戸の堺町(さかいちょう、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)にあった中村座(座元・中村勘三郎)と、同じく江戸・葺屋町(ふきやちょう、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)の市村座(座元・市村羽左衛門)、同・木挽町(こびきちょう、現在の中央区銀座6丁目)の森田座(座元・守田勘弥、控えで河原崎座・河原崎権之助)が浅草のはずれ聖天町(しょうでんちょう、現在の東京都台東区浅草6丁目)へ移転を命じられたのは天保12年(1841)のこと、老中・水野忠邦(1794~1851年)による「天保の改革」によるものでした。

綱紀粛正・風俗取締りのための措置でしたが、歌舞伎関係者は水野には特に嫌われていたらしく、移転命令以前にも7代目 市川団十郎(1791~1859年)が贅沢を理由に江戸ところ払いにされたり、役者の舞台関係者以外との交際が禁止されたり、役者の参詣や湯治などの旅行は禁止、役者は外出時には編み笠着用を義務付けらたりしていました。

三箇所の出入り口(木戸)を使って出入りしなければならない閉じられた空間だったものの、そういう意味では、浅草のはずれはむしろ当時の歌舞伎関係者にとって自由に生きることができる「別天地」でした(浄瑠璃の座も猿若町へ移転)

明治11年、新富座開場時の記録「新富座評判記」


最後の河原崎座(森田座)の移転が完了したのは天保14年(1843)、浅草寺(せんそうじ)参りの客も集まったため、歌舞伎舞踊創始者・初代 中村勘三郎(1598~1658年)の最初の芸名「猿若勘三郎(大蔵流狂言師)」にちなみ、猿若町(さるわかまち)と名づけた浅草のはずれで三座は生き返り、かつてない盛況の時代を迎えます(猿若三座)

その猿若町移転から25年を経た慶応4年(1868年)、新政府はまた一方的に三座に対し猿若町からの立ち退きを命じます。戊辰戦争(ぼしんせんそう、1868~1869年)の先行きが読めず渋る三座のなか最初に応じたのが、来るのは一番遅かった森田座(河原崎座)でした。

「新富座評判記」より、明治11年、新富座開場時「石橋」



ちなみに幕政下の歌舞伎上演には芝居小屋の数が定められていたため、経営難で休演となった場合には控えの座が興行する仕組みをとっていました。森田座の控えが河原崎座ですが、江戸時代を通じて「河原崎座」と記録されている文献の方が多いため、森田座の財政難ぶりがしのばれます。森田座(のち守田座)の座元で看板役者が、「守田勘弥(もりたかんや)」です。坂東玉三郎もしくは坂東三津五郎が襲名する、大きな名跡です。初代が中村勘三郎の弟子だったため、この名前がついたと言われています。

ちょっとややこしいのでまとめると、下記のとおりです。
============
1、新富座=守田座(猿若町移転時に改名)=森田座 ≒ 河原崎座※完全一致ではない
2、守田勘弥(もりたかんや)=坂東玉三郎の出世名
============

「新富座評判記」より、明治11年、新富座開場時「元禄年間の風俗を写せし手踊」




////// 江戸三座の一角「森田座」後身、「新富座」の隆盛と衰退

12代目 守田勘弥(もりたかんや)は、その先見性で知られます。本人は役者の子ではなく森田座の会計だった人(市村座頭取・中村翫左衛門)の次男です。11代目 守田勘弥(もりたかんや、4代目 坂東三津五郎)に実子がなかったため、養子になりました。

時代の息吹を感じて逸早く猿若町(さるわかまち)をあとにしますが、後援組合の了解を得ていなかったために揉めてしまい、座頭(ざがしら)だった7代目 河原崎権之助を失うことになりました。しかし7代目 河原崎権之助は9代目 市川団十郎を襲名し、やがて新富座(現在の東京都中央区新富町1丁目、移転時に改名)へ戻ってきます。かえって隆盛となった新富座も、明治9年(1876)火事で焼失しました。

12代目 森田勘弥(もりたかんや)

明治11年、新富座はガス灯を使った近代的な劇場建築として再建、政府のお歴々を迎えるため劇場職員がフロックコート着用で対応しました。新富座は芝居茶屋を使わないで済むよう食事どころや喫茶室が準備され、ガス灯を使って初めての夜間興行を行い、西洋演劇を翻訳上演して上流階級の社交場としても賑わいました。

しかし後援組合なしに建築費用をまかなったため守田勘弥(もりたかんや)の借財は膨(ふく)れ上がり、劇場所有権は人手に渡ってしまいます。関東大震災で焼失したあとには、もう再建できませんでした。

井上安治郎画「新富町新富座景」




//////「和田酒盛」「黒い盃」「闇」の政権批判


「元禄花見踊」は冒頭、志賀山流(しがやまりゅう)という古い歌舞伎舞踊流派を取り上げながら、さらに古い幸若舞(こうわかまい)を扱っているように見える部分があり、この部分の解説が解説書によって混乱しています。

===================
和田酒盛の 黒い盃 闇でも嬉し
===================

「和田酒盛(わださかもり)」という言葉自体は、幸若舞(こうわかまい)と呼ばれた狂言の演目名です。幸若舞(こうわかまい)は室町時代~戦国時代に流行し、謡曲や歌舞伎の源流のひとつとなった歌舞伎と歌舞伎舞踊に似た狂言です。「和田酒盛(わださかもり)」は、のち古浄瑠璃「曽我物語」などに取り込まれました。
****************
- 伝・幸若太夫桃井直詮=もものいなおあき、生没年不詳)「和田酒盛」-
源平合戦で功績のあった和田吉盛(わだよしもり)が山下宿河原(神奈川県平塚市山下付近)の長者の宿で三昼夜におよぶ酒宴を催し、評判の遊女・虎御前(とらごぜん)を酒席に呼んで、「おもいざし」の相手をめぐり曽我十郎(そがのじゅうろう)と争っていたところ、曽我五郎(そがのごろう)が駆けつけ兄・十郎に加勢する。
****************
「おもいざし」は相手を決めて盃を差すことを言います。

絵草紙・幸若舞「和田酒盛」

幸若舞(こうわかまい)と言えば、死の直前に織田信長(1534~1582年)が舞い踊った「人間五十年 下天(かてん)の内にくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者の あるべきか」という「敦盛(あつもり)」が、もっとも有名でしょう。幸若舞(こうわかまい)は徳川の時代を迎えていっそう政権の庇護を受けました。しかしそれがため民衆の前から消えてしまい、江戸幕府崩壊後には廃業に至りました。

ただし「元禄花見踊」歌詞のなかの「和田酒盛(わださかもり)」は、幸若舞(こうわかまい)を取り上げる意思はなく、たんなる盃の名前として使ったように、わたしには見えます。むしろそのあとの「黒い盃、闇でも嬉し」が、非常に気になるところです

「和田酒盛(わださかもり)」と駄洒落に使われた主人公のひとり・和田義盛(わだよしもり、1147~1213年、物語では「和田吉盛」)は実在の人物で、藤原泰衡(ふじわらのやすひら、1155~1189年)に裏切られ、自害に追い込まれた源義経(1159~1189年)の首実検をした人物です。藤原泰衡は義経の首をどういうわけか黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ※おそらく首桶のこと)に入れ、美酒に浸(ひた)して届けました(「吾妻鏡」など)

「源平英雄競」より、和田左エ門尉義盛

この首実検に立ち会ったもう一人の武将・梶原景時(かじわらのかげとき、1140~1200年)は梶原源太・景季(かげすえ、1162~1200)の父として知られますが、のち和田義盛らの讒言(ざんげん)により、息子ともども反逆者として死んでいます。そして和田義盛自身も、すっかり老齢となったあと2代目 執権・北条義時(1163~1224年)の挑発によって挙兵に追い込まれ、一族郎党そろって反逆者として死にました。源義経を裏切った藤原泰衡は、もちろん源頼朝の奥州討伐によって本拠地を追われ、自身の下人の裏切りにあって死んでいます。

ですので武士が「和田酒盛」という名の「黒い盃」で呑み、「闇でも嬉し」と言って周囲を呆れさせる場面は、だいぶ皮肉がきいています。開花したばかりの新しい時代・政権が、死ぬべきではない人々を死なせた「黒い盃」であり未来が「闇」であること、この先それぞれ報(むく)いを受けるかもしれないことを、揶揄しているように見えるからです。

屋島(八島)の義経




////// 長唄「元禄花見踊」歌詞・註解


◆あらすじ
花の盛り、上野の山で岡崎女郎衆が踊り、御所の侍女が踊り、酔った武士や武士の下男が踊る、元禄時代の開放感を表わす風俗舞踊と、いうことになっています。(実際はだいぶ違いますが、ちょっと表現しにくい事情が。ごほごほ。まぁ、読んでください)


◆志賀山(しがやま)
元禄期(1688~1704)、志賀山万作(しがやままんさく、生没年不詳)が始めたもっとも古い歌舞伎舞踊の流派です。有名な演目としては、通称「舌出三番叟(しただしさんばそう)」があります。猿若勘三郎(初代 中村勘三郎、大蔵流狂言師、1598~1658年)が踊った「乱曲三番叟(らんきょくさんばそう)」が志賀山万作の手で「志賀山三番叟(しがやまさんばそう)」になり、志賀山流を継承した初代 中村仲蔵(1736~1790年)が「寿世嗣三番叟(ことぶきよつぎさんばそう)」として復活させました。さらにそれへ3代目 中村歌右衛門(1778~1838年)らが手を加え「再春菘種蒔(またくるはる すずなのたねまき)」こと、通称「舌出三番叟(しただしさんばそう)」になったのです。


★華美(はで)をかまわぬ伊達染や
「かまわぬ=鎌輪奴」という洒落が元になった判じ物で、市川団十郎の衣装に使われることで有名です。「判じ物」というのは「なぞなぞになっている型押し柄」のことです(7代目 市川団十郎本人のデザイン)。「市川団十郎」は元禄期に現われ、江戸・野郎歌舞伎の型(荒事)を完成させた、元禄歌舞伎の代表的存在でもあります。

鎌輪奴



★斧琴菊(よきこときく)の判じ物
「良きことを聞く」の吉祥の意味を込めた判じ物で、尾上菊五郎の衣装に使われることで有名です。「判じ物」というのは「なぞなぞになっている型押し柄」のことです。

斧琴菊



★たんだ振れ振れ六尺袖
****************
- 山東京伝「近世奇跡考(1804年)」-
延宝天和の頃までは一尺五寸を大振袖と云
たんだふれふれ六尺袖をとうたひしは 其頃のこととぞ
一尺五寸四つ合せて 六尺袖なり
****************
現在の尺で言えば、57cmの振袖のことです(短か!)


★岡崎女郎衆
三味線の練習曲になった江戸時代初期の流行歌「岡崎女郎衆はゑい(良い)女郎衆」という唄で知られる東海道の飯炊女です。「傀儡師」のところで説明したように、古くは「傀儡女(かいらいめ)」と呼ばれた、東海道筋の宿場で春を売っていた売笑婦たちです。

矢作川(やはぎがわ)に浄瑠璃姫の墓、八丁味噌の蔵元に徳川家康公生誕の地である岡崎城、岡崎女郎衆が居たという遊郭跡など、ほかにも史跡旧跡だらけの愛知県岡崎市ですが、何故か公式キャラクターは謎の「オカザえもん」さんです。

何故だ。何故なんだ、岡崎市。
遊女が腰に巻いているのが「紐帯」


★二條通の百足屋(にじょうどおりのむかでや)
仮名草子『竹斎(ちくさい)(伝・烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年ごろ成立)に出てくる表現で、肥前名護屋(佐賀県)の「名護屋帯」という「紐帯」を指すと言われています。発音は同じですが「名古屋帯」とは別物です。


★熊ヶ谷笠
深い編み笠です。


★熊谷、武蔵野でござれ
熊谷も武蔵野も盃の名前ですが、「武蔵野」は特大の盃です。


★和田酒盛
前述のとおり、明治新政府を「黒い盃」を呑む「和田義盛」だと、皮肉っています。


★腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
ここは暗喩のようです。瓢箪(ひょうたん)は男性の陰部の別称で、毛巾着(けぎんちゃく)は女性の陰部の別称です。この語句が出た辺りから、唄が急激にエロへ転じます。


★蝙蝠羽織(こうもりばおり)
若衆が着る、袖丈より着丈の短い羽織です。若者のあいだで流行したようです。


★無反角鍔(むぞりかくつば)
反りのない真っ直ぐな刀身に四角い鍔(つば)をはいた、飾りにしかならない刀のことです。


★角内(かくない)
下男の総称です。普段は「角助(かくすけ)」と呼ばれました。


★手細(てぼそ)
若衆がほおかむりに用いたりする、細い手拭(てぬぐい)のことです。女性がつける場合は、腰紐か綿帽子を指します。江戸期の綿帽子は婚礼ではなく、風・埃除けのための普段使いの帽子というかターバンです。ちなみに「手細(てぼそ)」は「細布(ほそぬの・さいふ)」の異名(麻布、白布、狭布=けふ・せばぬの、手作り)のひとつで、「自由奔放な恋」の象徴です。


★小町踊(こまちおどり)
阿国歌舞伎の一派・娘歌舞伎が得意としていた、七夕踊りの演目名です。娘歌舞伎が禁止されたあとは、盆踊りとして町の娘衆が踊っていました。この盆踊り=念仏踊りは女子の成人式を兼ねており、夜這い解禁を村の男性に告げ知らせる意味があったとも言われます。


★永当(えいとう)
人がどっと来ることを意味します。掛け声の「えいッ」を、漢字であらわした言葉です。元禄の頃の「上を下へ ゑいとう山の花見かな(荒木加友)」という、上野東叡山の人混みを笑った地口狂歌が元のようです。<文政8(1830)年刊「嬉遊笑覧」巻之七 行遊>


★東叡(とうねい)
東叡山寛永寺(とうねいざん かんえいじ)→上野の山の寛永寺(かんえいじ)のことです。


水野年方画「延宝頃婦人」




////// 長唄「元禄花見踊」歌詞(全訳)


この唄を真面目に読んでみると、一貫したテーマがあるとわかります。
****************
- 詠み人知らず※古今和歌集(平安時代前期)867番-
紫の 一本(ひともと)ゆゑに 武蔵野の草は みながらあはれとぞ見る
[現代語訳]
紫草が一本あるから、そしてそれが一本だからこそ、武蔵野にある草がすべて、いとおしく見えるのだろう。
****************

「元禄花見踊」は近年の作なのに、なぜ誰もこのことについて言及しないか不思議です。この和歌をエロに発展させた裏テーマがあるため、「元禄花見踊」は「桜の散る月夜の晩に、草原で自由にまじわる若者たちの唄」になっています。かなり色っぽい衝撃作ですよ。

歌詞には「踊れ」と何度も出てきますが、意味するところは、舞踊の手振りではありません。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆のイメージ




◆歌詞(太字が現代語訳)

吾妻路(あづまぢ)を 都の春に志賀山の 花見小袖の 縫箔(ぬいはく)
華美(はで)をかまはぬ伊達染(だてぞめ)
よき琴菊(こときく)の判じ物 思ひ思ひの出立栄(でたちばえ)
連れて着つれて行袖(ゆくそで)も たんだ振れ振れ六尺袖の
しかも鹿の子の 岡崎女郎衆

東国江戸の都(みやこ)の春に、志賀山舞踊の風が吹く。
花見客の小袖に縫い込められた金銀箔の、なんと豪華なこと。
派手になることを構わない、鎌輪奴(かまわぬ)の伊達染めもあれば、
よき事を聞いた、という、おめでたい斧琴菊(よきこときく)の判じ物など、
みな思い思いに着飾って出かけているのが、江戸の栄えというもの。
同じ衣装に揃えて連れ合い、愉(たの)しそうに行くその小袖を、
たんだ振れ振れ、六尺もの長さの、その大振袖を。
そこへさらに鹿の子絞りで飾り立てた、
粋で豪華な岡崎女郎衆がやって来る。


裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいナ
そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいナ
手先揃へてざざんざの 音は浜松よんやさ

その裾は、伊勢物語東(あずま)下りを描(えが)いた八つ橋模様だ、
ヤンレほんとにそうかいナ、東下りでしょうかいな。
それは紫、しかも濃い紫だ、
ヤンレそれはそうじゃいナ、ほんとに濃い色の紫じゃいな。
手先を揃え、流行唄(はやりうた)を真似て「ざざんざ」と、
これは浜をゆき過ぎる、松風の音。よんやさ。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」御所の腰元
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」御所の腰元のイメージ



花と月とは どれが都の眺めやら
冠衣眼深(かつぎまぶか)に北嵯峨御室(きたさがおむろ)
二條通の百足屋(にじょうどほりのむかでや)が 辛気(しんき)こらした真紅の紐を
袖へ通してつなげや桜 疋田(ひった)鹿の子の小袖幕(こそでまく)
目にも綾(あや)ある 小袖の主の
顔を見たなら 猶(なお)よかろ ヤンレそんれはへ

花と月とが美しい対比を見せているが、
花と月のどちらが、より都(みやこ)の眺めと呼ぶのに相応しいだろう。
花見幕は、あたかも目深(まぶか)に冠衣(かつぎ)を被った北嵯峨の桜御殿のように。
二條通の百足屋(にじょうどおりのむかでや)が、つらい作業を辛抱し、
丹念に編んだ真紅の紐帯を、袖へ通してつなげてくれる桜の枝。
疋田鹿子(ひきたかのこ)の小袖で作った、その花見の幕の内側で、
目にも綾(あや)な美しい小袖の人が踊っているようだが、
そのお顔を見ることができたら、なおいっそう良かろうものを。
ヤンレそんれはへ、はなから無理であろうもの。


花見するとて 熊ヶ谷笠よ 飲むも熊谷 武蔵野で御座れ
月に兎(うさぎ)は和田酒盛の 黒い盃闇でも嬉し
腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
酔うて踊るが ヨイヨイよいよいよいやさ

花見のため深い編み笠を被った武士が、
熊谷の盃で呑みすすみ、興が乗ったあまり「特大の武蔵野を持て!」と。
月にウサギを描(えが)いた、和田酒盛という名の黒い盃で呑んで。
黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ)の中、
美酒に浸されていた義経公の首実験に臨(のぞ)んだ和田義盛は滅んだのだが、
そんな闇でも旨いものは旨い、
たとえ行く末(すえ)、暗黒が待ち受けようが、それでも酒は嬉しいと言わんばかり。
瓢箪(ひょうたん)を腰に下げて男が踊れば、酔った女が寄ってくる。
酔って踊るが、ヨイヨイ良いと言うものさ。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」踊る侍
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」踊る侍のイメージ



武蔵名物 月のよい晩は
御方鉢巻(おかたはちまき)蝙蝠羽織(こうもりばおり)
無反角鍔(むぞりかくつば) かく内連れて
ととは手細(てぼそ)に伏編笠(ふせあみがさ)
踊れ踊れや 布搗(つ)く杵(きね) 
小町踊(こまちおどり)の 伊達(だて)道具
ヨイヨイヨイヨイよいやさ 面白や

武蔵国(むさしのくに、江戸のこと)名物、名月の晩には、
紫ハチマキを頭に置いた蝙蝠羽織(こうもりばおり)の若衆が、
反りのない刀身に角鍔(かくつば)をはかせた飾り刀を腰に下げ、
下男をお供(とも)に出かけて行く。
年長ととさま役は細い手拭(てぬぐい)に伏編笠(ふせあみがさ)で顔を隠し、
踊れ踊れや 杵(きね)でもって布を突き、存分に、楽しむが良い
若衆の杵(きね)は七夕の夜には娘衆にも、伊達な遊び道具になることだろう。
ヨイヨイヨイヨイ良いやさ、いや風流なこと。



入り来る入り来る桜時(さくらどき) 永当東叡(えいとうとうねい)人の山
(いや)が上野の花盛り
皆清水(みなきよみず)の新舞台 賑(にぎ)はしかりける次第なり

人が来る来る桜どき、東叡山寛永寺(とうねいざん かんえいじ)は人の山。
いやが上にも、上野の山は花盛り。
誰もがみんな、清水(きよみず)の新舞台の上で肝(きも)を縮めているところ。
上野の山を賑わしたのは、こういう次第なのでございまする。

//////

平成30年、宮城県芸術協会「元禄花見踊り」


福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)や9代目 市川団十郎の演劇改良運動の魁(さきがけ)となった、12代目 守田勘弥(もりたかんや)の劇場改革について紹介しました。5代目 坂東玉三郎氏(当代)は祖父の大名跡を継ぐ予定にないため、少しばかり寂しく感じます。

→「元禄花見踊」解説には「つづき」があります。こちらからどうぞ(別ページが開きます)



写真がまったく足りず、いとこ作のイラストを使いました。このブログも、ほんとうに、もっと改良しないと!

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.






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