平成27年(2015)、日本舞踊協会宮城県支部・各流舞踊公演で踊った「二人椀久」を紹介させていただきます。
////// 概要
大坂の豪商・椀屋久兵衛(わんや きゅうべい、久右衛門とも言う。略して椀久)と、 大阪の遊郭・新町(しんまち)の遊女、松山太夫の破滅的な恋を描きます。
親の意見も聞かず松山太夫に惚れて放蕩の限りを尽くした椀久が、最後に精神に異常をきたし、羽織に着流しザンバラ髪の頭巾姿であちこち彷徨(さまよ)ったあげく、松山の幻想とたわむれながら死んでゆく物語です。主人公・椀久のこの異様な風体は父親・九右衛門(きゅうえもん)が揚屋に踏み込み、椀久に勘当を言い渡すと同時に折檻のため、髪の毛を切ってしまったせいです。
ただし、元になった物語(「椀久末の松山」)では、松山太夫に会いたいあまり狂乱した椀久は、そのあと本物の松山太夫に慰められて正気に還り、幸せになります。
喜んではいけません。
実録では、やっぱりそのまま死んでしまいます。
本名題(ほんなだい)「其面影二人椀久(その おもかげ ににん わんきゅう)」といい、作詞者不詳、作曲・初代 錦屋金蔵です。安永3年(1774) 江戸・市村座で9代目 市村羽左衛門と瀬川富三郎(3代目瀬川菊之丞)により初演されました。
作詞者不詳ではありますが、さかのぼること70数年前発表された「(外題=げだい)傾城袖の海」という「椀久」芝居(京都で元禄3年=1690年、大阪で元禄13年=1700年)と、「傾城袖の海」から約10年後、大阪・豊竹座で上演された浄瑠璃「椀久末の松山」(宝永7年=1710年)の下段・椀久道行と、ほぼ同じ文言が使われています。ですから「二人椀久」は「椀久」作者である大阪の女形・大和屋甚兵衛(生年不詳~1704年)と、「椀久末の松山」作者である俳人・紀海音(きのかいおん、1663~1742年)、その他複数人による共同作詞と考えるのが妥当のように思います。
////// 見どころ
後半の「タマ」と呼ばれる三味線の即興早弾きと、そのタマに合わせて踊る、椀久と松山の「連れ舞」が人気です。
ちなみに、タマは通常ケレンといわれる闘争や物の怪(もののけ)登場のシーンで用いられる演奏上の演出ですが、ここでは闘争も怪物登場もありません。
平成27年、日本舞踊協会各流舞踊公演「二人椀久」 |
////// 演出
初演時の振付は失われ、復活上演のため行った初代 尾上菊之丞(1910~ 1964年)による振付(昭和26年)が有名です。
2代目 花柳錦之輔(1941~1988年)による、新振付もよく上演されます。
下記の歌詞は、振付や公演によっては唄われません。
********
誓文(せいもん)ほんに全盛も
我は廓(くるわ)を放し鳥
籠(かご)は恨めし 心ぐどぐど あくせくと
恋しき人を 松山はやれ
末かけて かいどりしゃんと
しゃんしゃんともしおらしく
君が定紋 伊達羽織
男なりけり また 女子なり
片袖主と眺めやる
********
この部分は舞踊の元となった「椀久末の松山」にはないエピソードで、武家による遊女の身請けを揶揄しているようにも読み取れます。「片袖」は切腹のときの所作を指します。武家の名前を出して「片袖主(かたそでぬし)」と表現するのは少々不吉なため、使わない場合もあるようです。この歌詞の詳細については、あらためて説明させていただきます。
平成27年、日本舞踊協会各流舞踊公演「二人椀久」 |
////// 歴史
「二人椀久」は、最古の長唄のひとつです。
貞享元年(1684)、椀屋久兵衛の七回忌にちなみ、人気女形・大和屋甚兵衛(生年不詳~1704年)が「椀久」という芝居を出しました。井原西鶴(生年不詳~1693年)によると、大和屋は椀久本人とつきあいがあり、椀久存命中から芝居に取り上げ大人気となっていたそうです(演目名は残ってません)。
そして前述のとおり元禄3~13年、「傾城袖の海」で大和屋甚兵衛はみたび椀久を演じます。これらの芝居で大和屋が書いた歌は江戸時代の流行歌となり、寛永元年(1748)刊行「松の落葉」(第三巻)に収録されたほどです。さらに当時流行の小唄「あのや椀久」も取り入れ、大和屋は「椀久」を練り上げました。
これらの芝居の出端(では、登場人物の名乗り)の歌がアレンジされ、後年「二人椀久(長唄)」になります。<昭和17年初版「近松以降名作解題」黒木勘蔵著より>
なお、大和屋甚兵衛は先立つ天和3年(1683年)、甥である女形・水木辰之助のため「槍踊り」を振付ています。大阪発としては、もっとも古い長唄です。
◆椀久・傾城袖の海(1684~1700)
たどりゆく
今は心も浮かれそろ
誰かいく野を引き抜きしより
いつの頃より 相慣れ染めて
通う心のいくせの思い
忍ぶ妻戸を ほとほと叩くは椀久か
さりとはさりとは 請けうかの 忍ぼかの
浮世絵「劇場」 |
これこれ これこれ 請けたもの
あのや椀久は これさこれさ
鼓の革か のうほんえ
しんぞ心は これさこれさ 打ち抜いた
ほんほえ しんぞ のうほんえ
とかく恋には身をやつす
◆椀久末の松山(1710)
たどりゆく
今は心も浮かれきて
末の松山思いの種よ
死のうかの どうもせ
これこれ これこれ 君ゆえに
あのや椀久は これさこれさ
鼓の革よの ほんえ
しんぞ この身は これさこれさ 打ち込んだ
浮世絵「椀久の夢」 |
とかく恋路の乱れ髪
たどりゆく
今は心も浮かれそろ
末の松山思いの種よ
あのや椀久は これさこれさ 打ち込んだ
とかく恋路の濡れ衣
////// 「椀久」伝説
椀久伝説は大別すると二通りあります。
********
ひとつは
前述の「松山」という遊女と恋をしたすえ、放蕩のあげく狂乱し水死にいたる、堺の豪商「椀屋(わんや)久兵衛」の伝説です。
浮世絵「椀久の夢」 |
ちなみに「末の松山」というのは、現在の宮城県多賀城市付近にあったという山の名前で、清少納言の父・清原元輔(きよはらの もとすけ、908~990年、清原武貞と同じ清原深養父の子孫)の「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 なみこさじとは(末の松山には絶対津波が来ないように、お互いの想いは永遠だと泣きながら契ったのに)」で有名です。
「二人椀久」が歌詞の一部で「伊達」をとりあげるのは、奥州「末の松山」と遊女「松山」をかけた言葉遊びであり、松山太夫の「変らない愛」を表現しようとするものです。
平成27年、日本舞踊協会各流舞踊公演「二人椀久」 |
********
もうひとつは
備前の秘法であった「金欄手(きんらんで)」焼付の技法を、取引先である肥前有田の陶商・青山幸右衛門から聞き出した椀久が、京都の陶工・清兵衛(のちの野々村 仁清、生没年不詳)に伝え、その結果「京都赤絵」が生まれたという「壷屋(つぼや)久兵衛」の伝説です。
秘法を漏らした青山幸右衛門は処刑され、そのせいで椀久は狂乱します。この伝説に遊女・松山は登場しません。伝説には登場しませんが「椀久物語」(幸田露伴、後述)という架空の物語では、青山幸右衛門が遊女・松山の父親にあてられます。
ちなみに椀屋も壷屋も「屋号」です。木製の器も陶磁器の器も同じ店で売っていたため、椀屋(わんや)久兵衛と壷屋(つぼや)久兵衛は同一人物とみなされています。
浮世絵「相愛男女」 |
敵方である悪霊のような陰陽師に追い回され、狐が変身した「松山」に騙されて水辺へ誘い出され、幻想のなか死んでゆく、というストーリーもあります(吉井勇「椀久の死」)。
********
念のためもうしあげておきますが、京都赤絵が椀久と青山幸右衛門の機密漏えいから始まったという記録はありません。あくまで京都でささやかれた、古い「噂」のようです。
////// 歌詞(タマ)
◆原文
按摩けんぴき 按摩けんぴき
さりとは引け引け ひねろ
自体 某(それがし)は東の生まれ(※椀久は大阪生まれです)
お江戸町中(まちなか) 見物様の
馴染 情けの ご贔屓つよく
按摩けんぴき
朝の六つから 日の暮(くる)る迄
さりとは さりとは かたじけない
平成27年、日本舞踊協会各流舞踊公演にて、師匠・水木歌泰先生と競演 |
按摩しますよ、按摩いたしましょ。
こんな風に、引いたり、引いたり、ひねりましょ。
そもそも自分は東(あずま)生まれの力自慢。
お江戸中のご見物さまに、
馴染(なじ)みやお情(なさ)け、ごひいきをたまわります。
お肩もませて、いただきましょ。
朝の六つから日が暮れるまで、
いつでも呼んでいただけたら、かたじけなく存じます。
********
按摩(あんま)けんぴき、あたりは当時の流行歌を取り入れてあります。ですから、あまり深い意味はありません。
※「二人椀久(ににんわんきゅう)」という踊り(2)、の記事はこちら
※ 高尾太夫の亡霊が踊る、もうひとつの「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら
※ 松山太夫おお暴れ、恋は盲目「二人椀久(ににんわんきゅう)」全訳、の記事はこちら
とにかく見て愉(たの)しい、踊っても愉(たの)しい、踊りです。
踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 MIZUKI Kasou, KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
0 件のコメント:
コメントを投稿