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2019年2月21日木曜日

地獄の数え歌「幻お七」鈴ヶ森刑場への道





平成19年、仙台電力ホールで踊った「幻お七」の紹介の、続きです。
※  ここが地獄の一丁目。「幻お七」という踊り、の記事はこちら
※  八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら



こちらの記事では、木村富子が書いた「幻お七」の歌詞の源流を辿(たど)ります。前の記事で取り上げたとおり、「幻お七」は「櫓(やぐら)お七」の簡易版でも、改悪版でもないからです。

「櫓(やぐら)お七」は名刀・天国の剣(あまくにのつるぎ)を取り巻く架空の冒険譚がもとの舞踊です。いっぽう「幻お七」は井原西鶴(1642~1943年、浮世草子・浄瑠璃作者)「好色五人女」と「(通称)八百屋お七からくり口上(からくり芝居の口上)」を参考にした(と言われている)、写実舞踊です。


ですので、あえて周知の「八百屋お七」の物語を、実際の「好色五人女」と「(通称)八百屋お七からくり口上」から紹介させていただきます。ただし「(通称)八百屋お七からくり口上」は本物を記した資料が見つからず、瓦版(かわらばん)口上に写されたものを利用します。ご了承ください。

なお「傀儡師(かいらいし)」という踊りでは、「八百屋お七と寺小姓吉三」「牛若丸と浄瑠璃姫」「平知盛(たいらの とももり)と武蔵坊弁慶」の物語が登場します。傀儡師(かいらいし)たちが人形を廻し(舞わす、の意味)ながら唄ったのは、浄瑠璃姫は当然「十二段草紙」、平知盛は「船弁慶」です。そうして「八百屋お七」は、からくり人形の口上へそのまま引き継がれたと言われています。ですからここでご紹介する「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」が、傀儡師(かいらいし)たちが人形を廻しながら唄った唄そのものです。

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」





ところで井原西鶴「好色五人女」の刊行は貞享3年(1686)、それと前後して「天和笑委集(てんな しょういしゅう、作者不明、1684~1688年成立)」という伝記本が世に出ています。井原西鶴がこれを参考にしたかどうかは、わかっていません。「天和笑委集」は「好色五人女」とは内容がだいぶ違ううえ、物語仕立てになっているものの、まったくおもしろくありません。

史実として信頼できる記録は、五代将軍綱吉の治世を記録しようとした官吏・戸田茂睡(とだもすい)「御当代記(ごとうだいき)」に、「放火の罪で処刑された、お七という娘がいた」と書いてあるのがすべてです。




////// 井原西鶴「好色五人女」お七と吉三郎の、恋の始まり

吉三郎さまなら、今まで俺と足を絡めて寝ていたさ。その証拠がこれよ、と、起きて来た小坊主の新吉がお七の前で袂(たもと)をひらひらさせる。新吉の袂(たもと)から、白菊という香の薫りが漂(ただよ)った。この小坊主をどうしたものかと、お七が悩みながら寝間に入ると、続いて入ってきた新吉が「はぁ、お七さまが良いことしようとしている」と、声をたてた。

お七は振り返り「お黙り。何でも欲しい物をあげるよ」と。新吉は「そんなら銭八十と、松葉屋の歌留多(かるた)、浅草の米饅頭(よねまんじゅう)五つが欲しい」と言う。「そんな容易(たやす)いもの、明日にでも届けてやるさ」、そう約束してやると新吉は布団に入り「夜が明けたら、三品目を必ず受け取るぞ」「必ず三品目を」と、ぶつぶつ言いながら寝入ってしまった。

絵草紙・手習いお七

これで何をしようと自由になったので、お七は吉三郎の寝姿に寄り沿い、何も言わず抱きついた。吉三郎は夢から醒めて身を震わせ、夜着(やぎ)の袂(たもと)を被って顔を隠した。それを手で払い除(の)け、「髪が乱れる」と、お七が吉三郎を叱る。吉三郎はせつなそうな声で「わたくしは、十六(数えなので実際には十五)になります」と言う。お七は「わたくしも、十六(同)になります」と返した。吉三郎はさらに「長老さま(寺の住職)が、こわいのです」と言ったので、お七も「わたくしも、長老さま(同)はこわいです」と返す。なんとも、もどかしい恋の始まりだった。




////// 井原西鶴「好色五人女」恋に生命(いのち)をかけた吉三郎

井原西鶴の、「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」本文の一部を紹介しました。ふたりはこのあと、ぎこちなく情を交わし、お七はやがて再建された実家へ帰ります。

お七は江戸・本郷駒込の八百屋の娘で、天和2 (1682) 年の江戸の大火で寺に非難した際、寺小姓の吉三郎を見初めます。きっかけは暮れかかった寺の縁側で、ひとさし指に刺さった小さな棘を抜くのに難儀している吉三郎を気の毒がり、お七の母親が「手伝ってあげなさい」と、言いつけたことでした。

絵草紙・挿花の吉三郎

お七が実家へ帰ったあと、ふたりは手紙の遣り取りで胸のうちを伝えあいます。ある日、吉三郎は田舎の物売に身をやつし、お七の実家を訪ねて来ました。ところがこの日は雪が降り止まず、物売だと思われ庭先に置いておかれた吉三郎はお七の家で凍死寸前になってしまいます。下女の知らせで見に行ったお七は物売の正体が吉三郎と気がついて驚愕、両親の目を盗み自室へ運び込んで看病します。襖一枚へだてた先に両親が寝ているため、ふたりは硯と筆とで夜どおし語りあい、明け方には別れなければいけません。

お七恋しさに吉三郎がとったこの大胆な行動が、地獄の道行きの始まりでした。吉三郎の気持ちに応えようと、お七は自分もさらに大胆になろうと奮起するのです。

井原西鶴は段の終わりにこう書きます。
****************
浮世草子「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」(雪の夜の情宿)
又もなき恋が余りて さりとては物憂き世や

[現代語訳]
唯一無二の恋が(お七の胸に)溢れてくる。そうはいっても、いろいろ難しい世の中の決まりごとがあるのだ。
****************


ところが、その後吉三郎の手紙は途絶えます。実は吉三郎は凍死寸前になったせいで、寺へ帰ったあと高熱にうなされ長患(ながわずら)いをするのです。来ない便りを待つあいだ、お七は自分を「女心の墓場」だと感じ始めます。


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

やがてある風の強い日の夕暮れ、お七はふと、みんなが寺を目指して逃げていた火事の光景を思い出しました。そして小さな火煙が上がります。人々が駆けつけると、そこにいたのはお七でした。「好色五人女」では、このあいだ何ひとつ説明がありません。




////// 「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」放火まで

◆原文
かわい吉三にあわりょうかと 娘ごころの頑是(がんぜ)なく
炬燵(こたつ)の熾(おき)を二つ三つ 小袖の小褄(こづま)にちょいと包み
隣知らずの箱梯子 ひと桁(けた)昇りて ほろと泣き
ふた桁(けた)昇りて ほろと泣き
三桁(みけた)四桁(よけた)と昇りつめ これが地獄の数え歌
ちょいと投げたる まごびさし
(たれ)も彼もが 知るまいとは思えど
天知(てんし)る地知(ぢし)るの道(どおり)にて

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

◆現代語訳
愛しい吉三郎さまに遭えるだろうかと、
何もわからない、子どもじみた娘ごころが高じて。
炬燵の熾(おき)を二つ三つ、小袖の褄(つま)に包んで持って、
隣の家の箱梯子を、知られないようこっそり掛ける。
ひと桁(けた)昇っては、ほろりと泣き、
ふた桁(けた)昇っては、ほろりと泣く。
三桁(みけた)四桁(よけた)と昇りつめたが、
これはまるで地獄の数え歌だ。
そうして熾(おき)を、隣の家の庇(ひさし)の中の庇(ひさし)へちょいと投げた。
近所の者は気づいたろうが、
そんな些細な罪を、誰も彼もが気づくわけはないと思ったのに。
しかし天は知る、地は知る、道理というものが、
この世にはあるのだ。




////// 井原西鶴「好色五人女」放火のあと

放火でかけつけた人々が問うと、お七は慌てる風もなく「自分が火をつけた」と白状します。その後、今日は神田、または四谷、または浅草、または日本橋と、お七は晒(さら)されて歩き、集まった見物の涙を誘います。

両親が手配したものか、髪は毎日結いなおされ、以前と同じ見目(みめ)麗しい姿です。一月(旧暦)の初め、最期だからと見物人が桜の枝を持たせると「世の哀れ 春吹く風に名を残し 遅れ桜の けふ散りし身は(春吹く風のせいで遅れ桜のように今日みだれ散ったこの身は、浮世の人にはさぞや哀れに見えることでしょうね)」と詠み、鈴ヶ森から旅立ちました。品川のあたり一帯、路地に火あぶりの煙の届かないところはなく、いっそう哀れに感じさせたと書かれます。


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」



////// 「八百屋お七小姓の吉三からくり口上」放火のあとの、お七

◆原文
江戸橋越えて四日市 日本橋へと引き出(いだ)
是非もなく中橋(なかばし) 京橋を過ぎればもはや程(ほど)もなく
田町(たまち)九丁は夢うつつ 最期は近寄る 車橋(くるまばし)
高輪(たかなわ)十八丁の其の先が 七つ八つや 右に見て
品川おもてになりぬれば 品川おもての女郎衆(じょろしゅう)
あれが八百屋お七かえ うりざね顔で 色白で あのもみあげの美しさ
吉三が かっ惚(ぽ)れたのも無理はない
ここがおさめの泪橋(なみだばし) 鈴ヶ森にぞ着きにける
お江戸を離れた仕置き場 仕置き場
四町四方(よんちょうしほう)に矢来(やらい)をしつらいで
中に立てたる角柱(かくばしら)
かわいいお七を縛り上げ 見るも哀れな其の中へ
数多(あまた)の見物押しのけて 久兵衛夫婦はかけ来たり
これこれお七 これ娘 この世でひとめ遭いたさに 杖にすがって
あいに言い置くことがあるならば 息あるうちに言ふてくれ
これのぅお七と言う声も そらに知られぬ曇り声
わっと泣いたる ひと声が
妙法蓮華経 南無阿弥陀仏と無常の煙と立ち昇れば
ここが親子の名残 哀れやこの世の見納め

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

◆現代語訳

江戸橋を越えて四日市(日本橋と江戸橋のあいだ)へ。
日本橋へ至って、そのまま中橋(なかばし)へ行き、
京橋を過ぎればもう廻るべきところはない。
田町(たまち)九丁(田町九丁目は現在の港区江南2丁目あたり)は夢うつつに通り過ぎ、
最期までもう間がないとわかる、
車町(くるまちょう、現在の泉岳寺のあたり「芝車町」)の入り口・車橋(くるまばしが目に入る。
高輪十八丁の先を、七丁か八丁行ったところで
高輪を右に見て曲がり、品川おもてへ出たところ、
品川女郎衆が
あれが八百屋お七かえ、うりざね顔で、色白で、
あのもみあげの美しさをご覧よ、とざわめいた、
吉三郎が、かっ惚(ぽ)れたのも、そりゃあ無理はないやねぇと。
ここがこの世の終わりの泪橋(なみだばし)、鈴ヶ森に着いたのだ。
鈴ヶ森はお江戸を離れた仕置き場なのだ、仕置き場さ。
見物を離すため四町四方(よんちょうしほう)に矢来(やらい)を掛けまわし、
その中心に角柱(かくばしら)が立ててある。
与力が見守り獄卒たちが可愛いお七を縛り上げると、
見るも哀れ、その中へと引きずってゆく。
すると数多(あまた)の見物を押しのけ、お七の親の久兵衛夫婦がかけ寄った。
お七、これ我が娘よ。この世でひとめ遭いたさに、杖にすがって来たのだぞ。
わしに言い置くことがあるなら、息あるうちに言ってくれ。
これのぅお七と言う声も、役人に聞こえないよう、くもり声だ。
見物には久兵衛が、わっと泣いたそのひと声だけが耳に入ったことだろう。
妙法蓮華経。南無阿弥陀仏。お七は無常の煙になり、空高く立ち昇った。
これが親子の名残だった。
哀れなことだが、お七にとってはこの世の見納めだったのだ。


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」



////// 井原西鶴「好色五人女」放火のあとの、吉三郎

お七が投獄されたことを、吉三郎は知らず高熱にうなされていました。寺ではお七恋しさゆえの病(やまい)、恋わずらいという診断でした。お七の両親が駆けつけ、吉三郎に遭いたいと言うのですが、病室を覗くと可哀そうになり、そのまま帰ってしまいます。お七が死ぬと吉三郎のいる寺で回向(えこう)が行われますが、吉三郎は「手紙は届いていないか」「お七に遭いたい」とうわごとを言うばかりです。吉三郎が布団から起き上がれるようになった時には、すでにお七が死んで百ヵ日が過ぎていました。

寺では吉三郎にお七のことを教えませんが、吉三郎は杖をついて寺の庭を散歩し、真新しい卒塔婆を見つけてその名を読むと、脇差を抜いて死のうとします。それを同輩の僧が止め「死ぬつもりならば、まずは長老さまに暇乞(いとまごい)すべき」と諌(いさ)めます。その後お七の両親が呼ばれ、お七の遺言が伝えられます。

「吉三郎様まことの情あらば、浮世棄てさせ給い、いかなる出家にもなり給いて、かくなり行く跡を訪(と)わせ給いなば、いかばかり忘れ置くまじき。二世までの縁は朽ちまじ」と。つまり「わたくしに情があれば、浮世を棄てて出家してください。そうしてわたくしの菩提を弔ってください。そのようにしていただいたなら、わたくしもけっして吉三郎さまを忘れません。生まれ変わって、またお会いしましょうね(はあと♥)」と、いうものでした。

錦絵・櫓お七



//////「幻お七」歌詞(抜粋)

◆原文
夢の浮世にめぐり逢い おもい合(お)うたる その人の
おもかげ恋し 人恋し 逢いたや見たやと 娘気の

「おお お前は吉さま」

狂い乱れて降る雪に それかあらぬか 面影の
かしこに立てば そなたへ走り ふっと見上げる櫓(やぐら)の太鼓

「あれあれ 吉さまを連れて何処へ」
「ええ 憎い恋知らず 返しゃ 戻しゃ」

打つやうつつか幻を 慕(しと)う梯子の 踏みどさえ
一足づつに 消ゆる身の
(はて)は紅蓮(ぐれん)の氷道(こおりみち)
危うかりける次第なり

平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」

◆現代語訳
確かなものなどない人の世にもかかわらず、
夢のように出会いが叶い、
相愛となることができた、その人の
おもかげが恋しい、その人が恋しい、逢いたい、見たい、
その娘ごころを、わかってください。

「おお、そこにいるお前は、吉さまではないか」

さてもこうして、狂い乱れるように降る雪のなか、
あるかないか、わからないほど微(かす)かな面影が、
お七の目には見えている。
幻影がそちらへ立ったと見ると、そちらへ走り寄り、
ふっと見上げたところ、そこに火の見櫓の太鼓があった。

「あれあれ、吉さまを連れて何処へ行くのじゃ」
「ええ、憎い奴め。わたしたちの恋を知らず、邪魔をするか。吉さまを返せ、戻せ」

お七は邪魔者を打とうとするのだが、
それが現(うつつ)か幻(まぼろし)か、もう、わからない。
吉三郎を慕って昇る梯子の踏み板は、ひと足ごとの死への道行き。
その果てに紅蓮地獄(ぐれんじごく)の待ち受ける、氷の道なのだけれど。
お七が危うい道へ踏み込んだのは、こういう事情だったので、ございますよ。

//////


平成19年、仙台電力ホール、歌泰会「幻お七」


「好色五人女」にも「(通称)八百屋お七からくり口上」にも火の見櫓(やぐら)は登場せず、お七が半鐘(はんしょう)を叩くエピソードは出てきません。ですが演出上の効果を考えれば、「火の見櫓」を出す程度のファンタジーは仕方がないと感じます。

ちょっと隣家の箱梯子を借りて登り、隣の家の庇(ひさし)の上にちょこちょこっと炬燵の熾(おき)を撒いたところ折からの雪でジュッと消える、では、舞台が成立しないです。コントであれば、やってみたいと思いますが(笑)

※  ここが地獄の一丁目。「幻お七」という踊り、の記事はこちら
※  八百屋お七、地獄の便り。「幻お七」全訳、の記事はこちら





研究書ではないので史実は気にせず、演目の作者が参考にしたと言われる物語だけを追ってみました。演じるときの、お七の心情を理解する参考になれば嬉しく存じます。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年2月9日土曜日

傀儡師よ永遠に。清元「傀儡師(かいらいし)」全訳





平成10年、仙台電力ホール「歌泰会」で踊った「傀儡師(かいらいし)」という踊りの紹介の、続きの続きです(いつも、すみません、、、)。

「傀儡師(かいらいし)」という踊り、の記事はこちら
  清元「傀儡師(かいらいし)」の原型、浮世化傀儡師と外記傀儡師、の記事はこちら







////// 舞踊の歴史と概要

文政7年(1824)9月、江戸・市村座において3代目 坂東三津五郎が初演した三変化舞踊です。「三変化舞踊」であること、「坂東三津五郎」であること、「大和屋」の紋が「三つ紋」であることを珍しがって、まず「三つの杯」が付き、作曲・初代 清元延寿太夫の「延寿斎」名乗りあげを祝う意味で「また新しく~」と、命名されました。

■本名代(ほんなだい)
「復新三組盃(またあたらしく みつの さかずき)」

■三変化■
(1) 長唄「傾城」
(2) 清元「大山参り」
(3) 長唄・清元「傀儡師(かいらいし)

演目上の三変化の内容は上記のとおりですが、舞踊のテーマも「お七と吉三」「牛若丸と浄瑠璃姫」「知盛と弁慶」と、三変化します。下半身が男で上半身が女という、一風変った振付を出すこともあります。

■作曲■
初代 清元斎兵衛(生没年不詳、初代 清元延寿太夫、初代 延寿斎

■作詞■
2代目 桜田治助(1768~1829)

■振付■
松本五郎市(生没年不詳)

邦楽年表によると、終幕に「雀踊(すずめおどり)」があったかのように書かれています。「雀踊」とは「竹に雀」の着物で奴姿(やっこすがた)になって編み笠を被り、大人数で踊ったものを言うようです。傀儡師の大道芸では終幕に山猫が出るはずのところ、この舞踊が「雀追わえて」で終わるのは、あとに「雀踊」が予定されていたからだそうです。

絵草紙・傀儡師のお人形

このときの「雀踊」は、現在よく知られている長唄「雀踊」(歌詞に「成駒」が唄い込まれている)とは違います。「花の三組色まして」という一節が出てくる新作で、出演者みんなで踊り、「延寿斎」をお祝いしたようです。

本来の傀儡師の出し物としては、箱鼓か大鼓小鼓を打ったあとで唐人風の衣装の人形を出して「唐人踊(とうじんおどり)」を舞わせ、そのあと平知盛(たいらの とももり)などの人形で芝居を観せ、最後に木製のカシラに布を張った本物そっくりの「山猫」の人形をヌッと出し見物の子どもたちを驚かせる、という構成でした。





////// 考察・傀儡師(かいらいし)と竹田からくり芝居

竹田近江(阿波の国出身のからくり師、生年不詳~1704年)は阿波の国の出身ですが、江戸に在住していたときに、からくりの仕組みを思いつき、京都・大阪で成功しました。からくり人形で興行を打ちましたが、直接人形浄瑠璃を演じたわけではありません。竹田のからくり芝居では、茶入れ人形や曲芸をする人形を見せたようです。

その次男の竹田出雲(生年不詳~1747年)が人形浄瑠璃の貢献者であり、竹本義太夫から竹本座の座本を譲り受けると、みずから戯作者ともなり、天才戯作者・近松門左衛門(1653~1725年、武門の生まれ)と共同で興行を打って大成功を収めました。いっぽう竹本座から脱退した豊竹若太夫(1681~1764年)が作ったのが豊竹座で、ここにも天才戯作者・紀海音(きのかいおん、1663~1742年)がいました。「二人椀久」のもとになった浄瑠璃「椀久末の松山」作者です。

竹本・豊竹、両座は次々と名作を発表し人形浄瑠璃は全盛期を迎えます。しかしやがて歌舞伎人気に押されて衰退、幕末頃に登場した文楽座に全部、呑み込まれました。昭和38年(1963)、松竹(1909年に文楽座の要請により興行権を取得)が文楽座の興行権を放棄、現在は国や自治体・企業の支援を受け人形浄瑠璃の上演を続けています。

いっぽう街頭ではどうかというと、「覗きからくり(首から下げられた箱の中で、からくり人形が動く)」を観せる香具師は明治頃まで残った(「瓦版のはやり唄」八百屋お七からくり口上)ようですが、唄いながら手で人形を廻す(舞わす、の意味)傀儡師は、江戸時代には消えたと言われます。

享和3年(1803)に書かれた「異本後昔物語」という本では、「明和安永の頃迄ありて其の後絶えたるもの」「今なくなりし物」として「傀儡師、すたすた坊主、地紙売、木綿の高荷(たかに)、帷子(かたびら)(以下、省略)」が挙げられます。明和は1764~1772年、安永は1772~1781年です。

絵草紙・からくり人形に唄をつける傀儡師




////// 演目に取り込まれた「お七と吉三」の物語

お七は江戸・本郷駒込の八百屋の娘、天和2 (1682) 年の江戸の大火で寺に非難した際、寺小姓を見初(そ)めて恋をし、家に帰ったあと再会を願って放火、みずから火事の半鐘(はんしょう)を鳴らした罪により天和3年(1683)、江戸・鈴ヶ森刑場(東京都品川区)で火あぶりになったと伝わります。実際の処刑や事件の記録はなく、お七は実在か架空か研究者のあいだで意見が分かれます。なお、お七の恋の相手の寺小姓は「吉三郎」か「吉三」になることが多いものの、作品によってまったく違います。

お七吉三の段には「チョボクレ坊主」が登場します。「チョボクレ」は小さい木魚を打ち鳴らして歩いた、江戸の昔の回遊こつじき坊主が歌う、猥雑な唄のことです。ちなみに、清元「傀儡師」でチョボクレを披露する「弁長」は、九州で念仏を広めた浄土宗の「弁長(1162~1238年)」さんではありません。こちらはたいへん有名な念仏坊主であったため、名前を使い回されたようです。

清元「傀儡師」に出てくるチョボクレ坊主「弁長」の正体は、安永2年(1773)に大阪の芝居小屋で初演された人形浄瑠璃「櫓(やぐら)のお七(「伊達娘恋緋鹿子」だてむすめ こいの ひがのこ)」、「吉祥院お土砂(どしゃ)の場」で八百屋お七を助ける「紅屋長兵衛(通称が「べんちょう」)」という登場人物です。

ただし「三人吉三」という芝居でも、お坊吉三(おぼうきちさ)の寺小姓時代の名前が「弁長」です。ですので前述のとおり、お坊さんの名前として芝居ではよく耳にする、使いまわしの名前です。

錦絵・櫓お七




////// 演目に取り込まれた「浄瑠璃姫」の物語

三河の国司・源中納言兼高(みなもとの ちゅうなごん かねたか)と矢作宿(やはぎの やど)の長者夫婦には子どもがなく、鳳来寺の薬師瑠光如来(やくし るりこう にょらい)へ祈願して浄瑠璃姫(じょうるり ひめ)を授かりました。源氏の御曹司・牛若丸(のちの源義経)は幽閉されていた鞍馬山を抜け出し、藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼り奥州平泉へ向かいますが、途中、矢作(やはぎ)の長者の宿に泊まり、琴を弾く長者の姫に惹かれて一夜の契りを交わします。その後再び旅立った牛若丸でしたが、旅の疲れで重い病に臥せ、吹上の浜で亡くなりました。しかし悪い予感で駆けつけた浄瑠璃姫が介抱し、牛若丸は生き返ります。ふたりは再び契りを交わし、浄瑠璃姫は天狗の羽に乗せられて矢作宿(やはぎの やど)へ帰り、牛若丸は旅を続け、無事奥州へ到着します。

以上が「十二段草紙」「浄瑠璃十二段」という、浄瑠璃本に書かれた浄瑠璃姫の物語です。矢作の伝説はここから幾つか分岐し、浄瑠璃姫がその後すぐ死んで平家討伐のため再度矢作を通りかかった源義経(牛若丸)に菩提を弔われる物語と、衣川の戦いでの源義経自害の知らせを聞いた浄瑠璃姫が矢作川(やはぎがわ、矢矧とも書く)に身を投げて死ぬ物語などが存在します。一中節の「源氏十二段 浄瑠璃供養」や河東節「浄瑠璃供養(一中節とのかけあい)」は、姫が先に死に、源義経が弔いごとをするパターンにあたります。

矢作の宿へ帰った浄瑠璃姫ですが、御曹司・牛若丸と情を交わしたことが母の長者に理解されずに家を追われ、自分の生まれの由来である鳳来寺を頼って住みつくと、ほどなく死んでしまいます。三年後平家討伐の軍勢を率い上京する途中、矢作宿(やはぎの やど)へ立ち寄った源義経は、浄瑠璃姫の死を知り鳳来寺を訪ねます。御曹司が供養を始めるや墓は三度揺れて五輪の輪が三つに砕け、一つは御曹司の右の袂(たもと)へ飛び込み、一つは金色に光りながら空へ飛び去り、最後の一つは墓の印になって浄瑠璃姫成仏が暗喩されます。

前の記事で、「袂(たもと)の玉」が「仏の慈悲」の象徴であるという話を書きました。「袂(たもと)の玉」は、浄瑠璃にとっては原点的なモチーフのひとつです。


絵蔵氏・浄瑠璃姫と牛若丸




////// 「平知盛(たいらの とももり)」の物語

平知盛(1152~1185年)は実在の人物で、伊勢平氏の総領・平清盛(1118~1181年)の4男です。文武両道にひいでたせいか、九条兼実(生没年不詳、平安時代末期~鎌倉時代初期)の日記「玉葉」には「入道相国(平清盛)最愛の息子」と書かれています。ところで平氏は源平の戦いでは、源氏や後白河法王による和睦の要請を執拗に拒否し、国母(こくぼ)である平徳子とその子・安徳天皇を宮中から秘かに連れ出すと、三種の神器と一緒に人質として合戦に同道、宮中からの再三にわたる返還要求も跳ねつけ、最後にはすべてを海中に沈める暴挙を行います。

なかでも壇ノ浦の戦い(1185年)における愚行はひどく、そこでは安徳天皇は死ぬ必要はまったくありませんでした。海に身を投げ姫鯛に変身したという哀れな伝説を残す官女たちも、本当は死ぬ必要はなかったのです。死なせたのは平知盛です。

平知盛は壇ノ浦の戦いで敗戦がはっきりすると御所の方々の船へ乗り移り、「見苦しい物を残すな、みな海へ投げ入れろ」と呼びかけながら手ずから清掃をはじめます。それを見た官女たちが戦況を問うや「まもなく珍しい東男(あずまおとこ)というものを、ご覧になれることでしょう」と、からから笑いました。宮中からの迎えの輿を受け入れるつもりのないことが、こうして御所の人々に知れるのです。敵軍に直接あいまみえるということは、見苦しい最期を予想させます。

官女たちはいっせいに「何故、こんなときにそのような冗談を言うのですか」と喚きちらし、それを見ていた知盛の母で清盛の妻、安徳天皇にとっては祖母にあたる「二位の尼(にいのあま)」は「敵の手にはかかるまじ」と、安徳天皇を抱いて入水します。そのあとを安徳天皇の母・徳子が続き、官女たちも次々海へ飛び込みました。知盛の言う「見苦しいもの」とは、人質である御所の方々そのものだったのでしょうか。

その後しばらく奮戦したのち、家来に手伝わせて鎧(よろい)を二重に着込み、もしくは舟の碇(いかり)を体にしばりつけ「見るべきものは見つ(この世で見る価値のあるものは、すべて見てしまったから)」と、平知盛も海に身を投げました。そりゃあ、お前はそうかも知れないが。

錦絵・弁慶と知盛と牛若丸

「水の底にある竜宮城へ行きましょうね」と言い聞かされて入水する安徳帝の最期の様子と、助けられ尼となったあと「まさか、安徳帝が死ぬとまで思わず、狼狽したあまり死にそこねた」と泣く建礼門院(けんれいもんいん)・徳子の悲嘆ぶり(「平家物語」)は、その無残さゆえに今でも読む人の胸を深くえぐります。

「見るべきものは見つ」と言ったわりに物語世界では、平知盛は源義経(御曹司・牛若丸)か武蔵坊弁慶が出れば知盛幽霊も出るという、うっとうしいことこの上ない、義経主従のストーカーになりました。

伊勢平氏は滅びましたが、その他の平氏は政権中枢に残留したため、源平合戦後、平知盛は英雄視されました。同様に兄・源頼朝によって理不尽に失脚させられた源義経も、反・源氏勢力から非常に英雄視されました。ところが、朝廷からの直接の要請で戦闘した源義経と違い、平知盛は明らかに朝敵です。為政者(いせいしゃ)による知盛礼賛に合点のゆかない民衆の戸惑いが、颯爽と登場する悲劇の英雄・源義経と、そのあとを執拗に追いまわしては毎回容易(たやす)く撃退される平知盛の幽霊という、どこか滑稽な物語パターンを作らせたのかも知れません。

ちなみに清元「傀儡師」では、謡曲「船弁慶」の一節を軽妙な駄洒落で取り込みます。

◆清元「傀儡師」による「船弁慶」の駄洒落
打ち物業(うちもの わざ)にて叶うまじと ⇒ 吸物(すいもの)(わん)にて叶うまじと


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-観世信光(かんぜのぶみつ、1435もしくは1450~1516)作・謡曲「船弁慶」-
兄・源頼朝に忠義心を疑われ、東国へ落ちてゆこうとする源義経一行の船の前に、平知盛の幽霊がたちはだかります。義経は落ち着いて刀を抜くと、生きている相手にするように声を掛け太刀(たち)を合わせますが、従者である武蔵坊弁慶がそれを押し止(とど)め、「相手は怨霊なのだから、刀などでは叶うまい」と、数珠(じゅず)を出して読経し知盛の霊をしりぞけます。

[シテ]
そもそもこれは、桓武天皇九代の後胤(こうえい)、平知盛、幽霊なり。
ああら珍しや、いかに義経。

[地謡]
その時義経少しも騒がず。打ち物抜き持ち、現(うつつ)の人に向こうが如く。言葉を交わし戦い給(たま)えば弁慶押し隔(へだ)て、打ち物業(うちもの わざ)にて叶うまじと。数珠(じゅず)さらさらと押し揉んで。
****************

錦絵・平知盛の幽霊




////// 「唐人踊(とうじんおどり)」の歌詞

首から箱を下げ、人形を廻して歩く傀儡師の演目の始まりは「唐人踊」というものでした。これは長崎に発し江戸で流行った「かんかん踊り(別名「唐人踊」)」という「清楽(しんがく)」だそうです。清国の言葉を日本風の発音で唄っているらしいのですが、まったく意味がわかりません。「唐人歌」というものもあるのですが、意味のわからなさは同じです。

清元「傀儡師」に取り込まれてますので、念のため紹介させていただきます。なお、訳はつけません。まったく読めませんので(笑)


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-唐人踊(とうじんおどり、成立年不詳)「松の落葉集」-

いきにていきにて すいちゃえんちゃ
すいちゃすいふいちやういさらこわいめさはんやさそうわそうわ
ううちたるまたひさらきこいさらこわめさはんやさそうわそうわ
うあううあう

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ただし歌詞の「すいやい」以降は、日本語を唐人歌風に洒落ただけのように見えます。
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-清元「傀儡師」-
すいやい すいやい すいやい
みんちやぁ うつうなや

[音を頼りに、普通の日本語に変えてみる]
酔よ、酔よ、酔よ。
みな、現実(うつつ)なや。
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////// 清元「傀儡師(かいらいし)」歌詞、全現代語訳

◆原文
蓬莱(ほうらい)の島は目出度い島での
黄金桝(こがね ます)にて米はかる
(しゃ)のしゃの袴(はかま) 紗(しゃ)の袴よの
竹田のむかしはやしごと 誰(た)が今知らん傀儡師(かいらいし)
阿波の鳴門を 小唄とは
晋子(しんし)が吟(ぎん)の風流や 古き合点(がてん)でそのままに


平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

小倉の野辺の一本芒(ひともと すすき)
いつか穂に出て尾花とならば 露(つゆ)が嫉(ねた)まん恋草や
恋ぞ積りて渕(ふち)となる 渕(ふち)ぢゃごんせぬ花嫁に 仲人を入れて祝言も
四海波風(しかい なみかぜ)穏やかに 下戸(げこ)の振(ふり)して口きかず

物もよく縫い機(はた)も織り 心よさそなかみさまの 三人もちし子宝の
総領息子(そうりょうむすこ)は親に似て
色と名がつきゃ夜鷹でも ごぜでも巫女でも市子でも
可愛いかわいが落合うて 女に憂身(うきみ)やつしごと
二番息子は堅造(かたぞう)で ぽきぽき折れるとげ茨(いばら)
三番息子は色白で お寺小姓にやり梅の 吉三と名をも夕日かげ

それとお七はうしろから 見る目可愛き水仙の
初に根締(ねじめ)のうれしさに恋という字の書初を 湯島にかけし筆つばな
八百屋万の神さんに 堅く誓いし縁結び 必ずやいの寄添えば
そこらへひょっくり弁長が いよいよ 色のみばえだち 差合くらずにやってくりょ

やれェどらがにょらい
やれやれやれやれ おぼくれちょんがれちょ
そこらでちょっくらちょっと聞いてもくんねェ
嘘ぢゃござらぬ 本郷辺りの八百屋のお娘が
十六ささげになんねえ先から
末は芽うどに 奈良漬なんぞと 胡麻せた固めを
松露(しょうろ)のしるしに きしょうが書いたり 小指を胡瓜ゃ
さりとはさりとは うるせえこんだに
奇妙頂礼(きみょう ちょうらい)どら娘 これはさておき

既に源氏のおん大将 御曹子にてまします頃
長者が姫と語らいも 小男鹿(さおじか)ならで笛による
想夫連理(そうふ れんり)の恋すちょう
惜しあかつきのかごとにも
矢矧(やはぎ)の橋は長けれど 逢(お)うたその夜の短かさよ
よいよいよいよい

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

よいやさ よいやさおのこ
敵と数度(すど)の戦いに 勝どきあげくに大物(だいもつ)
恨みつらみも波の上

そもそもこれは 桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい)
平の知盛幽霊なり
アラ珍らしや如何(いか)に どうでェ義公(よしこう)
娑婆(しゃば)以来

馴染の弁州伊勢駿河 早く盃さぁさし汐(しお)
吸物(すいもの)(わん)にて叶うまじと
浮いて散らして拍子どり

すいてうえいちや すいてうえいちや すいやい すいやい
すいやい みんちやぁ うつうなや

やつちゃ子どもよ 振鼓(ふり つづみ)
そこで仲よう 遊べさ
花が見たくばのう それそれ吉野へごされ
それや嘘 何んの今頃花があろ
いえいな 咲きます六ツの花
それやそれや それやそれや ほんかいな
木ごとにえ 見事にえ 景色よし野の花と雪 面白や

眺めありおう箱鼓(はこつづみ) とりどり なれや鳥篭(とりかご)
(かわ)ればぱっと忽(ただ)ちに すずめ追わえて慕いゆく
すずめ追わえて慕いゆく


平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」


◆現代語訳

蓬莱の島はめでたい山でのう、
黄金の枡(ます)を使って、米を計る豪気なところ。
住む人々は高価な紗(しゃ)の袴をはいて。
(しゃ)の袴をはいてのう。
これはそのむかし、竹田のからくり芝居のお囃子(はやし)に唄われたもの。
今となっては、いったい誰が傀儡師を覚えてくれているのやら。
「傀儡師 阿波の鳴門(なると)を 小うたかな」とは、
其角(ごかく、1661~1707年)が詠んだ俳句だが。
阿波の国生まれの竹田近江(たけだおうみ)が、小唄のもとだと言いたいのだ。
古いことでもあるし、うん、まぁ、そういうことにしておこうか。

物語の始まりは京の小倉の野辺に住む、
ススキのような端女(はしため)から。
いまは一人ぽっちのススキも、いつか大人になって恋をする。
ひそかに慕っていた露は、
そんな恋草になったススキを妬(ねた)ましいと思うほど。
恋が積もり積もって淵(ふち)から溢れるほどになると、
想いの淵(ふち)が、淵じゃなくなって花になった、
(思いの淵 ⇒ 淵と桜 ⇒ 想いの淵と花嫁、という連想唄に見えます)
つまりはススキが、露の花嫁に迎えられたのだ。
祝言では仲人が「四海波(しかい なみ)静かに」と、
高砂(たかさご)を謳って祝ったものだ。
花嫁は緊張のあまり酒も呑まず、
口もきけないありさまだったとか。

この嫁さんは縫い物が上手で機(はた)も織る、
心も綺麗な神さまのような人でのう。
そうして三人の子宝に恵まれたのだが、
跡取り息子は親に似て、
女と見れば遊女舟あやつる夜鷹だろうが、
目の見えない娘浄瑠璃の旅芸人だろうが、
神社の巫女だろうが、あやしげな回遊潮来(いたこ)だろうが、
かわいい、かわいそう、などと言って
隠れて遭(あ)っては女のことでやきもきし、
世間に公然とできない隠しごとに、その身を削っている。
二番目息子は堅物で、茨(いばら)の棘(とげ)のような男。
三番目息子は色白に生まれ、
寺小姓に売られて梅の花のように扱われ、
その名も「吉三」などと、夕日の日陰者のような、
生白い優男(やさおとこ)に育っちまった。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

そんな吉三を、お七がどこかで見初(みそ)めたのさ。
小さく可憐な水仙に、初めて根締(ねじめ)をするようなもの。
恋しさがどんどん根っこに染み込み、
湯島天神さまへ奉納する書初めに、
お七はつたない文字で「恋」と書いたほどだった。
八百屋だけに、やおよろずの神さまに、縁結びを堅く誓ったわけだ。
必ず、寄り添ってみせると息巻くところへ弁長が現われ、
お嬢さん、色に目覚めたんでやしょうが、
しくじらないようやってくんな、と。

やいこら、どら如来、
やれやれやれやれ、おぼくれちょんがれちょ。
そこらでちょっくらちょっと聞いてもくんねェ。
嘘じゃありませんぜ、本郷あたりの八百屋のお嬢が、
十六にもなんねぇうちから
「末は夫婦(めおと)になりたい」なんぞ、ませた口をね。
約束のあかしだと言って起請文を書いたり、小指を切って捧げたり。
吉三にはさぞや、うるせえことだろうよ。
奇妙などら娘だよ。まぁ、それはさておきさ。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

いまでは源氏の御大将(おんたいしょう)
それがまだまだ御曹司であらしゃった昔のこと。
長者の姫と恋を語ったのさ、
狩人(かりうど)が小男鹿(さおじか)を釣(つ)るように、
笛の音(ね)でもってお姫さまを誘い出してさ。
連理(れんり)の枝のように永遠に相思相愛でいようと、
「想夫連理(そうふ れんり)の恋」を誓ったところが、
夜明けを迎えたとたん、別れのつらさか恨みごとを言いやがった。
矢矧(やはぎ)の橋はあんなに長いのに、逢瀬(おうせ)の夜はこんなにも短いと。
よいよいよいよい。

よいやさ、いいさ御曹司さまは良いおとこ。
敵との数度にわたる戦いのすえ、
勝どきあげて大物(おおもの)を討ち取った。
恨みつらみも、はかないことに波のうえ。

そもそも、それがしは桓武天皇九代(くだい)の後胤(こうえい)
平知盛幽霊でござる。
驚いたかい? めったにないことだろう?
どうでぇ義(よし)こう、生前以来。随分とおひさしぶり。

皆さまお馴染みの弁州こと武蔵坊弁慶に、
伊勢三郎(いせのさぶろう、四天王と賞賛される義経の家来)
駿河次郎(するがのじろう、四天王と賞賛される義経の家来)はおもしろがり、
早く盃(さかづき)を差し合おうじゃないか(刀を刺し合う、の駄洒落)
(すい)も、お椀を重ねたぐらいじゃ回るまいと、
うきうき騒ぎ、拍子をとって応えたものさ。

すいてうえいちや すいてうえいちや(唐人踊)
すいやい すいやい すいやい(酒よ、酒よ、酒よ)
みんちやぁ うつうなや(何もかもみな、現実ではないのだ)

ようし、こどもら、振鼓(ふり つづみ)をお取り。
そうしてそこで、仲良く遊んでいるのだぞ。
花が見たければな、それそれ、吉野へおいでな。
嘘だろう、こんな時期に花があるものかと、そう聞くかい?(文政7年9月初演※旧暦)
(いな)、否(いな)、咲くとも。雪の花がのう。
そりゃそりゃ、そりゃそりゃ。そりゃ本当に?
そうとも、木の一本一本、見事に雪が降り積もる。
花と雪、どちらも風流。吉野の風流な景色を、堪能なさい。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

こうして眺めさせた人形を、ひとつにまとめて箱鼓の中へ。
とりどりの物語を演じた箱鼓は、ぱっとばかり鳥かごに替わり、
傀儡師は、こんどは雀を追って、去ってゆく。
雀を追って、去ってゆく。



////// 雀踊(雀踊の振りを解説する、絵草紙のみ)






踊れる?

//////



軽妙洒脱な歌詞に乗せられ、最後にちょっと、ふざけてしまいました。江戸の昔の「雀踊」の踊り譜(ふ)が面白くて、つい。。。どうぞ、お許しくださいませ。それにしても江戸時代の人はどうしてこんなに、「お尻丸出し」が好きなのでしょうか。

「傀儡師(かいらいし)」という踊り、の記事はこちら
  清元「傀儡師(かいらいし)」の原型、浮世化傀儡師と外記傀儡師、の記事はこちら



以前の記事では、この踊りは特に前半が「だいぶ単調に見える」と書きました。評価の高い振付ですが、唄の出来が良すぎて、それでも引けをとるのかも知れません。




非常に難しい演目だと、思います。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







2019年2月2日土曜日

清元「傀儡師(かいらいし)」の原型、浮世傀儡師と外記傀儡師




平成10年、仙台電力ホール「歌泰会」で踊った「傀儡師(かいらいし)」という踊りの紹介の、続きです。







////// 考察・傀儡師(かいらいし)の記録

傀儡師(かいらいし)というのは古代から中世にかけて存在した、漂白しながら芸人として生きるわが国の流民集団のことです。彼らは中国からの渡来人であると言われていたため、日本語の「くぐつ師」ではなく中国語の「傀儡師(かいらいし)」と呼ばれることになりました。彼らの見せる芸能の種類は幅広く、傀儡師の代名詞である人形廻し(舞わし)はもちろん、花見の山では祭礼の花笠を被って集団で舞い踊り、かと思えば連れ立って漫才(おめでたい唄を唄う)を演じ、ときには幼い子どもを連れて、曲芸や奇術などを披露しました。香具師と祭礼の芸者衆、どちらも傀儡師だったのです。

香具師は後年浄瑠璃語りに、祭礼の芸者衆は猿楽・能楽・歌舞伎踊りに発展します。

「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、931~938年に編纂された辞典)」には「久々豆(くぐつ)への言及があり、和歌集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう、1180年前後)」には「てくぐつ」として傀儡師が登場します。もっとも有名な大江匡房(おおえまさふさ、1041~1111)の「傀儡師記(かいらいしき)」は、筵(むしろ)の簡易住居を作りながら水と食料を抱えて移動する傀儡師たちを「頗る北狄の俗に類たり(すこぶる ほくてきの ならいに にたり)つまり「蒙古人のような習性だ」と、記録します。

絵草紙・からくり人形に唄をつける傀儡師

「貞丈雑記(ていじょうざっき、1763~1784年の雑記を1843年に刊行)」には「傀儡師と云うも遊女なり、傀儡はくぐつとよみて、人形のことなり、歌をうたい人形をまわす物なり、いまは男のすることに成りたるなり」と書いてあります。

これらのことから、その源流が「朝鮮の広大と社堂」だとする論もあります。朝鮮の寺堂・社堂(サダン)というのは色を売りながら集団(牌=ぺ)を作って漂白する芸人のこと、定住すると「広大(クァンデ)」と呼ばれ、身分は最下層の「白丁(ペクチョン)」です。寺堂・社堂という名前でわかるとおり、その拠り処(よりどころ)は寺社や神社の祭礼です。

中国や朝鮮には、かつて蓬莱(ほうらい)信仰というものがあり、たとえば白居易(はっきょい=白楽天)の「長恨歌(ちょうこんか)」によると、蓬莱宮(ほうらいのみや)というのは海のなかにそびえ立つ山のうえの、五色の霞(かすみ)たなびく仙人の住まいです。

この蓬莱山(ほうらいさん)を目指し、戦火や差別を逃(のが)れようと、多くの大陸人が故国の岸辺を漕ぎ出しました。わが国日本に辿り着く人々も、少なからず存在したことでしょう。

わが国にはもちろん土着の人々がいて、固有の文化(海の向こうを穢れとする)がありました。そのせいで渡来人は上陸当初は居どころがなく、移動しながら生きることになったのだろうと推察します。そんな境遇でも当然ながら、彼らはやがて土着の人々と交わって日本人となり、活躍するための自分の居場所を自分たちの手で創り出すのです。





////// 考察・戎(えびす)信仰と浄瑠璃姫伝説

傀儡師は日本全国に存在しましたが、いつの頃からか西宮(兵庫県)の戎(えびす)神社(明治5年=1879年、官幣大社廣田神社と分離)を拠点とする集団が勢力をもち、「えびすかき」(夷舁=えびす信仰にもとづく集団)と称して各地を巡りました。この時点では彼らの遊行(ゆうぎょう)目的は戎(えびす)信仰を広めることであり、小さな木製の神像を用いた人形芝居を観せたあと、御札を撒いたりしたようです。

絵草紙・箱の中で人形を廻す傀儡師

「傀儡女(かいらいめ)」と呼ばれる傀儡師の女性たちは職業的に売笑しましたが、鎌倉時代までは「遊女」とは呼ばれません。ここに何らかの差別か区別があったらしく、ざっくり説明してしまうと水辺で春を売るのが「遊女」、東海道筋の宿屋で春を売るのが「傀儡女(かいらいめ)」です。白拍子など遊女の子どもが武将になることはあっても、鎌倉時代を迎えるまで、傀儡師の子どもが武将になることはありません(埼玉学園大学・服藤早苗「傀儡女の登場と変容:日本における売買春」2010年発行より)

鎌倉時代から室町時代にかけ、祭礼のための芝居と舞踊は猿楽に発展、傀儡師という芸能集団はそのまま人形を廻す(舞わす、の意味)人々と、芝居や舞踊を追及した結果、猿楽・能楽・女歌舞伎へ行き着く人々と、ゆるやかに分裂し始めます。

なかでも東海道の街道筋に定住した傀儡師たちは、室町時代になると東海道の要所・岡崎(愛知県岡崎市)の矢作川(やはぎがわ、矢矧川とも書くに伝わる浄瑠璃御前(じょうるりごぜん)こと、「浄瑠璃姫(じょうるりひめ)」の伝説を語るようになりました。するとこれを人形廻し(人形舞わし)に取り入れ、「人形浄瑠璃」と称して芝居小屋を立ち上げる傀儡師が現われます。やがて京都・大阪に天才戯作者「近松門左衛門(1653~1725、武門の生まれ)が登場するや、浄瑠璃姫の物語(十二段草紙、浄瑠璃十二段)を超える名作悲劇を次々と創作(義太夫・竹本座)し、現在の文楽に続く日本の伝統芸能を創り出してゆくのです。




////// 考察・河東節「浮世傀儡師」と長唄「(外記)傀儡師」

前の記事では、下記のように説明しました。

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古浄瑠璃にかつて「外記節 (げきぶし) 」という流派があり、現在の浄瑠璃よりも硬派な内容だったと伝わります。この外記節初代 薩摩浄雲(さつま じょううん、1593~1672年)の門弟から曲をゆずられた初代 河東(かとう=江戸太夫河東、1684~1725年)が発表したのが河東節「浮世傀儡師(うかれ かいらいし)(1718年)で、そのあと外記節復活を目指し、長唄の「傀儡師(外記傀儡師、げき かいらいし)(1815年)が作られます。一番最後に成立した歌舞伎舞踊曲・清元「傀儡師(復新三組盃、1824年)」は、これら先行する「傀儡師」から影響を受けた内容になります。

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平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

河東節「浮世(うかれ)傀儡師」と長唄「(外記)傀儡師」の歌詞は、ほぼ同じです。とても純朴で何ともないような歌詞ですが、終わりに向けて少しづつ盛り上げてゆき、最後にストンと落とす感じが面白いと思います。また、日常の小さな喜びを淡々と重ねるだけでことさら何か形あることを語ろうともしない、その控えめなさまが形容しがたく美しいと感じます。清元「傀儡師」の原型として、参考までに、紹介させてくださいね。



取り込まれているのは、まずは、大阪の端歌とそれを江戸風に転じた端唄「露は尾花と」、そこから発展して取り込まれる、柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の和歌です。

****************
-大阪の端唄(はうた)
露は芒(すすき)と寝たという 芒(すすき)は露と寝ぬという いや寝たという寝ぬという 寝たらこそ 芒(すすき)は穂に出てあらわれ

[現代語訳]
露はススキと寝たと言うし、ススキは露なんかと寝ていないと言う。いや寝たと言う、また寝ないと言う。ところがススキの頬が赤くなって尾花(穂が出たススキのこと)になり、寝たからこそだと露見した。

***
-江戸の端唄(はうた)
露は尾花(穂が出たススキのこと)と寝たという 尾花は露と寝ぬという あれ 寝たという寝ぬという 尾花に穂が出てあらわれた

[現代語訳]
露は尾花と寝たと言うし、尾花は露なんかと寝ていないという。いや寝たという、また寝ないという。そこへ尾花の頬が赤らんで尾花になり、寝ていたことが露見した。
※唄い出しで下げの「尾花」を使ってしまったぶん、そのあとの意味がつながっていません。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

****************
-「山家鳥蟲集」-
富士の裾野の一本薄(すすき) いつか穂に出て みだれあう

[現代語訳]
いまは富士の裾野に生(お)う一人ぽっちのススキだが、いつかは大人になり、多くの恋と出会うことだろう。

***

-「糸竹初心集」-
小倉の裾野の一本薄(すすき) いつ さて穂に出て みだれや あいおいの おたまこがれて なきこがれ つらや

[現代語訳]
いまは小倉(京都)の野辺に生(お)う一人ぽっちのススキ、いつ大人になり多くの恋と出会うのだろうか。おたまが焦がれ焦がれて泣き焦がれ、つらいことになるだろう。

****************
-柿本人麿「拾遺集」-
あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む

[現代語訳]
今夜も山鳥の、垂れ下がった尾ほどに長い、無駄に長い長い長い夜を、遭いたい人に遭うこともなく、独りさびしく寝ることになるのか。

****************



そうして次に、法華経七喩(ほっけ しちゆ)のひとつである「 衣珠(衣裏繋珠=えりけいじゅ)のたとえ」が取り込まれます。

◆衣裏繋珠(えりけいじゅ)のたとえ、とは
急に去らなければいけなくなった金持ちの男が貧乏な友人を心配し、時間がないので友人が酔って眠っているあいだ、他人に盗られないよう衣の裏に宝珠を縫い付けて出て行きました。その友人はまったく気がつかずに何年も貧乏暮らしを続け、あとで金持ちの男に再会すると、自分の着ている着物に宝が付いているのを知らされ、ひどく驚きます。ひとは本来的に仏性をそなえながら、平素はそれに気づかないことのたとえ話で、「幸福は知らないだけで手の中にある」という、メーテルリンクの「青い鳥」に似た趣旨です。

****************
-僧都源信942~1017年「千載集」「新古今和歌集」-
玉かけし 衣のうらをかへしてぞ おろかなりける 心をば知る

[現代語訳]
衣の裏に宝珠が縫い付けてあると、裏返してみて初めて気づくものだ。そのときになって人はやっと、自分がどれほど心疎(おろそ)かに生きてきたか、思い知ることになるのだ。

***
-高弁上人(明恵上人、1173~1232年)「続後撰和歌集」「新百人一首」-
松が下 巌(いわお)のうえに墨染(すみぞめ)の 袖の霰(あられ)や しら玉の

[解説]
高山寺華宮殿(こうさんじ けきゅうでん)の「定心石(じょうしんせき)」の傍(かたわ)ら、松の根元で座禅していた正月12日の明け方のこと。風が激しくなって雪霰(ゆきあられ=氷つぶ)が夥(おびただ)しく降り、袖に霰(あられ)が溜(た)まったために詠んだという歌。

[現代語訳]
松の下、岩のうえに座った墨染めの衣の袖に、雪のつぶてが飛び込んできた。これもまた、御仏(みほとけ)のお慈悲に違いないと有り難く。

****************

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」


なお河東節「浮世(うかれ)傀儡師」と長唄「(外記)傀儡師」には、傀儡師の歴史がそれとなく唄い込まれています。

慶安2年(1649)に書かれた「よだれかけ」には、「銅鈷箱(どうこばこ)」と呼ぶ箱を首から下げ、「紗(しゃ)のしゃの衣(ころも)、紗(しゃ)の衣(ころも)」と唄うべきところ、高価な紗(しゃ)が入手できなかったか「茶の茶の衣(ころも)」と唄いながら茶色い着物を着せた人形を操る、どこか可哀想な「木偶(でく)の坊」こと傀儡師が登場します。江戸時代の傀儡師はふだんは綿帽子(わたぼうし、まわたを重ねただけの防寒用の頭巾)を被って箱鼓(はこつづみ、箱を打って鼓の代わりにするもの)を打ち、また時には赤い毛振りを被って大鼓・小鼓を打ち、同道した子どもにも唄わせながら人形廻し(人形舞わし=人形芝居)を観せたようです。




////// 河東節「浮世傀儡師」歌詞

◆原文
浮世の業(わざ)や西の海 塩の蛭子(ひるこ)のさと広く 国々修行の傀儡師
つれに放れて春雨や がくやをかぶり通るにぞ へいがまへなる窓の内
呼びかけられてゆかしくも 立留(たちとど)まれば美しき
女郎の声にて傀儡師、一曲舞わせと望まれし

言葉の下より取敢(とりあ)えず 声悪(あ)しけれど箱鼓
拍子とりどり人形を 数多(あまた)(いだ)してそれぞれに
歌いけるこそをかしけれ

小倉の野辺の一本薄(すすき)
いつか穂に出て尾花とならば、露が妬(ねた)まん恋草よな
積もり積もりて足曳(あしひ)きの 山猫の尾の長々と、独りかもねん淋しさに
(ゆうべ)迎えし花嫁様は 鎌もよく切れ千草も靡(なび)
心よさそなかみさまぢゃ

おらが女房を賞(ほ)むるぢゃないが 物もよく縫い機(はた)も織りそろ
(あや)や錦(にしき)や金襴緞子(きんらんどんす)
折々こどの睦言(むつごと)に 三人もちし子寶(だから)
総領息子は鷹揚(おうよう)に 父の前でも懐手(ふところで) 物をいうても返事せず
二番息子はせい高く 三番息子はいたづらにて わるさ盛りの六つ七つ
中でいとしきちのあまり 肩に打乗せ都の名所 廻れ廻れ風車
張子(はりこ)かつこやふり鼓(つづみ) 手にもてあそべさ

花が見たくば吉野へ御座れ 今は吉野の花盛り
花が咲きつれしゃらしゃらと このはしたはすいづらを たもとに巻きてからたまや
(つい)(あき)らけき天(あま)つ空
桜曇りに今日の日も くれはあやはのとりどりに くれはあやはのとりどりの
貢物(みつぎもの)(そな)うる御代(みよ)こそ目出たけれと 箱の中にぞ納めける

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

◆現代語訳
生きてゆくため西宮から漕ぎ出して、
海神・戎(えびす)さまの治める広い里を、国から国へと修行して歩く傀儡師です。
相方(あいかた)と別れたとたん、春雨が降りはじめました。
真綿の帽子を目深に被り、路地を足早に行きすぎようとしたところ、塀構えの窓の中から呼びかける声がします。風流に感じて立ち止まると、美しい女性の声が「傀儡師さん、一曲舞わしてくださいな」と、ご所望でした。

そう言われたとたん、すぐさま窓に近づき、声はだいぶ悪いところ箱鼓(箱を打って鼓の代わりにする)を打ち、拍子をとりながら、多くの人形をとりどり出して懸命に唄うのが、かえって情緒のあることです。

物語は京の小倉の野辺に生きる、ススキのような端女(はしため)から始まります。ススキはいまは一人ぽっちだけれど、いつか恋をして多くの人と乱れあうのです。そうして恋草になったススキを、ひそかに惚れていた露は妬(ねた)ましくさえ感じてしまうのです。

恋しい想いが積もり積もり、山猫の尾のような、無駄に長い長い長い夜を独り寂しく寝るのですが、やがて露も花嫁を迎えます。夕べ迎えた花嫁さんは、畑仕事が上手で鎌もうまく使い、どんな下草もなびかせます。心も良さそうな、まるで神様のような人です。
おいらの女房を誉めるわけではないが、縫い物も出来るし機(はた)も織るのでございまする、おいらにとっては綾錦(あやにしき)の糸で織った宝もの、金襴緞子(きんらんどんす)のような人なのです。そうやって折々ごとに夫婦相和(ふうふ あいわ)し、三人の子宝に恵まれました。

総領息子は鷹揚(おうよう)な性格で、父の前では、もぞもぞと懐手(ふくろで)になって返事ができず、二番目息子は背が高く、父の方がもぞもぞと。三番目息子はいたずらっこで、悪さ盛りの六つか七つになりました。この子を三人の中でもとくに愛しい愛しいと父の血が騒ぎ、肩に乗せては都(みやこ)の名所を巡ります。廻れ廻れ風車、張子(宇和島牛鬼張り子など)や羯鼓(かっこ、鼓の一種)や振鼓(ふりつづみ、二個で一対、両手で振る小さな鼓)、好きに手に取り遊びなさい。

花を見るなら吉野へいらっしゃい、今は吉野の花盛りです。

花が咲くにつれ、祭礼の行列が集まり鈴や衣(ころも)がしゃらしゃらと。この端女(はしため)は忍冬(すいづら、すいかづら)を、袂(たもと)に巻いて、唐(もろこし)の仏のお慈悲がわりといたしましょう。

そうしたところで遂(つい)に雨が止み、唐土(もろこし)につながる天空が明るく晴れました。桜の花びら舞い散る桜曇(さくらぐもり)の今日のような日に、呉織漢織(くれは あやは、呉王から与えられた織姫たち「日本書記」応神紀)の姫たちが織り伝えてくれた祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空へ棚引きます。呉織漢織(くれは あやは)の祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空に棚引きます。

祭礼の貢物(みつぎもの)を揃え、幼子(おさなご)に土産(みやげ)を買ってあげられる今の時代は、本当にめでたく有り難いことでございます、と、言いながら、唄い終わって人形を箱にしまう傀儡師でした。




////// 長唄「(外記)傀儡師」歌詞

◆原文
浮世の業(わざ)や西の海 汐の蛭子(ひるこ)の里広く 国々修行の傀儡師
連れに離れて雪の下 椿にならう青柳(あおやぎ)の 雫(しづく)もかろき春雨に
がくやをかぶり通るにぞ 塀構えなる窓の内
呼びかけられて床しくも 立止(たちとど)まれば麗(うるわ)しき
女中の声にて傀儡師、一曲舞わせと望まれし

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

(ことば)の下より取敢(とりあ)えず 声悪(あ)しければ箱鼓
拍子とりどり人形を 数多(あまた)(いだ)してそれそれと
唄いけるこそ可笑(おか)しけれ

小倉の野辺の一本薄(すすき)
いつか穂に出て尾花と成らば、露が妬(ねた)まん恋草(こいくさ)
積もり積もりて足曳(あしび)きの 山猫の尾の長々と、独りかもねん淋しさに

(ゆうべ)迎えし花嫁様は 鎌もよく切る千草も靡(なび)
心よさそなかみさまぢゃ
おらが女房を誉(ほ)めるぢゃないが 物もよく縫い機(はた)も織り候(そろ)
(あや)や錦(にしき)や金襴緞子(きんらんどんす)
折々毎(おりおりごと)の睦言(むつごと)に 三人持ちし子寶(だから)

総領息子は大楼(おうよう)にて 父の前でも懐手(ふところで) 物をいうても返事せず
二番息子は背(せい)高く 三番息子は腕白(いたづら)にて 悪さ盛りの六つ七つ
中でいとしき血のあまり 肩に打乗って都の名所 廻れ廻れ風車
張子(はりこ)羯鼓(かつこ)や振り鼓(つづみ) 手にもて遊べさ

花が見たくば吉野へござれ 今は吉野の花盛り
花笠きつれしやなやなと 此(こ)のはしたは吸筒(すいづつ)
(たもと)に巻いてから玉や

つい明らけき天津空
桜曇(さくらぐも)りに今日の日も 日も
呉羽綾羽(くれはあやは)のとりどりに
呉羽綾羽(くれはあやは)のとりどりの
御貢物(おんみつぎもの) 治まる御代(みよ)こそ芽出たけれ
箱の内にぞ納めけり


◆現代語訳
生きてゆくため西宮から漕ぎ出して、
海神・戎(えびす)さまが治める広い里を、国から国へと修行して歩く傀儡師です。
相方(あいかた)と別れたとたん、まだ椿に雪が残り青柳がしなだれる空に、軽い春雨が降りはじめました。真綿の帽子を目深に被り、路地を足早に行きすぎようとしたところ、塀構えの窓の中から呼びかける声がします。風流に感じて立ち止まると、美しい女性の声が「傀儡師さん、一曲舞わしてくださいな」とご所望でした。

平成10年、歌泰会「傀儡師(かいらいし)」

そう言われたとたん、すぐさま窓に近づきますが、声がだいぶ悪いらしく箱鼓(箱を打って鼓の代わりにする)を打ち、拍子をとって多くの人形をとり出しながら、それそれ、と、合いの手を入れて唄うのがまた滑稽味があって面白いことです。

物語は京の小倉の野辺に生きる、ススキのような端女(はしため)から始まります。ススキはいまは一人ぽっちだけれど、いつか恋をして多くの人と乱れあうのです。そうして恋草になったススキを、ひそかに惚れていた露は妬(ねた)ましくさえ感じてしまうのです。

恋しい想いが積もり積もり、山猫の尾のような、無駄に長い長い長い夜を独り寂しく寝るのですが、やがて露も花嫁を迎えます。夕べ迎えた花嫁さんは、畑仕事が上手で鎌をうまく使うため、どんな下草もなびかせます。心も良さそうな、まるで神様のような人です。
おいらの女房を誉めるわけではないが、縫い物も出来るし機(はた)も織るのでございまする、おいらにとっては綾錦(あやにしき)の糸で織った宝もの、金襴緞子(きんらんどんす)のような人なのです。そうやって折々ごとに夫婦相和(ふうふ あいわ)し、三人の子宝に恵まれました。

総領息子は鷹揚(おうよう)な性格で、父の前では、もぞもぞと懐手(ふくろで)になって返事ができず、二番目息子は背が高く、父の方がもぞもぞと。三番目息子はいたずらっこで、悪さ盛りの六つか七つになりました。この子を三人の中でもとくに愛しい愛しいと父の血が騒ぎ、肩に乗せては都(みやこ)の名所を巡ります。廻れ廻れ風車、張子(宇和島牛鬼張り子など)や羯鼓(かっこ、鼓の一種)や振鼓(ふりつづみ、二個で一対、両手で振る小さな鼓)、好きに手に取り遊びなさい。

花を見るなら吉野へいらっしゃい、今は吉野の花盛りです。

そこへ花笠踊り衆が手振りを揃え、やなやなと踊りながらやってきます。この端女(はしため)は水筒の瓢(ひさご)を袂(たもと)に巻いて、唐(もろこし)の仏のお慈悲がわりといたしましょう。

そうしたところで遂(つい)に雨が止み、唐土(もろこし)につながる天空が明るく晴れました。桜の花びら舞い散る桜曇(さくらぐもり)の今日のような日に、呉織漢織(くれは あやは、呉王から与えられた織姫たち「日本書記」応神紀)の姫たちが織り伝えてくれた祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空へ棚引きます。呉織漢織(くれは あやは)の祭礼の幟(のぼり)が、色とりどりに空に棚引きます。

祭礼の貢物(みつぎもの)をお納めできる平和な時代は、本当にめでたく有り難いものでございます、と言いながら、唄い終わり人形を箱にしまう傀儡師でした。



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傀儡師が語る唄は、自分たちの来(こ)し方を懐かしむような内容です。現代人で傀儡師とはまったく関係ないような自分でさえ、懐かしいと感じさせられるほどの説得力です。



※「傀儡師(かいらいし)」という踊り、の記事はこちら
※  傀儡師よ永遠に。清元「傀儡師(かいらいし)」全訳、の記事はこちら



清元「傀儡師」の歌詞については、また紹介させていただきますね。

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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