だいぶ以前ですが昭和55年、宮城県登米市佐沼、歌泰会の舞台で踊った「供奴」という踊りについて、紹介させたくださいね。写真はなんと、一部白黒です。昭和55年頃はもちろん、カラー写真全盛です。モノクロ写真は、わたしの母の好みですね。
////// 歴史と概要
本名題(ほんなだい)を「拙筆力七以呂波 (にじりがき ななつ いろは)」と言い、文政11年(1828)3月、江戸・中村座で中村芝翫 (4代目 中村歌右衛門) が初演した七変化舞踊です。「成駒(なりこま)やっとこよいやさ」と、芝翫の屋号(成駒屋)が歌詞の中に取り込まれ、「芝翫奴」とも呼ばれます。
■七変化■
(1) 長唄「傾城(けいせい)」
(2) 常磐津「芥太夫(ごみたゆう)」
(3) 長唄「供奴(ともやっこ)」
(4) 富本「乙姫(おとひめ)」
(5) 長唄「浦島(うらしま)」
(6) 長唄・常磐津「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」
(7) 長唄「石橋(しゃっきょう)」
■作曲■
十代目 杵屋六左衛門
三代目 岸澤式佐(きしざわ しきさ)
■作詞■
二代目 瀬川如皐(せがわ じょうこう)
■振付■
市山七十郎(いちやま しちじゅうろう)
初代 藤間大助(二代目 藤間勘十郎)
四代目 西川扇蔵
振付の市山七十郎は初代(生没年不詳、初代 瀬川如皐の実父)でないことは年代から確定できるものの、2代目(生没年不詳)なのか3代目(1816〜1875年、本拠地を大阪から新潟へ変更)なのか不明です。
昭和55年、歌泰会「供奴」 |
////// 見どころ
「してこいな!」(やってこい!)から始まる、威勢の良い踊りです。
廓(くるわ)通いをする武家の主(あるじ)に遅れをとったお供の「奴=中間(ちゅうげん)」が、あとを追いながら当時の流行・丹前姿や武士の六法歩きを紹介し、「うちえいぱまでんす(りゅう ちぇい ぱま でんす、とも言う)」というジャンケン遊びを語り、「投げ草履(草履取り)」の技(わざ)を見せたりしながら、拍子に合わせて明るく踊る、愉(たの)しい演目です。
一番の見どころ・聞きどころは、二上がり・本調子の三味線と鼓の速い打ち合い、そこへ踊り手が負けじと刻み込む和製タップダンス(tap dance)「足拍子」です。
////// 考察・供奴だった「一心太助」
供奴とは「お供をする奴さん」という意味です。「奴」は「下僕」の意味、さげすみの意味を込めて「旗本奴」と呼ばれた旗本で士分の不良青年たちや、その対抗として出てきた、おもに浪人侍の町衆からなる「町奴」たちとは違う、真面目な武家の奉公人です。つまり、さげすみの意味での「奴」ではなく、本当に身分が下僕の「奴」さんで、少しもヤクザじみたところはありません。
奴さんの正式な役職名は、「中間(ちゅうげん)」です。出身はだいたいが農家の次男三男だったと言われ、農業を嫌って江戸へ上り、とはいえ手に職を付ける根気はなく、二本差しにあこがれて武家へ入り込んだ若者たちです。
ちなみに、旗本奴としては芝居小屋での席争いの末、町奴の幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)を殺し、寛文4年=1664年に切腹させられた水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん、生年不詳~1664年)が有名です。いっぽう、町奴としてはその水野十郎左衛門に殺された幡随院長兵衛こと、士分で浪人の口入屋(くちいれや)・塚本伊太郎(1622~1650年※1657年没説あり)が有名です。
供奴だった人物としては、架空か実在か意見が分かれるものの、やはり「一心太助(いっしんたすけ、伝説と言われ生没年不詳)」が有名でしょう。魚屋の太助はもとは農家の出身、徳川家の家臣・大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん、本名「大久保 忠教=おおくぼ ただたか」、1560~1639年)の草履取りとして働いたあと、その人柄に惚れた大久保家の出入り商人に乞われ、魚屋の養子に入ったことになっています。「一心」は苗字ではなく、太助の刺青にちなんだ「あだ名」です。太助の墓は東京都港区白金「立行寺(りゅうぎょうじ)」、大久保家墓所の傍(かたわら)に建てられています。
////// 考察・武家に喧嘩要員として雇われた「武家奉公人」
江戸幕府は農業の担い手が減ることを嫌い、農業を棄てて都会へ出る若者たちを抑制するため、武家奉公人に年季契約を定めていました。彼らは江戸の人材紹介業「口入屋(くちいれや)」を通して雇われ、一年ごとに契約更新しながら働きます。今で言う、派遣労働者です。
いわゆる「武家奉公人」は、中世以前には軽い身分の足軽からなる馬引き・草履取りなどを指しますが、彼ら低いなりにも士分の者は江戸時代になると下働きには駆り出されません。武家の雑役(ぞうえき)は、特に江戸では町衆からなる「軽き身分の武家奉公人」に任されていました。戦国の世が終わり太平の時代がやってくるや、武家同士の諍(いさか)いや士分の者による町衆への横暴が厳しく咎(とが)められ、町衆とかかわりのある部署や、揉め事の起こりそうな部署に、家来を配置することが難しくなったからです。
江戸時代には侍同士が喧嘩をすれば「喧嘩両成敗」、侍が町衆を理由なく殺せば「お家断絶」、主君があれば主君も連座で責任を取らされます。
そのため、大きな武家の出入り口や外出時のボディガードには、士分にない・家来でない・しかし腕に覚えのある若者が配置されることになりました。そして武士や武士の家族の外出には、出先の格に合わせ時には二本差しの若党(わかとう、サンピン侍と馬鹿にされる)が、時には脇差し一本の中間(ちゅうげん、奴さん)が伴われることになったのです(供奴)。
////// 考察・奴さん一世一代の見せどころ「大名行列」
奴さんの平素の仕事はかつて足軽・荒らし子が行っていた力仕事・馬引き・草履とりです。しかし運よく大名行列の時期に雇われることができれば、行列の先頭で毛槍(けやり)や挟箱(はさみばこ)を振るという、花形仕事にありつけました。
武家の早馬・大名行列・御用提灯は「斬り捨て御免」が許されていたのですが、特に外様大名(とざま だいみょう)の場合「斬り捨て御免」のあとの、江戸幕府による事情聴取は避けたいものでした。だから「斬り捨て御免」にならないよう、行列に先立つこと数日から数時間、何人かの奴と若党たちが予定のコースを練り歩き、往来の町衆を威嚇して蹴散らす必要がありました。威嚇するのが目的なので、奴さんの身なりは奴頭(やっこあたま、深い月代と膨らんだ髪)や鎌ひげ(かまひげ、跳ね上がった髭)、腰巻丹前(こしまきたんぜん、帯に巻き込んだ丹前)に丸出しの尻など、遠目で見てもハッキリわかるほど派手で異様な風体(ふうてい)に作りこまれています。
大名行列の先頭で長い毛槍を振ることは、奴さんたち、みんなの夢でした。
////// 歌詞※太字が現代語訳
してこいな
やつちやしてこい今夜のお供 ちつと遅れて出掛たが足の早いに我が折れ
田圃(たんぼ)は近道見はぐるまいぞよ 合点だ
[仲間の声]やってこいや!
ようし、やってやろうぞ、今夜のお供。
ちっと遅れて出かけたせいだが、主人の足が速くて追いつけない。
よし、近道して田んぼを突っ切るぞ!
[仲間の声]見失いなうなよ、はぐれるなよ。
がってんだい!
振つて消しやるなだい提灯に 御定紋(ごじょうもん)つき でつかりと
ふくれた紺のだいなしは 伊達に着なした奴等(やっこら)さ
武家のかたぎや奉公根性 やれさていつかな出しやしよない
胼(ひび)や皹(あかぎれ)踵(かかと)や脛(すね)に
不二の雪ほどあるとても
吉原風景 |
名代提灯(なだいちょうちん)、
ご定紋(じょうもん)付きの格式高い立派なもの。
体を大きく見せようとふくらませた
紺のだいなし(筒袖の着物)を、
伊達に着こなす奴さん。
武家に勤める武家かたぎな奉公人の心意気を、
やれさて、ここはなんとか出すしかない。
素足で走り回るせいでカカトもスネも、
ヒビ、アカギレだらけ。
あたかも富士の峰の雪のように積もり積もり、
年季が入って、どんなに痛かろうとも。
何時(なんどき)限らぬお使は、かかさぬ正直正道者(しょうじき しょうどうもの)よ
脇よれ頼むぞ脇よれと 急ぎ廓(くるわ)へ一目散 息をきつてぞ駆けつける
いつと決まりのない、ささいな遣(つかい)いにも、
正直に対応し、ご正道(せいどう)を行くその好ましい人品。
ワキへ寄ってくれ、頼む、ワキへ寄ってくれ、と町衆に呼びかけながら、
急いで廓(くるわ)へ一目散、息せき切って駆けつける。
おんらが旦那は廓一番隠れないない丹前好み
華奢に召したる腰巻羽織きりりとしやんと
しやんときりりと高股立(たかももだち)の袴(はかま)つき
跡に下郎がお草履取つて 夫(そ)れさ是(こ)れさ
錦絵「子どもに人気の丹前風人形と丹前奴人形」 |
おいらの旦那は、誰の目にも明らかな、廓(くるわ)でいちばん丹前風の色男。
華奢に着こなす腰巻羽織、きりりとしゃんと、
しゃんときりりと高腿立ち(たか ももだち)の、袴(はかま)姿。
後ろから、おいら、しもべがお草履を持って追いかける。
それさ、これさ。
小気味ようよう六法振(ろっぽうぶり)が
なには師匠(演じた中村芝翫の師・3代目 中村歌右衛門)
の其の風俗に似たか
似たぞ似ましたり扨々(さてさて)な
広濶華麗(こうかつ かれい)な出立(いでたち)
小気味良く六法振りに歩く仕草、
浪花師匠と呼ばれた、中村歌右衛門に似せたのか。
似てる、似てるぞ、
さてもさても、ゆったり華麗な出(い)で立ちだ。
おはもじながら去る方へほの字とれの字の謎かけて
ほどかせたさの三重の帯
解けて寐た夜は免(ゆる)さんせ アァ儘(まま)よ浮名がどうなろと
人の噂も七十五日、てんとたまらぬ
昭和55年、歌泰会「供奴」 |
恥ずかしながら、さるお方に、惚れた惚れたとささやいた。
三重の帯まで、ほどかせたくて。
いざ帯が解けて寝た夜のことは、いやさて、なにとぞお許しを。
あぁ。ままよ、浮名が立ってどうなろうと構うものか、
人の噂も七十五日と言うじゃあないか。いやぁ、恋はたまらん。
吉原風景 |
さめた夕べけん酒に ついつい ついつい
さされた盃はうちゑいはまでんす(うちえいぱまでんす)
くはい(くわい)と云(いっ)てはらつた
はつた(貼った) けんびき(肩癖)
ちりちり ちりけ(身柱)
い(亥)のめ やいと(眼灸)がくつきりと
裾の前を取るその姿にひと目ぼれ、
惚れて惚れて、
女を相撲の技(小褄取り=こづまとり)のように、
ひっくり返したところで目が覚めた。
思い起こせば、夕べはついつい、ついつい、
ジャンケン遊びで酒を飲み、出された杯(さかづき)を、
「うちえいぱまでんす、くわい!」とばかり負け、さんざん呑まされたものだった。
肩、首、腰は膏薬(こうやく)、お灸の跡だらけ。
捻ぢ切(ねじきり)おいどが真白で
手つ首手の平しつかと握つた いしづき
こりやこりやこりや成駒やつとこよんやさ
浮れ拍子にのりが来て ひよつくり旦那に捨られた
うろたへ眼(まなこ)で提灯を つけたり消したり灯(とも)したり
揚屋が門を行きすぎる
裾をからげて尻(おいど)を見せればイナセに白い褌(ふんどし)、
大名行列の先頭を夢見て、
手首と手のひらで、毛槍の石突(いしづき)をしっかり握る。
そうしてこりゃこりゃ、こりゃこりゃ、
成駒(なりこま)やっとこよいやさ、と唄い踊るうち、
浮かれ拍子に我を忘れ、うっかり、置いけぼりにされたのだ。
あわてたあげく、うろたえた目をして、
提灯を点けたり消したり、また灯(とも)したり。
主(あるじ)が入った揚屋(あげや)の門を、
行きすぎてしまう、奴さんであった。
//////
昭和55年、歌泰会「供奴」 |
「クドキ」に当たる歌詞の一部が下品すぎるということで、現在は下記のように変わっています(あまり上演されません)。
****************
おはもじながら去る方へ はの字となの字の謎かけて
ほどかせたさの八重一重 解けて嬉しき したふしに
アァ儘よ 仇名がどう立とうと 人の噂も七十五日
てんとたまらぬ 露の化粧(けはい)の初桜
恥ずかしながら、さるお方に、惚れた惚れたとささやいた。
八重の帯を最後の一重まで、ほどかせたくて。
いざ帯が解けたときには大喜びで、桜の下で抱き合った。
あぁ。ままよ、浮名が立ってどうなろうと構うものか、
人の噂も七十五日と言うじゃあないか。
おしろいの匂いが、あぁ、たまらない。
****************
これもまぁまぁ下品じゃないの? と思うのは、わたしだけでしょうか。
////// 田んぼと丹前姿
歌詞に登場する「田んぼ」について、ときどき「この当時の武家屋敷から、吉原へ行く道程に田畑があったと思えない」という意見を聞くことがあります。もちろん、当時の譜代大名・旗本がいた芝や青山、もしくは麹町などお堀に近いあたりから、最初の吉原(元吉原)である人形町(現在の日本橋人形町)へ行くあいだに田園地帯はいっさいありません。ですので、この舞踊に登場する「廓」は明暦(めいれき)の大火後に移転した、浅草寺(せんそうじ)裏日本堤(現在の台東区日本堤)の「新吉原」の方だと思われます。
移転時にはのち「吉原土手」と呼ばれる日本堤のあたりは田畑だらけ、そうとうな田舎だったようです。それでも、たとえば外様大名の江戸屋敷が並んでいた和泉橋近辺(千代田区神田佐久間町・岩本町)から日本堤へは、徒歩4~50分ほどで到着します。芝から歩いて2時間弱ぐらいでしょうか。
でもわたしは、この舞踊の背景となった武家屋敷は、江戸上屋敷や登城用に使われたお堀に近い中屋敷より、本所(現在の台東区本所)あたりに多かった「下屋敷」と呼ばれる隠居・子ども用の屋敷のように感じます。
奴さん自慢のご主人さまは、下屋敷でのびのび暮らす若隠居か、代替わり前の武家の放蕩息子ではないでしょうか。だとすると、歩きはじめて20分もかからず大門(おおもん)へ到着したことでしょう。奴さんが、あわてるわけです。
錦絵「吉原通いの丹前姿」 |
唄の途中に挿れた錦絵は、まさしく当時もっとも「カッコイイ!」とされた二本差しに高腿(たか もも)立ち、伊達羽織を腰に撒きつけ帯にはさんだ「丹前風(丹前姿)」のお人形を描いたものです。
そうしてその横の錦絵は、子どもが「奴さん」の扮装で踊るお人形の絵です。奴さんの衣装は「丹前奴(たんぜん やっこ)」と呼ばれるファッションで、頭の頭巾は違うものの(子どもは月代がないため)「供奴」の丹前を、柄ものに変えればほぼ同じです。そうです。この舞踊の衣装が、そもそも「丹前風」なのです。
奴さんは子どもたちの憧れでも、ありました。現代のわたしたちには、だいぶ恥ずかしい衣装ですが、お尻丸出し足丸出しを、むしろ自慢そうに演じるべきなのでしょうね。
いやぁ、それでもやっぱり、恥ずかしいですけどね(誰かわかんないし)。
踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved. |
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