2019年5月19日日曜日

なんでエロなん。長唄「元禄花見踊り」全訳





→この「元禄花見踊」解説には「つづき」があります。よろしければ(別ページが開きます)









////// 長唄「元禄花見踊」概略


■初演■
明治11年(1878)、東京・新富座で初演された群舞(「惣踊」)です。

■本名題(ほんなだい)
「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょう おうぎのいろどり)
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上の段「石橋(しゃっきょう)
下の段「元禄踊」
※下の段がのち、本名題「元禄風花見踊」になりました。

■作曲■
3代目 杵屋正次郎(きねやしょうじろう、1827~1896年)

■作詞
竹柴瓢助(たけしばひょうすけ)

■振付
初代 花柳寿輔(はなやぎじゅすけ、1821~1903年)



明治11年、新富座開場の写真


明治11年6月、明治9年の火事による焼失以来仮小屋で興行していた「新富座」が西洋式大劇場として新築完成、政府高官や外国公使を招き、にぎにぎしく開場式を行いました。舞台では12代目 守田勘弥(もりたかんや、1846~1897年)以下、一座の役者が総出で舞台に居並ぶなか9代目 市川団十郎(1838~1903年)と5代目 尾上菊五郎(1844~1903年)が代表して口上を述べ、そのあと初代 市川左団次(1842~1904年)を加え、三人で「式三番」を踊りました。

やがて両花道より一座惣出で役者たちが出てきて、長唄の伴奏で「手踊り」を踊ったと記録されています。

上野寛永寺と、元禄時代の風俗、花見で踊る女性




////// 江戸三座の猿若町(さるわかまち)移転

江戸の堺町(さかいちょう、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)にあった中村座(座元・中村勘三郎)と、同じく江戸・葺屋町(ふきやちょう、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)の市村座(座元・市村羽左衛門)、同・木挽町(こびきちょう、現在の中央区銀座6丁目)の森田座(座元・守田勘弥、控えで河原崎座・河原崎権之助)が浅草のはずれ聖天町(しょうでんちょう、現在の東京都台東区浅草6丁目)へ移転を命じられたのは天保12年(1841)のこと、老中・水野忠邦(1794~1851年)による「天保の改革」によるものでした。

綱紀粛正・風俗取締りのための措置でしたが、歌舞伎関係者は水野には特に嫌われていたらしく、移転命令以前にも7代目 市川団十郎(1791~1859年)が贅沢を理由に江戸ところ払いにされたり、役者の舞台関係者以外との交際が禁止されたり、役者の参詣や湯治などの旅行は禁止、役者は外出時には編み笠着用を義務付けらたりしていました。

三箇所の出入り口(木戸)を使って出入りしなければならない閉じられた空間だったものの、そういう意味では、浅草のはずれはむしろ当時の歌舞伎関係者にとって自由に生きることができる「別天地」でした(浄瑠璃の座も猿若町へ移転)

明治11年、新富座開場時の記録「新富座評判記」


最後の河原崎座(森田座)の移転が完了したのは天保14年(1843)、浅草寺(せんそうじ)参りの客も集まったため、歌舞伎舞踊創始者・初代 中村勘三郎(1598~1658年)の最初の芸名「猿若勘三郎(大蔵流狂言師)」にちなみ、猿若町(さるわかまち)と名づけた浅草のはずれで三座は生き返り、かつてない盛況の時代を迎えます(猿若三座)

その猿若町移転から25年を経た慶応4年(1868年)、新政府はまた一方的に三座に対し猿若町からの立ち退きを命じます。戊辰戦争(ぼしんせんそう、1868~1869年)の先行きが読めず渋る三座のなか最初に応じたのが、来るのは一番遅かった森田座(河原崎座)でした。

「新富座評判記」より、明治11年、新富座開場時「石橋」



ちなみに幕政下の歌舞伎上演には芝居小屋の数が定められていたため、経営難で休演となった場合には控えの座が興行する仕組みをとっていました。森田座の控えが河原崎座ですが、江戸時代を通じて「河原崎座」と記録されている文献の方が多いため、森田座の財政難ぶりがしのばれます。森田座(のち守田座)の座元で看板役者が、「守田勘弥(もりたかんや)」です。坂東玉三郎もしくは坂東三津五郎が襲名する、大きな名跡です。初代が中村勘三郎の弟子だったため、この名前がついたと言われています。

ちょっとややこしいのでまとめると、下記のとおりです。
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1、新富座=守田座(猿若町移転時に改名)=森田座 ≒ 河原崎座※完全一致ではない
2、守田勘弥(もりたかんや)=坂東玉三郎の出世名
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「新富座評判記」より、明治11年、新富座開場時「元禄年間の風俗を写せし手踊」




////// 江戸三座の一角「森田座」後身、「新富座」の隆盛と衰退

12代目 守田勘弥(もりたかんや)は、その先見性で知られます。本人は役者の子ではなく森田座の会計だった人(市村座頭取・中村翫左衛門)の次男です。11代目 守田勘弥(もりたかんや、4代目 坂東三津五郎)に実子がなかったため、養子になりました。

時代の息吹を感じて逸早く猿若町(さるわかまち)をあとにしますが、後援組合の了解を得ていなかったために揉めてしまい、座頭(ざがしら)だった7代目 河原崎権之助を失うことになりました。しかし7代目 河原崎権之助は9代目 市川団十郎を襲名し、やがて新富座(現在の東京都中央区新富町1丁目、移転時に改名)へ戻ってきます。かえって隆盛となった新富座も、明治9年(1876)火事で焼失しました。

12代目 森田勘弥(もりたかんや)

明治11年、新富座はガス灯を使った近代的な劇場建築として再建、政府のお歴々を迎えるため劇場職員がフロックコート着用で対応しました。新富座は芝居茶屋を使わないで済むよう食事どころや喫茶室が準備され、ガス灯を使って初めての夜間興行を行い、西洋演劇を翻訳上演して上流階級の社交場としても賑わいました。

しかし後援組合なしに建築費用をまかなったため守田勘弥(もりたかんや)の借財は膨(ふく)れ上がり、劇場所有権は人手に渡ってしまいます。関東大震災で焼失したあとには、もう再建できませんでした。

井上安治郎画「新富町新富座景」




//////「和田酒盛」「黒い盃」「闇」の政権批判


「元禄花見踊」は冒頭、志賀山流(しがやまりゅう)という古い歌舞伎舞踊流派を取り上げながら、さらに古い幸若舞(こうわかまい)を扱っているように見える部分があり、この部分の解説が解説書によって混乱しています。

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和田酒盛の 黒い盃 闇でも嬉し
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「和田酒盛(わださかもり)」という言葉自体は、幸若舞(こうわかまい)と呼ばれた狂言の演目名です。幸若舞(こうわかまい)は室町時代~戦国時代に流行し、謡曲や歌舞伎の源流のひとつとなった歌舞伎と歌舞伎舞踊に似た狂言です。「和田酒盛(わださかもり)」は、のち古浄瑠璃「曽我物語」などに取り込まれました。
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- 伝・幸若太夫桃井直詮=もものいなおあき、生没年不詳)「和田酒盛」-
源平合戦で功績のあった和田吉盛(わだよしもり)が山下宿河原(神奈川県平塚市山下付近)の長者の宿で三昼夜におよぶ酒宴を催し、評判の遊女・虎御前(とらごぜん)を酒席に呼んで、「おもいざし」の相手をめぐり曽我十郎(そがのじゅうろう)と争っていたところ、曽我五郎(そがのごろう)が駆けつけ兄・十郎に加勢する。
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「おもいざし」は相手を決めて盃を差すことを言います。

絵草紙・幸若舞「和田酒盛」

幸若舞(こうわかまい)と言えば、死の直前に織田信長(1534~1582年)が舞い踊った「人間五十年 下天(かてん)の内にくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり 一度生を得て滅せぬ者の あるべきか」という「敦盛(あつもり)」が、もっとも有名でしょう。幸若舞(こうわかまい)は徳川の時代を迎えていっそう政権の庇護を受けました。しかしそれがため民衆の前から消えてしまい、江戸幕府崩壊後には廃業に至りました。

ただし「元禄花見踊」歌詞のなかの「和田酒盛(わださかもり)」は、幸若舞(こうわかまい)を取り上げる意思はなく、たんなる盃の名前として使ったように、わたしには見えます。むしろそのあとの「黒い盃、闇でも嬉し」が、非常に気になるところです

「和田酒盛(わださかもり)」と駄洒落に使われた主人公のひとり・和田義盛(わだよしもり、1147~1213年、物語では「和田吉盛」)は実在の人物で、藤原泰衡(ふじわらのやすひら、1155~1189年)に裏切られ、自害に追い込まれた源義経(1159~1189年)の首実検をした人物です。藤原泰衡は義経の首をどういうわけか黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ※おそらく首桶のこと)に入れ、美酒に浸(ひた)して届けました(「吾妻鏡」など)

「源平英雄競」より、和田左エ門尉義盛

この首実検に立ち会ったもう一人の武将・梶原景時(かじわらのかげとき、1140~1200年)は梶原源太・景季(かげすえ、1162~1200)の父として知られますが、のち和田義盛らの讒言(ざんげん)により、息子ともども反逆者として死んでいます。そして和田義盛自身も、すっかり老齢となったあと2代目 執権・北条義時(1163~1224年)の挑発によって挙兵に追い込まれ、一族郎党そろって反逆者として死にました。源義経を裏切った藤原泰衡は、もちろん源頼朝の奥州討伐によって本拠地を追われ、自身の下人の裏切りにあって死んでいます。

ですので武士が「和田酒盛」という名の「黒い盃」で呑み、「闇でも嬉し」と言って周囲を呆れさせる場面は、だいぶ皮肉がきいています。開花したばかりの新しい時代・政権が、死ぬべきではない人々を死なせた「黒い盃」であり未来が「闇」であること、この先それぞれ報(むく)いを受けるかもしれないことを、揶揄しているように見えるからです。

屋島(八島)の義経




////// 長唄「元禄花見踊」歌詞・註解


◆あらすじ
花の盛り、上野の山で岡崎女郎衆が踊り、御所の侍女が踊り、酔った武士や武士の下男が踊る、元禄時代の開放感を表わす風俗舞踊と、いうことになっています。(実際はだいぶ違いますが、ちょっと表現しにくい事情が。ごほごほ。まぁ、読んでください)


◆志賀山(しがやま)
元禄期(1688~1704)、志賀山万作(しがやままんさく、生没年不詳)が始めたもっとも古い歌舞伎舞踊の流派です。有名な演目としては、通称「舌出三番叟(しただしさんばそう)」があります。猿若勘三郎(初代 中村勘三郎、大蔵流狂言師、1598~1658年)が踊った「乱曲三番叟(らんきょくさんばそう)」が志賀山万作の手で「志賀山三番叟(しがやまさんばそう)」になり、志賀山流を継承した初代 中村仲蔵(1736~1790年)が「寿世嗣三番叟(ことぶきよつぎさんばそう)」として復活させました。さらにそれへ3代目 中村歌右衛門(1778~1838年)らが手を加え「再春菘種蒔(またくるはる すずなのたねまき)」こと、通称「舌出三番叟(しただしさんばそう)」になったのです。


★華美(はで)をかまわぬ伊達染や
「かまわぬ=鎌輪奴」という洒落が元になった判じ物で、市川団十郎の衣装に使われることで有名です。「判じ物」というのは「なぞなぞになっている型押し柄」のことです(7代目 市川団十郎本人のデザイン)。「市川団十郎」は元禄期に現われ、江戸・野郎歌舞伎の型(荒事)を完成させた、元禄歌舞伎の代表的存在でもあります。

鎌輪奴



★斧琴菊(よきこときく)の判じ物
「良きことを聞く」の吉祥の意味を込めた判じ物で、尾上菊五郎の衣装に使われることで有名です。「判じ物」というのは「なぞなぞになっている型押し柄」のことです。

斧琴菊



★たんだ振れ振れ六尺袖
****************
- 山東京伝「近世奇跡考(1804年)」-
延宝天和の頃までは一尺五寸を大振袖と云
たんだふれふれ六尺袖をとうたひしは 其頃のこととぞ
一尺五寸四つ合せて 六尺袖なり
****************
現在の尺で言えば、57cmの振袖のことです(短か!)


★岡崎女郎衆
三味線の練習曲になった江戸時代初期の流行歌「岡崎女郎衆はゑい(良い)女郎衆」という唄で知られる東海道の飯炊女です。「傀儡師」のところで説明したように、古くは「傀儡女(かいらいめ)」と呼ばれた、東海道筋の宿場で春を売っていた売笑婦たちです。

矢作川(やはぎがわ)に浄瑠璃姫の墓、八丁味噌の蔵元に徳川家康公生誕の地である岡崎城、岡崎女郎衆が居たという遊郭跡など、ほかにも史跡旧跡だらけの愛知県岡崎市ですが、何故か公式キャラクターは謎の「オカザえもん」さんです。

何故だ。何故なんだ、岡崎市。
遊女が腰に巻いているのが「紐帯」


★二條通の百足屋(にじょうどおりのむかでや)
仮名草子『竹斎(ちくさい)(伝・烏丸光廣もしくは磯田道冶作、1621~1623年ごろ成立)に出てくる表現で、肥前名護屋(佐賀県)の「名護屋帯」という「紐帯」を指すと言われています。発音は同じですが「名古屋帯」とは別物です。


★熊ヶ谷笠
深い編み笠です。


★熊谷、武蔵野でござれ
熊谷も武蔵野も盃の名前ですが、「武蔵野」は特大の盃です。


★和田酒盛
前述のとおり、明治新政府を「黒い盃」を呑む「和田義盛」だと、皮肉っています。


★腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
ここは暗喩のようです。瓢箪(ひょうたん)は男性の陰部の別称で、毛巾着(けぎんちゃく)は女性の陰部の別称です。この語句が出た辺りから、唄が急激にエロへ転じます。


★蝙蝠羽織(こうもりばおり)
若衆が着る、袖丈より着丈の短い羽織です。若者のあいだで流行したようです。


★無反角鍔(むぞりかくつば)
反りのない真っ直ぐな刀身に四角い鍔(つば)をはいた、飾りにしかならない刀のことです。


★角内(かくない)
下男の総称です。普段は「角助(かくすけ)」と呼ばれました。


★手細(てぼそ)
若衆がほおかむりに用いたりする、細い手拭(てぬぐい)のことです。女性がつける場合は、腰紐か綿帽子を指します。江戸期の綿帽子は婚礼ではなく、風・埃除けのための普段使いの帽子というかターバンです。ちなみに「手細(てぼそ)」は「細布(ほそぬの・さいふ)」の異名(麻布、白布、狭布=けふ・せばぬの、手作り)のひとつで、「自由奔放な恋」の象徴です。


★小町踊(こまちおどり)
阿国歌舞伎の一派・娘歌舞伎が得意としていた、七夕踊りの演目名です。娘歌舞伎が禁止されたあとは、盆踊りとして町の娘衆が踊っていました。この盆踊り=念仏踊りは女子の成人式を兼ねており、夜這い解禁を村の男性に告げ知らせる意味があったとも言われます。


★永当(えいとう)
人がどっと来ることを意味します。掛け声の「えいッ」を、漢字であらわした言葉です。元禄の頃の「上を下へ ゑいとう山の花見かな(荒木加友)」という、上野東叡山の人混みを笑った地口狂歌が元のようです。<文政8(1830)年刊「嬉遊笑覧」巻之七 行遊>


★東叡(とうねい)
東叡山寛永寺(とうねいざん かんえいじ)→上野の山の寛永寺(かんえいじ)のことです。


水野年方画「延宝頃婦人」




////// 長唄「元禄花見踊」歌詞(全訳)


この唄を真面目に読んでみると、一貫したテーマがあるとわかります。
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- 詠み人知らず※古今和歌集(平安時代前期)867番-
紫の 一本(ひともと)ゆゑに 武蔵野の草は みながらあはれとぞ見る
[現代語訳]
紫草が一本あるから、そしてそれが一本だからこそ、武蔵野にある草がすべて、いとおしく見えるのだろう。
****************

「元禄花見踊」は近年の作なのに、なぜ誰もこのことについて言及しないか不思議です。この和歌をエロに発展させた裏テーマがあるため、「元禄花見踊」は「桜の散る月夜の晩に、草原で自由にまじわる若者たちの唄」になっています。かなり色っぽい衝撃作ですよ。

歌詞には「踊れ」と何度も出てきますが、意味するところは、舞踊の手振りではありません。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」岡崎女郎衆のイメージ




◆歌詞(太字が現代語訳)

吾妻路(あづまぢ)を 都の春に志賀山の 花見小袖の 縫箔(ぬいはく)
華美(はで)をかまはぬ伊達染(だてぞめ)
よき琴菊(こときく)の判じ物 思ひ思ひの出立栄(でたちばえ)
連れて着つれて行袖(ゆくそで)も たんだ振れ振れ六尺袖の
しかも鹿の子の 岡崎女郎衆

東国江戸の都(みやこ)の春に、志賀山舞踊の風が吹く。
花見客の小袖に縫い込められた金銀箔の、なんと豪華なこと。
派手になることを構わない、鎌輪奴(かまわぬ)の伊達染めもあれば、
よき事を聞いた、という、おめでたい斧琴菊(よきこときく)の判じ物など、
みな思い思いに着飾って出かけているのが、江戸の栄えというもの。
同じ衣装に揃えて連れ合い、愉(たの)しそうに行くその小袖を、
たんだ振れ振れ、六尺もの長さの、その大振袖を。
そこへさらに鹿の子絞りで飾り立てた、
粋で豪華な岡崎女郎衆がやって来る。


裾に八つ橋染めても見たが ヤンレほんぼにさうかいナ
そさま紫色も濃い ヤンレそんれはさうぢゃいナ
手先揃へてざざんざの 音は浜松よんやさ

その裾は、伊勢物語東(あずま)下りを描(えが)いた八つ橋模様だ、
ヤンレほんとにそうかいナ、東下りでしょうかいな。
それは紫、しかも濃い紫だ、
ヤンレそれはそうじゃいナ、ほんとに濃い色の紫じゃいな。
手先を揃え、流行唄(はやりうた)を真似て「ざざんざ」と、
これは浜をゆき過ぎる、松風の音。よんやさ。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」御所の腰元
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」御所の腰元のイメージ



花と月とは どれが都の眺めやら
冠衣眼深(かつぎまぶか)に北嵯峨御室(きたさがおむろ)
二條通の百足屋(にじょうどほりのむかでや)が 辛気(しんき)こらした真紅の紐を
袖へ通してつなげや桜 疋田(ひった)鹿の子の小袖幕(こそでまく)
目にも綾(あや)ある 小袖の主の
顔を見たなら 猶(なお)よかろ ヤンレそんれはへ

花と月とが美しい対比を見せているが、
花と月のどちらが、より都(みやこ)の眺めと呼ぶのに相応しいだろう。
花見幕は、あたかも目深(まぶか)に冠衣(かつぎ)を被った北嵯峨の桜御殿のように。
二條通の百足屋(にじょうどおりのむかでや)が、つらい作業を辛抱し、
丹念に編んだ真紅の紐帯を、袖へ通してつなげてくれる桜の枝。
疋田鹿子(ひきたかのこ)の小袖で作った、その花見の幕の内側で、
目にも綾(あや)な美しい小袖の人が踊っているようだが、
そのお顔を見ることができたら、なおいっそう良かろうものを。
ヤンレそんれはへ、はなから無理であろうもの。


花見するとて 熊ヶ谷笠よ 飲むも熊谷 武蔵野で御座れ
月に兎(うさぎ)は和田酒盛の 黒い盃闇でも嬉し
腰に瓢箪(ひょうたん) 毛巾着(けぎんちゃく)
酔うて踊るが ヨイヨイよいよいよいやさ

花見のため深い編み笠を被った武士が、
熊谷の盃で呑みすすみ、興が乗ったあまり「特大の武蔵野を持て!」と。
月にウサギを描(えが)いた、和田酒盛という名の黒い盃で呑んで。
黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ)の中、
美酒に浸されていた義経公の首実験に臨(のぞ)んだ和田義盛は滅んだのだが、
そんな闇でも旨いものは旨い、
たとえ行く末(すえ)、暗黒が待ち受けようが、それでも酒は嬉しいと言わんばかり。
瓢箪(ひょうたん)を腰に下げて男が踊れば、酔った女が寄ってくる。
酔って踊るが、ヨイヨイ良いと言うものさ。

Kabuki Genrokuhanamiodori : 上月まこと画、長唄「元禄花見踊」踊る侍
上月まことイラスト・長唄「元禄花見踊」踊る侍のイメージ



武蔵名物 月のよい晩は
御方鉢巻(おかたはちまき)蝙蝠羽織(こうもりばおり)
無反角鍔(むぞりかくつば) かく内連れて
ととは手細(てぼそ)に伏編笠(ふせあみがさ)
踊れ踊れや 布搗(つ)く杵(きね) 
小町踊(こまちおどり)の 伊達(だて)道具
ヨイヨイヨイヨイよいやさ 面白や

武蔵国(むさしのくに、江戸のこと)名物、名月の晩には、
紫ハチマキを頭に置いた蝙蝠羽織(こうもりばおり)の若衆が、
反りのない刀身に角鍔(かくつば)をはかせた飾り刀を腰に下げ、
下男をお供(とも)に出かけて行く。
年長ととさま役は細い手拭(てぬぐい)に伏編笠(ふせあみがさ)で顔を隠し、
踊れ踊れや 杵(きね)でもって布を突き、存分に、楽しむが良い
若衆の杵(きね)は七夕の夜には娘衆にも、伊達な遊び道具になることだろう。
ヨイヨイヨイヨイ良いやさ、いや風流なこと。



入り来る入り来る桜時(さくらどき) 永当東叡(えいとうとうねい)人の山
(いや)が上野の花盛り
皆清水(みなきよみず)の新舞台 賑(にぎ)はしかりける次第なり

人が来る来る桜どき、東叡山寛永寺(とうねいざん かんえいじ)は人の山。
いやが上にも、上野の山は花盛り。
誰もがみんな、清水(きよみず)の新舞台の上で肝(きも)を縮めているところ。
上野の山を賑わしたのは、こういう次第なのでございまする。

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平成30年、宮城県芸術協会「元禄花見踊り」


福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)や9代目 市川団十郎の演劇改良運動の魁(さきがけ)となった、12代目 守田勘弥(もりたかんや)の劇場改革について紹介しました。5代目 坂東玉三郎氏(当代)は祖父の大名跡を継ぐ予定にないため、少しばかり寂しく感じます。

→「元禄花見踊」解説には「つづき」があります。こちらからどうぞ(別ページが開きます)



写真がまったく足りず、いとこ作のイラストを使いました。このブログも、ほんとうに、もっと改良しないと!

踊り説明記事は水木歌惣と水木歌惣事務局の共作になります。コメントは水木歌惣、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.






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