2019年3月31日日曜日

獅子だらけ、長唄「鏡獅子」(舞踊鑑賞室)




※人生いろいろ「鏡獅子」という踊り、の記事はこちら
※女獅子はもだえ泣く。「鏡獅子」の原型「枕獅子」全訳、の記事はこちら
※阿国歌舞伎の系譜。長唄「鏡獅子」全訳、の記事はこちら



世の中に 絶えて花香(はなか)のなかりせば 我はいづくに宿るべき
うきよを知らで草に寝て 花に遊びて あしたには

露を情けの袖まくら 羽色(はいろ)にまがふ物とては
我に由縁(ゆかり)の深見草(ふかみぐさ)
花のおだまき 花のおだまき くり返し

風に柳の結ぶや 糸の ふかぬ其の間が命じゃものを
憎やつれなや 其のあじさへも わすれ兼ねつつ
飛びこふ中をぞ つとそよいでへだつるは
科戸(しなど)の神の嫉(ねた)みかや


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」


よしや吉野の花より我は 羽風(はかぜ)にこぼす おしろいの
其の面影(おもかげ)のいとしさに いとど思ひは増鏡(ますかがみ)

うつる心や紫の 色に出(い)でたか恥づかしながら
まつに かひなき松風の

牡丹の花に たきぎを吹きそへて 雪をはこぶか朧(おぼろ)げの
我もまよふや 花の影 暫(しば)し木影(こかげ)に休らひぬ


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」



(胡蝶)
(それ) 清涼山(せいりょうざん)の石橋(しゃっきょう)
人の渡せる橋ならず 法(のり)の功徳(くどく)に おのづから
出現なしたる橋なれば 暫(しばら)く またせ給へや

影向(ようこう)の時節も今いく程(ほど)に よも過ぎし
葉影(はかげ)にやすむ蝶の 風に翼かはして 飛びめぐる
獅子は勇んでくるくる くると

花に戯(たわむ)れ 枝に伏し転(まろ)び 実(げ)にも上なき獅子王の
(いきお)ひ ししの座にこそ なをりけれ


昭和51年、迫体育館、歌泰会「鏡獅子」



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昭和51年、宮城県・登米市佐沼で踊った長唄「鏡獅子(春興鏡獅子)」の写真を紹介させていただきました。

紹介した歌詞ですが、実は「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」のものではなく、それに先行して発表された長唄「鏡獅子」のものです。

「獅子もの=石橋(しゃっきょう)もの」は数が多く、それぞれに影響しあって「どれがどれやら」区別しかねるほどです。長唄の代表的なものだけでも「英執着獅子(はなぶさ しゅうちゃくじし)」、「俄獅子(にわかじし)」、「枕獅子(まくらじし)」、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」があるのです。長唄以外にも獅子ものがあるため、もはや何が何やら。



わたしが踊ったのは、もちろん福地桜痴(ふくちおうち、1841~1906年)の「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」ですが、あまり長いので今回まずは、その元となった長唄「鏡獅子」歌詞の方を紹介させていただきました。作詞者は不明で、「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の陰にかくれ、演じられなくなってしまったようです。

長唄「鏡獅子」と長唄「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)」の後半の歌詞は、ほぼ完全一致です。(長唄「鏡獅子」作曲は、6代目 杵屋六左衛門)


本名題「春興鏡獅子(しゅんきょう かがみじし)
初演・明治26年(1893)、東京歌舞伎座 9代目 市川団十郎(1838~1903年)
作曲・3代目 杵屋正次郎(1827~1895年)
振付・9代目 市川団十郎(1838~1903年)、2代目 藤間勘右衛門(1840~1925年、勘翁)

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発表当時、庶民の評価はメチャクチャ高かったにもかかわらず、文士連中から猛批判を受けた作品です。作った福地桜痴は「書き写しただけなのに」と、さぞや納得いかない思いだったことでしょう。

写真は水木歌惣のもの、本文は水木歌惣事務局・上月まことが書いています。コピーや配布には許諾を得ていただくよう、お願いします。Copyright ©2019 KOUDUKI Makoto All Rights Reserved.







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