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2019年4月18日木曜日

説教くさいぞ!浅草観音さま。常磐津「独楽(こま)」全訳






以前公開した、「独楽(こま)」という踊りの記事の続きです。







////// 湯島天神さま探訪記

東京へ行ったら一度行ってみたいと思っていた湯島天神さま。清元「傀儡師(かいらいし)」という踊りで、八百屋お七が「恋」と書いた「書初め」を奉納する神社です。頻繁に東京へ出ますが、今までご縁がありませんでした。

みなさんは、この神社へ行くとき、どうやって行くと思われますか? 住所を調べると「湯島三丁目」とあるので、今年の一月、わたしはJR「御茶ノ水」駅で下り、さだまさしの歌で知られる「聖橋」を渡ったところの「湯島」という神社で、息子の受験合格を祈願しました。

そうして意気揚々と「お参りおわったよ!」と東京住まいの従姉妹に写メを送ったところ、「そこは湯島天神ではない」と言われてしまい。。。


湯島天神さまへお参りするには、JRであれば「御徒町」駅、本来なら東京メトロ千代田線「湯島」駅で下りるのが正しいらしいです。地方人であるわたしには、湯島へ行くのに上野近辺で下りるイメージはありませんでした(フォークソング「檸檬」のせい?)

わたしが息子の合格祈願をしたのは菅原道真公をお祀りする「湯島天満宮(湯島天神さん)」ではなく、五代将軍 徳川綱吉公が作った孔子廟「湯島聖堂」でした。武家の子弟に儒学を広めるため建てたという学問所の跡で、孔子を祀る神社です。考えてみれば、そもそもわたしは「湯島天神=湯島聖堂」と思っていたのです。

そうは言っても、こちらもご霊験あらたからしく、おかげさまで息子は無事合格しました。やれやれ。

探訪記と書きましたが、実際には「探訪できなかった記」ですね。


2019年1月の湯島聖堂




////// 常磐津「独楽(こま)」概要


■初演■
昭和3年(1928)、東京歌舞伎座
2代目 市川猿之助(猿翁=えんおう、1888~1963年)

■作曲■
3代目 常磐津文字衛(ときわず もじべえ、1888~1960年)

■作詞■
木村富子(1890~1944年)

■振付■
2代目 花柳寿輔(はなやぎ じゅすけ、1893~1970年)



常磐津「独楽」には、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「車曳(くるまひき)」と、「賀の祝(がのいわい)」の場面が取り込まれています。

曲独楽売の商い




////// 常磐津「独楽(こま)」に取り込まれた「菅原伝授手習鑑」

浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」は延享3年(1746年)、大坂・竹本座初演の戯曲です。初代 竹田出雲(生年不詳~1747年)ほか複数人による合作で、平安時代に実際に起きた大臣・菅原道真(825~903年)の失脚から、死んで天神となり政権に祟るまでをドラマチックに描くものです。

菅原道真が愛した梅の樹が、大宰府へ配流(はいる)された主人のもとへ飛んで行ったという伝説(「源平盛衰記」など)をもとに、主君・菅丞相(かんしょうじょう=菅原道真)から松、梅、桜、の樹を下げ渡された家臣・白太夫と、その三人の息子たち・松王丸、梅王丸、桜丸の悲劇を語ります。


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- 菅原道真(825~903年)が詠んだ和歌「大鏡(平安時代後期)」-

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ
(現代語訳)
春風が吹いたなら、また花の香を届けておくれ。主(あるじ)を失ったからと言って、春を忘れるほど嘆いてはいけないよ。


湯島天神の梅


「車曳(くるまひき)」は菅丞相(かんしょうじょう)側の馬引きである桜丸と梅王丸が、主君を失脚させた時平(しへい)が載る牛車を襲い、時平(しへい)側の馬引きである松王丸と、牛車を曳き合って争う場面です。

「賀の祝(がのいわい)」は白太夫七十歳の祝いのため、「車曳(くるまひき)」のあとで三人息子が集まる目出度い日の場面です。息子たちは父の手前、争(あらそ)ったことを隠しています。しかし菅丞相(かんしょうじょう)失脚の原因を作った桜丸は、その日責任をとり、父・白太夫と梅王丸の前で自害することになるのです。

常磐津「独楽」が「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」を取り込んだ第一の理由は、独楽の古名が「小松ぶり」だったからでしょう。第二に、車曳(くるまひき)の「さっさ引け引け」という歌詞が、曲ゴマを操る動作と重なるからでしょう。しかし「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」は悲劇なため、近代的でスピード感のある常磐津舞踊「独楽」のなかでは、少しばかり違和感のある、不幸なイメージの挿入になっています。

車曳(くるまひき)




////// 常磐津「独楽(こま)」に漂う、浅草観音さまのいたずらの匂い


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- 「独楽売 萬作(こまうりの まんさく)」あらすじ-

正月元旦の朝、独楽売 萬作(こまうりの まんさく)が浅草寺の雷門の前で売立口上し、見物客を前に曲ゴマの技(わざ)を披露します。やがて興が乗った萬作はみずからがコマに変身し、抜き身の刀の上を廻る「刃渡り」という曲ゴマを観せながら、人々の前から消えてゆくのです。


以前の記事で、ナンセンスすぎるこの物語の終幕を「浅草観音さまの、いつもの悪ふざけだろうか」と、書きました。浅草寺の観音さまは、悪戯(いたずら)好きで知られます。有名なところでは姥ヶ池(「浅茅が宿」とも)の伝説があります。
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- 姥ヶ池(浅茅が宿)伝説-

浅草雷門の下で娘に客引きさせ、客になった男だけ石の枕に寝かせる老婆がいた。男が寝入るともうひとつの石で上から打って頭を潰し、荷物を奪うのだ。あるとき美しい稚児が客になり、娘をつくづくと篭絡(ろうらく)した。娘はうっとりしたあまり自分の部屋へ戻らずにそのまま客の枕で寝ていて、老婆に頭を潰されて死んだ。老婆は嘆き悲しみ、客の遺体を投げ込んでいた池へ自分も身を投げて死んだという。娘を誘惑した稚児は、浅草観音さまの化身だと言われている(「江戸から東京へ」大正2年刊行)

姥ヶ池は、いまも花川戸公園(東京都台東区)に一部が残っています。

浅草寺の雷門

ところで、あまり知られていませんが、浅草観音さまは開闢以来一度もご開帳なさってません。推古天皇36年3月16日(628)、当時はまだ海だった浅草で漁師の網に一寸八分の仏像(聖観音像=しょうかんのんぞう)が掛かかります。これを持ち帰った漁師が仏師になって祀ったのが、浅草の観音さま信仰の始まりです。その後、浅草寺は何度も戦災で消失しますが、そのたび観音さまは「自分から避難し、寺が再建されるとまた自分から戻って来た」と言われています。本当に戻ってらっしゃったのか、誰も確認していません。

そもそも一寸八分のご本尊さまです。5cmくらいですから。漁師の網って、推古天皇の時代でもだいぶ細かかったんですね。

いらっしゃるのか、いらっしゃらないのか。天子さまや徳川家康公を含めて誰も見たことがなく、それでも霊験あらたかなのが浅草観音さまです。江戸人の洒落の集大成とでも、言いましょうか。生まれも育ちも浅草だというご老人は、「誰も見たことないから、ありがたいんじゃないか」と、笑います。洒落というのは、関西の専売特許ではないようです。

ところで江戸時代の人々は「シラミ」を「観音さん」と、呼んでいました。その形が千手観音(せんじゅかんのん)に似ているから、など説明されますが、単純に小さいからのような気もします。ムズムズすると「観音さんが、またいたずらを」などと言ったようです。



////// 常磐津「独楽(こま)」歌詞・註解と、伝説あれこれ

◆新玉(あらたま)
お正月のことです。


◆門礼(かどれい)
お正月に門のところで年始の挨拶をして廻る人々を指します。「廻らば廻れ門礼も」というのは、「花笠」という流行歌(「松の落葉集」など)や河東節・外記節「傀儡師」に出てくる、「廻れ廻れ風車」をもじったように思います。


◆気散(きさん)じな
のんきな、というぐらいの意味です。

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

◆味(あぢ)に拗(す)ねたる松の振り
「逢はじに拗ねたる、松の枝振り」という意味の掛詞のようです。「松=待つ」です。梅には声をかけたのに、声を掛けられなかった松が主人に逢うことができず拗ねていたとも読める(掛詞(1))し、一方で「淡路の松」(掛詞(2))とも読むことができる、複雑な洒落です。

===============
掛詞ー(1)ー
とても有名な「大宰府の飛び梅」ですが、もうひとつ「板宿(いたやど)の飛び松」という伝説もあります。

実は主人の大宰府配流に際して、菅原道真の家から飛び立ったのは梅の樹だけではありません。大宰府へ向かう途中「板宿(いたやど)(兵庫県神戸市須磨区板宿町)というところに立ち寄った菅原道真は、このように詠んだと言われます。

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- 菅原道真(825~903年)が詠んだ和歌「天神本地(てんじんのほんち、天神縁起など)」-

梅は飛び 桜は枯るる世の中に 何とて 松のつれなかるらむ
(現代語訳)
梅は飛び、桜は悲しみで枯れてしまったというのに、何故、松は冷たいのだろう。

するととたんに菅原道真の邸宅(京都)にあった松の樹が飛来し、その地に根付きました。大正時代に落雷で枯れましたが、板宿(いたやど)には今も巨大な松の根が保存されています。「大宰府の飛び梅」「板宿(いたやど)の飛び松」と、並び称される伝説です。

===============
掛詞ー(2)ー
「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「寺子屋」では、時平(しへい)の馬引きとして兄弟と反目しあった松王丸が、父の主君・菅丞相(かんしょうじょう)の子の身代わりに自身の息子を差し出します。このエピソードのもととなったのは、伊勢平氏の本拠地・淡路島の記録です。伊勢平氏頭領・平清盛(1118~1181年)が大和田泊(おおわだのとまり)を整備した際、30人の人柱(ひとばしら)が必要になったのですが、それを押し止(とど)め、自分からすすんで身代わりの人柱(ひとばしら)となった小姓があり、その名前が「松王丸」です。

寺子屋

「淡路の松」は、見ず知らずの他人のため、自分の命を差し出した「松王丸」のやさしさを想起させる言葉なのです。


◆二階の盃
女郎買いをする客は、揚げ屋の二階で夫婦の契りを模した盃ごと・三々九度をしなければいけませんでした。神主は立ち会わず、「花車」と呼ばれた揚げ屋の女房が執りしきる形式だけの結婚式です。江戸の昔、二世を誓わない同士が男女の営みをすると、生きたまま地獄へ堕ちると言われていたせいです。

ですがこの盃ごとが仮のもので、閻魔さまの鏡の前ではなんら効果がないことを、女郎たちは知ってました。そのため、揚げ屋の二階で交わす三々九度は、女郎にとっては悲しいことであり、「因果の小車」を象徴する苦行のひとつでもありました。


◆独楽の起源
歌詞の中では菅丞相(かんしょうじょう)を独楽の起源のように扱いますが、架空のエピソードです。


平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」


////// 常磐津「独楽(こま)」歌詞・全現代語訳

◆原文

(にぎわ)ひは花の東(あづま)の浅草寺
金龍山(浅草寺の山号)の名にしるき
今日新玉(あらたま)の縁起よく 商い始め 来そはじめ
ご利生(りしょう)も 身に澤潟屋(おもだかや)
八百八町ご贔屓(ひいき)を めぐりくるくる 独楽売(こまうり)

さぁさぁこれは お子ども衆のお慰(なぐさ)み 評判の独楽ぢゃ 独楽ぢゃ

商う品は大独楽小独楽 廻らば廻れ門礼(かどれい)
屠蘇(とそ)の機嫌の調子よく 沖ぢゃえ 沖ぢや 朝夕まわる汐(しお)
さしたり引いたり帆がまわる 舟にゆられて眼がまわる
えぇしょんがえ 身は気散じな世わたりや
大路(おおぢ)をわたる初東風(はつこち)
浮かれうかれて来たりける

エヘン 古めかしくも言い立ては そもそも独楽のはじまりは

(ふ)りし延喜(えんぎ)の御代(みよ)かとよ
時平(しへい)の大臣(おとど)の よこしまより 筑紫へ遠くさすらいの
菅丞相(かんしょうじょう)が 愛樹(あいじゅ)の梅

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

東風(こち)吹かば 匂ひおこせ とよみたまふ
君が情けの通ひては 花もの言はねど都(みやこ)より ひと夜のうちに飛び梅の
その枯木(かれき)にて 手ずさみの 姿も優な小松ぶり(独楽の古名)
(かぶ)りの紐をきりりとしやんと巻いて 投げては えいと引く
さっさ引け引け 五色の独楽や御所車(ごしょぐるま)
ありやありや こりやこりや やっとな
酒がすぎたか目元が桜 梅は笑へど常(つね)の癖 味に拗ねたる松の振り

三つ子の親は七十の 賀の祝ひとてなますやら
米炊(か)し味噌摺(す)り あたふたと
きざむ嫁菜(よめな)の姉妹(あねいもと) 色香を添へてなまめかし
約束かたき心棒(しんぼう)に やがてもうけし 子持独楽(こもちごま)
孫彦玄孫(まごひこやしゃご)と末広(すえひろ)
黄金銭独楽(こがねぜにごま) うなり独楽(ごま)
ごんごん独楽の鳴りもよく 天下とるとる 投げ取りの
曲はさまざま それ 綱渡り(つなわたり)


燕廻(つばめまわ)しや 風車 めぐる月日が縁となり 一寸(ちょっと)格子へ
煙管(きせる)の火皿(ひざら)が熱くなるほど 登りつめ
二階で廻る さんさん盃(さかづき)
とんだりはねたり 雷門(かみなりもん)の助六さんでは無けれども
衣紋流し(えもんながし、曲ゴマの芸)の居続けは しんぞ命の雪見酒
おっとそこらで とまらんせ
止めても止まらずくるくると 寿命は尽きぬ 独楽しらべ
めでたかりける 次第なり



◆現代語訳

花の吾妻の浅草寺、山号・金龍山の名で有名なその山へ、
縁起をかつぎ正月元日の朝から商い始めに来ております。
これなるは、重くご利益をたまわっている、澤潟屋(おもだかや)でございます。
広く江戸八百八町にご贔屓(ひいき)をたまわろうと、
独楽売(こまうり)だけに、くるくる巡(まわ)っているのでございます。

(台詞)
さぁさぁ、これが子ども衆の遊び道具、評判の独楽というものじゃ。

商う品は大きなものから小さなものまで。
廻るならば、お廻りなさい。
ご近所挨拶に廻るのも、振舞いの屠蘇に浮かれて調子良く。
吉原行きの舟に乗れば、沖じゃ、沖じゃとはしゃいで廻る。
朝な夕な、潮が差してはまた引いて。
風に吹かれて帆が廻れば、今度はこちらの眼が廻る。
えぇ、しょうがない、この身は暢気(のんき)な世渡りだ。
大通りを吹き抜ける春風に乗り、浮かれ浮かれてやって来たのでございます。

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

(台詞)
えぇへん。古めかしい言い立てをさせていただくならば、そもそも独楽の始まりとは。

ずっと昔の延喜(えんぎ)の御代(みよ)のこと(901~921年)
大臣・時平(しへい)の邪(よこしま)な換言で筑紫へ流されてしまった、
菅丞相(かんしょうじょう)さんが愛した梅の樹です。

春風が吹いたら香りを届けて欲しいと、お詠みになったところ、
主君のお気持ちが通じたのか、ものを言わない花ではあるが、
京の都(みやこ)から一夜のうちに大宰府まで飛来したのでございます。
その樹が枯れたとき、菅丞相(かんしょうじょう)さんが手遊びに、
姿の美しい「小松ぶり」を作ったのが始まりです。
コマの使い方はと言えば、
冠の紐をきりりとしゃんと巻きつけ、投げてはえいっと引くのでございます。
さっさ引け引け、五色の独楽と御所車、
ありゃありゃ、こりゃこりゃ、やっとな。
酒が過ぎたか目元が桜色に染まり、梅は咲き染(そ)め微笑みますが、
逢いたい人に逢えず、拗ねているのは松の枝振り(独楽の古名は「小松ぶり」)です。


梅王丸、桜丸、松王丸の親・白太夫の七十の賀の祝(古希)のため、
その嫁たちは魚を捌(さば)いたり、米を炊いたり、味噌をすったり、あたふたと。
嫁菜(葉物野菜)をきざむその姉妹(あねいもと)たちが、
祝いの席に色香を添えてなまめかしく。
そういう女とかたく契りを交わして辛抱すれば、子持ちになれるし、
孫も玄孫(やしゃご)も授かりましょう。子孫は末広がりに広がるのです。
そうすれば黄金(こがね)も手に入るし、銭がうなることでしょう。
ごんごんと成りあがり、天下を取る取る、投げ縄を投げて独楽を取るようなもの。
独楽の曲芸はさまざまです。たとえば、それ、綱渡りをごろうじろ。


燕廻(つばめまわし)はいかが。次には風車の技(わざ)を、お観せいたしましょう。
月日が巡るうちにはご縁があり、ちょっと遊郭の格子を覗くこともあるでしょう。
二階の盃ごとでは緊張のあまり、
煙管(きせる)の火皿(ひざら)が熱くなるのも気がつかず、
うろたえたまま三々九度を交わすのです。

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」

運命の独楽は飛んだり跳ねたり。
雷門(かみなりもん)の助六さんではないですが、
衣文坂(新吉原の土手)に居続けるのは、命をかけて雪見酒をするようなもの。
おっと、そこらで止めておきなさい。
そう言って止めても、止まることなく独楽はまだ、くるくると。
廻る独楽の寿命は尽きず、因果の唄を奏(かな)で続けます。
こうして目出度い正月の日は、今年も過ぎていったのでございまする。

//////


近年の新作のため、音曲だけ聞くと口説(くどき)くささが少なく爽快な踊りです。ところが歌詞を丁寧に解きほぐせば、やっぱり口説(くどき)が出てきます。というか、意外なことに、ちょっと説教くさかったですね(笑)





百廻り(独楽の技)に思いを込め、因果なんか吹っ飛ばせ! ぐらいの勢いで踊るのが、よろしいかと思います。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年4月6日土曜日

観音さまのいたずら?常磐津「独楽(こま)」(舞踊鑑賞室)






(にぎわ)ひは 花の東の浅草寺 金竜山の名にしるき
ご利生(りしょう)も 身に澤潟屋(おもだかや)
八百八町ごひいきを めぐりくるくる 独楽売(こまうり)

<台詞> さぁさぁこれは お子ども衆のお慰み 評判の独楽ぢゃ 独楽ぢゃ


(あきな)う品は大独楽小独楽 廻らば廻れ門礼(かどれい)
屠蘇(とそ)の機嫌の調子よく
沖ぢゃえ沖ぢや 朝夕まわる汐(しお)
さしたり引いたり帆がまわる 舟にゆられて眼がまわる
えぇしょんがえ

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」




身は 気散(きさん)じな世わたりや
大路(おおぢ)をわたる初東風(はつこち)に 浮かれうかれて来たりける

<台詞> えへん 古めかしくも言い立ては そもそも独楽のはじまりは


(ふ)りし延喜(えんぎ)の御代(みよ)かとよ
時平(しへい)の大臣(おとど)の よこしまより
筑紫へ遠くさすらいの 菅丞相(かんしょうじょう)が愛樹(あいじゅ)の梅
東風(こち)吹かば 匂ひおこせ とよみたまふ

君が情けの通ひては 花もの言はねど都(みやこ)より ひと夜のうちに飛び梅の
その枯木(かれき)にて 手ずさみの 姿も優な小松ぶり(※独楽の古名)

(かぶ)りの紐をきりりとしやんと巻いて 投げては えいと引く
さっさ引け引け 五色の独楽や御所車(ごしょぐるま)
ありやありや こりやこりや やっとな
酒がすぎたか目元が桜 梅は笑へど常(つね)の癖味(くせあぢ)に 拗ねたる松の振り

平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」


三つ子の親は七十の 賀の祝ひとて なますやら
米炊(か)し 味噌摺(す)り あたふたと
きざむ嫁菜(よめな)の姉妹(あねいもと) 色香を添へてなまめかし

約束かたき心棒(しんぼう)に やがてもうけし 子持独楽(こもちごま)
孫彦玄孫(まごひこ やしゃご)と末広(すえひろ)
黄金銭独楽(こがねぜにごま) うなり独楽(ごま)
ごんごん独楽(ごま)の鳴りもよく 天下とるとる 投げ取りの
曲はさまざま それ 綱渡り(つなわたり)

燕廻(つばめまわ)しや 風車 めぐる月日が縁となり
一寸(ちょっと)格子へ 煙管(きせる)の火皿(ひざら)が 熱くなるほど登りつめ
二階で廻る さんさん盃(さかづき)


平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」



とんだりはねたり 雷門(かみなりもん)の助六さんでは無けれども
衣紋流し(えもんながし)の居続けは しんぞ 命の雪見酒
おっとそこらで とまらんせ
止めても止まらずくるくると 寿命は尽きぬ 独楽(こま)しらべ

めでたかりける 次第なり

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平成29年、日本舞踊協会、仙台電力ホール「独楽」



演目名・「独楽(こま)」※独楽売萬作(こまうりの まんさく)
初演・昭和3年(1928)、東京・歌舞伎座 2代目 市川猿之助(1888~1963年)
作曲・3代目 常磐津文字衛(ときわず もじべえ、1888~1960年)
作詞・木村富子(1890~1944年)
振付・2代目 花柳寿輔(はなやぎ じゅすけ、1893~1970年)





初代 市川猿之助(1855~1922年)が演じたものを2代目が再演しようとしたところ、歌詞も音曲も失われており、仕方なく新作したと伝わる演目です。ところがこの出来がとても良く、たいへんな人気演目になりました。

写真は水木歌惣のもの、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年1月31日木曜日

タイムトラベル舞踊「松廼羽衣(まつのはごろも)」全訳



だいぶ間(ま)が空いてしまいましたが、平成24年、水木流東京水木会舞踊公演で踊った、常磐津「松廼羽衣(まつの はごろも)」という踊りの紹介の、続きです。






////// 歴史

謡曲「羽衣」を歌舞伎舞踊に転じたもので、明治31年(1898)、5代目 尾上菊五郎が初演し、のち「新古演劇十種(しんこ えんげき じっしゅ)」のひとつに入れられました。3代目 河竹新七(かわたけ しんしち)作詞、8代目 小文字太夫と6代目 岸澤式佐(=5代目 岸澤古式部)による作曲ですが、長唄部分の作曲は13代目 杵屋六左衛門(きねや ろくざえもん)です。

初演当時は長唄と常磐津の掛け合いがあり、その後常磐津曲として独立しました。謡曲「羽衣」由来の邦楽曲は、ほかに一中節や長唄が知られます。




////// 見どころ、特徴

前の紹介記事にも書きましたが、もとになった謡曲「羽衣」は物語の構成が無茶苦茶です。神道と仏教が渾然(こんぜん)一体となって扱われるうえに、わが国における太母神(たいぼしん)信仰の代表格・月の満ち欠けを作り出す黒衣の十五人、白衣の十五人の月乙女の伝説が登場し、「東遊び(あずまあそび)」のうち「駿河舞(するがまい)」と呼ばれる勇壮な神楽(かぐら)の起源を、富士山信仰とともに謳いあげる意味不明な内容です。

意味がわからないですよね。大丈夫、書いているわたしも、何がナンだかわかりません(笑)


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- 伝・世阿弥(生年不詳~1443年)作「羽衣」※観世流 謡曲-

三保の松原の漁師・白龍が松の枝にかかった美しい衣を見つけ、家宝にするため持ち帰ろうとするが、そこへ持ち主である天人が現われ返してくれと言う。

返す代わりに舞を所望すると天人は喜び、自身が月の乙女のひとりであり、この出会いと喜びを記念して「東遊び」のひとつ駿河舞を地上に授けると言い、「南無帰命月天子本地大勢至(月天子さま、またの名を大勢至菩薩さまに帰依しもうしあげます)」と舞いながら、富士の峰高く飛び去ってゆく。


[地謡]
東遊の駿河舞 此時や始めなるらん。それ久方の天と言っぱ 二神出世の古 十万世界を定めしに 空は限りもなければとて 久方の空とは 名づけたり。然るに月宮殿の有様 玉斧乃修理とこしなえにして 白衣黒衣の天人乃 数を三五に分つて 一月夜々の天少女 奉仕を定め役をなす。

[シテ]
我も数ある天少女。月乃桂の身を分けて假に東乃 駿河舞 世に傳へたる曲とかや。


[地謡]※現代語訳
東遊の駿河舞は、このときの天女の舞がもとになっているのだろう。そう申し上げるのは、昔々イザナギ・イザナミの二神が世界を創ったとき、天は限りなく上まで広がっていたので「久方の空」と名付けられた。そうして、その空にある月宮殿は美しい斧をもって建築され、永遠に壊れることがないのである。その月宮殿内には白衣と黒衣をまとった天人が、それぞれ十五人ずつ住んでおり、一月のあいだ毎夜交代で舞を舞うことで、月の満ち欠けを管理するのだ。

[シテ]※現代語訳
はい、わたしも、その天人たちのひとりです。月の世界に住まう身ですが、いまは即興的に駿河舞を舞い、人の世へ伝えることといたしましょう。
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原曲は上記のような内容です。「天人」だと言うから都率天(とそつてん)に住んでいるかと思いきや、何故か月の満ち欠けを担当する月乙女です。

かつ「今から駿河舞を授けよう」と言いながら、仏道帰依を口にし富士山へ帰ってゆきます。駿河舞は男性武人による舞なので、文脈的にどこもどうやっても意味がつながりません。

常磐津の歌詞はその「羽衣」のくどくて意味のわからない部分をバッサリ捨て去り、すっきりとまとめあげ見事です。また、謡曲「羽衣」が月乙女の伝説を主軸にしたのに対し、常磐津では「東遊び」という雅楽そのものを主軸に据え、物語を展開します。


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-「東遊(あずま あそび)※神楽舞、雅楽 -

貞観3年(861)3月14日、東大寺大仏供養に奉納されていることから、その頃には既に成立していたとわかります。むしろ「廃(すた)れていた」と記録にあり、この廃れゆく「東国の男舞」を一条天皇(980~1011年)が後年「神楽(かぐら)」に選定するなど、現在にいたるまで国を挙げ、その保存と伝承に努めてきた経緯があります。

阿波礼(あはれ)[斉唱]
天晴(あはれ) お お お お

一歌(いちうた)[斉唱]
はれな 手を調へろな 歌 調へむな 相模(さがむ)の嶺

二歌(にうた)[独唱、斉唱]
え 我が背子が 今朝の言伝えは 天晴(あはれ)
七つ絃(を)の 八つ絃の琴を 調べたることや なほ懸山の桂の木や
お お お お

駿河歌一段(するがうたの いちだん)[独唱、斉唱]
や 宇渡浜(うとはま)に 駿河なる宇渡浜(うとはま)に 
打ち寄する波は 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し

駿河歌二段(するがうたの にだん)[斉唱、舞]
言こそ佳し 七種(ななぐさ)の妹(いも)は 言こそ佳し 
逢える時 いささは寝なんや 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言こそ佳し

加多於呂志(かたおろし)[舞(所作のみ)、唄なし]

阿波礼(あはれ)[斉唱]
天晴(あはれ)

求子歌(もとめごの うた)[独唱、斉唱、舞]
千早振る 神の御前の 姫小松
あはれれん れれんやれれんや れれんやれん 可憐(あはれ)の姫小松

大比礼歌(おおびれの うた)[独唱、斉唱]
大比礼や 小比礼の山 はや寄りてこそ
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この「東遊び」のうち、駿河舞こと「駿河歌」と求子舞こと「求子歌」を、常磐津は物語のベースに選びました。ところが、天女が漁師と姫子松をなしたという伝説「求子舞」のせいで、時間軸に信じられない異変が起きてしまいます。

この「時間軸の異変」について、前の記事では「作者の作為」ではないか、と書きました。



////// 作詞者・3代目 河竹新七

3代目 河竹新七(かわたけ しんしち、1842~1901年)は、おもに明治時代に活躍した歌舞伎狂言作者です。河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ、1816~1893年)の弟子であり、市村座の立作者になったあとに3代目 河竹新七を襲名、市村座や歌舞伎座などの立作者として活躍しますが、9代目 市川團十郎(1838~1903年)と福地桜痴(ふくち おうち、1841~1906年、ジャーナリスト・政治家・劇作家)による演劇改良運動に対立して歌舞伎座を退座、しかし翌年、5代目 尾上菊五郎の歌舞伎座出演を機に歌舞伎座へ復帰する、めんどくさい人物です。

明治時代に活躍したため現存作品が多く、なかでも代表作は「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)」という、陰惨で、もどかしい因果話(いんが ばなし)です。

籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとの えいざめ、河竹新七 作)

ところで、河竹新七(かわたけ しんしち)が一時的に反目した福地桜痴(ふくち おうち)の演劇改良運動とは、明治期になって始まった、旧来舞台芸術の近代化を目指す運動です。そこではたとえば芝居茶屋を通した切符流通の見直しや、女形の廃止などが提唱されました。同じころ、作家・坪内逍遥(つぼうち しょうよう、1859~1935年も西洋オペラに刺激され、国劇(歌舞伎=竹本、など)・国楽(能、清元、長唄、常磐津、など)を統合した「新楽劇」という、わが国独自の総合音楽芸術を作ろうとしていました。

福地桜痴(ふくち おうち)の演劇改良作品としては女児が出演する「鏡獅子(かがみじし、1893年歌舞伎座にて初演)」が有名で、坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の新楽劇としては新劇(台詞が現代語)を取り込んだ新舞踊「お夏物狂い(別名「お夏狂乱」、1908年発表、1914年帝国劇場にて初演、6代目 文字太夫と2代目 文字兵衛による常磐津作品)」が有名です。

昭和51年(1976)、歌泰会「鏡獅子」

何故、現存する多くの歌舞伎舞踊曲が明治以降に作り直されたものなのか。その疑問への答えのひとつが、ここにあります。歌舞伎には演劇改良運動があり、歌舞伎舞踊には(坪内逍遥いわく)国楽の近代化が求められた時期がありました。

歌舞伎座
これら近代化を目指す時代の潮流のなか、戯作者・河竹新七は謡曲「羽衣」由来の新しい常磐津に、どのような唄をつけたのでしょう。河竹新七は代表作「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)」では、時空を超え、忘れたころに不意に襲いかかる人間の運命というか、「因果」と「宿業」の悲しさを、写実の凄みで描ききりました。そこには狐も、知盛の幽霊も、曽我の五郎も登場しません。

謡曲「羽衣」を写実化した河竹新七作品を、現代語訳でお届けします。エピソードを短縮したら「SF(science fiction)」風になってしまった、摩訶不思議な明治時代の作品です。

皆さまは、どのようにお感じになるでしょうか。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」




////// 歌詞(全現代語訳)

◆原文
〽風早(かざはや)の 三穂の浦面(うらわ)を漕ぐ舟の 浦人さわぐ浪路かな

「是(これ)はこの傍(あたり)に住む 伯了と申す漁夫にて候」
〽実に長閑(のどか)なる朝霞(あさ がすみ) 四方(よも)の景色を見渡せば あれなる松に美しき 衣懸(かか)れり いざや取りて我が家へ帰らん

駿河湾 田子の浦

「喃々(のう のう)それこそは羽衣とて 容易(たやす)く人に与ふべきものにあらず 返させ給え返させ給え 喃(のう)
〽吹く春風に誘い来る 姿を三穂の松原や 霞に裾は隠せども 未だ白妙(しろたえ)の富士の顔

「さては天女にましますかや 好(よ)き物えたり」
〽と打ち喜び 返す気色(けしき)も無かりける

〽今はさながら天人も 羽根無き鳥の如くにて
〽飛行(ひぎょう)の道も絶えぬると 挿頭(かざし)の花も打ちしおれ 五衰(ごすい)の姿あらわれて 露の玉散るばかりなり

〽伯了はそれと見て いかにもあまり御痛(おんいたわ)し されども衣を返しなば そのまま天にや昇るらん

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

〽否(いや)とよ我も 天乙女(あま おとめ) たとえ世界は変わるとも 慕ふ心は只一筋に 思ひ染めにし恋衣(こい ごろも) 契り結ばん女夫松(みょうと まつ) やがて小松(こ まつ)の色添えて 夢かうつつか疑わしくも 一人寂しき手枕(た まくら)に 妹背を渡す鵲(かささぎ)の 天津乙女(あまつ おとめ)は我妻と 睦(むつ)み合うのも楽しみに 賤(しづ)が手業(てわざ)もまだ白波の 寄する渚に千代かけて 変わらぬ松の深みどり 心の丈を推(すい)してと いとも床(ゆか)しき其の風情

〽然(さあ)らばかねて聞き及ぶ 天女の舞を今ここで 奏(かな)で給えと進むるにぞ
〽乙女は衣着なしつつ 仮に吾妻の駿河舞

〽思ひは胸に打ち寄する 波の鼓(つづみ)のそれならで 虚空(こくう)に響く 音楽に 霓裳羽衣(げいしょう うい)の一曲(ひとかなで) 雨に潤う花の顔 連理(れんり)の枝に比翼(ひよく)の鳥 翼交わしてうらやまし

〽面白や 絶えなる香り花降りて 天の羽衣吹き返す 風に乗じて ひらひらひら 昇り行方(ゆくえ)も 白波に 霞彩(かすみ いろど)る乙女の姿 しばし止(とど)めて三保の浦

〽茂れる松の常磐津の
〽波打ち寄する岸澤の 糸に残して伝へける 糸に残して伝へける


◆現代語訳

三保の浦あたりを行く舟が風の速さにあおられ、立ち上がる荒波にあらがおうと漁師たちが声をかけあう、松原のそんなある日の朝のこと。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

「自分はこのあたりに住む、伯了という漁師でござる」
実にのどかに、朝の霞(かすみ)がたなびいております。四方を見渡してみたところ、あれ、あそこの松に美しい衣がかかっていました。さてでは、それを取って家へ帰るとしましょう。

「のう、のう、それはまさしく羽衣というもの。人の身で、簡単に手に入れることができるものではありませぬ。お返しください、お返しください、のう」

そう言うのを見てみれば、春風に吹かれてやってきたような可憐な姿が、三保の松原に降り立っています。霞(かすみ)の向こうにのぞく富士の高峰(たか みね)のように白く美しい、年端もゆかぬ顔立ちの女性です。

「さすれば貴女は天女さまでございますか、天女さまの衣とは、これは良いものを手に入れました」と、伯了はかえって喜んでしまい、返そうという意思を見せません。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

こうなっては天人も自分を羽根のない鳥のように感じ、飛んで天へ帰る道が絶えてしまったと絶望したせいで、髪に挿した花が急にしおれてしまったほど。相貌に第二の五衰(ごすい)まで顕(あらわ)れ、若葉の姿も玉露が散る寸前のように、儚(はかない)い様子になりました。

伯了はそんな天女の姿に同情し「だいぶおいたわしいご様子ですが、とは言え、衣をお返しもうしあげたら、きっとそのまま昇天なさるに違いなく、これは悩ましいことです」と、いう声を漏らします。

すると「まさか、わたくしは天津乙女なのですよ」と、天女が返します。そうして続けて言うには「たとえ住む世界が変わってしまったとしても、お互いが、お互いを慕うこころは、これからもずっと永遠に、ふたつの世界を突き抜け一筋につながっていますとも」と。

お忘れになったのですか、ふたりの出会い、恋の初めのあの衣のことを。あの羽衣をきっかけにわたくしたちは契りを結ぼうと夫婦松(めおとまつ)のように寄り添い、やがて小さな子どもの姫小松が生まれ、ふたりの恋に彩りを添えてくれたものです。

今はこうしてお別れしなければいけませんが、夢かうつつかと疑心暗鬼になりながら、ひとり寂しく手枕で寝る夜にも、七夕の夜にはカササギが、夜空に羽を重ねて天の川に橋を作り、自分はその橋を渡って行って、また再び天津乙女に遭うのだと、そのように信じてはくださいませんか。

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

自分の妻は天津乙女なのだと、そうしてまたいつの日にか抱き合い、愛し合うのだと、それを楽しみに、わたくしを待っていてはくださいませんか。

(けが)れを知らない白波の寄せる渚に千年のときが行き過ぎ、それでも変らない松の深緑のように、わたくしのこころも穢(けが)れを知らず、松の緑と同じに未来永劫こころ変わりはありません。このわたくしのこころのたけを、どうぞ察してくださいませ。そう、妻になった天女が、どうにも奥ゆかしい風情で伯了にすがります。

そうまで言うのであれば、かねて評判の、しかしわたしには一度も見せてくれていないあの天女の舞を、今ここで舞ってはくれないかと、伯了が頼みました。妻は委細承知とばかり羽衣をまとい、即興で東遊びの駿河舞を舞い始めます。

伯了のこころに、「鼓の連打かと思うほど間断なく岸へ打ち寄せる波のように、あなたへの恋の想いが、この胸に強く打ち寄せてまいります」と言う、天女のこころの声が聞こえるや、何もない空のうえに、唐の玄宗皇帝が月宮で見た仙女の舞を覚えて作曲したという、霓裳羽衣(げいしょう うい)の一節(ひとふし)が響き渡り、そのとたん疲れたように見えた天女の顔が、雨に潤う花のように再び瑞々(みずみず)しく輝きを取り戻しました。

「松廼羽衣」伯了を演じる師匠・水木歌泰先生

玄宗皇帝と楊貴妃は七夕の夜にふたりきり、「天にあっては比翼(ひよく)の鳥となり、地にあっては連理(れんり)の枝となろう」と誓ったそうでございます。飛ぶ鳥が翼を交わして睦(むつ)みあうのは、いまの境遇のわたくしには羨ましいことです。

(玄宗皇帝と楊貴妃の恋はこの世では成就せず、妃だけがひとり永遠世界へ旅立つことになりました。わたくしもいま、ひとりでそっと永遠世界へ先立ちます。天人であるわたくしですが、この五衰の末には命を落とし、やがて常磐津の松とその磯におとなう漣(さざなみ)となって、未来永劫あなたと姫小松を見守ることになるでしょう)

平成24年、水木歌澄追善 東京水木会「松廼羽衣」

不思議なことに、妻である天女が舞い進むうち天上から麗しい香りのする花が降り注ぎ、天の羽衣が風に乗って、ひらひらと空へたなびきます。天女はいまは地上への未練も忘れ、若い乙女の姿に戻ると五色の霞(かすみ)とまじわりながら風の向くまま昇天し、空の彼方へ消えてゆきました。もう、海を漂う白波のように、その行方を見ることはできません。三保の浦に、ほんのいっとき姿をとどめていた、霞(かすみ)のようなものでした。

三保の松原「羽衣の松」

(気づけば伯了の前には天女と出会う前と同じ朝霞の浜が広がり、いまも変らぬ松が、何ごともなかったかのように常盤(ときわ)の緑をたたえています)

深い緑が青々と茂る常磐津の松と
松の浜に打ち寄せる岸澤の波の物語を、
三味線の糸に写し、三味線の糸に写して、こうしてお伝えいたしました。

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五色の霞たなびく富士山の夜明け(写真です)



なんとも美しい、不思議な歌詞だと思います。文化的な重要さで言えば、もちろん謡曲「羽衣」とは比較になりませんが、物語の構成や歌詞の良さで言えば、本家をうわまわる出来とさえ、感じます。

ただ、読みようによっては、漁師・伯了が鼻薬をかがされ、うまく丸め込まれただけのようにも。。。おっと、ごにょごにょ。

※「松廼羽衣(まつのはごろも)」という踊り、の記事はこちらからどうぞ



いかがでしょう。天界へ還ってゆく天女は「してやったり」、意気揚々と駿河舞を舞うのでしょうか。それとも悲しい別れに泣き泣き、駿河舞を舞うのでしょうか。皆さまは、どう思われますか。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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